第二十二話 はじまりの朝
凄絶を極めた夜は何時の間にか白み、全てを帳消しにするように穏やかな朝日が昇る。
暖かな陽光が、電七郎の瞼をくすぐった。
あれだけのことがあったというのに、自分でも驚くほどさっぱりとした目覚めだった。熱は、完全に引いていた。
糸で繋がれた出来損ないの操り人形のように、病み上がりの体をゆっくりと起こす。まだ体の節々に若干の痛みを感じるものの、体を休めたおかげか、激痛には程遠い。
深く息を吐き、部屋に差し込む光の眩しさに目を瞬かせる。
視線を落とす。白い布団が目に入った。今度は右にゆっくりと視線を動かす。傷だらけの空は天高く、青々として澄み渡っている。まるで、昨晩の出来事が嘘であったかのように。
「お目覚めになられましたか」
声がした。左を向くと、軒猿をはじめとする〈翼〉の者達が部屋に集まっていた。安否不明だった彼らが生きていた事実に、ほっと胸を撫で下ろすのも束の間。直ぐに、悲痛な色合いが鎌首をもたげ、電七郎の精神に食い込んできた。
皆、顔や体のあちこちに包帯やら何やらを巻き付け、痛々しい姿になっていた。中には片腕を無くした者までいた。慚魔衆とどれだけの激闘を繰り広げ、結果どうなったのか。彼らの見るに堪えない姿が、如実に物語っていた。
そんな状態になりがらも、礼儀正しく座して、彼らは電七郎の目覚めを待っていたのだ。これも一重に、電七郎の持ちうる人望のおかげか。いや、それだけではないだろう。慚魔の忍達を前にして為す術なくやられていった情けなさに起因する、自責の念がそうさせたのやもしれなかった。
「ここは……旅籠か」
「はい。昨晩泊まられた部屋にございます。気を失って道で倒れていたところを、運び込ませて頂きました」
電七郎は部屋の至る所に目を向けた。畳や柱には、刀でつけられた傷が幾つも散見された。頭上を仰ぐ。天井の一部は破壊されたままで、折れた木材が露出している。その他にも部屋のあちこちに、慚魔襲撃の痕跡が残されていた。
どうか、夢であって欲しい。そんな甘ったるい幻想は、もろくも打ち砕かれた。電七郎は眉根を寄せ、苦し気に下唇を噛んだ。無理やりにでも、向き直らねばならなかった。己の迂闊さが招いた悲劇を、受け入れなければならなかった。
「電七郎様、申し訳ございませぬ」
悔しさに肩を震わせ、軒猿が深く平伏した。他の者達も、その身に受けた辛酸を隠すことなく、面を下げている。
「我らの力が及ばなかったが為に……彩姫様を……」
「軒猿……」
「申し訳ございませぬ……本当に、申し訳ございませぬっ!」
「面を上げよ、軒猿」
「ですが……!」
「……街の様子はどうなっておる」
静かに呟く電七郎。恐る恐る顔を上げて、軒猿は話し始めた。
「どこもかしこも、酷い有様でございます。ですが、街の南と東は手つかずの状態であったことが、不幸中の幸いでございました。今は街の者ら総出で、遺体の収容と瓦礫の撤去をしている最中かと」
南と東の区画が無事であるということは、黒嶺餓悶は約束通り、手を引いたという事なのだろう。目的を完遂したら、後は余計なことはしない。その憎たらしいまでの割り切り具合に、電七郎は溜息をついて、力なく項垂れた。何もかも、敵の方が上手であった。
「……そうか」
ただそれだけを吐いて、口を噤む。窓越しに鼓膜を刺激する小鳥の囀りさえ、今はうっとおしい。
鉛を飲み込んだかのように、誰も一言も発せぬまま、淡々と時が流れていく。沈鬱の中、思うところは人それぞれだろう。しかし確実に言えることは、彼らがいま戦いの場に出せる札は、たったの二枚だけしかないということだ。
彩姫と笛を強奪されてもなお、勇猛果敢に敵へ挑むべきか。それとも、涙を呑んで忸怩たる思いを抱え、大人しく事の成り行きを見守るのか。道は二つに一つだった。
当然、軒猿達には白鳳忍軍としての意地と誇りがある。敗北を喫したとは言え、体の動く限りきっと、命を賭す覚悟で阿佐鞍城へ乗り込む肚でいるに違いない。
それでは、電七郎はどうなのか。
抱え込んでいた憎しみが暴発したせいとは言え、彼は我欲に塗れて己の為だけに力を振るった。忍士の訓戒も忘れ、ただ本能のままに戦った。慚魔衆と同じ穴の貉と言われても、否定はできない。
そんな自分に、果たしてやれるのか。黒嶺餓悶を討つことなど、本当にできるのか。疑念と不安と恐怖とが、穢れのようにこびり付いて、落としたくとも落とせない。
心の天秤は、今どちらに傾こうとしているのか。
憎しみを携え、慚魔を倒すか。
あるいは、憎しみを抱えたまま隠者の如き生活を送るか。
それとも――そのどちらとも違う、新たな道に活路を見出すのか。
もはや当の本人にさえ、己の魂のありようが分からなくなってきていた。原型を留めぬ程に変異した精神の形を元に戻す術が、どうやっても見つからなかった。何度、己の内に問いかけても。それは虚しい反響となって返ってくるだけで、転がり落ちた道の先を教えてはくれない。
「……ん?」
ふと、妙な違和感を足元に覚え、電七郎は布団をめくりあげた。
〈翼〉の者達が、どよめきの声を上げる。電七郎と言えば、驚きで言葉も失う始末。
電七郎の足の親指を枕にして、そこに予想もしていなかった存在がいた。
「よ、妖獣殿!?」
「おう。ようやく儂の存在に気が付いたか」
栗介が、少し不満げな口調で応えた。その栗色の体毛が朝日を浴びて煌めき、赤く小さな瞳が、電七郎の驚き顔を真正面から捉えている。
この場を押さえつけていた沈黙が、軽い混乱に襲われた。
「な、なぜここにおるのだ!? 彩姫殿と一緒に、連れ去られたのではないのか!?」
「ん……まぁ、少々思うところがあって、姫様のお傍を離れたのじゃ。本来なら許されぬ行為であるが、今は状況が状況じゃからな……それよりも、お主らに見せたいものがある」
栗介の言葉には、どこか余裕のようなものが感じられた。彼は、その小さな四肢を動かして布団の下に潜り込むと、隠していたあるものを咥えて取り出し、畳の上に静かに置いた。
電七郎も、軒猿も、その場にいる誰もが目を見張った。
「それは、妖獣魔笛!? こ、これは一体……」
室内に、男達の困惑の声が広がる。
栗介が取り出したるは、間違いない。慚魔衆の手によって、奪われてしまったはずの代物。包んでいた布こそないが、その聖なる気配に満ちた白き笛は、正真正銘の妖獣魔笛。
あまりの事態に、電七郎は唖然とするしかなかった。
「どういうことだ。俺は確かに見たのだぞ。黒嶺餓悶が、姫様から笛を奪うところを」
「敵が奪ったのは、儂の分身体が変化したものじゃ。本物はこの通り、ここにある」
「分身……そういえば、口にしておったな。確か分身と変化、それに思念を飛ばすのが得意であると」
「襲撃を受けた際、咄嗟に分身体を生み出し、そこに変化の術をかけたのだ。みみっちい技ではあるが、よもやこんなところで役に立つとは思わなんだ」
「そうか……そうであったか」
「時間稼ぎにはなるが、しかし安心はできん。分身の術も変化の術も、どちらも持続時間は大したことはない。万が一敵に知られたら、彼奴らのことだ。血眼になって、またここにやってくるじゃろうて」
「しかし、これは思いもよらぬ行幸でございますぞ!」
軒猿が、それまでの暗い面持ちから一転。まだ縋るべき希望の光があることを知り、生傷だらけの相貌を輝かせた。
「本物の妖獣魔笛がこちらにあるのなら、これを材料に――」
「待たれよ、軒猿殿」
早口で何事かをまくし立てる軒猿を小さな手で制し、
「事を急がんとする気持ちも分からなくはないが、まずは――」
栗介の小さな瞳が、電七郎を見上げる。
「こやつの意見を聞かねばならぬ」
栗介の声音が、今まで聞いたことのない複雑性を孕んでいることに、電七郎は気が付いた。怒りと、哀しみと、不甲斐なさを咎める声。しかし、それらにも増して感じたのは、こちらの心の有様を捉えようとする響きだ。
「電七郎。お主、慚魔衆が……餓悶が憎いか」
分かりきったことを聞くものだと、内心鼻で笑う。それなのに、どうしてだろう。口が動かない。どうやっても、動かない。
「奴らを一人残らず殺してやろうと、今でも思うか」
思う。そう思っているはずなのに、声を出せない。
「ただ、憎き者を殺す為に生きるが、貴様の考える忍士の生き様なのか」
「――!」
忍士……違う!
もう自分は、忍士ではない。もう、あの頃には戻れないのだ。
厳しくも優しい兄と愛しい妻がいた、あの平穏な日々を過ごしていた時の自分は、既に死んだのだ。
だから。
だから、俺は。
「俺は……」
絞り出すように言葉を吐こうとするも、そこから先が続かない。思考が息切れを起こしていた。何かを口にしなければと足掻くほど、言葉が出なかった。見えない糸に雁字搦めに絡めとられ、心が押し留まった。
「……儂はな、電七郎。お前さんに出会うまで、忍なんぞ反吐が出る存在だと思っておったわ。好き放題に土地を荒らし、力無き人々を虐げ、喜び勇んで戦場を血に染める……最悪な奴らじゃ。気性の荒い妖獣のように、儂の瞳には映っておった」
忍の存在を悪し様に口にする栗介。だが、電七郎も軒猿達も、誰も異を唱えられなかった。栗介の先入観に囚われた考えを、誰も否定できない。そうなっても仕方がないと感じた。
今や八洲で忍と言えば、それはほとんど、慚魔衆のことを指していた。それゆえ、悪しき企みを燃やす将に仕える彼らを忍の本流と誤解する人々が現れても、何もおかしくはなかった。むしろ、当然の成り行きだった。
「じゃがな。儂のそんな凝り固まった思想を打ち砕いてくれたのは、電七郎、お主なのだぞ」
「俺が……?」
予想もしなかった言葉に、電七郎が顔を上げる。栗介は一歩、電七郎に向かって踏み出した。心を届けようとする祈りに、それは似ていた。小さな体に目一杯蓄えた信念を、全てぶつけようとする覚悟を感じた。
「お主は、姫様を助けてくれた。お主がどんな目的があって御伽岳に足を踏み入れたにせよ、それだけは変わらぬ事実だ」
つい数日前の出来事だというのに、まるで遠く懐かしい想い出に耽るかのように、栗介の小さな瞳が、ますます細められた。
「お主の素性を聞いて、儂は分からなくなった。忍とは何だ? 忍の生き様とは何なのだ? 終わらぬ問いかけだけが膨らみ続けた。その後も、お主は深手を負うほどの傷を負いながらも、姫様をお守り続けた。何がお主をそこまで駆り立てるのか……復讐心だけがそうさせるのではあるまい。儂は、そう思う」
「……では、何だというのだ?」
「訓戒じゃろうて」
「訓戒だと?」
「ああ。軒猿殿から教えてもらったのだ。忍士たるべき四つの訓戒。それが、未だにお主の心の中で息づいているからこそ、深手を負ってまで姫様をお守り続けたのではないか?」
「それは……」
何かを言いかけて澱む電七郎を後目に、栗介の言葉は終わらない。
「一つ、死に時を見誤るなかれ。一つ、悪しき将の下に集うなかれ。一つ、和を尊び、平和の伝承者たることを怠るなかれ。一つ、汝の力を汝の為に振るうなかれ……どれも素晴らしい教えだ。親が子を殺し、子が親を殺し、兄弟の間で醜い罵り合いを続け、忠義を忘れて我欲に奔走する者だらけのこの八洲にあって、かくも美しく、確固たる理念があろうとは。その理念の下に戦う者を、姫様と儂は、よく知っておる」
「それが、俺だと申すか」
「ああ、そうだ」
「そんなのは買い被りだ。俺はもう忍士には戻れぬ。餓悶を殺さなければ、俺は俺でいられなくなるのだ。どんなに慰めの言葉を受けようとも、それだけは――」
「このたわけが!」
栗介が、初めて激高した。その矮小な体つきからは想像も出来ぬ程の大声に、電七郎も、軒猿たちも押し黙るしかなかった。
「お主、まだそんな事を言うておるのか! まだそうやって、一人で背負い込むのか! いつまで己の心を痛め続ければ気が済むのだ!」
「痛めてなどおらん! 俺は、俺の望むがままに慚魔を憎み、それで……」
「それで? それでどうした? 憎しみを糧に戦った果てに、何が残った?」
「……それは」
「儂がおらなんだ、姫様どころか、笛すらも奪われておったのだ。慚魔衆を滅ぼすどころの話ではなくなっておったのだぞ!」
栗介の声が、若干震えを帯びていた。
「憎悪を燃やし続けること、これ心身消耗著しく、やがてその身を滅ぼす。たとえ復讐を果たしたとして、後に残るは虚ろの心ぞ。疲弊した魂は血を求め、やがて肉体は人でありながら人でなくなる。そうなれば、お主は妖獣よりも浅ましい只の獣に成り下がる。慚魔の忍のように。それが分からんのか」
栗介の言葉は力強く、説き伏せるだけの迫力に満ちていた。長い妖獣人生の中で、彼も色々な人間を見てきた。その中には当然、電七郎のように親しき者を殺され復讐の道をひた走る者もいた。
復讐を成し遂げた者が、その後の人生を如何に無味乾燥として送ったか。中には抜け殻のようになり、気力をすっかり搾り取られた果てた末に死に至った者もいたことを、栗介は思い出しながら叫んでいた。
「姫様のことを思い出せ電七郎! 姫様の声に耳をしっかり傾けていれば、お主が取るべき行動は、たったの一つしかないはずだ。違うか!」
彩姫の声――その時ふと、餓悶に連れ去られる寸前の彩姫の哀しみに満ちた表情が、電七郎の中で陽炎のように立ち上がった。
あの時、姫は何かを口走っていた。餓悶にいいようにやられて立ち上がることもできず、ただ無様に地を這うしかない電七郎を見て、悲痛な感情を顔に張り付けていた。その薄い桃色の唇が、確かに動いていた。
電七郎は、大事な何かを取り返そうとして目を閉じた。意識を集中させ、心の内側に入り込むように遡行する。気が遠のく寸前の情景を、どうにかして思い出そうと努力する。
紅蓮に燃える街。勝利を確信した餓悶の笑み。並ぶ慚魔の下忍。轟く業火。燻る黒煙。地獄の様を思わせる世界にあって、ただ一人の穢れなき乙女。彩姫の唇。しかと思い出す。その動きを、心で読み解く。
――申し訳ございませぬ。
「――!」
なぜだ。
なぜ謝る。
お主が謝る道理など、どこにもない。
すべては、お主にそんな科白を言わせてしまった俺の――
「俺の……責任だ……」
途方もない感情の渦に押し流されて、心が叫びをあげた。喉が強張り、息が詰まりそうだった。果てのない情けなさに体を押され、思わず拳を握り締めた。餓悶にやられた時とは、また異なる悔しさが電七郎の胸に去来していた。
彼は結局、自分の事しか考えていなかった。護衛を買って出たにも関わらず、己の心の声だけに耳を傾けていた。だから姫の必死の訴えも届かなかった。ゆえに、護るべき存在が近くにいたにも関わらず目を逸らしたのだ。一番逸らしてはいけない時に。なんたる失態であろう。咎められて、当然のはずだ。
それに何より――辛いのは彩姫の方だ。
父と母の顔も知らない電七郎とは違い、彼女には最初から、愛を注いでくれる大切な人たちがいた。その全てを、彼女は喪った。今まで当たり前だと思っていた風景が、たやすく破壊されてしまったことによる絶望は信じられない程に深く、それなのに彼女は、電七郎の前で弱気な素振りを一切見せていなかった。刻まれた忌まわしき経験。そこから滲み出る毒に、彼女は一人で、耐え続けていた。
いや、もしかしたら。
『仰ってくださったではありませんか! 俺で良ければ力になろうと、あの時、初めてお会いした時に仰ってくださったではありませんか! 最後まで……最後まで、私の傍にいてくださるのではなかったのですか!?』
ほろ苦い記憶の中で、彩姫が泣いている。
あの時に彼女が見せた表情こそ、ついに心が孤独に耐え切れず、痛みの声を上げた瞬間ではなかったのか。
それなのに、自分は遠ざけた。彩姫の言葉を。理解しようとしなかった。彼女の痛みを。
辛いのは自分だけだと、内に抱えた憎しみに寄りかかってばかりで。
「電七郎よ」
深い内省と自己嫌悪の念に囚われかけていた電七郎の耳に、栗介の静かな声が鳴り響く。
「お主が味わった痛みと後悔。その全てを、残念だが、儂は理解できん。なぜならそれは、お主自身の内から出たものだからだ。己の魂には、己自身が責任を取らねばならんだろう。自身が生み出した感情の手綱は、電七郎、お主自身にしか握れぬのだから」
「おそれながら、そこにおわす妖獣殿の仰る通りでございます。電七郎様」
栗介の言葉に乗っかる形で、つつと、軒猿が前に出た。
「どうかそれ以上、お一人で全てを抱え込むのはおやめくだされ。そんな姿、私は見とうございません」
「軒猿……」
「……今でも、夢に思い出すのでございます」
軒猿が、ほんの少し目を伏せた。
「五年前のあの日……演習中に千疋湖近くの小高い丘の上で見た、燃える安津地の城下町の姿を。紅蓮に焼かれ、朽ち果てる天守閣を」
遠く夜天を赤く照らす炎を前に、演習中だった〈翼〉の面々は硬直するばかりで、目の前で何が起こっているのか、正しく認識できる者は一人もいなかった。晴天の霹靂、どころの騒ぎではなかった。唐突に現れた悪夢が、自分達の守り続けたものを容赦なく貪り尽くしていく様を、呆けた様に眺めるしかなかった。
「全てが終わった後、駆けつけてみれば……散らばっているのは安津地の人々の躯。同胞の無残極まる遺体ばかり。殿も御頭領も殺され、街は焼かれ、それなのに無様にも我々は生き残り……」
軒猿の声に、震えが混じる。後ろに控える男達の何人かが当時の心情を思い出し、嗚咽を漏らしている。
「国をお守りする為に修練に励んでいたにも関わらず、それなのに我々は、何もできなかった……! ただただ、燃え落ちる安津地の城を、眺めていることしかできなかったのです……!」
肩を震わせ、握る拳に熱い滴が落ちる。
「どうか、どうかお願いいたします、電七郎様。この軒猿、一生の願いでございます」
覚悟を決めた顔。濡れた瞳が、電七郎に挑みかかる。
「我々に、死に場所をお与えくだされ!」
心のどこかで、電七郎は自分だけだと思っていた。
仲間たちを殺され、激情を糧に生きながらえ、今を歩いている心地がしなかった。生を実感できるのは、黒嶺餓悶に刃を突き立てる、まさにその瞬間だけだと思っていた。心を死なせ、肉体を強靭な武器と化して駆け続けなければ、自分で自分を許せなかった。そんな風に思っているのは、自分だけだと思い込んでいた。
だが、今は違う。
軒猿たちの、悲痛な願いに染まった目を見て、電七郎は自分がとんでもない誤解をしていることにようやく気が付いた。
彼らも同じなのだ。いや、彼らだけではない。この五年間、慚魔衆の爪牙に犯されていった名も知らぬ人々もどこかで、自分と同じ境遇に立たされ、怒りに苦しみ悶えているに違いない。
死に場所を求め彷徨う巡礼者。愛しき者を喪い、自分を許せぬ戦士たち。憎しみで死んだ心を無理やり動かし、己の影が仇の血に濡れていくのも厭わずに突き進む。激情だけを駆動に生きて、敢え無く死んで、しかしその果てに何があるというのか。
そこまで思考が至った刹那だった。電七郎の意識が火花を上げた。心を覆い隠す硬い殻をこじ開けんと、静穏にして膨大な熱量が飛沫を上げた。
「ならぬ」
軒猿の目を見て、きっぱりと告げる。相も変わらぬ拒絶の言葉を受け、それまで見せたこともない激しい憤怒の色を見せる軒猿。
だが、
「生きるのだ」
その一言で、軒猿をはじめ〈翼〉の者達の顔に変化の兆しが見られた。
「死に時を見誤るな。死ぬのではない。生きるのだ。慚魔の企みを打ち破ってなお、俺たちは生きなくてはならぬ。それが、亡くなった者らへの、せめてもの手向けになる」
一言一言を嚙み締めるようにして整え、電七郎は全身全霊を以て伝えた。
死に時を見誤るな。死なねばならぬ時に生き、生きる時に死ぬような真似をするな――兄が遺してくれた忍士たるべき『二字』を脳裏で反芻し、答える。
ならば兄者よ。今は、生きる時だ。そうであろう?
「俺が間違っていた。憎しみに駆られて生きるのでは、あの世にいる者らも浮かばれまい。己の中にあるただ一つの真実を信じ、生きて前を見て歩くしかない。それが今の俺たちに残された唯一の選択。生きて彩姫殿をお助けし、世の為に慚魔を打ち倒す。それしかない!」
だが、と一旦間を置く。
「向こうは相当な手練れ。俺一人では、姫様を無事に助け出せるかどうか分からぬ。だから、どうかお前たちの力を貸して欲しい」
軒猿の顔に、光が戻った。
「電七郎様!」
「何を水臭いことを!」
「もちろんでございますとも!」
昨晩の戦闘で負った傷などものともせず、男たちが喜び勇んだ。軒猿も、堪える涙をついに抑えきれず、ただただ、無言で涙を流した。嬉しさのあまりに、そうするしかなった。
解き放たれた彼らの姿に胸を打たれ、電七郎はしばらく軒猿達の姿を眺めていた。そうしてやがて、ゆっくりと栗介に向き直る。自分の捻じ曲がった心を正してくれた、この、人間らしい妖獣の瞳を見つめる。
「栗介殿」
電七郎が、初めて彼を名前で呼んだ。
「感謝してもしきれぬ。お主のおかげで目が覚めた。あやうく、忍士としての使命を放り投げるところだったわ」
「調子のいい奴じゃのぉ」
ふん、と鼻を鳴らす栗介だったが、その声色がどこか嬉しそうに電七郎の耳に聞こえたのは、きっと錯覚ではなかった。
▲▲▲
一体、これからどうなるのだろう――
阿佐鞍城本丸の大広間に通された彩姫は、正座のまま静かに待たされていた。薄紅色の鶴模様が意匠された、麗しい小袖に着替えさせられて。
彩姫の両脇に一列になって座しているのは、実父に仕えていたはずの家臣団。それも今となっては、逆賊の走狗と成り果てた十数名の敵と相成ってしまっている。
彼らの視線が、彩姫には痛かった。色々な視線があった。勝ち誇る視線もあれば、好色な雰囲気を纏う視線もあった。侮蔑の目線もあれば、特にこれといった感情を持たない視線もあった。共通しているのは、この場の誰一人として彩姫に同情の目を向けていないということだけだった。
そんな家臣団の中に、一際異彩を放つ者がいた。彩姫から見て左の列。上座から最も遠い端に、黒嶺餓悶が座していた。これから雇い主たる神戸帯刀が場に現れるというのに、正座ではなく胡坐であった。無礼極まる態度であるのは言うに及ばず。家臣団の何人かが苛立ちを込めて、餓悶を睨みつけた。礼節を弁えよと、無言で怒鳴っているような目線だった。
だが、当の餓悶はどこ吹く風という具合に、自身に向けられる悪意ある感情の全てを受け流していた。いや、吸い取っていると言って良かった。それこそ、暗黒の闇が光を飲み込んでいるかのようだった。
黒一色の忍装束に身を包む今の餓悶は、闇そのものであった。あらゆる享楽も害悪も、その全てを餓悶は取り込む。取り込んで膨れ上がる。善なる光すらも喰らい尽す迫力を、ただ無言で放ち続けている。




