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妖獣忍法伝INAZUMA  作者: 浦切三語
第三章 魔招雷
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第二十三話 彩姫、耐え忍ぶ

 このままでは、いつか殺される――漠然と、だがしかし確かな予感を彩姫は抱いた。


 神戸帯刀が欲しているのは、妖獣魔笛と、魔笛を奏でることが唯一可能な彩姫の身だ。彼女が笛を吹けば、音色に巻かれ、立ちどころに八洲中の妖獣が江治前国に集まるのは明白だった。それを神戸は望んでいる。此度の藤尾家を巻き込んだ下剋上の最終目的は、彩姫を介して己の意のままに従う化生の軍団の獲得にある。


 神戸にしてみれば、彩姫は金の卵だ。利用価値のある女だ。よって、神戸が彩姫を殺す可能性はほとんど無いと思われた。手籠めにされ、飼い慣らされるのが良いところだ。守り人であった電七郎と引き剝がされ、こうして連れ去られた彩姫自身でさえ、一時はそう考えた。


 しかし、この場に来て思う。本当にそうなのかと。拭いきれない不安があった。何をされるか分からないという恐怖が、彩姫の脳裡に死の情景を描かせていた。


 彩姫は十三の娘。しかも、まだ男を知らない。八洲において十三の娘ともなれば、男の一人や二人いて当たり前であった。しかし、彩姫には相手がいない。夜を共にする男がいない。竹虎が男を近づけなかったせいだ。娘を溺愛し、悪い虫がつかないように徹底していた。彩姫は、正真正銘の箱入り娘となっていた。


 その箱入り娘を守っていた父も、今はいない。阿佐鞍城は逆臣の手に落ちた。あれほど主君に恩あった筈の家来たちは、あっさりと神戸に寝返った。今の阿佐鞍城に、彩姫の味方は誰一人として存在しない。神戸がどれほどの狼藉を彩姫に働こうとも、それを止める術はない。


 味方は一人もいない。改めてそれを意識した途端、彩姫の脳裡に陰惨な未来が朧げに浮かび上がった。きっと、穢れを知らぬこの身は辱められるだろうと思った。


 あの外面が醜い神戸のことだ。心の底まで醜悪であるに違いなかった。己が殺した男の娘を、天下覇道の為だけに使うとは思えない。それに、神戸は好色家でもある。自らの獣欲の捌け口としても、彩姫を利用するのは間違いない。


 もしその時に、反抗的な態度を取ったらどうなるか。


 彩姫は絶望的な思考の果てに、直ぐに小さく被りを振った。


 神戸帯刀が如何な性格の持ち主か。顔を見れば、自ずと奴の性格が彩姫にも把握できた。顔相が、全てを物語っていた。


 神経質そうな小さい目。薄情者じみて削ぎ落ちた頬。激情家に通じる鉤鼻。忠義という言葉を吐くのを嫌う分厚い唇。彩姫は幼い頃から、神戸帯刀が嫌いだった。心の醜さが、顔に浮き出ていると感じていた。


 そんな不男がここまでのし上がれた要因と言えば、実に韜晦(とうかい)という一点に尽きる。


 神戸は彩姫とは異なる意味で、耐え忍ぶ心を持っていた。それは陰湿さに由来する。毒針を手に藪の中に隠れ潜み、獲物がこちらに背を向けるまで、じっと耐え続けるだけの根性がある。竹虎は、彼の昏き願いに満ちた毒牙に罹り、倒れたのだ。


 一方で、酷く短気な男だと、女中達が噂していたのを彩姫は聞いたことがあった。ほんの些細なことで癇癪を起こし、物や人に平気で当たる乱暴者だという評判もあった。


 我慢強く、気は短い。矛盾していると思った。しかし、矛盾してこその人である。それが、彩姫から見る神戸の胎の内を曇らせる原因となっていた。どのような弾みで爆発するかも分からない火薬同然という印象を持った。その灰色の脳内でどんな企み事を練っているのか、知るのも恐ろしい。


 迂闊な行動に出れば、神戸は怒りのままに刃を振るい、私を殺すだろう。そう考えた途端、彩姫の心はぞっと冷え、反撃することの無力さに打ちひしがれた。


 殺されるなどありえない、とは言い切れなかった。彩姫を手に掛けた結果として、妖獣を操る道具を喪うことになるとしても、奴の事である。また違う手段を新たに考え、八洲全土統一へ向け、血も涙もない策謀を巡らせるに違いない。


 神戸帯刀は、ふとした拍子に我慢を忘れる。それはまるで、白浜に打ち寄せる波の如く、定期的に訪れる。一時に得た不快感を発散する為なら、後先を考えない行動に出る。内なる感情を、抑えきれぬままに爆発させる時がある。


 思慮の足りない浅い男だと、彩姫は思った。そんな男にこの身をいい様にされて、挙句殺される未来が待ち受けているかもしれないと思うと、彩姫は全身の血が沸騰するかのような屈辱に駆られた。


 穢される。この白い肌も。薄紅色の唇も。その全てが、神戸の汚らしい手に弄ばれ、征服され、支配される。


 彩姫の肩が、凍え切った恐怖と、燃えるような憤怒に震えた。女ゆえに抱く恐怖と、女だからこそ我慢できぬ怒りが、同時に彼女の胸中で渦を巻き始めた。


 彩姫から見て左側の襖が開けられ、神戸帯刀が広間に姿を見せたのは、まさにそんな時であった。


 家臣らが一同に平服する。あの黒嶺餓悶までもが、形の上ではそうしていた。神戸は酷薄の笑みを浮かべながら、金屏風を背にして、上座にゆっくりと腰を落ち着かせた。


 彩姫だけが、頭を下げるのを拒んだ。怒りと悔しさを含ませた瞳で、じっと、父の命を簒奪した相手を見上げていた。


 そんな姫の振る舞いを、神戸は咎めようとはしなかった。それどころか、口の端が麻痺したかのように歪んでいる始末だ。悦楽と歓喜からくる歪みである。力に飢えた者が、ようやく力を手に入れた時に自然と滲み出る、愉悦の笑みとも言えるだろう。


「今日はすこぶる機嫌が良い。何故だか分かるか?」


「分かりたくもございませぬ」


 唾棄するかのような彩姫の物言いを受け、神戸は乾いた声で笑った。余裕が感じられる笑みだった。妖獣魔笛と彩姫。望んでいた二つの獲物を捕らえた今、己が天下を獲ったも同然の気分でいるに違いなかった。


「そう硬くなるな。これからこの場に客人を迎えるというに、そのような態度でいてもらっては困る」


「貴方がどこの誰に会おうと、私には関係ございませぬ」


「そうかな。顔を見ればきっと驚くぞ。そなたも良く知っている人物だ」


 言った直後、小姓に先導される形で、壮年の男が広間に現れた。岩のように大柄な男だった。禿げ上がった頭に太い眉毛、たっぷりと蓄えられた硬そうな口髭が相まって、実に厳めしい。


 だがそんな風貌をしていながら、意外にも男は、姫を見やるとほんの少しばかり顔を綻ばせた。

 神戸の左隣に誂えられた客人用の席に、どっかりと重い腰を下ろしながら。


「久しいのう彩姫殿。儂が誰だか覚えているか?」


 彩姫は、騙し討ちに遭ったかのように瞠目し、息を呑んだ。


 男の顔には当然見覚えがあったが、男が何故こんなところにいるのかが分からなかった。否、本当は分かりかけていたが、理性が徹底して拒んだ。そんなことはありえないと、心の何処かで叫んでいる自分がいた。


「中杉様……」


「おお、流石。覚えていてくれたか」


 うわ言のように呟いた彩姫に向かって、中杉宗近は目を細めて喜んだ。どうしてそんなに喜ぶのか。縋るべき相手が、どうしてこの場にいるのか。


 猛烈に嫌な予感がした。小さな胸が動悸を激しく打ち始め、心が俄かにざわめき、地響きに変わる。と同時に、歩んでいた道を照らしていた光が、急速に萎んでいくような感覚に囚われた。


「これは、どういうことですか」


 気づけば、ほとんど反射的に口を開いていた。彩姫の必死な問いかけを受けても、宗近は僅かばかりも面持ちを崩さなかった。〈越碁の豪龍〉の二つ名を背負う者らしく、堂々と姫の言葉に応じ、事実を突きつける。


「この度、中杉家は神戸殿と同盟を結ぶ運びとなった」


「そんな……!」


 彩姫の麗しい相貌が、蒼白となった。


「父上との同盟を放棄なさると申すのですか!?」


「放棄ではない。上書きだ。竹虎殿亡き今、江治前の国主は神戸殿以外におらんのだ。神戸殿と和睦を結ぶは当然の事よ」


「ですが、その男は父を殺した相手にございます!」


「そんなことは百も承知だ」


「では、何故……っ! 何故でございますか!?」


「くどいぞ彩姫殿。時勢というものが分からぬ年頃ではあるまい」


 途端、厳しい表情で宗近は姫をとがめた。


「お主の目から見れば、儂は卑怯な男に見えるかもしれぬ。だがそれは所詮、女子供の理屈だ」


 宗近の突き放すような言葉が、真冬のように、彩姫の心に冷たく凍みる。


「戦国の世に習えば、此度の同盟は当然の帰結。竹虎殿には悪いが、あやつは既に亡き者だ。冥府の人間と交わす口を、儂は持たぬ。義理立ても、もはや無用のものとなった。だが今後も、越碁は江治前と宜しくやっていきたい。故に和睦を結んだのだ」


「流石は宗近殿。まさに、龍の如き器量と言う他ございませんな」


 にやける神戸を前に、彩姫は口を噤んで俯いた。その胸中、推して測るべしと言ったところか。


 そもそも、彼女が中杉家を頼ろうとした一番の理由と言えば、中杉宗近と藤尾竹虎との盟約の固きことを信じたが故である。


 それが、蓋を開けてみればどうだ。お家再興の為に尽力してくれるはずだと期待した相手が、こともあろうに父を殺した奸臣と同盟を結んでいた。


 彩姫にとって、もはや最悪以外の何物でもない。まるで、周囲に見えない壁が君臨し、じわじわと狭まってきているような圧迫感を覚えた。


『藤尾家に危機迫った時は、よいか、越碁国を治める中杉宗近殿を頼るのだ。あの男は、信頼に値する男だ。きっと力になってくれるはずだ』


 生前、父がよくそう口にしていたことを、彩姫は思い出していた。その言葉に従い、死に物狂いで御伽岳へ逃れ、越碁国を目指した。だがそれも、全てが徒労に終わった。


 中杉宗近は、信頼に足りうる人物ではなかった。初めからそうだったのか。父の人を見る目が無かっただけなのか。


 あるいは、血も涙もない戦国の風に当てられ、義を投げ捨ててしまったがゆえの変貌なのか。できれば後者であって欲しいと、彩姫は思った。


 味方は一人もいない。本当に、ただの一人も。


 途方もない哀しみに、彩姫の心が錆びつき始める。


 最後の希望も潰えた今、事の進むままに身を任せる他なかった。


「では神戸殿。儂はここらで失礼させて頂く」


「おや、もう往かれるのか」


「姫の顔が見られれば、それで十分。しかしこのまま手ぶらで帰るのもちと侘しい。良ければ、貴君の部下に江治前の街並みを案内してはいただけぬかな」


「これは、これは」


 神戸は、かっと弾けたように笑うと、一番近くにいた家臣を呼びつけ、宗近に城下町を案内させるように伝えた。


 襖が開き、二人いる小姓のうちの一人に先導される形で、宗近は場を去った。足音が遠のき、その気配が完全に消えた頃を見計らって、神戸が襖の奥を見透かすかのように悪相を浮かべる。


「豪龍とは名ばかりよ。こちらが上手い事下手に出てみれば、あっけなく調子に乗る。こちらの戦力も測らずに、己が格上だと思い込んでいる証拠だ。愚かなことよ。時勢を読み切れず、過去の栄光にしがみ付く様ほど見苦しいものはない」


 溜まっていた澱を吐き出すと、悪逆とした表情はそのままに、神戸は彩姫へ向き直った。その小さく、だが暗き野望を湛えた黒い瞳が、爛々と輝いている。


「覚えておけよ姫。時勢を読み切った者が、天下覇道をひた走ることができるのだ」


「私の父は時勢が読めず、ゆえに敗れ去った。そう言いたいのですか」


「そうだ。お主の父はうつけもうつけ。古の神々の血筋を引くお主と、その神々が遺した偉大なる笛があるというのに、ついぞ最期の最期まで、それを使わなかった。士であるのに勇気がないことの、何よりの印であろう。強大な力に怯えているようでは二流止まり。力をどのように扱うか考えてこそ、勇気ある一流の士であろうに」


「行き過ぎた力を欲するその心。勇気とはかけ離れた、蛮勇の極み甚だしいことですね」


 彩姫は燃えるような怒りの目で睨み据えると、


「妖獣魔笛は戦の道具ではございませぬ。江治前を統治した豊降守鳴彦(とよふるのかみなりひこ)が遺した、彼の魂そのものです。神戸帯刀。貴様は神の魂を、血生臭い、争いの最中に放り込むことに、何の恐れもないのですか」


「敵わんなぁ。これだから女は、敵わん敵わん」


 大仰に顔を顰め、芝居掛った溜息を吐く神戸。


「こちらの道理がまるで通じぬとは。噂以上の頑固な姫君だ」


「私は、人としての節度について話しているのです。己が欲望を叶える為に人の道を外れた行いをするなど、決して許されぬことです」


「否。許される。私の名の下に、あらゆる征服が許される」


「詭弁を……!」


「どっちが詭弁か。八洲を手中に収めんが為には、あらゆる行為が許されるのだ。その行為の果てにどれだけの骸が転がるかも、私は自覚している。自覚していながら、飽くことなく力を振るい続けた者が、最後には栄冠を手にする。それが戦国の世だ。今はそういう時代なのだ。恨むのなら、この時代に生まれた事を恨むのだな」


 こともなげに、神戸は断定した。彩姫は絶句し、この男の心に潜む獣に、心底から怯えた。同じ人間とは思えなかった。恩を仇で返すことを当然だと言い切るその姿は、畜生道の地獄より這い出た亡者の如し。人の皮を着た鬼のように見えた。


「だいたい、道理が何だというのだ。人としての節度を守れば、幸福な生が送れるとでも?ありえぬ。そんなものは所詮、空想に過ぎぬのだ。よいか彩姫。士たるもの、力こそが全てだ。より大きな力を手に入れ、それを操れるだけの器量を持つ者こそ、天下人に相応しい。そして私には、その力を操れるだけの器量がある」


 そこまで言い切ると、神戸は懐から鉄扇を取り出し、ぱちりと甲高い音を立てた。それが合図だった。彼のすぐ近くに控えていた小姓の一人が、奥に隠していた木造りの小台を、すすと神戸の前に差し出した。


 彩姫の身に、緊張がはしった。小台の上に静置されているのは、白い笛。奪われた妖獣魔笛である。


「彩姫よ、私が正しく使ってやろう。この笛と、お主の身を、正しく私が使ってやる」


 その宣誓を耳にした途端、彩姫は慄きで身を固くした。神戸の邪悪極まる言葉が呪文のように耳にこびりつき、あるいは見えぬ触手となって、心の奥底の一番大事な部分を、無遠慮にも犯してくるかのようであった。


「しかし……なんとも美しい笛だ」


 恐怖で身を震えさす彩姫よりも、やはりここにきて神戸の興味を引いたのは、苦心の想いで手に入れた妖獣魔笛の方だった。あらゆる邪気を跳ね返すような笛の光沢具合に、感嘆の吐息を漏らす。そして、ただ見るだけでは飽き足らないのか。おもむろに小台へ手を伸ばし、彩姫の見ている目の前で、裸に晒された白き笛を手に取った。


――やめろ。


 野心に塗れた神戸の手が笛に伸びた瞬間、そう叫んでやりたかった彩姫だが、喉が震えて声が出せない。まるで、悪夢が見せる牢獄に捕らえられたかのような気分であった。


 いくら声を荒げようとも、どんなにそのか弱い力を振り絞っても、決して開けぬ世界に閉じ込められていた。今、姫の成長を幼き頃より見守っていた阿佐鞍城は、一転、姫の心を雁字搦めに捕らえる要塞と化していた。


 堪らなかった。彩姫は己の力の無さを嘆き、父と母に申し訳ないと、心からの謝罪を心中で唱えた。藤尾家を壊滅に追い込んだ邪臣に捕らえられた挙句、父祖の代から護り続けてきた家宝をあっさりと奪われてしまったという現実が、強大な重圧となって、姫の心に今まで以上の負荷を伴って伸し掛かってきた。


 立つ瀬が無かった。十三の娘。十分に生きた。本心から思う。なればこそだ。せめて己の魂を以て、この恥辱を濯げるのなら――


 気づけば彩姫は口内で、その薄く小さな前歯を舌に押し当てていた。嚙み切ってやろうというのだ。神戸に罵声を浴びせる勇気のないこの臆病な舌を噛み切れば、辛うじて呻きめいた絶叫ぐらいは出せるはずだ。その絶叫が、神戸の心に呪詛となって憑りつき、未来永劫に彼の魂を蝕むだろう。


 それこそ、今の彩姫に残されたせめてもの反撃に違いないと、他ならぬ姫自身が思い込んでいた。それをやるだけの覚悟が、この十三の少女にはあった。士の家に生まれた者としての、けじめでもある。笛を奪われた代償を自らの命で支払えるのなら、こんなに安い買い物はなかった。


 しかし、もう一方で、どうしても脳裡を過る『ある想い』があった。


「(電七郎様……)」


 私が死んだと聞いたら、電七郎様はどう思うだろう――


 巡り巡った思考の果てに、そこへ行きついた。あの逞しく、己の身を省みない、雷撃を駆使する忍士の姿を、まざまざと脳内に描いた途端だった。


 彩姫自身でも驚くくらい、ふっと、胸のつかえが霧散した。体重が軽くなったかのような感覚があった。まさに力を込めんとしていた歯を舌から離し、奥に引っ込めた。命が惜しくなった訳ではない。ただ、今は死ぬ時ではないと悟っただけだ。


「(電七郎様は、きっと助けにやってくる。敵方に見逃され、それで大人しくしているような方ではない。必ずや、私を助けにやってくる)」


 自惚れからそう思ったのではない。どうか来ないで欲しいという願いもあった。二つの相反する想いに激しく身悶えしながらも、しかし姫の心の奥底では、電七郎の出現を確信する意志の方が勝っていた。彼の生き様を何とか理解しようと努めると、どうやってもそこに辿り着いてしまうのだ。


 心に熱き使命を宿し、見ず知らずの他人の為に命を投げ出すが白鳳の忍士であるならば、彩姫の目に映り、強くその心に焼き付いている電七郎の姿は、まさに忍士そのものである。助けに来ない理由を探すことの方が、彩姫には難しかった。


 その忍士たる電七郎の揺るがぬ心構えを、無駄にする訳にはいかなかった。それに、自分がここで狂乱の果てに自死したなら、助けに来てくれた電七郎に、あの世でなんと詫びを申して良いか分からないとの想いもあった。


 それなら、自分に出来ることは、ただ『待つ』という行為のみで、それこそが、具体的な武力を持たぬ者が示せる唯一の抵抗であるに違いない。神戸にどんな非道な行いをされても、構わないと覚悟した。ただ、電七郎がこの身を助け出してくれるその時まで、耐えれば良い事だ。心を殺し、待てば良い。たったそれだけの事で良いのだと心を決めると、彩姫は俯き加減でいた顔を、ゆっくりと上げた。


「ん……?」


 彩姫の心の内など露ほども知らぬ神戸が、不意に抜けた声を漏らした。


「なにやらこの笛、獣臭いぞ」


 額に針のような皺を寄せ、神戸は更なる興味を掻き立てられたのか、笛のあちらこちらをなぞる様に弄り続けた。やがて、神戸の遠慮の無い手触りに不快感を覚えたように、笛が独りでに身を自在にくねらせ始めた。まるで笛自身が、意志を持つ生命体に変化したかのようであった。


 この異常現象を前にして、神戸も彩姫も、その場にいた家臣らも目を見張った。ただ、黒嶺餓悶だけが、視線だけは笛の方へやりつつ、その表情を幾ばくも崩していない。


「なんじゃ!?」


 気味悪さを覚え、神戸が彩姫の前に笛を放り投げた。笛は畳に落ちるより前に、いよいよその身を奇天烈に膨らませ、宙空で白煙を生じさせ、立ちどころに一匹の小動物へと化し、畳へ落ちた。


 どよめきが、家臣らの間で沸き起こった。笛に化けていた、赤く小さな目をした小動物。栗介の分身体である。栗介が分身体に仕掛けた変化の術が、神戸の手に執拗に撫でられたことで効力を強制的に解除されたのだ。


「栗介!」


 彩姫の驚きに満ちた声が広間に響く。栗介の分身体は、だが何も口にしなかった。もともと、分身体は喋ることが出来ない仕様になっていた。そして分身体自身の命も、そう長くは続かない。すぅと、まるで空間に溶け込んでいくかのように消失した。


 そこで姫も、今しがた笛に化けていたのが栗介の分身体であることを悟り、また何故、彼がそんな真似をしたかの理由を直感で理解した。全ては、悪しき将に妖獣魔笛を奪われることを防ぐための、目くらましであると。


 つまり、まだ妖獣魔笛は電七郎たちの元にある。それを知って、彩姫は僅かに胸を撫で下ろし、だがすぐに、神戸の醜悪な顔に視線を向けた。


 神戸は硬直していた。目の前で突如として起こった妖異に、頭の処理が直ぐには追いつかなかったが、やがて思い知らされた。偉大なる己が、あろうことか謀れたことを自覚した。手に入れたはずの力が紛い物であることを見せつけられて、どす黒い感情が込み上げてくるのを抑えられない。


 みるみるうちに、神戸の顔が紅潮を帯びた。鉄扇を握り潰す様に手に力を込め、肩をいからせ、胡麻のように小さな両眼を怒りで見開き、彩姫を鋭く睨みつける。


「この小娘が!」


 発作に当てられたかのように、神戸は怒声を轟かせ、鉄扇を彩姫に向かって投げつけた。姫は躱しきれず、その白く艶やかな額に鉄扇がぶつかった。額からうっすらと血が滲み、それでも姫は泣き言一つ上げず、神戸の怒りに狂った眼から、目を逸らそうとしなかった。その反抗的な態度が、ますます神戸の堪忍袋を刺激した。


「謀ったな!」


 怒りのままに立ち上がり、神戸はその足で、姫の肩を思い切り蹴とばした。声を上げて倒れた姫の小さな背中を、癇癪でも起こしたかのように、今度は執拗に踏み詰った。


「たかが女の分際で! この私を謀るとは無礼な!」


 彩姫の背を、足を、手を思い切り踏みつけ、薄く脂肪の乗った腹を力一杯に蹴り上げる。休む間も与えず、何度も何度も責める。そうして、とめどない怒りを発散させ続けた。


 彩姫は、それでも泣かなかった。どころか、呻き声一つ上げなかった。嬲られる痛みは全身に響いたが、心の何処かで、まるで他人事であるかのように神戸の横暴を見つめる自分がいた。電七郎が助けにくるまで無抵抗を貫くと決めた、彼女の強靭な意志の賜物だった。電七郎のことを想えば、父を殺した男の乱暴になど、容易に耐えることが出来た。


 周りに座する家臣たちと言えば、皆が閉口し、ただ黙って神戸の怒声を聞き、乱暴狼藉を黙認していた。中には不快感を顔に滲ませる者もいたが、この粗暴にして野心家たる男の怒りを宥めようとすれば、怒りの矛先が自分に向けられると思って、誰も何も口にしないでいる。


「ですから最初に申し上げたのです」


 しかしそこで、声を上げる者が一人。黒嶺餓悶である。神戸へ向き直らず発したその声は、独り言のようであったが、しかし驚くほどの音量で広間に響いた。


「鉄鼠族の妖獣に、注意するに越したことはないと」


「黙れ」


 呆れ声にも似た餓悶の言葉を、低い神戸の声が制した。姫を甚振るのを止めると、その憎しみに籠った眼光を餓悶に向けて、


「餓悶、貴様にも非があるのを忘れたか」


「如何な非でございましょうか」


「たわけ! まんまと向こうの手に乗せられ、紛い物の笛を本物と称して持ってきたのは、お前自身であろう!」


 神戸は餓悶の正面まで移動して腰を下ろすと、さきほどまで浮かべていた余裕たっぷりの笑みをすっかりと消し、一転して恐相を浮かべた。


「慚魔衆とは、この程度のものか。え? 敵の策略に乗せられてもなお、そうやって平然とした様でいることが当然だとでも抜かすか! え? どうなのだ! 答えよ餓悶! この失態、どうやって取り戻すつもりだ!」


 ばんばんと、畳を手の平で叩く神戸。痛みから覚めた彩姫は顔を上げ、八つ当たりにも近い罵声を上げる神戸の横顔を見た。やけに馬鹿馬鹿しく映った。


 ばんばん。また神戸が畳を叩いた。まるで子供だと、彩姫は冷めた目でそう思った。自分の欲する者が手に入らないと分かっただけで喚き散らす、出来の悪い童も同然。彩姫は、内心で嘆息をついた。自分はこんな程度の男に怯えていたのかと思うと、無性に自分自身に腹が立ってきて仕方なかった。彩姫の中で、もはや神戸帯刀に対する恐怖は薄れ、さしたる脅威でもないとの認識を持った。


 脅威は別にある。いま、神戸の怒りを一身に浴びても、なお面持ちを崩さずにいる慚魔衆の頭領。黒嶺餓悶こそが、もっとも警戒すべき人物であると、彩姫は理解した。その男だけが、あまりにもこの場において異質であり、不気味過ぎている。


「……たしか、神狩ヶ淵(かがりがふち)、でしたな」


 餓悶が口にしたのは、神戸の怒りを宥める言葉でも、自らの失態を帳消しにしようとする言い訳でもなかった。


「神狩ヶ淵。そこで奴を迎え討ちましょう」


 神狩ヶ淵。


 その何とも奇妙な響の言葉に、いの一番に反応したのは、ほかならぬ彩姫だった。


 餓悶が、うっすらと、残虐なる笑みを浮かべていた。

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