第二十一話 彩姫の決断
闇に同化した黒一色の忍装束と忍風布を纏った餓悶は、瞳に憎しみの炎を燃やして地に伏す電七郎の姿を一目見ると、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「久しいな。若き忍よ」
「何故だ。貴様、なぜ……どうして俺たちがここにいることが分かった!?」
「我らの忍法を舐めて貰っては困る。我の配下に、精密な星占いの術に長けた者がおってな。そやつの力を借りて、貴様らの居場所を探り当てたまで。それにしても……」
餓悶が失笑を漏らした。
「今日まで己が命を悪戯に紡いできた結果がこれとは、笑えてくるな」
「なんだと!?」
「五年前のあの日、貴様は大人しく業火に焼かれ、死んでおくべきだった。そうすれば、こんな辛い目に遭うこともなかったろうに」
「ほざけ! どの口が言うか!」
飛び掛かろうと足腰に力を入れようとする。しかしどうしたことか。体が言う事を聞かない。まるで自身の肉体が、細胞の一つ一つが、慚魔衆の首魁を前に怯えてしまったかのようだった。
怒りと困惑の入り混じる電七郎の顔を見て、餓悶が不敵に笑った。
「先ほど貴様が受けた雷撃は、ただの雷撃にあらず。その名も、外道忍法〈縛雷衝〉。一度でも喰らったが最後。肉体を駆け巡る生体電流が狂い、己の意志で体を動かすことは不可能となる。我が独自に編み出したる、電気干渉による捕縛の術よ。もっとも効果時間はたかが知れているが、今の貴様相手にはこれで十分だ。感謝するが良い。声帯だけは自由にしてある」
「……俺を殺しに、わざわざ出向いてきたというのか」
「これは驚いた。我々の目的が何なのか、知らないお前ではあるまいて」
おどけた口調の台詞を合図に、一人の慚魔忍が誰かを引っ張りながら奥から進み出て、餓悶の隣に並び立った。
「彩姫殿!」
愕然とした。連れ出されてきたのは、慚魔忍の手によって捕らえられ、後ろ手に縛られた挙句、憔悴しきったような顔で電七郎を見下ろす彩姫であった。
「電七郎様……」
蜘蛛の糸よりも、か細く、儚い声だった。絹のようになめらかなはずの頬には、殴られたかのように煤の痕がこびりついている。服もところどころが焼け焦げていて、見るに堪えない。
いつも彼女に付き従っているはずの、栗介の姿はない。彼女の懐中に潜んでいるのか。
「どういうことだ……一体、これは……」
彼女を守る様に言いつけていたはずの軒猿達はどうなったのだ。
まさか、慚魔の下忍たちにやられたとでも言うのか。
「あぁ……」
――部屋で襲撃を受けた時に、彼女の傍を離れていなければ。
悔やんでも悔やみきれない。絶痛の如き後悔の念が、電七郎の胸中で激しく渦巻く。
無念に打ちひしがられる電七郎に、更なる追い打ちをかけるようにして、餓悶が口をひらく。
「全く以て呆れるな。姫を護衛するのが、貴様が為すべき本来の役目であったはず。それを投げ出し、ただ己の憎しみを発散するだけに奔走するとは。我欲の為に力を振るうか。浅ましい。それが仮にも、白鳳忍軍の屋台骨の一端を担っていた者のすることか」
「貴様がそれを言うか! 力に溺れ、いたずらに人々を殺しまわる貴様がっ!」
「五年前も言ったが、我ら慚魔衆は新しき時代の忍。従来の慣習に囚われるのは御免だ。我々は、我々の為に生き、我々の為に力を振るうことを、我々自身が許している。古き時代を生きる貴様とは、何もかもが違うのだ」
「戯言を……!」
「まぁ落ち着け。我はこう見えて寛大な男でな。ここで貴様を切り伏せるなど、赤子の手首を捻るよりも容易いが、まずは貴様の主たる姫の意見を聞かねばならぬ」
餓悶は彩姫へと向き直り、目線は電七郎へ向けたまま顔を近づけると、彼女の耳元で囁くようにして言った。
「彩姫殿、まずは貴方様のご返答一つ次第で、この男の命運が決まることを忠告しておきましょう」
粘つくような言い方だった。彩姫は恐怖で身が固まってしまったのか。俯いたまま、視線をせわし気に動かすぐらいのことしかできなかった。
「これは交渉でございます。もしも貴方様が我々と共に、神戸帯刀殿のおわす阿佐鞍城へ参り、妖獣魔笛を差し出すつもりであれば、我々は宿場町への攻撃を直ちに停止いたします。特別に、そこにいる愚かな忍も逃がしてやりましょう。部下の指を食い千切られたことは腹立だしいですが、仕方がございません。全ては不覚を喰らった者が悪いのですから。しかし――」
生暖かい、どこか獣臭い口臭を漂わせながら、餓悶が更に顔を近づけた。咄嗟に顔を逸らした。一刻も早く、この場から逃れたくて仕方なかった。息が詰まりそうだった。実際、ここで息を止め、死んでしまいたいという馬鹿げた想像が、何度か姫の脳裏を過った。
それほどだった。黒嶺餓悶の声を媒介にして、彼自身の無意識が放つ気力は、それほどまでに無垢を汚す。およそ人とは思えぬ暗黒と血を彷彿とさせる気の、なんたる恐怖か。
「貴方様が阿佐鞍城へはどうしても参りたくない、笛は絶対に渡さないと仰るなら、止むをえません。我々は徹底的にこの町を破壊します。人も家々も、全てを焼き払います。文字通り、灰になるまで」
餓悶が、不快極まる嘲りの笑みを浮かべた。
「それだけではございません。この、無謀にも我らに戦いを挑んだ愚かな忍にも、死を与えます。惨たらしい死を。それこそ、生きたまま目玉をくり抜き、四肢を折り砕き、臓物を引き摺り出し、肛門を犯し、思わず目を背けたくなるような姿に加工し、鳥獣の餌にしてやります。戯言ではございませぬ。さぁ――如何いたしますか? 彩姫殿」
交渉とは名ばかりで、これは一方的な脅迫であった。
敵の狙いは彩姫の身と、藤尾家の宝である妖獣魔笛であることは明白。強大な力を秘めた笛を、父の仇である神戸帯刀なんぞに差し出すなど、想像しただけで身も心も張り裂けそうだった。
だが、断ればどうなるか。
ふと、彩姫は上空を見上げた。大海の如く広がる、漆黒の夜空。悠然と漂う〈龍魚〉の姿が、嫌でも目についた。歪にでこぼこした体表面に浮かび上がる、死人達の顔までも。
彩姫も、つい先ほど〈龍魚〉が放った熱線が、無残にも街を燃やしていく様を目にしていた。家々を、人々を灰に還す悪鬼の如き光線。あの絶対的な威力を鑑みれば、宿場街を一夜にして無人の野に変えてしまうことなど、この者らにとっては朝飯前のことだろう。
何より、電七郎のことを想えば、胸が詰まりそうな程に息苦しかった。どんな事情があったにせよ、彼が自身を助けてくれたのは、疑いようのない事実。そんな大切な人が、ひとり闇の中で悶え苦しみ果てた末に殺される未来など、想像したくもない。
断じて、そんな未来を到来させてはならない。
それでも、笛を渡す訳には……
深く長い、延々と続く思考の螺旋に囚われていくかのように、ぎゅっと目を瞑る彩姫。餓悶は何も言わない。早く答えを出せと、急かしたりはしない。彩姫の心の内を、じっと見透かすような目線を送り続けるに留まっている。
「私は……」
やがて、ぽつりと呟く。目線を餓悶から電七郎へと動かし、暫く見つめた後、姫は緩慢な動作で餓悶に向き直った。彼女の瞳の奥底で、あらゆる感情がのたうち回っていた。
「参ります……阿佐鞍城へ……」
消え入りそうな声だったにも関わらず、それは不思議なほど、凛とした響きを伴って辺りに木霊した。
餓悶が喜びを噛みしめるかのように笑みを湛えるのとは反対に、電七郎はこの世の終わりを目撃したかのような、深い絶望の念を顔に張り付かせていた。
「流石は彩姫殿。そこにいる愚か者とは違い、話の分かるお方で安心いたした」
「……電七郎様を侮辱するのは、どうかお止めください」
うそぶく餓悶を、きつく睨みつける。それが今の彩姫にできる、精一杯の抵抗だった。
「これは失礼した。思わず口が滑ってしまいましてな。それでは――」
餓悶の手が無遠慮にも伸びて、彩姫の胸元に入り込んだ。彩姫が声を上げる間もなく、餓悶は目当ての物を抜き取った。固く結ばれた薄紫の布袋を、乱暴に千切って破き、中身を確認する。
「妖獣魔笛、確かに受け取りましたぞ」
白一色の縦笛が、暗黒の懐中に呑まれていく。
「貴様!」
赦されぬ横暴を目の当たりにした電七郎が、思わず声を荒げる。その直後、蓬莱の足が伸び、電七郎の顎を鋭く射抜いた。
「電七郎様!」
またもや脳を激しく揺さぶられる。混濁しかけた意識の中にあって、彩姫の悲鳴だけが胸を貫いた。
朦朧としながらも、何とか視線を動かす。彩姫の涙に濡れた顔が目に入る。震えながら、微かに動く薄い唇。何かを口にしているのか。聞かなければ。気を失ってはならない。それなのに、意識がどんどん遠のいていく。
「死に時を見誤った忍なんぞに、用などない」
餓悶は懐から黒い玉を取り出すと、それを足元へ放り投げた。地面にぶつかった拍子に、玉が炸裂。中から正体不明の黒霧が立ち昇り、餓悶達を包み込む。
やがて、霧が晴れる。
彩姫達の姿は、どこにもなかった。




