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妖獣忍法伝INAZUMA  作者: 浦切三語
最終章 我一心
28/32

第二十八話 とある妖獣の生き様

 淵全域に重い影を落とす、数多の死顔を浮かべし蓬莱の使い魔――龍魚。


 その青々しい腹を裂いて、天から聖地に降り立つは、数えるのも面倒になるほどの赤黒い死仮面の軍勢。慚魔衆の下忍達である。


 仕掛人は蓬莱だ。彼は、肉蝮が万が一にでも笛の奪取に失敗したときの事を考え、あらかじめこの手を用意していたのである。


 竜羅河蓬莱の外道忍法〈屍獣開闢(しじゅうかいびゃく)〉の要諦。それは、術により生み出された屍獣の神出鬼没さにある。一度、龍魚を通常空間に出現させ、その巨大な腹の中に忍達を隠して別次元の世界に収納させておけば、あとは蓬莱の所作一つで、彼の望んだ地点に音もなく、忍をばら撒くことができる。


 別次元から通常空間に現れるという特性故に、電七郎が無意識下で放つ電磁の網にも引っ掛からない。彼が龍魚の存在をあらかじめ感知できなかったのも、無理からぬことであった。何もない場所に突如として存在を主張するその現象は、まさに文字通り『開闢』と言って良かった。


「まさか、あんな仕掛けが施されていたとは……」


 顔を(しか)め、電七郎は一人ごちるように呟いた。


 下忍らは、優雅に地面に着地すると、逃げる暇など与えないとばかりに、様々な得物を手にして電七郎に迫った。ある者は鳥獣の如く跳躍し、またある者は地面を駆けて。偶然にも、進路方向に立ちふさがる格好になった兵士たちを忍刀で斬り殺し、沸振分動鎖で肉体を溶かしながら。


「味方もろともとは、やることがえげつない!」


 首から、胴から、死仮面軍勢の容赦ない一撃を受け、瞬く間に兵士達の骸が築かれていく。やがて、四方より躍りかかる四人の忍が、刃に月光を反射させて電七郎に迫った時。


 森の奥から、痛烈な旋風が吹き荒れた。風は、木々の葉を切り裂きながら、見えぬ斬撃となって死仮面を襲った。何が起こったのかも理解できぬまま、血飛沫を上げて地に倒れ伏す四つの骸。


「この風は……!」


 喜色を現して、電七郎は風の飛んできた方向を見た。


 胸の前で印を組む、一人の頼もしき仲間の姿があった。


「軒猿!」


「我らも本領発揮といきます! 電七郎様、ここは我々が足止めします故、早く彩姫様を!」


「……済まぬ!」


 電七郎の言葉に、軒猿は無言で頷いた。二人の間で暫し、視線だけのやり取りがなされた。無言の意思疎通。それで十分だった。両者の心は今、一つの想いで満たされていた。


 彩姫を救い出す。


 その一点を胸に抱え、電七郎は軒猿の横を疾風の如き勢いで翔け、祠のある方角へと消えていった。入れ替わるように、森の中から〈(よく)〉の面々が姿を現した。数的不利はもとより承知の上だ。それでも、臆する者は一人もいない。皆、その顔に滾るほどの気を宿らせている。


 好き勝手にさせてたまるかとばかりに、地獄よりの奇声を上げて、何人かの死仮面が、去りゆく電七郎に向けて鉤十字の手裏剣を投げつけた。しかし、そこで再び吹き荒れる風の防壁。禍々しい鉄の牙は鉄壁と化した大気に砕かれ、意味を為さなかった。


陣風錬(じんぷうれん)〉の軒猿。異名通り、大旋風の忍法を駆使する彼の前に、下忍らの足が止まる。


「五年前の雪辱、今ここで晴らさせて貰うぞ、慚魔衆よ」


 その一言を皮切りに、神狩ヶ淵に争忍の嵐が吹き荒れた。





▲▲▲





 木々と根が入り組んだ、それこそ迷宮じみた山中を、栗介はただひたすらに駆けていた。毛を逆立たせ、心臓を全力で駆動させて、四肢を目一杯に動かし、その小さき口でしっかりと妖獣魔笛を咥えて、一目散に祠を目指す。混沌とした戦場の中、ただ己の中で生まれた閃きだけに従って。


 刑場にいたのが偽の彩姫だと分かった途端、栗介の小さき脳は閃光をはしらせていた。刑場でなかったら、姫が捕らえられているのは祠以外にないと思った。具体的な証拠があるわけではない。だが、淵の造りを熟知している栗介には、はっきりと確信があった。


 闇夜を疾走しながら、栗介は憤怒に燃えていた。妖獣とはいえ、藤尾家に長年仕えてきた身の彼だ。その彼にしてみれば、祠は藤尾家の始祖たる豊降神鳴彦が建立した宝でもあり、妖獣の魂を鎮める聖域でもある。栗介自身にも思いある場所。そんな神聖な場所を牢獄代わりに使っているとしたら、胸の奥が激しくうねり、どうにも言葉にならないのだ。


 四肢にますますの力が入る。囚われの彩姫の事を考えれば、身につまされる思いがした。慚魔衆に対する恐れより、怒りと怨みの念が勝っていた。そんな時だった。ふと、電七郎のことが脳裡を過った。


 今回の逃亡劇を通じて偶然にも知り合った、頼りがいのある正義の忍。しかし、彼は憎しみをその心に飼い、永劫の苦しみに苛まれていた。


 自分も同じなのだと、栗介は悟った。人間であろうが妖獣であろうが、憎しみの心は万物全てに宿っているのかもしれない。憎悪に呑まれるか、あるいは受け入れ、己が一部として省みるか。どちらに転ぶかは、憎しみを宿す当人次第。その摂理には、たとえ神でさえも立ち入ることを許されない。


 闇が一層のこと濃くなっていく。栗介は必死に走り続けた。今、妖獣魔笛を携えているのは、他ならぬ己自身。つまり、自身の振る舞いが、此度の争忍の決着に大きな影響を与えるであろうことを、嫌でも自覚させられた。迂闊な行動は極力避けるように、再度、自身の心に言い聞かせた。


 祠の外壁には、栗介しか知らない秘密の石室への入口がある。元々、妖獣魔笛はそこに安置されていたものだ。一旦、笛を石室に隠し、彩姫を救い出してから封印の儀に臨めばよかった。


 頭の中で今後の振る舞い方を超速で整えていた、そんな最中の事だ。


 栗介の視界。正面より右端に、僅かな残響音と共に映る何か。


 夜に支配された森の中。だがはっきりと目にした。異様な姿をした影を。獣では断じてない。しかし人間にしては、四肢が可笑しなほど長すぎる。


 慚魔の忍か。


 身に迫る危機を素早く察知し、栗介は全身の発条(ばね)を利用して、高く飛び跳ねつつ左に躱そうと試みた。


 瞬間、途轍もない速度で、何かが横に薙ぎ振るわれる音がした。風を巻き込むほどの斬撃音だ。


 それが、栗介の小さな、しかし高精度の集音機能を持つ耳に確かに届いたとき、彼の矮小な体躯は空中で体勢を大きく崩していた。


 小石を湿った地面に投げつけたかのような音を立て、栗介は何が起こったのかも分からないまま、無様な恰好で地面に転がった。衝撃で、あまつさえ妖獣魔笛を口から放してしまう始末だ。


「(しまった――)」


 慌てて前足と後ろ足に力を込めようとした。だが出来なかった。四本の足は何かに怯えるかのように震えたままで、動かない。それどころか、何か暖かな液体が、柔らかな毛に覆われている筈の腹の辺りから、滲み出る感覚があった。


 血だ。真っ赤で、鮮やかな。


 栗介は本能的に悟った。深手を負った、と。


 そう意識した途端だった。『今更気が付いたのか?』と嘲る様に、腹の辺りを中心に、耐え難いほどの痛みが体中を駆け抜け、どうにも収まらない事態に直面した。声を上げようにも上げられず、己の意志とは無関係に、どくどくと体液が外界へ流れ出るのを止められなかった。


「(く……そ……)」


 腹からはみ出でて滑る臓物を、辛うじて前足で抑え込む。それが限界だった。それ以上の事をやろうとすると、体が言う事を聞かないのだ。すぐ目の前に妖獣魔笛が落ちているというのに、近づくこともできやしない。


 痛みに喘いでいると、太く、獣のようにしなやかな二本の足が視界に飛び込んできた。何者であろうかと栗介が思う暇もなく、今度は視界の外側から無造作に手が飛んできて、ひょいと妖獣魔笛を掴み上げた。


 手の主は、竜羅河蓬莱であった。


 神戸を処刑した後、祠に向かっていた蓬莱は、この暗黒に満たされし山中の隅から隅までを、夜目を凝らし続けながら疾駆していた果てに、たまたま(・・・・)栗介の姿を捉えたのだ。いや、正確には、栗介の口に咥えられていた妖獣魔笛の存在を。


 蓬莱にしてみれば、思わぬ僥倖であったに違いない。彼は栗介とすれ違いざまに、その自慢の野太刀を思い切り振りかざして、避けようと横に跳んだ栗介の腹を掻っ捌いたのである。


 なんという運命の巡り合わせであろうか。神がいるのだとしたら、これほど残酷な神もいなかった。全く予期していなかった偶然が、悪辣の権化たる慚魔衆に力を貸していると断言しても、過言ではない状況である。


「これで、八洲は慚魔のものだ」


 懐に妖獣魔笛を仕舞いながら、蓬莱は一人薄ら笑いを込めて言った。栗介に対して聞かせようとしたものではない。そもそも、彼は彩姫の重臣に妖獣がいることを餓悶から知らされてはいたものの、姿形までは良く把握していなかった。目の前に転がる小さき獣がたとえそうであったとはしても、彼にとってはどうでも良い事だった。ただ、笛を手に入れたという事実を、しっかりと噛み締める為に、そのような台詞を口にしたに過ぎないのだ。


 切っ先に僅かな血糊が付着した野太刀を背の鞘にゆっくりと納刀すると、蓬莱は死にゆく妖獣に無感情の瞳を向け、直ぐに正面へ向き直って、歩き始めた。走ったのではない。歩いたのだ。


 余裕綽綽の足取り。これで勝負は決したと、悪忍の背が無慈悲にも物語る。


「(おのれ……こんな、こん、な、ことが……)」


 あっていいはずがない。歯を食いしばり、栗介が全身の毛を屈辱と怒りで逆立てた。だが、激情に渦巻く心と相反して、まるで消えゆく朝靄の如く、栗介自身の生命の波紋は静まりを迎えていた。


 唐突に降りかかった死の匂い。恐怖がないわけではなかったが、この状況に及んでも尚、慚魔に対する怒りの方が勝っていた。いやだがしかし、それよりもずっとずっと、深く煮え立つ謝罪の念がある。


「(姫様……電七郎……)」


 何と言って詫びてよいのか、分からなかった。


 儂には、やはり力が無かった。


 せめて人間であったなら、敵に一太刀浴びせることも出来たであろうに。


 蓬莱の背中が遠くなる。妖獣魔笛が遠ざかる。


 待て。待ってくれ。


 そう口にしたくとも、吹き出すのは大量の血糊。体温が一気に持っていかれる感覚がした。意志とは関係なく、瞼が重くなっていく。泥中に沈んでいくかのような重い微睡に囚われて、思考が暗くなっていく。


 これで終わりだ。


 もう、どうしようも――


――


――な


「!?」


――諦めるな。


 栗介の赤き瞳が、震えるように揺れる。


「(なんだ……)」


 いま、確かに声がした。誰のものとも分からぬ声。崩れゆく意識を必死で繋ぎ止め、耳を澄ませる。


――諦めるな。栗介。


 誰だ。


 誰の声だ。


――儂だ。


 栗介の弱まっていた鼓動が、大きな心拍を奏でた。


 夢か幻か。原理は分からぬ。それでも、事実聞こえた。内なる己の声であった。他の誰でもない。深層意識の果てにある、もう一人の栗介の声。


――諦めてどうする。


「……あぁ」


 呻くように声を上げる。


 そうだ。その通りだ。諦めてどうするのだ。


 儂は護衛。姫様の盾であり矛。


 護衛は何のためにある。無論、死ぬるためにある。主の為に死ぬることこそ、護衛の本懐である。


 だが、今は死ぬ時ではない。無様に死に様を晒す時ではない。


 今は、今、この瞬間だけは。


「生きてやるぞっ!」


 意思を改め、意志を鋼の如く構築する。


 風前の灯であったはずの栗介の体内で熱量が膨れるにつれ、怪物を打ち倒す為の力が、どこからともなく産声を上げた。


 天を衝かんばかりの覚悟の炎柱と、鉄鼠族として生まれた誇りの風渦がぶつかり合い、栗介を包むかのように混合した。


 止めどなく湧き上がり、溢れ出し、轟々とうねりを見せる命の波動。冴えた氷角の如く鋭く、ただ一点を穿つ光にならんと願えば。


「なんだ!?」


 背後から途方もない力の奔流を感じ取って蓬莱が振り返ったのと、足元の地面が亀裂を生み出したのは、ほとんど同時だった。


 亀裂は、栗介を中心にして、網のように発生していた。木々が騒めき、大地が震動を起こす中、蓬莱は刮目した。あれほど矮小であったはずの栗介の体が、辺り一帯を昼間に還すほどの、激しい煌めきに包まれているではないか。


 冷や汗が滲む。戦慄が、慚魔三轟忍筆頭の背中を駆けた。これまでの人生で経験したこともないほどの障壁が、目の前に立ち塞がっていることを、蓬莱は本能的に悟った。


 咄嗟に、背中の野太刀に手をかける。しかしそれよりも速く、光の中から一条の光線が伸び、地震いを起こすほどの咆哮を響かせ、驚異的な速度で迫ってきた。


 すかさず野太刀を抜刀。力任せに光を斬らんと振り下ろす。


 輝光の中、静寂が訪れる。


 刃を握る手に、手応えは無かった。


「がふっ……!」


 水風船を割るかのように、蓬莱の口から鮮血が噴出した。右手がゆっくりと震えながら、恐る恐る胸の辺りを弄る。ぴちゃりと、生暖かい感触。冷たい夜風が、胸の中心を吹き抜ける。ほろりと、懐から妖獣魔笛が地面に落ちた。


「妖獣忍法〈火鼠(ひねずみ)〉……ふふ。忍風にたとえるなら、そんなところか……」


「貴様……」


 苦悶に歪んだ表情で振り返った先、金色に光る栗介が地面に倒れていた。その小さくも逞しい牙に捕えられしは、毒々しい一個の肉塊。


 食い千切られた、蓬莱の心臓であった。


 胸の中心から不気味な音を立てて流れる血潮が、蓬莱の忍装束を止めどなく濡らしていく。しかし、その狂暴な眼差しから光は消えない。


「舐めるな……俺は、慚魔三轟忍筆頭、竜羅河……蓬莱ぞ……」


 流石は怪物の如き力を宿した魔忍。まだ決着はついていないとばかりに、震えながらも右足を一歩踏み出した。


 だが、そこまでだった。蓬莱は断末魔を上げる代わりに、かっと白目を向いて吐血を辺りにまき散らし、音を立てて仰向けに倒れた。それから、二度と動くことはなかった。


「小さいからと……侮った報いじゃ」


 力なく笑う栗介。役目を終えたその体から既に光は消え、枯木のような様相になっている。命の瀬戸際に立った時にのみ発現する、鉄鼠族の妖力。それを使い果たしてもなお、栗介の命は、まだ、まだ消えない。


「頼む……我が命……もう少し持ってくれ……」


 血で塗り固められた土を体中にこびりつけながら、這うようにして、栗介は地面に転がったままの妖獣魔笛に近づいた。





▲▲▲





――電七郎……


 夜の帳が下りて複雑怪奇な迷路と化した森の中。祠を目指し、飛ぶ様にして翔ける電七郎の脳裡に、栗介の声がか細く届く。


――栗介殿!?


 思わず、電七郎は足を止めた。


――どうじゃ。上手く抜け出せたか?


――ああ。ちと手を焼いたが、後始末は軒猿達に任せてきた。今、祠に向かっておるところだ。栗介殿は、今いずこに?


 居場所を問いかけるも、返事は、直ぐには返ってこなかった。


――栗介殿?


――ん……ああ……済まぬ。そのことだが……どうやら儂は行けそうにもない。


――な、なに? 


 電七郎の顔に、狼狽の色が浮かぶ。栗介が何を伝えようとしているのかが、良く分からなかった。


――どうしたというのだ。まさか、慚魔の奴らに襲われたのか!?


――まぁ……そんな、ところだ……ほれ、あやつよ。野太刀を背負った、大男の……


――竜羅河蓬莱のことかっ!? 待て、栗介殿。今どこにおる。直ぐに助けに向かうから待っておれ!


――そう焦るな……大丈夫じゃ。奴は、儂がこの手で確かに葬り去った。


――なっ……


 電七郎は絶句した。当然だった。熱があったとはいえ、自分は一度、その竜羅河蓬莱に敗北を喫しているのだ。その相手に、人間でも、まして忍でもない栗介が勝利を収めたとは。


――まことか? まことにあの怪物を倒したのかっ!?


 電七郎の驚きようが面白かったのか。栗介が、苦笑交じりに応じた。


――嘘をついてどうする……まことだ……笛も、無事に我が手にある。


――そうか。だが、そうは言っても心配だ。直ぐにそちらへ――


――来るなっ!


 助けに向かおうと動きを見せた電七郎の足が、栗介の激しい拒絶を受けて止まる。


――来るな……電七郎……


――……栗介殿?


――儂に……儂に構っている暇などない……はずだ……お主は早く、姫、様を……


 栗介の必死な訴え。荒い息が混じっている。


――栗介殿……まさか、お主……


 流石の電七郎も、全てを悟った。


 栗介が今、どんな状況にあるのかを。


 そのただでさえ小さな命が、今にも消え失せんとしている事実を。


――栗介……殿……


 意識せず、拳を握り締めていた。それこそ、掌に爪が食い込むほどに。瞳が熱い水膜に覆われるも、決して零してはならないと、己に言い聞かせるように。


――……なぁ、電七郎よ。人も妖獣も……死ねば肉体は土に還り……魂はあの世に行くと言うな……


――……あぁ。


――輪廻転生とかいう奴……あれ、まことかのぉ。


 電七郎は答えなかった。ただ静かに、旅を通じて得た友人の続く言葉に、耳を傾けていた。


――もしまことの話なら……儂、次は人間に……人間に生まれ変わりたい……そうして、また姫様に仕え……生まれ変わったお主と、酒でも酌み交わす仲になるのも……面白いやもしれぬ……な。


――……あぁ、そうだな。


――人間になったら……そうじゃ……儂にも、あれ、教えてくれ……


――あれ、とは?


――岩魚を、素手で捕まえる方法……あれは、見事なものじゃ……


――分かった。約束しよう。


――転生しても……あれのやり方だけは、忘れるなよ。


――忘れるものか。


 絶対に、忘れるものか。


――なら、安心じゃ……その時を……ふふ、愉しみにしておるぞ……


――栗介殿っ!


――生まれ変わるまで……しばしの……お別れじゃ……笛の処理は……儂に任せろ……姫、さま、の、こと……よろ、し、く……た…………のむ………………ぞ………………


 そこで、無慈悲にも思念波は途切れた。


 昏い森の中、電七郎は一人遺された。


 肩が震える。震えずにはいられなかった。ただ、そうするしかなかった。


 激しい哀しみを受け入れ、友の遺した言葉の一つ一つを、大事に丁寧に己の中に取り込む。何度も何度も。それが、栗介の供養になると信じて。


「栗介殿、お主のその心、誰よりも人間らしかったぞ……」


 どんなに年月が経とうとも、この哀しみを、傷を癒すことは叶わないだろうと、電七郎は思った。しかし、それが前進を拒んでいい理由にはならないことは、当然理解していた。


 その誇り高き魂に暫し黙祷を捧げると、電七郎は屹然と面を上げ、眼前の闇を見た。自身を蹂躙せんと迫る闇であり、それは打ち払うべき闇でもあった。


「待っておれ……彩姫殿」


 護るべき人の名を静かに呟き、男は疾走した。


 頬に、涙の痕が滲んでいた。

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