第二話 姫と妖獣
太陽が、その輝きを一層増して真南へ昇り、小鳥たちが囀りと共に編隊飛行を組んで薄々とした雲を渡っていく。
そんな長閑な匂いを放つ天空の様相とは一転し、眼下に広がる御伽岳。その山中は、奇奇怪怪な不可触の魔に満ちていた。
御伽岳とは、江治前国に数多とある山岳の一つである。その情景の美しさたるや、古来より歌詠みの題に挙げられること数知れず。木々が新緑を芽吹かせる今の時節、例年ならば山頂へと至る参道は多くの人で溢れ、賑わいを見せている頃合いだ。
だがどうしたことか。今の御伽岳は、草木も風も幽世に立たされたが如く、しんと静まりかえっている。
そんな異様な気配に包まれた山の中。一人の美姫がもつれる足を懸命に動かし、草波を掻き分けて進んでいた。
時折、背後を振り返って様子を伺うその薄茶色の瞳には、明らかに怯えの色が滲んでいる。逃げる最中に打ち掛けを失い、雪華の飛び模様があしらわれた小袖一振りという出で立ち。
草汁で汚れた袖口が、姫君が如何に切迫した状況に追いやられているかを、ありありと示している。
正化六年、弐の月。
江治前国を治める領国大名の藤尾竹虎が、重臣・神戸帯刀の手にかかったのは、ほんの数日前の事であった。
一族郎党が皆殺しに遭う中、竹虎の一人娘・彩姫は命からがら逃げ延び、僅かな手勢と共に、この御伽岳へと落ち延びた。
しかし、神戸の放つ追手の強襲を前に一人、また一人と討ち取られていく始末。ついには、彩姫を護衛する士は一人もいなくなってしまった。
護衛を失いながらも、彩姫は死に物狂いで叢を泳ぎ続けた。己が命を諦める訳にはいかなかった。体力は限界に近い。気力だけが、齢十三を迎えたばかりの少女の、細い体躯を突き動かしている。
そうして逃げ惑う中、ふと、あるものが彩姫の視界に入り込んだ。
樹齢百年はあろうかという巨木。その巨木に背中を預け、山杖を抱え込んでへたり込む無宿人と思しき男の姿がある。額に脂汗を浮かべ、荒く呼吸を吐いているのが遠目からでも確認できた。
男の周囲を取り囲むは、黒く異様な小人めいた謎の集団。見た目と雰囲気から察するに、明らかに人ではない。思わず、彩姫は足を止めた。
「いかがなされましたか? 姫様」
彩姫の懐中から、姫のものではない誰かの声がした。声の主は、もぞもぞと小袖の中を這い上がって顔を出し、ちょこんと彩姫の肩に短い両足を置く。そうして前傾の姿勢を取り、黒い小怪人の群れを見て、
「あの男、卑樽に憑かれておるようですな」
大人の掌に乗る程度の大きさのそれは、まごうことなき小動物でありながら、当然のように人語を口にした。
赤く光る小さな瞳と、全身を覆う栗色の体毛。ふさふさとした尾っぽをピンと立てるその姿は、一見して愛らしい。だが姿は愛らしくとも、その心に秘めたる熱意は鋼の如く揺らぎない。この小動物こそ、今や彩姫を護衛する、ただ一つの貴重な存在であった。
「愚かな。腹を空かせたまま山に入るから、あのような目に遭う」
小動物が口を動かさずに、哀れみと蔑みを含ませた声を発した。どうやら、発声を担う器官を喉とは別のところに持っているらしかった。
「気の毒ですが、仕方ありませんな。先を急ぎましょうぞ姫様。こうしている間にも、いつあの木々の陰から、追手が飛び出してくるか分かりませぬ」
「待つのです、栗介」
風に揺れる鈴を思わせる、清涼にしてか細い声で獣の言を制すると、彩姫は物怖じもせず、巨木へゆっくりと近づいた。
卑樽の群れはぎょろりと一つ目を動かし、にたにたと薄気味悪い笑みを浮かべ、執拗な視線を倒れ込む男へ向け続けるばかりだ。
姫が近づく気配には、蚊ほども気づいていないようであった。
彩姫はおもむろに袖口へ片手を差し込み、薄紫の布袋を取り出した。結びの紐を解いて、布袋の中からそれを取り出す。染み一つない、白に化粧された倭笛だった。その由来について知らぬ者が見ても察せるだけの、神聖な気に満ちているのは一目瞭然。
「姫様っ」
栗介の尾が、激しく左右に揺れる。
「何をなされるおつもりか」
「見ての通り、あのお方を助けるのです」
「そんなことをしている暇はございませんっ! 万が一、敵に笛の音が聞かれでもしたら……」
「栗介」
彩姫は肩に乗る小さき獣を一瞥することなく、静かに諭した。
「亡き父上は、常日頃から口にしておりました。例え己が苦窮の場に立たされようと、それが困っている人を見捨てて良い道理にはならないと。私は、父の教えに従うまで」
それだけを言って、彩姫は大事そうに笛を己の口元へと運んだ。
数日間、夜も休まずに逃げ回ったせいだろう。瑞々しかったはずの薄い唇は、薄皮が剥けてささくれ立っている。
心身共に疲れ切っているのは誰が見ても明らかだ。それでも、彼女は弱き者を見捨てておけるほど薄情な人物ではない。その慈愛に満ちた性格は、家中の誰もが知るところだった。
が、この状況においては彩姫のもう一つの側面、つまりは頑固な面が主張を強めている節がある。こうなってしまっては、姫の世話係を務める栗介をしても如何ともし難い。いくら説教をしても、考えを改めないのは分かり切っている。だから栗介は何も言わず、黙って姫の所作を見守ることに徹した。
祈るようにゆっくりと瞳を閉じ、彩姫は静かに笛を吹き始めた。聴く者の心に自然と染み込むような、例え難い温もりに満ちた調が流れる。
拍を絶妙な具合にとる姫の技量もさることながら、特筆すべきはやはり、この笛から確かに感じる膨大なる見えざる力であろう。
それは、周囲に乱立する木々の葉を密やかに揺らしては、神域にも似た清き空気感を醸し出すのに、一役も二役も買っていた。
笛の効果は直ぐに現れた。
卑樽たちの血走っていた瞳が、虚ろへ転じる。そうして終いには、花粉に誘われる羽虫が如く四方へふらふらと散り、いずこかへ去っていった。あれだけ熱烈に目の前の獲物に執着していたのが、嘘だったかのように。
「もし。旅のお方、大丈夫ですか?」
彩姫は笛を袖口に仕舞い込むと、無宿人(と思しき男の傍へ駆け寄って声をかけた。
うう、と呻き声を漏らし、男がゆっくりと瞼を開く。八洲人には珍しい夕焼け色の瞳が、姫の小顔を捉えた。
「むぅ……お主は……」
気怠げに問う男を労わろうと、姫は優しく微笑みを浮かべた。
「偶然、ここを通りかかった者です。大分気をやられているご様子。さ、これをお飲みくだされ」
彩姫は、腰に括りつけた竹造りの水筒を男の口元へ運んだ。自らの命を繋ぎとめる貴重な水を、何の躊躇もなく分け与える。
傍目からみれば情に厚い行動も、だがこの状況下では正しい行動であるとは断じ難い。すぐ傍でその様子を見守っていた栗介も、これには内心、歯痒い思いでいた。
「有り難い。恩に着る」
水筒の中身をほとんど飲み干し、男は精一杯の礼を述べた。かなりの長旅をしてきたのか。男が身に着けている柿色の袷と野袴はあちこちが泥で汚れ、肩に掛けた深緑の長羽織も幾分か傷が目立つ。
一体この男、何の目的があって、妖魔蠢く御伽岳へ足を踏み入れたというのか。
「いや、油断してしまった。江治前国は古来より妖獣に縁ある国と聞き及んではいたが、近頃は滅多に姿を見せぬと、人づてに聞いていたからな。まさか腹を空かせた隙に、卑樽に生気を吸われるとは」
「この辺りにはまだ、数は少なくとも妖獣が棲んでいますから……道中、お気をつけください。それでは、失礼いたします」
「もう行かれるのか」
「は、はい」
少々ばつの悪そうな笑みを浮かべ、姫は後ずさって一礼をした。
「先を、急いでおりますが故」
「そうか。いや、助けて頂いた礼もろくに出来ず、申し訳ない」
「いえ、お気になさらず」
礼を受け取っている暇など、今の彩姫には残されていない。それは、彼女自身が一番良く分かっていた。
肩に乗る栗介の小言を適当に聞き流しながら、姫は気丈にも険しい山中を走破していく。しかし、遠く小さくなっていくその背中から隠しようもない程の怯気が漏れているのは、男にもはっきりと感じられた。