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妖獣忍法伝INAZUMA  作者: 浦切三語
第二章 愛切斬
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第十四話 夢幻死合

 五行を駆使し、雲や嵐を自在に呼びよせるなど、想像を絶する忍法を会得せし白鳳忍軍。鴎外守直を常に勝利へと導いてきた彼らではあったが、その中の誰一人として、終始身につける事叶わなかった魔技がある。


 それ即ち、幻術である。


 在るを無いと見せ、また無きを在るとする。森羅万象の理を悉く否定し、道理を捻じ曲げて幻惑の世界に相手を捕らえる妙技。それは確かに強力なものではあったが、永劫不変たる自然の理を重んじる白鳳の流儀には、反するものだ。


 こういった、忍法世界における道義的面が理由で幻術の会得が禁止されていた一方、幻術の発動を理論的に組み上げようとする試みも、影ながら行われていた。実戦では使えぬが、現実的に可能であるかどうかを知りたいと思うは、忍士特有の探求心故であろう。


 しかし、それらの努力は全て水泡に帰した。白鳳忍軍は上忍頭たる雷牙の知恵を以てしても、簡単な目くらまし程度の幻術さえ、碌に起動できなかった。


 そもそもが、虚を実に、実を虚に変転させる幻術それ自体が、白鳳の忍が操る忍法の系譜とは、著しくかけ離れていたのである。それは裏を返せば、白鳳忍軍がついに、幻術に抗う術を持たぬままに終わったということを意味する。


 その時の名残りが今、こうして電七郎自身を窮地に陥れる事になろうとは、一体誰が予測できたであろうか。まことに、忍の世界は油断ならぬ。己が関係せざる地点で発生した因果が、複雑怪奇なしわ寄せとなって、ある日突然襲いかかってくるのだから。


「稲妻の、貴様が抱く戸惑い……ふふ、手に取るように伝わるぞ。まるで幼き童が、生まれて初めて血を流した時のような驚きぶりだな」


 血の泥濘に沈む紅蓮世界。その世界の構築者たる葵光闇が、背から忍刀を抜き、艶やかな声色で嗤った。


「私が築き上げた幻術の世界は精巧にして堅牢。如何に貴様が腕利きの忍であろうと、この世界から逃れること、決してありえぬ。貴様の命が散らない限りはな」


「姫は……姫と妖獣殿はどうした!?」


 未だに信じられぬ、という表情をしながら、電七郎の脳裏に浮かぶは、安否不明の彩姫と栗介の姿であった。たまらず吼えて問いかけると、素っ気ない返事が寄越される。


「知りたければどうすべきか。それが分からぬ貴様ではあるまいて」


 つまり、斃せば教えてやるという事か――


 仕込み刀を正眼に構え直し、二度三度、深く息を吸い、吐いた。熱い空気が肺を出入りするたび、闘いの熱が沸き起こる。反対に、頭脳は明晰さを帯び始める。


 慚魔衆の目的は、妖獣魔笛と彩姫の身柄を確保すること。それを考えれば、姫が殺されることはないと考えて良い。栗介も、こんな状況下で蛮勇を振るおうとするほど、愚かではないだろう。


 はたと、電七郎の胸に沸く思いがあった。もし、彩姫達も自分と同じ、幻世の檻に囚われたとしたら。葵光闇が言うところの、当人が抱えし忌まわしき記憶の世界に放り込まれているとしたら。


 それはきっと、間違いない。神戸帯刀の下克上により、父を殺された記憶。神戸がたぐりし謀略の糸を糧に踊り狂って市中を破壊する、慚魔衆の狼藉振りを垣間見た記憶であろう。


 何としても救わなければ――電七郎の決意が、研がれた刃の如く、鋭さを増した。


「良い顔つきになったな。それでこそ、殺し甲斐があるというもの」


 心境の変化を機敏に感じ取り、葵が仮面の奥で嗤う。すっと、彼女の細い指先が天を指した。その動作に呼応して、地面から暗黒色の瘴気が立ち昇る。


「肉蝮を屠った貴様の腕が如何程のものか。まずはこ奴らで見定めてくれようぞ」


 言って、葵が指を鳴らす。黒く悪しき気体が、人型を形成し、群れとなる。がしゃどくろの面をあてがわれた、口を持たざる処刑集団。黒幻の忍衆。手に固く握られたる刃も、また仮初。でありながら、その身から放たれる殺気は、間違いなく電七郎の肉体を叩いた。


 敵が、動く。


 獣のような唸り声と共に、一斉に踊りかかってきた。


 だが、電七郎は敢えてこれを避けなかった。死中に活路を見出さんとしたのか、旋毛風の如く襲い来る乱刃を紙一重で避け、すれ違いざまに左手一つで仕込み刀を振るった。一番手近にいた忍の一人、その毒々しい胴体を真横に断ち割る。


 刹那。手元に残る、確かな異変。仕損じるはずがない。確かに斬った。その筈なのに不思議と仕込み刀に血濡れはない。それに、叩き切った筈の相手が死ぬことなく平然としているのも、実に奇妙極まる。


 どういうことだ――奇異な出来事に絡めとられつつある思考を、感覚が全力で振り切り、次なる危機を察知した。


 頭上で、風が揺らぐ。敵の攻撃。目で確かめなくとも分かった。咄嗟に右腕を上げる。その手に握られしは、袖口に隠し持っていた鋭利な苦無。降りかかる刃を受け流し、一撃を加えんとする算段でいた。


 しかし、そうはならなかった。あろうことか、敵が振るう刃が電七郎の持つ苦無をすり抜けてきたのだ。まるで、刀身自体が透明になったかのように。


 虚を突かれる形となるも、反射的に地面を蹴り、電七郎はすんでのところで飛び退さった。右腕から血が滴っている。深手ではない。しかし、これは恐るべき事態である。


 先ほどの刹那の攻防――敵の刃は間違いなく苦無を透過し、そして実に都合の良い事に、苦無を握る右腕に傷を負わせてきた。常識的に考えて、まずあり得ぬ。幻術の世界であるからこそ、可能な技。だとしたら――


「まさか……これは……」


 電七郎の胸中がざわめき、悪寒が背筋を奔った。


「幻術とは詰まるところ、虚実を入り交ぜ、自らの戦況を極めて有利な状況へ導く術だ」


 依然として柱の上に佇立したままの葵が、小さく肩を震わせて告げてきた。


「だが、私の操る〈禍桜〉は、そんな生易しいものではない。稲妻の、分かっただろう? 貴様の攻撃は、この者らには通じぬ。だが、こ奴らの振るう刃、放つ忍具、そのどれもが貴様の肉体に傷をつける」


 まさにそれは、無敵と断じて良い忍法であった。自らが放つ攻撃だけが実体化するという絶対的優位を味わいながら、幻惑に踊らされ、なまくら以下と化した刃を振るう愚者を見下し、これを一方的に嬲り殺すのだ。世に、これほどおぞましい忍法があっただろうか。


〈禍桜〉の驚嘆すべき点は、それだけに留まらない。これは、どうやっても回避不可能な術でもあるのだ。その起点となるのが、電七郎の乾ききった心すらも射止めた、あの淡紅色の花をつけた大樹であった。


 あれこそが〈禍桜〉を発動させるための、何よりの存在。たとえ意識せずとも、誰しもがあの花弁が宿す美しさと儚さに、瞳が吸引されてしまうのだ。見まいとしても、無理やり意識の奥底に干渉してくるのだから、堪らない。


 そうして、ほんの僅かでも花弁を見たものを、脱出不可避の幻世地獄に閉じ込める。それはまるで、甘き香りで羽虫を誘い、羽を休めたところを貪り喰らう、死の植物じみて恐ろしい。


 電七郎は左手に刀を持ったまま、素早く印を結んだ。右手の五指が、俄かに蒼紫色の光を帯び始めた。群がる黒幻の忍達に向かって、それを翳す。五指から迸る雷条が、真っすぐに彼らを撃ち抜いた。


 が、それも無駄。葵光闇の言葉に偽り無し。五本の雷条はするりと彼らの体を透過し、向こうの地面に黒い穴を穿つだけに終わった。


「無駄だ。貴様が得意とする稲妻の忍法でも、どうしようもない」


 黒幻の忍集団が、じりじりと距離を詰めてくる。


「稲妻の、もはや貴様の命は風前の灯。いつ消えてもおかしくない、水辺に浮かぶ波紋の如くであることを知れっ!」


 妖風が吹き荒れ、黒が爆ぜた。凄まじい速度で間合いを詰めてくる。電七郎にできる事は限られていた。いや、たった一つしかなかったと言って良い。


 躱す。ただそれだけに集中する。馳せる刃風を、全身の筋肉を総動員して避けなければ、待ち受けているのは死だ。紅蓮に染まる市街地で繰り広げられる夢幻死合。闘争は激しく、電七郎の精神をどんどん摩耗させていく。


 肉蝮との一戦では策を練っての逃亡を実行したが、今回はそうではなかった。自らの命を生き永らえさせるためだけの、動物的思考に基づく行動だった。本当に、それしか開けている道が無かった。


 しかも、ここは幻術の世界。夜空に瞬く星々もまた幻ならば、天より稲妻の雨を降らす電七郎の最大の忍法〈雷嵐奇天〉は、封じられたことになる。自然現象を駆使する白鳳忍法にとって、まさに〈禍桜〉こそ、天敵と断じて良い忍法であった。


 崩れた民家の屋根から屋根へ飛び、塀を越えて路地から路地へと移り奔る。黒幻の忍も後を追い、あるいは並走し、あるいは行く手を遮るようにして先回りし、電七郎の動きを封じんとする。


 逃げる電七郎に向けて黒幻の忍達が浴びせるは、斬撃の渦だけではなかった。土壁を瞬時に溶かす沸振分銅鎖を投げ放つほか、真空の旋風を生み出す鎖鎌も放ってくる。これら多岐に渡る攻撃の全てを、電七郎が完全に避け切れているとは言い難かった。


 致命傷は負っていない。それでも、足にも首にも腕にも薄っすらと刃が入り込み、血滴が舞う。このままいけばどうなるか。誰の目にも明らかな不利。


 吐く息に、ほんの少し乱れが生じる。刹那を越えて六徳、六徳を越えて虚空へ至る争忍模様。生きる道が狭まる気配を感じながらも、それでも電七郎は希望を捨てず、やれるだけのことをやる。


 跳ぶ。翔ける。捻る。屈む。反る。退く。転ぶ。走る。


 とうに、相手の動きを読むという考えは捨てていた。この堅く閉ざされた限定領域での死闘においては、意識的思考が何の役にも立たないことを肌で感覚していた。本能による動作。それだけを信じるべき状況にあった。


 そのような結論に至ったところで、電七郎の無意識下で幾つもの閃きの矢が生まれた。これまでの鍛錬で積んだ技術と、死地を潜ってきた経験の発露であった。


 最も必然であり、最も適した選択を掴み取る。決然とした意志が、加速する電流となって彼の全身を巡り、瞬きと共に現状突破の為の矢時雨が起こった。


 精神という名の弓を引き絞り、立て続けに閃きの矢を放つ。どれだけ無駄になろうとも、道を切り拓く為だ。止めるわけにはいかない。そうして放てば放つだけ、自分でも恐ろしいくらいに思考が冴え、筋肉の動きが活発になっていくのを感じた。


 それは錯覚ではなく、彼の肉体に間違いなく反映されていた。動きに少しずつ、しかし明確な変化が見られた。回避精度の向上。今まで電七郎の肉体に傷をつけていた敵の刃が、徐々に薄皮一枚を削ぐ程度にしか掠らなくなる。


 そんな状態になっても――戦況の天秤が己へと有利に働きかけていることにも、電七郎の意識は向いていない。それが正しかった。忍の境地とも呼ぶべき段階へ、精神状態が達した証拠であるからだ。


 そうして、一つの煌く矢が、彼の脳裏で勢いよく放たれた。


 虚と実を入り混ぜる。それが幻術の要諦ならば、何故敵の攻撃はこちらに命中するのか。何故、こちらの攻撃は当たらないのか。


 虚像。虚ろの存在。魂が欠けた者。魂――心意だ。心意を喪失した攻撃だからこそ、敵が放つ幻の攻撃が、現実に叶うのだとしたら。


 電七郎は、成った。


 後に残ったのは空の心だった。思考を捨て去ったという訳ではない。彩姫の目の前で岩魚を素手で捕まえた時と同じ要領で、心を宙に解き放ち、意を消したのだ。


 電七郎の思考は、無意識下で網の如く張られた感覚と同一のものと化していた。それが如実に、彼自身の動きに反映される。もはや彼の中で、天と地は一つだった。


 神経細胞を流れる生体電流が、加速を積んでいく。残像を置き去りにした、肉眼では到底捉えられない体捌き。まさしく入神の域とはこのことである。


 一方的に攻撃を加えていたはずの黒幻の忍達だったが、それが気づけば、電七郎の神憑り的速度に翻弄される形となっている。


 たまらず、敵の一人が沸振分銅鎖を投げ放つ。熱気を衝いて奔るその姿、まさに獲物に噛み付かんとする鋼の蛇だ。


 しかし、恐れる必要はなかった。


 迎え撃った。仕込み刀の一振りを以て。


「何だと!?」


 赫赤とした廃都を背に、葵光闇の唖然とした声が小さく響く。


 斬閃。散る火花。軌道を逸らされた。鋼の蛇が。


 幻を斬るに留まっていた電七郎の刃は、この時、確かに息を吹き返していた。

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