第二十五話 決戦は、神狩ヶ淵
「同じ……」
電七郎は、そこに来てようやく、黒嶺餓悶なる男の全貌を垣間見た気がした。巡り回る思考の渦が火花を放ち、一つの終着点に辿り着いたのだ。
自らの意識するところからは予想を大きく外れた結論であり、そこへ無意識のうちに自然と辿り着いたことに、電七郎自身が、心の底から一番驚いた。信じられなかったが、妙な説得力が、その結論には宿っていた。
途端、電七郎は激しく狼狽した。胸を揺さぶられ、夕焼け色の瞳はゆうらりと揺れてただ虚空を見つめ、今度こそ本当の意味で彼は沈黙した。すなわち、息をすることすら忘れ、過去の記憶を急速に集めるに勤しんだ。脳裡で、真実を映し出す鏡の破片を組み上げ、溶接し、無意識が叩きつけてきた結論が真であるか、偽であるかを論証しだした。
破片は、よくよく探せば数多く存在していた。ただ、それまで電七郎の意識から外れたところにあっただけで、確かに散らばっていたのだ。それらの一つ一つを、丁寧に壊さぬように、ゆっくりと手繰り寄せていく。
昨晩の死闘の折、最後に餓悶が遺した言葉。
五年前の悲劇。奴が手にしたお千の首……
そうだ。どう考えてもおかしい。
あの時、あの場所で、餓悶があんな台詞を吐けるはずがない。
なぜなら、彼は知らないはずだ。
しかし、それを知っていたということは――
――電七郎、どうした?
突然、脳内に響いた栗介の声に、電七郎の思考は中断を余儀なくされた。はっとして顔を上げ、電七郎は何かを言い澱んだ。
――おい、本当にどうしたというのだ。
――いや、何でもない。
轟々と脳裡で燃え上がる閃きを無理やり鎮火させると、気持ちを切り替える意味も込め、電七郎は大きく息を吸い、吐いた。
ごちゃごちゃと小難しい事を考えている暇はない。いまは為すべき事を意識し、それに全力を傾けるべきだと、己自身に言い聞かせる。
――どちらにせよ、我々は餓悶の挑戦を受けなければならぬな。
――そうじゃ。受けねばならぬ。だが、もし失敗したらどうする。それにじゃ、中杉が神戸と手を組んだ今、姫様の安住の地はどこにある。こうなってしまっては、お家の再興はもう無理じゃ。姫様を無事に助け出せたとしても、流浪の民にさせてしまう。そんなこと、儂にはとても耐えられぬ。
栗介がここまで弱腰な姿勢を見せるのは、これが初めての事であった。人語を操り、人間社会の営みを長年学んできた彼にとっても、中杉の件は予想外過ぎた。それによる衝撃が地震いの如く、彼の決死の覚悟に染み入り、脆くさせてしまっていた。
――栗介殿、お主がそのような心持ちでいて、どうするのだ。
電七郎が、たまらず檄を飛ばす。
――失敗することを最初から考えていては、どんな目標も達成できぬぞ。
――いや、しかし……
――安心しろ。奴の鼻をへし折ってやる。その為の策もある。だから、そんなことを言うな。彩姫殿の居場所がないというのなら……
大きく息を吸い込んで、電七郎は、その決定的な一言を告げた。
「俺が、彩姫殿の居場所になってやろう」
――電七郎……
栗介の驚きが、はっきりと電七郎に伝わった。一介の忍が口にするには、余りにも身分違いな台詞だと、ほかならぬ電七郎自身でさえそう思う。だが、その心意気は本物だった。曇りなき、まことの心から出た言葉だった。
――分かった。
ややあって、栗介が重い返事を鳴らした。
――お主がそのつもりなら、儂も藤尾家に代々仕えてきた妖獣じゃ。死に物狂いで、姫様を助け出す。後のことは、電七郎、お主に任せる。
――有難い。栗介殿、これが彩姫殿をお助けできる最後の機会だ。どうか、俺に全てを委ねてくれぬか。
――心配するな。もとよりそのつもりだ。それで、まずは何をする。
――枯草がいる。それも大量の。
――枯草か。それならば良い場所を知ってるぞ。案内してやろう。
栗介の声に従い、電七郎は光届かぬ裏路地から、表通りに出た。
空を見る。陽が、だんだんと落ちていく。
静かに近づく決戦の刻。
八洲の聖地を舞台に、玄妙極まる壮絶な忍法合戦が、はじまろうとしていた。
▲▲▲
『どうかご安心くだされ。笛を簒奪する術は、まだございます』
電七郎達が江治前国に入る少し前。
阿佐鞍城の広間で怒りをまき散らす神戸を前に、黒峰餓悶は臆することなく、鷹揚に意見を述べた。
彩姫を囮として妖獣魔笛を奪わんとする策を練ったのは、電七郎の予想通り餓悶であった。彩姫処刑の流言を撒けば、姫を守護する謎の士は笛を手に必ずやってくるはずとの餓悶の意見に、神戸の家臣たちはこぞって反論した。
彩姫の従者たる栗介ならまだしも、成り行きで彩姫を護衛する形となった放浪の士が、そこまでの義理立てをするはずがない。そもそも、向こうが笛を持っていると分かっている以上、居場所を突き止め次第、然るべき手段で笛を奪取するが定石。わざわざ嘘の処刑をでっちあげることに何の意味があるのかというのが、彼らの主張であった。
まくしたてる家臣らを前に、遂に餓悶は己の秘鍵を差し出した。彩姫を守護している放浪の士がただの士ではなく、その正体が自身と同じ忍であること。過去の戦いで殺し損ねた相手であり、並々ならぬ憎しみを慚魔衆に対して抱いていることを明かしたのである。
これまで自身の身の上について固く口を閉ざしていた餓悶の突然の告白を受け、家臣団らは戸惑い、押し黙るしかなかった。果たして、この黒づくめの男の脳裡に描く予想図。その全貌を正確に把握できる者が、この場にはただの一人としていなかったのだ。それが後々になって、神戸帯刀の身の上に降りかかる絶望の根源になろうとは。
『つまり、あの男は彩姫様に対して義理はなくとも、我ら慚魔衆に対して計り知れぬ因縁を抱えておるのです。これを利用しない手はございませぬ。また皆々様方もご存じの通り、我らは妖獣魔笛奪取の為に宿場街を一つ半壊させ、謀られたとは言えども、向こうの勢力を著しく削っておりまする。故に、彼奴らが安全に笛を隠す場所もなく、また隠したとして、我らの目がそれを逃しませぬ。加えて、彩姫殿処刑の虚言を撒けば、いよいよ敵方の慚魔衆に対する恨み憎しみ募り、まんまと我らの元に飛び込んでくるはずでございます。そこで交渉と見せかけ、彼奴を殺し、笛を奪取する。それ以外の方策はござらぬ』
薄っすらと微笑みを浮かべながら、餓悶は野性的ともとれる奸計を口にした。家臣団らは互い互いに顔を合わせ、そんな策が本当に上手くいくだろうかと、疑念の色を瞳に宿している。彼らの間に横たわる不信の情を機敏に感じ取り、餓悶は少々小馬鹿にするような言い草で続けた。
『貴公らにはちと申し訳ござらんが、どうにも頭ごなしに物事を運びたがるところがあると、言わざるを得ませんな』
『忍の分際で、士を侮辱するか』
白髪を生やした家臣の怒声にも近い問いに、しかし、餓悶は些かの動揺も見せずに持論を展開し続ける。
『侮辱ではございませぬ。考え方の違いを申しておるまで。最小の策で最大限の成果を得る。それが忍の使命であり定石でございます。最小の策とはすなわち、最小の労力に繋がりまする。また、分かりやすい武力で敵を攻めるも兵法の一つなれば、敵の心理に揺さぶりをかけ、こちらの思うがままに動かすもまた兵法。此度の場合、後者の方が良き選択と我は思いますが、如何でございましょうか。神戸殿』
『……もし向こうが現れなんだ、どうする』
睨みつけるような眼で、神戸は問うた。猛獣を思わせる迫力に満ちた眼力も、餓悶には通じない。ふふっと軽く笑みを零し、
『その時は、致し方ございませぬ。我が慚魔衆の力を使い、虱潰しにあの忍を探し出し、笛を手に入れてみせましょう。当然、手は緩めませぬ。八洲列島全土を灰と化す勢いで、事を為す所存でございます』
『……本気で言うておるのか?』
『本気も本気でございます。なぁに、心配はございませぬ。妖獣魔笛を手に入れれば、天下は神戸殿のものでございます。捜索の果てに我が忍法により八洲が灰に還ったとしても、問題は何一つあらず。天下人の器量を以て、新しくこの国を造り変えれば良いだけのことでございます』
さも当然の如く破壊と創造の論理を展開する餓悶を前に、神戸の心にどす黒い感情が渦を巻いた。野心を焚きつけられ、その小さき瞳が爛々と輝く。偽物の笛を手にした時に見せた激しい怒りは、餓悶の巧みな話術に乗せられ、既に風のように過ぎ去ってしまっていた。
一方で、話を聞いていた家臣たちは、なんと恐ろしいことをこの男は口走るのだと、総毛立つばかりである。それも当然だ。万が一に策が破られた場合、八洲を焼け野原にしてまで笛を探し出すという餓悶の言葉が、とても口から出まかせとは思えなかったからだ。
慚魔衆頭領、黒嶺餓悶。この男ならやりかねない。
家臣らは皆、一様に同じ戦慄を胸の内に抱いた。士の為に良く働く有能な犬を手に入れたと思いきや、その実、恐ろしい魔獣を召喚してしまったのではないかと、一抹の不安が脳裡を過った。
しかし、動き出した歯車は止められない。止まらない。
かくして、餓悶の策は実行に移された。
刑場に選ばれたのは、江治前国は阿佐鞍城より南西の方角。国松郷にある禁足地・神狩ヶ淵である。提案したのは、やはり黒嶺餓悶であった。
目的の内容が内容なだけに、彩姫処刑の場は、決して人目についてはならない所にすべきと主張する餓悶に、反対する者は一人もいなかった。淵の歴史を知る何人かの家臣は、神々に対する侮辱であると烈火の如き怒りを抱いていたやもしれぬが、それでも誰もが押し黙り、操り人形のように首を縦に振るしかなかった。神戸までもがそうしていた。
まるで、阿佐鞍城の中核を、余所者であるはずの餓悶が握ってしまったかのような、それは異様な光景に彩姫の目に映った。
▲▲▲
神狩ヶ淵。
その成り立ちには、古より伝わる伝承が絡んでいるとされている。
いまより遥か八百年ほど前。八洲が八洲と呼称されるよりもずっと以前の昔。既にその頃から、島のあちこちに妖獣が現れては、多くの人々を苦しめていた。妖獣の力は、それこそ現在猛威を奮っている慚魔衆が操る忍法よりも遥かに恐ろしく、妖幻甚だしいものだったという。
そんな折、後に江治前国と呼ばれる土地で大社の宮司を務める一人の男が、ふらりと、とある山に足を踏み入れた。そこは、八洲の中でも最も力ある〈妖獣の皇〉が住まう地として有名で、畏敬と恐怖の念を込めて、人々からは魔窟岳と呼ばれていた。
案の定、宮司は魔窟岳に入るなり、いきなり妖獣の群れに囲まれた。だが、宮司は特段焦る様子もなく、ひらりと舞うような所作で懐から一つの笛を取り出し、その滑らかな指先で音色を奏でた。この笛こそ、後の世に伝わる妖獣魔笛である。
宮司が笛を奏でた途端だった。あれだけ狂暴だった妖獣が大小問わず、全て眠る様にして絶命し、その体からは真に見事なほどの花々を咲かせ始めたのである。
宮司は笛を吹きながら、魔窟岳を歩き続けた。その果てに妖獣の皇と対面した。皇は山麓ほどの体躯を震わせ、しかしその獰猛な爪牙が宮司の体を引き裂くより先に、笛の音を聞いて静かに永遠の眠りについた。
巨大にも巨大な妖獣の亡骸から、そのうち草木が茫々と芽吹き、色とりどりの花を咲かせた。加えて、亡骸からは膨大な量の血が流れ、山を削り、谷をつくり、滝へと変じた。血は七日七晩と流れ続けた後、空を鏡の如く映す清流へと生まれ変わり、その流れは今なお続いているとされている。
神狩ヶ淵とは、この宮司――豊降守鳴彦が調伏した妖獣の亡骸を土台とした聖地である。永き時が流れた今でも、淵を流れる水には妖獣の怨念が詰まっておるとされ、それを鎮める為に祠が作られたのだという。
伝承から推察されるに、これは生と死の物語である。強大な力で土地を荒らし、人々を嬲り殺し続けていた妖獣が、調伏された後に一転、神の如き力で命を芽吹かせる存在となったのだ。
そして今、伝承に沿う形ではないが、八百年の時を超えて、生と死の物語が繰り広げられようとしている。
夕刻。既に陽は大半が沈み、小さく煌めく星々の幕が薄闇の空を覆っている。南傾斜の高台から一望できる湖面が、均等に配置された多数の篝火を受けて照り輝き、雅な雰囲気を醸し出している。高台から迫り出した三重造りの正願寺は、寺でありながら櫓としての機能も果たしており、神戸帯刀を始めとする面々が、時が来るのを今か今かと待ちわびていた。
山より落ちる滝は低いながらも、絶え間なくこんこんと淵に流れ込んでいる。周囲には青々しい森が山積し、湖に蓋でもするかのように、枝葉を力強く伸ばしている。
滝の流れ落ちる周囲は開けた砂地となっているはずだが、今は違う。物言わぬ壁のように竹矢来が正方形状に配置され、即席の刑場となっている。
竹矢来の内側には、十字に組まれた柱に両手両足を縄で縛りつけられた、彩姫の姿があった。気力もほとほとに尽き果て、ぐったりとしているのが、力無く項垂れている様からも容易に分かる。
周囲には、物々しい雰囲気に吞まれまいと気を張ってひしめく、神戸の兵士たちの姿があった。数は多い。軽装ながらも、武装は十分。穂先を天に向けるかたちで長槍を持ち、腰には万が一の為に太刀まで身に着けている。
兵士達は規則正しく隊列をつくり、コの字型の形で、彩姫に向かい合うようにして、静かに処刑の時が来るのを待っていた。彩姫から見て、竹矢来の左方と右方に陣取る隊列は、鬱蒼とした森を背に。正面に陣取る隊列は、正願寺を背にする恰好になっている。
淵への入り口は、正面の隊列の右端から僅かに南西へ逸れた通りに続く、九十九折りの石畳だけ。そこにも、野次馬が現れないかと辺りを鋭く監視する兵士の姿が、ちらほらと見える。
これだけの数で見張っていれば、確かに刑場へ潜入するのは難しいだろう。
だが、既に潜り込んでしまった後となっては、まるで意味がなかった。つまりはいま、これだけの敵の集団のただ中に、ものの見事なまでの変装ぶりで電七郎は紛れ込んでいた。
木を隠すなら森の中とはよく言ったもので、これぞまさに、見事な隠形の術である。黒い陣笠を被り、鉄板を薄く引き伸ばした前後二枚の胴で上半身を、五段折りの垂れで下半身を守るその姿は忍からは程遠く、何処からどう見ても一兵卒そのものだ。
無論、あらかじめ用意したのではなく、全て現地調達である。背後から兵士の一人に音もなく近づいて当て身を食らわせ、誰にも気づかれることなく叢に引きずり込み、鎧一式を頂戴したのだ。今頃、当て身を食らわされた兵士は裸同然の恰好で、草場の陰で昏倒しているに違いなかった。
――どうだ。姫様のご様子は。
ここでも懐中に忍んでいる栗介が、思念波を送り、様子を尋ねる。電七郎は軽くつま先立ちになって様子を伺うが、前方に並ぶ兵士達の陣笠が邪魔なのと、俯いたままの姫の顔に長い黒髪がかかっているせいで、表情が判別とし難い。
――駄目だ。ここからでは良く見えん。
――くそう。目の前に姫様がいらっしゃるというに。いつまでじっとしておればよいのだ。
――焦ってはならん。
癇癪を起こしかねない栗介を、電七郎は窘めた。
――仕掛けは十分に施してある。あとは、機が熟すのを待つだけだ。
冷静な口ぶりでありながらも、電七郎もまた内に激しき想いを宿している。その証拠に、陣笠の奥に潜む夕焼けの瞳はいま、赤熱したかのように燃え滾っていた。
闇が、いよいよ濃さを増していく。
星が、その数を増やして瞬きを強める。
兵士達は篝火の火が絶えぬよう、代わる代わるに薪をくべながら、今か今かと時が来るのを待ち侘びていた。いや、彼ら以上に、電七郎一行の登場を待ち侘びている人物がいた。
「……遅い」
正願寺の舞台から淵を一望する特等席に腰かけながら、ぼやくように神戸が口走った。傍らには何人かの家臣と、今回の策の発案者たる黒嶺餓悶が座している。
偽りの処刑の準備を整えてから、既に幾刻が過ぎた。寺の坊主たちに強引にしつらえさせた酒肴も、残り僅かとなっている。
時は刻々と過ぎ、それでも依然として何も起きない。
反対に、淵を包む静寂がより一層深まるばかりである。月光が碧き輝きを増していくに合わせ、まるで淵そのものが永い眠りにつくかのような、そんな静けさの中にある。
三重櫓造りの正願寺。その最上階からは、十字架に張り付けられた彩姫の顔は豆粒のようにしか見えないが、数多の篝火に照らされた淵の様子は一目で分かる。神戸の神経は尖りに尖り、その瞳はぎょろぎょろと動き、淵のあちらこちらを隈なく睨みつけるが、草の一つすら、異様な動きを見せないでいる。
何時まで待てば良いのか。次第に眉を顰める神戸。家臣らの不審げに満ちた眼光が、末席に座す餓悶へ向けられる。それでも餓悶には何か確信めいた予感があるのか。甘んじて非難の視線を一身に受けつつも、狼狽える姿を一切見せない。
張り詰め続けた気を和らげようとしたか。神戸は淵を睨みつけたまま、盃をおもむろに手にとって口に運ぼうとした。
まさにその時であった。
静寂が、弾けるようにして破られたのは。
「早う! 早う通すのじゃ!」
怒鳴り声を上げながら、一人の兵士が駆け込んできた。鎧のあちこちが泥に塗れ、顔中が汗に濡れている。阿佐鞍城から早馬を飛ばしてきた伝令兵である。伝令兵は、滑り込むようにして場に座すと、堰を切って叫んだ。
「殿! 急ぎ城にお戻りくだされ!」
「なんだ。何事だ!」
「城下町から火の手が上がっておりまする! 中杉が和睦を破棄し、攻め込んで参ったのでございます!」
「なんだと!?」
酒肴の置かれた膳をひっくり返す勢いで、弾かれたように立ち上がる神戸。盃が彼の手から落ち、音を立てて盃の中身が床に撒かれた。
驚愕の面持ちを張り付けたまま、神戸はすかさず、家臣の一人が懐から取り出した遠眼鏡を奪うようにして掴むと縁に近づき、北西の方角に向けて覗き見た。
「……!」
絶句した。遠眼鏡を持つ手が、自然と震えた。
目に飛び込んできたのは、夜を照らすほどの赤々とした火炎と、闇よりも濃い黒煙が噴き上がる光景。それらが包んでいるのは、確かに阿佐鞍城城下町の辺りだった。
更に遠眼鏡の倍率を上げると、はっきりと目に入ってきた。四つ向かいの殻羽天模様。中杉家の家紋が印された軍旗が、熱風になびいているのが。
中杉宗近が、あろうことか今朝方結んだばかりの和睦をあっけなく破棄して、この江治前国に乗り込んでこようとは。悪い夢でも見ているのかと思う神戸だが、その瞳が捉える遠眼鏡越しの惨状が、容赦なく現実を叩きつけてくる。
「中杉……あの古狸めがっ!」
「いや、だがしかし、中杉殿は僅かな従者と共におったはずだ。いったい、どうやって攻め入ったというのだ!」
家臣の一人が動揺を隠さずに口にした疑問の声に、伝令兵がすかさず答える。
「おそらく、国境近くに兵を隠していたものと思われます。城では柏原忠親様、小野田継起様らが兵を指揮しております。御両人の獅子奮迅の活躍もあり、城はまだ落ちておりませぬ。この機に、どうか殿、陣頭にお立ちくださいますよう」
「言われなくとも」
忌々し気に舌打ちをする神戸。妖獣魔笛を手に入れる寸前になって、とんだ邪魔が入ってきたのは大きな誤算だ。しかし、その表情から既に狼狽は消えている。代わりに、顔に糞尿を塗りたくられたかの如き恥辱を受けた報いを、何としても返してやるという意気込みが満ち溢れていた。
「中杉の阿呆が。今朝の今となって、城主が留守の間を狙うとは小物も小物だ。徹底的に痛めつけてやらねば……餓悶!」
「はっ!」
「状況が変わった。私は急ぎ家臣を連れ、城に戻り指揮を執る。刑場で待機している者も、半分は連れていくぞ。正直なところ不服ではあるが、致し方ない。この場はお主に任せるが、よいな。お主が言うところの電七郎なる忍が策に嵌り次第、どんな手を使ってでも構わん。必ず妖獣魔笛を手に入れるのだ」
「承知仕りました、ですが――」
座して軽く平伏していた餓悶が、ゆっくりと面を上げ、静かな目線で神戸を見上げた。
「道中を中杉の兵に襲われるとも限りませぬ。ここはひとつ、私の配下を一人御傍につけましょう――蓬莱、おるか」
「ここに」
重みのある声音が響く。一体、いつからそこにいたのか。広間の入口付近の壁に背を預けて立つは、慚魔三轟忍が筆頭の竜羅河蓬莱。広間の入口を護衛する兵士が、ぎょっとして仰け反った。さっきまでそこに人の気配など露ほどもなかったのに、何時の間に姿を現したのか。全く以て不可思議な出現ぶりである。
「耳にしていた通りだ。この場は我が預かる。お主は神戸殿と共に、阿佐鞍城へ往け」
「御意」
餓悶と蓬莱。二者の視線が交差する。餓悶の意味ありげな視線を見逃さない蓬莱ではない。頭領の両眼に込められた邪なる意志を汲み取り、力強く無言で頷くと、神戸や他の家臣らの後に続いて広間を出た。
餓悶が神戸と蓬莱の姿を見たのは、それが最後だった。




