第二十四話 敵地潜入
春雲を追い散らす様に太陽が真東へ昇り切った頃、宿場街から北へ伸びる畦道をひた走る一団があった。
道を往く行商人が、はて、今しがたの風はなんだろうかと思い後ろを見やるも、すでにそこに人の姿はなく、振り向いた先には、天を衝くように悠々と聳え立つ山麓が広がっているばかり。
一団の姿は、その余りの速さゆえに、通行人たちの目に映らないのだ。しかも気配を殺して音も立てないでいるから、家畜の類も気にも留めない。まさに、一陣の風と形容して良かった。
疾風怒濤の勢いで大地を駆けるその一団を形成するは、電七郎を始めとする白鳳忍軍の残党たちである。彼らは宿場街を出た後、気持ちを新たにした電七郎の声に導かれ、慚魔衆に連れ去れた彩姫奪還のため、一刻も早く阿佐鞍城へ向かおうとしている最中であった。
残党の数は、およそ三十。そのうちの何人かは、背中にたっぷりとした包みを背負っている。
〈翼〉の面子は本来なら五十を超えるが、昨晩の戦闘で深手を負った者たちは宿場街へ残してきた為、敵陣へ乗り込む人数にしては若干心もとない。それでも、誰しもの瞳に決然とした炎が宿っており、遅れをとる者は一人もいない。
重心を落とし、姿勢はやや前傾を保ち、滑空する鳥獣のように両腕を後ろへ逸らして、駆ける駆ける。足場の悪い林を過ぎる時は、野猿を彷彿とさせる勢いで木々の枝を掴んで飛翔した。長幅の河を超えるときは、僅かに水面から顔を出している岩から岩へ、勢いを殺さず飛び移った。
全て、地獄を見る覚悟で会得した、驚異的な膂力の成せる技であった。迅脚は忍の得意とするところでもある。本気になれば息を切らすこともなく、陽が昇ってから沈むまでの間、休みなく駆ける事だってできる。無論、山の一つや二つを越すことなど、造作もない。
「まずいな」
河を乗り越えて御伽岳の裾野が近くなり、また、徐々に群雲が太陽を覆い隠し始めたころだった。一団の先頭を往く電七郎の懐の中で、栗介が呻くようにして声を発した。
「どうした、栗介殿」と、電七郎が問う。
「仕掛けていた術が解けたようじゃ」
「なに? 分かるのか」
「感覚を共有してあるからな。しかし思ったよりも術が解けるのが早い。恐らく、神戸の奴が何かしたのだろう。まずいなこれは」
栗介のふんわりとした体毛が、緊張で固くなる。彼も神戸帯刀という人間の性格を知っている。笛が偽物だと分かった時の神戸がどんな行動に出るか、栗介には容易に想像がついた。
「姫様が危ない。あの神戸のことだ。偽物の笛を掴まされたと知って、怒り狂った果てに何をするか……」
「いや、恐らくはまだ大丈夫だ」
「お主は神戸という男の本性を知らぬから、そんなことが言えるのだ」
「栗介殿、お忘れか。敵は神戸だけではない。餓悶もいる。奴ら慚魔衆も笛を狙っているとするなら、笛の仕手たる彩姫殿を惨い目に合わせる可能性は少ないだろう。何だかんだと言いくるめて、神戸の怒りを宥めるはずだ」
「だがそうだとして、慚魔衆が笛を狙う理由はなんじゃ」
「決まっている」
電七郎は正面を向いたまま、虚空の一点を鋭く見つめて言った。
「八洲を混乱に陥れる……それ以外に考えられん」
「天下を獲る為ではなく、世の中を混乱に陥れる、か。それだけの為に、神の遺した笛の力を使うとは、恐れを知らぬ連中よ。全く以て、発想が奇妙奇天烈過ぎる」
「奴らにしてみれば、世の中がどうなろうと知った事ではないのだ。ただ、戦場がありさえすればそれで良いと考えている連中だ。妖獣共を人里に放ち、暴れさせ、戦火を広げる。笛の力を使えば、それくらいのことは可能なのだろう?」
「無論だ。あれには神の力が宿っておる。さしもの妖獣といえど、あの笛の音だけには逆えられん。姫様が悪意を以て笛を吹かぬ以上は、妖獣共が無暗に暴れることもないだろうが……お主に言わせれば、それも楽観的過ぎる考えと言ったところかな」
「楽観的かどうかは兎も角、油断はならない。奴らは幻術すら扱う連中だ。人の精神に干渉し、悪に染める忍法を会得している者がいないとも限らない。もし、彩姫殿の精神が慚魔衆の術中に嵌り、悪意ある心と化してしまったなら――」
そこまで言って、電七郎は口を噤んだ。
その先の事を想像するのは、余りにも容易だった。
仕手が破壊を望み、混迷を極めんとする心持で笛を吹いたとしたらどうなるか。結果は自ずと見えている。まさにそれこそ、慚魔衆の真なる目的である。電七郎は、殆ど確信した気持ちでいた。
と同時に、奴らの横暴をここで終わらせなければならないという決意が、ますます固くなった。もはやそこには、陰鬱とした復讐心はなく、あるのは一つの揺ぎない意志。彩姫を敵の手から救い出すという、純然たる目的だけだ。
「それにしても栗介殿、本当に良いのか?」
「何がじゃ」
「笛を封印するという話だ。妖獣魔笛は藤尾家が先祖代々護り続けてきた宝なのだろう? それを、自らの手に届かぬ場所に収めるというのは……」
慮るかのような電七郎の口調。懐の栗介が一笑に付した。
「何度も言わせるな。儂も、儂なりに色々と考えた末の決断じゃ」
今、電七郎の懐中には、昨晩の死闘の最中で栗介が機転を効かし、守り抜いた妖獣魔笛がある。これから敵陣に突っ込むというのに、敵が最も欲している宝を携えて潜入することを、そもそも電七郎は良しとしなかった。余りにも危険が多すぎると判断したからだ。だが、そうしなければならない理由があった。それも、二つ。
一つは、宿場街に残してきた、残りの〈翼〉らの存在である。電七郎は、姫を取り返して来るまで彼らに笛を預けることも考えたが、万が一ということもある。藤尾竹虎討ち死にの報せは、既に近隣の国々へ出回っている。もし、その報せに混じって妖獣魔笛の存在が公になっていた場合、笛の力を狙う輩が宿場街に集まり、また昨晩の戦いにも劣らぬ事態を招いてしまう可能性があった。
以上のことを考慮すれば、傷ついて満足に戦えない者らに、戦いの鍵となる笛を預けるのは、余りにも危険過ぎた。
もう一つの理由としては、栗介が提案した『封印』の為である。
単純な話だ。つまり栗介は、これ以上笛に纏わる因果に彩姫を巻き込みたくないと願い、藤尾家の宝を手放すことに決めたのだ。それにいつか、慚魔衆以外に、笛を悪用せんとする者が現れないとも限らない。だからこそ、妖獣魔笛を二度と人の手の渡らない場所へ、未来永劫に葬り去ってやろうというのだ。
魔笛の封印。それを可能とする方法と場所は、今は亡き藤尾竹虎と、攫われた彩姫、そして、長年藤尾家に仕えてきた栗介の三者しか知らない。
栗介の提案を聞いて、電七郎は正気かと疑った。家宝を手放す。それがどれだけの痛心を伴うか、分からない電七郎ではない。
だが、栗介の意志は固かった。
「此度の出来事を通じて、理解したわ。姫様は妖獣魔笛がある以上、一生安寧からは程遠い生涯を送ることになる。それでは駄目なのだ。姫様には、姫様自身の道を歩いてもらいたい。何物にも縛られることのない人生を。それが儂の願いじゃ」
「家宝を手放すと聞いて、彩姫殿は首を縦に振ってくれるだろうか」
「そこは儂が説得する。心配するな。お主はただ、姫様を取り戻すことだけを考えよ」
「ああ」
「一連の手筈は、頭に入っておるな」
「ああ、大丈夫だ」
力強く頷いて、影は奔る。北へ、北へ――
▲▲▲
電七郎一行が阿佐鞍城の城下町に辿り着いた頃、雲間から再び顔を出した太陽は山陰の頂上に掠れたばかりで、沈むにはまだ大分時間がかかると思われた。
城下町に辿り着くと、集合場所と時間だけを決めて、電七郎達は真っ先に背負ってきた包みを、人目のつかぬところで広げた。中に入っていたのは、精巧に作られた変装の為の道具だ。各々がそれらを手に取り、現地人や行商人へあっという間に扮すると、一団は蜘蛛の子を散らすように散会した。忍としての基礎も基礎。敵陣地での情報収集の為である。
どんな些細な噂でも、忍は十全に活用する。それが嘘であれ真実であれ、関係ない。情報を如何に伝播させ、如何に信用させるか。それもまた、忍の腕にかかっている。
電七郎もまた、単身での行動に乗り出した。ただし、彼の懐には、妖獣魔笛をしっかりと両の前足で抱き抱え、完全に口を閉ざした栗介が隠れ潜んでいる。
阿佐鞍城の城下町は、それなりの人の往来があった。城主が下剋上に遭ってまだ数日しか経っていないというのに、通りには活気がある。しかし、それは偽りの活気である。
神経を研ぎ澄ませれば、確かに感じる。城下町に泥濘の如く蔓延る昏い気配。すれ違う誰も彼もが平静を装っていながらも、その相貌の奥底に言いようのない不安を押し殺しているのを、僅かな機微から電七郎は感じ取った。
それは、前の城主であった藤尾竹虎が如何に民草から慕われていたかを示し、新たに城主となった神戸帯刀の人間性をどれだけ多くの者が恐れているかを、簡潔に表す光景とも言えた。
「む、あれは……」
通りを暫く歩いた先で、人だかりが目についた。近づいてみると、どうやら高札が掲げられているらしい。神戸帯刀の命により貼られた御触書を前に、町民たちが怪訝な表情を浮かべていた。ある者は高札を一瞥した後、深いため息まで吐いている。
一体何事か。人込みを掻き分けようとする電七郎だったが、思った以上に人が多く、中々前に進めない。諦めて、たまたま近くにいた若い男に声を掛けた。
「何と書かれているのだ?」
男が振り向き、行商人の恰好に化けている電七郎を特に怪しむ事もなく、御触書の中身をかいつまんで話し始めた。
「けったいなことだ。どうやら、前の殿様の一人娘が捕らえられて、今夜処刑されるらしい」
「なんと」
彩姫の処刑。
電七郎の口調は平然を保っていながら、しかし、その鼓動は足音を早めていた。彼の懐中で、栗介が硬く身を強張らせ、体中の毛先を張り詰めさせた。
「女子を処刑とは、また惨い事をなさる」
「全くだ。今度の殿様は、藤尾家のご親族を根こそぎ葬り去るつもりらしい。どうも、血が鉄で出来ているんじゃないかと思っちまうな。ありゃあ、人の皮を被った鬼だぜ」
「おい」
隣で聞いていたらしい、如何にも小作人風情の年老いた男がしかめっ面を見せて、突然会話に割って入ってきた。どうやら、電七郎と話していた若い男とは顔見知りの仲らしい。
「お前さん、そんなこと聞かれでもしたら首が飛ぶぞ。滅多なことを言うもんじゃない」
「なんだよ爺さん。俺は本当の事を言っただけだぜ? まともじゃないね。あの神戸とかいう新しい殿様はよ」
「それは、そうかもしれぬが……しかし、そうやって悪言を吐いている様を見られでもしたら、ただでは済まぬぞ」
「関係あるか。あの士が狂ってるのは事実だ。爺さんも思わねぇか? 禁足地を侵そうとしてまで娘っ子一人を処刑しようとするなんざ、正気じゃねぇぜどう考えても」
「禁足地とは何だ?」
嫌な予感を覚えつつ、電七郎は若い男に尋ねた。
「あんさん、他所から来たのかい? なら知らないのも無理ないか」
「すまんな。江治前は初めて来たものだから、とんとこの辺りの地理には詳しくないもので」
「そうか。なら教えてやろう。禁足地ってのは、ここからちょっと外れたところにある、神狩ヶ淵って場所のことさ」
まさかの思いと共に、電七郎は黙したが、かまわず若い男は話を続けた。
「何でもその昔、偉い神さんが妖獣たちを滅ぼした場所らしくてな。俺も詳しい事は知らんが、藤尾の殿様が祠を建てて、代々護っていたんだ。そんな神聖な土地を、刑場にしようってんだぜ? 肝が据わっているって言う奴もいるが、俺から言わせてみれば、単純に莫迦なだけだよ」
「おいっ!」
たまらず、年老いた男が若い男を窘めた。
「冗談はそこまでにしておけ。儂らは何も言わず、ただ黙して従っておりさえすれば良い。越碁の殿様と新たに和睦を結んだことなのだし、この国はまだまだ安泰じゃ。神戸様も、そう惨い事を儂らに強いることもなかろう。意外と、名君になられるかもしれぬ」
「越碁の殿様というと、中杉宗近のことか?」
予想もしなかった人物の名前が出てきて、これには流石の電七郎も驚きを隠せなかった。しかし、それをごく一般的な反応と見て取った年老いた男は、「それ以外に誰がいるのだ」と口にしただけで、特段、電七郎の反応を気にした風でもない。
「さっき、この辺りを越碁の殿様が、大勢の従者を引き連れてぐるりと巡っておったよ。話によれば今朝方、神戸様と和睦を結んだそうだ。恐らく、手ぶらで帰るのも惜しいゆえ、土産の一つでも買っていくつもりなのだろう」
「越碁は鉱脈の宝庫だ。米だって沢山獲れると聞くぞ。これでますます、神戸の奴が調子に乗るな」
「だから、そういう事を口にするなと言っておろうが!」
たまりかねて、年老いた男が若い男の肩をぺしりと叩いた。が、若い男の方は、なお悪戯小僧のような笑みを見せ、それから色々な話を電七郎に言って聞かせた。その多くが神戸帯刀という人物に対する悪辣な批評の数々であったが、それすらも、現状に混乱しつつある電七郎にとっては、貴重な情報だった。
話を聞き終え、電七郎は若い男と年老いた男の両方に礼を述べると、やや足早にその場を去った。
――とんでもないことになってしまった。
人通りを抜けて、長屋と長屋に挟まれた裏道に入ったところで、栗介が怯えともつかぬ声を出した。その声は周囲には聞こえず、電七郎の頭の中にだけ流れ込んできた。鉄鼠族が得意とする、己の思念を相手の脳内に届かせる技である。
――まさか姫様が処刑……それもよりにもよって、神狩ヶ淵での処刑とは……
電七郎は何も口にせず、首を縦にも横にも振らず、長屋の壁板に背を預け、じっと何かを考え込んでいるようだった。
――何としたことだ。不味いぞ電七郎。こうなってしまっては、一から手筈を考え直さねばならぬ。
栗介が、落胆とも恐れともつかぬ声を漏らしたのも、無理はなかった。
彩姫処刑に際して、急遽刑場とされた聖地・神狩ヶ淵。
その神狩ヶ淵こそ、何を隠そう、妖獣魔笛を唯一封印可能な秘境であるのだ。
電七郎と栗介が練った当初の予定では、次のような流れになるはずだった。
まず、夜遅く更けた時分に、電七郎たち白鳳忍軍の残党が阿佐鞍城内へ忍び込み、どこかに捕らえられている彩姫を助け出す。当然、異変を嗅ぎ取った城内の輩と戦闘になる。それを凌ぎ、防ぎ、斃しつつ、彩姫を城の外へ連れ出す。
電七郎達が追ってくる敵の数々を蹴散らしている間、軒猿を始め数名の忍が、栗介の先導のもとで神狩ヶ淵に辿り着き、そこで封印の儀を執り行う。儀式とは言っても大それたものではなく、栗介の話によれば時間はそう掛かるものではないという。決められた祝詞を口にし、先ほど、若い男の口から飛び出した『祠』に笛を捧げることで、封印は完璧に履行されるようになっている。
そして、無事に封印を終えた後、灘川を越えた先にある小さな廃寺で電七郎たちと合流し、そのまま夜が明けるのを待って、風岩峠を越す。最初の頃と違い、仲間が多くいる今ならば、あの険阻すぎる風岩峠も安全に越せるだろうと見越してのことだ。
忍はその目、その耳、その皮膚までもが鋭敏として働き、はるか上空を飛翔する猛禽の影形はもちろん、風の流れすら捉えることができる。忍の数が多ければ多いほど、向こうが追っ手を放ってきてもすぐ異変に気が付き、対応することができる。
全力を出せば、明日の夕刻には峠を越して、越碁の国に入るだろう。そこまで来れば、もう電七郎たちの勝ちであるはずだった。道程は険しく、命を落とす危険もあるが、もとより承知の上だ。忍の工作は常に危険と隣り合わせ。死ぬべき時を悟った時には、望んで命を差し出す覚悟であった。
ここまで考えていた作戦が、しかしもろくも崩れ去ったのだ。
あろうことか、封印の儀を行う場所で彩姫の処刑が執り行われる。
それだけではない。唯一の頼みの綱であった中杉宗近が神戸と和睦を結んだとなれば、越碁国へ行く意味がない。
――おのれ中杉め。竹虎様から受けた恩義を忘れ、あんな外道と手を結ぶとは……!
口惜しそうに漏らす栗介の憤怒の声が電七郎の脳内に木霊する。電七郎にしても、確かに腹立だしいことではあったし、恐れていた事態が現実となったことに驚愕もした。
数日前、御伽岳の山中にて、電七郎は彩姫にこんなことを尋ねた。
中杉宗近は信頼に足る人物なのか、と。
それは裏を返せば、中杉宗近が彩姫の期待を裏切り、江治前国との和睦を優先する為に、彼女を神戸帯刀に差し出すことを予想した台詞だった。五年間、あらゆる土地を歩き、あらゆる武将に関する噂を聞き及んできた中で、領国大名に対する心構えを電七郎は自然と学んでいた。戦国の世が、人の情も何もかもを、捻じ曲げることを知っていたのだ。
しかし、明日へ命を繋ぐのに必死で、苦心の想いで捻り出した希望を偽と疑わず、彩姫は中杉を信じ込んでいた。彼女の良き助言者であり忠臣でもあるはずの栗介までもが、中杉の動向を読み切れなかった。窮地に陥った際に見出した光明。それが正しき道へ誘う光かどうかを、身も心も切迫した状況にある者によくよく吟味しろとは酷なことであるが、それこそ情無き世を渡るに必須の術である。
起こった事を悔いてももう遅い。状況は最悪の方向へ傾いている。外面だけ見ればそう思われたが、しかしこの時、電七郎の頭の中では、全く別の情景が浮かんでいた。
――栗介殿、これは罠でござろう。
長い沈黙の後、電七郎が脳内で言葉を紡いだ。
――罠じゃと?
――確証があるわけではないが、俺にはそう思えてならぬ。
長年培ってきた忍としての経験が、電七郎に閃きを与えていた。
処刑という響きを耳にして、最初は電七郎も戸惑ったが、どう考えても、神戸帯刀が彩姫を殺す道理が見つからなかった。八洲の覇権を握らんとする男。その性分が如何に外道であれ、せっかく手に入れた力の一端を、みすみす手放すことがあろうか。
そこまで考えた時、不意に電七郎の脳内で、一つの影が立ち上がった。影はみるみるうちに漆黒の人の姿を形どり、その際立って白い面が、酷薄の笑みを電七郎へ向けていた。
黒嶺餓悶――此度の処刑に、奴が絡んでいないと考える方が、無理な話だ。
電七郎は考え、懐の栗介に思念を飛ばした。
餓悶は恐らく、こちらが妖獣魔笛を誰に預けることもせず、また手放せないことを知り、その手に笛を携えたまま阿佐鞍城へやってくることを予想したのだ。
彩姫処刑の話はでっち上げであり、欺瞞である。実際に彩姫を刑場へ連れ出し、見栄えだけは整えるつもりであろうが、本心は、こちらが握っている笛の奪取にあるとみて良い。
彩姫が処刑されると聞けば、電七郎達は否が応にも神狩ヶ淵へ赴く。そこで交換条件と洒落込むつもりなのだ。彩姫と妖獣魔笛の交換。
と見せかけて、あの黒嶺餓悶のことだ。忍法を駆使して場を混乱の渦に満たした最中に、彩姫と笛の両方を簒奪するはずだ。
聖地たる神狩ヶ淵を指定した理由は、余人の介入を許さぬためだろう。つまり、人目については不味い行いをするに違いない。
つまりは、神戸帯刀の殺害である。
これは当然だ。はなから慚魔衆には、神戸に尽くす理由がないからだ。彼らは妖獣魔笛の存在を嗅ぎつけて協力を進言しただけに過ぎない。神戸の野望を隠れ蓑に、自分達の願いを成就せんとしている胎でいるのだ。神戸は自分の望みの為に慚魔衆が動いていると思っているようだが、実はそうではなく、逆に慚魔衆が神戸をいい様に使っているだけだ。
手に入れるべき者を手にしたら、慚魔衆はあっさりと神戸を裏切り、新たに骸の山を築くはずだ。
――なるほど。お主の考え、一理あるな。
――付け加えるなら、あの高札を置くように進言したのも、餓悶だろう。
――なんじゃと?
――同じ忍だからこそ、分かる。我々がここへやってくる時を見越し、彩姫処刑の報せに人々が群がる時機を見越して高札を設置することで、我々が素早く此度の事を知るようにしたのだ。こちらに、わざと考えるだけの時間を残しておくために。
――我々に考えるだけの時間を残すとは、なぜそんなことをするのだ。
――それこそ、こちらの心を雁字搦めにするためだろう。選択すべき道が限られた中、どちらを選ぶべきか。時間をかけ過ぎて考えれば考えるほど、しかし、人の思考は本道から外れるものだ。思考の果てに脳が痺れて疲れ果て、勢い余って魔笛をみすみす相手に差し出す羽目になるのを狙っているのか。あるいはもっと単純に、こちらが苦心している様をどこからか覗き、愉しんでいるのやもしれぬ。
電七郎の語る黒嶺餓悶の策謀に、ごくりと栗介が喉を鳴らした。
――驚いた。奴は人の心を読むか。
――というより、根っからの忍であるのだろう。人の感情を揺さぶるのに、抜群の頃合いを知っている。こちらが何を考え、どのような行動に出るかまでも。間者を放って我々の様子を伺わなくとも、奴の恐るべき耳には全て筒抜けと言うことだな。大した奴だ。
――儂からしてみれば、餓悶の思索をそこまで読み切るお主の方も、大したものだと思うがの。
何とはなしに放たれた栗介の一言が、電七郎を黙らせた。
自分でも、確かに不思議に思う。
何故俺は、ここまで黒嶺餓悶の考えが読めるのだ? 忍としての経験や勘のおかげだろうか。それにしては、何かがおかしい。自分の知らないところで、別の力が働いているとしか思えない。
一度湧き上がった疑問を、打ち捨てることはできなかった。
何故だ?
何故俺は、黒嶺餓悶の心が分かるのだ。
同じ忍であるからか。
同じ、稲妻の忍法術を操る忍だからか。




