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妖獣忍法伝INAZUMA  作者: 浦切三語
第二章 愛切斬
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第十三話 外道忍法〈禍桜〉

 河沿いを下り終えた後、越碁国へ至る道は大きく分けて二つある。


 一つは、御伽岳の北東部に位置する嵐岩峠(らんがんとうげ)を通って国境に出る道。もう一つが、南下して宿場街道へ入り、そこから北上して火斐国を通り抜け、越碁国の関所に向かう道だ。


 どちらを選ぶか。電七郎は大いに迷った。


 嵐岩峠は、鳥獣すら棲むのを拒むほどの急峻さを誇ることで有名な峠だ。その代わり、ここを通れば、遅くとも翌日の夕方までには越碁国へ入ることができる。これが、現状で選択可能な最短の道程だった。


 忍の人間離れした体術を以てすれば、如何に険阻な嵐岩峠であろうと越すのは問題ではない。だが、今は彩姫がいる。そうなれば、話は丸きり変わってくる。


 切り立った崖を登るのに慣れていない彼女を連れていけば、目的地へ辿り着くのも相当遅くなるはずだ。しかも、道中を慚魔衆に襲われないとも限らない。いや、あの猟犬の如き集団のことだ。まず間違いなく、山岳を舞台に死闘が始まってしまうだろう。


 巌々とした山中で、姫を庇いつつ慚魔の忍たちと渡り合う……不可能な話ではない。しかしながら、危難に満ちているのは明らかだ。こちらに甚大な損害が及ぶ可能性は否定できない。


 対して、宿場街道を通る道はよく整備されており、険しさとはまるで無縁。平坦な道のり故に視界も良好で、僅かな異変が起こっても咄嗟の対応ができる。


 なによりも野宿続きの生活で、彩姫も栗介も精神的に限界を迎えつつある。彼らの体調も考えれば道中で宿場街へ寄り、旅籠で心身を休めるべきであった。


 しかし――この道程では時間がかかる。宿場街道を通ると言えば聞こえがいいが、結局は迂回になる。越碁国へ入るのは早くとも五日。遅く見積もれば七日もかかるだろう。日数で比較すれば、余りにも差がありすぎる。


 電七郎は熟慮に徹した。ここから先、一つでも選択肢を誤れば、費やしてきた努力が全て瓦解しかねない。そうあっては決してならない。


 危険を承知で峠を越し、手早く越碁国を目指すか。


 姫の安全を優先し、時間を犠牲にして宿場街道を目指すか。


 死に時を見誤ってはならぬ――電七郎の脳裏に兄の声が甦り、


「宿場街道を通り、そこから北上して越碁国を目指そう」


 結局は、それが後押しとなった。


 彩姫と栗介に異論はなかった。もはや彼らの命は、電七郎が預かるも同然の形となっている。それは、電七郎本人も感じていた。だからこそ万が一のことがあってはならなかった。ここは慎重に徹するべきだと、忍としての本能が判断したのだ。


 未明。夜天に星の煌きが微かに残っている時間帯に、一同は穴倉を抜け出した。去り際に電七郎が目を細め、西の方角を見やった。既に、御伽岳を包んでいた火は鎮火されていた。


「急ぐぞ。何としても、今日中に宿場街道へ往かねばならん」


 その瞳に、昨晩浮かべていた痛苦と怒りの色はない。あるのは、使命に生きんとする忍のそれであった。だが決して、過去に受けた痛みが消えたわけではない。納得できぬ想いを、無理やり抑え込んでいるだけである。


 彼の一言を合図として、一行は河沿いに並ぶ水草を踏みしめ、歩き続けた。そうして太陽が真東に登るころには、ようやく平地に抜け出していた。


 山地と比べて、平地は遥かに視界が良い。それが心理的にも幾ばくか影響したのか、疲れ切った彩姫の表情に安堵の色が僅かに浮かぶ。鳥籠から解放されたばかりの小鳥のように、遠慮がちに体を伸ばした。


 緑に満ちる風の息吹が、一行を癒すように吹き抜けていく。雲一つない、晴れた青空の下。水車場に溜まる清水が、陽光を乱反射させて眩い輝きを放っている。青々とした水田は、刈時に向けて逞しくその身を生長させていた。


 畦道を往来する人の数は疎らながら、やはり宿場街が近いことが影響しているのか。行李を背負った商人や、籠を担いで急ぎ奔る飛脚などが殆どであった。その中の誰一人として、電七郎達に訝し気な目線を送る者はいない。


 電七郎の格好はいざ知らず、彩姫の着ている小袖は精巧な意匠が施された一品だ。本来なら人前に晒せば目立つことこの上ない衣服。だがそれも、逃亡生活を送る中でみすぼらしい姿に変わり果てた。


 それゆえ、今の彼らは長旅を続ける親子か兄妹、といった具合にしか映っていないのだろう。彩姫の心境はともかく、電七郎は都合が良いと思っていた。


 人の目を上手く誤魔化して煙に巻くのも、れっきとした忍法の一つ。只の旅人にしか見えぬのなら、それを利用しない手はない。このまま無事に宿場街に入れば、慚魔衆の目も多少は欺けるはずだと考えた。


「そういえば妖獣殿」


 先頭を歩く電七郎が思い出した様に声を上げた。


「なんじゃ」


 彩姫の懐中から、むくりと栗介が顔を覗かせる。


「宿場街に到着したら、お主には暫く口を噤んでいて貰いたい」


「喋るな、と申すか。中々、きついことを言うのぉ」


「理由があるのよ」


 いらぬ誤解を受ける前に、電七郎は振り返らずに早口で言葉を続けた。


「妖獣とは本来、山の奥地に棲む生き物。それが人里に降りてきたと知られれば、周囲に混乱をもたらすは必至だ」


「儂のような小さな妖獣が下りてきたぐらいで、そんな事になるかの?」


「大きさは関係ない。異が混じれば、どうしても排除しようとする者が出てくる。お主には悪いと思っているが、要らぬ騒ぎの原因になりうる可能性があるのだ。そうなると都合が悪い」


「心配し過ぎてはないか?」


「もっと恐ろしいのは」


 栗介の意見を汲み取ることなく、更に電七郎は言った。


「妖獣を連れた女と男がいる――そんな噂が出回り、慚魔衆の耳に入ることだ」


「ですが、噂は噂でございましょう? 真偽が判然としない情報を、彼らが信じるとは思えませぬ。別に、気にするほどのことでもないのでは?」


「やはり、お主らはまだまだ忍の事を知らんようだ」


 馬鹿にするような口調ではない、淡々とした言葉。それでも、姫は自身の無知さを詰られているように感じたのか、目元に不満げな色を残しながらも、仕方なく俯く。


 いつもなら、こういう場面で噛み付くはずの栗介も、昨夜の一件が影響しているのか。その小さな耳をピンと立てるだけで、何も口にしようとはしなかった。


「衆人にはただの噂に過ぎぬとも、忍にしてみれば、それは貴重な情報源になる。何故なら、彼らには噂の真偽を瞬時に見抜く術があるからだ。厄介なのは、こちらが相手を攪乱させる目的で放った嘘の噂を、逆に利用されること。例えば――」


 続きの言葉を飲み込んで、電七郎の足が不意にとまった。何事かあったのだろうか。彼の瞳が、吸い寄せられるようにして畦道の脇に向けられた。


「ほう」


 思わず感嘆の声が漏れる。緑に満ちる田園風景の中、背の高い一本の葉樹が淡紅色の花を無数に咲かせている。鮮やかな花弁と雄々しく太い幹という組み合わせが、実に調和が取れていて美しい。得も言われぬ甘やかな香りが風に乗り、電七郎の鼻腔を擽った。


 五行を重んじる忍であるからなのか。あるいは、電七郎の感受性が余人よりも豊かなのか。どこか緊張に包まれていたその相貌に、柔らかみが甦った。


「見事な花木だ。なぁ、彩姫殿」


 穏やかな声と共に、背後を振り返る電七郎。


 瞬間、彼の瞳が、驚愕と共に見開かれた。


 いなかったのだ。彩姫も、栗介も。


 一切の音も無く、忽然と姿を消していたのである。


 ついさっきまで、確かに電七郎の後ろを離れずついてきていた二人の姿が、何としたことか。どこにも見当たらないとは、一体。


 敵の忍法術か――己の迂闊さを責めるより先に、咄嗟に仕込み刀を構える電七郎。


「彩姫殿っ!? 妖獣殿っ!? 何処におられるっ!?」


 激しく波打つ心臓の鼓動。それをかなぐり捨てるかのように、電七郎はあらん限りの力を込めて叫んだ。だが呼び声も空しく、返事はない。そこで、彼はもう一つの異変に気がついた。


 消えたのは、彩姫と栗介だけではなかった。先ほどすれ違ったばかりの行商人を始めとして、畦道を往来する人々の姿が、全て電七郎の視界から消えているのだ。


 なんだ――なんだ、これは。


 明かな変事。疑うべくもない違和の起こり。その根源は慚魔衆とみて間違いない。だが、分からぬ。どういった類の忍法か。これは一体何なのだ? 今一体、目の前で何が起こっているというのだ?


 動揺を必死に隠し通そうとする電七郎。その瞳に、あるものが映り込んだ。空気の揺りかごに揺られて頭上から降ってくる、一枚の花びら。あの樹に咲いていたのと同じ、淡い紅色に染まっている。


 先ほどまでとは打って変わり、その花びらに何処か邪な気配を感じた、途端。


 ぼぅ、と花びらが独りでに発火した。


 考えるより先に、電七郎は距離を取った。猛烈に嫌な予感がした。


 花弁を燃やす炎。それは最初、小さな火種に過ぎなかった。だが、中空で花弁を燃やし尽くした炎は更に範囲を広げ、あろうことか、目の前の景色を悉く焼き尽くしていった。


 空も、畦道も、水田も、その全てが炎に塗り替えられていく。そして瞬く間に、新たなる世界が電七郎の眼前に浮かび上がってきた。


「これは……!?」


 炎に巻かれて焼き尽くされた田園風景。そこから顔を覗かせたもう一つの風景も、やはり豪炎に包まれていた――幻術である。


 紅蓮に染まる夜空。破壊された煉瓦造りの民家という民家。転がる遺体の数々。怒濤の業火に呑まれる城下町。今にも陥落の刻を迎えんとする、崩れかけの城。鼻腔に流れ込む濃い血臭。滾る火炎が頬を掠め、耳元に響き渡るは民草の断末魔。


 長閑一転。反撃の隙も与えられぬまま、電七郎は戦場の真っ只中に放り込まれてしまっていた。それも、決して忘れぬ事のできぬ戦場の中へと。


 見間違うはずもない。ここは五年前の、慚魔衆の襲撃を受けた時と全く同じ状況下の、安津地の城下町ではないか! 今まさに火柱に呑まれ落ちんとするは、餓悶と相対し破れた、安津地城の天守閣ではないか!


「やはり、宿場街道へ至る道を選んだか」


 嘲りの調子を帯びた、れっきとした女の声。我に返り、電七郎は素早く背後を振り返った。


 倒壊した民家の上。佇立する焼け焦げた柱の上に、一人の忍が悠然と立ち尽くしている。


「我が傑作の外道忍法〈禍桜(まがざくら)〉。それが映し出すは、人の心の奥底に眠る、思い出したくもない忌々しい記憶そのもの。貴様は、貴様自身が抱く心痛の世界に囚われたのよ」


 凶夢角形鍔(まがゆめかくがたつば)の忍刀。菖蒲色の忍装束に、夜風を受けてしなやかにたなびく霞色の忍風布。地獄よりの使者を思わせる夜叉の仮面を被り、その表情は伺いしれない。だが、華奢な身なりから匂い立つ姦悪に満ちし芳香が、魔に捧げられし女の心をありありと物語っている。


 手練れ――それも、肉蝮以上の使い手だ。


「まずは、姫に寄り着く虫から排除するべし」


 大仰に両腕を横に開き、謡うように女が叫ぶ。


「貴様の命、慚魔三轟忍が紅一点、この葵光闇が貰い受けるっ!」

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