第十二話 人と獣
夜風の音が、意識の外側から聞こえてきた。
浅い眠りに浸っていた電七郎の瞼が、ゆっくりと開かれる。特別な気配を感じたせいではない。自然と目が覚めた。夢のせいだろうか。もう取り戻せぬあの頃の日々がそうさせたのか。
音を立てぬように静かに体を起こし、小さく溜息をつく。水を被った薪。その傍らで遠慮がちな寝息を立てている彩姫を見つけ、電七郎はほっと胸を撫で下ろした。
あれからどれくらい眠っただろう。分からなかったが確かに残るものがあった。儚く朧げに消えようとするその懐かしき想い出を逃さぬよう、電七郎はしかと心の手で捕らえた。
お前は優しすぎる――生前に放たれた雷牙の慮るような声だけが、残渣として残った。
電七郎には、思うところがあった。
実のところ、兄は俺が忍として生を全うすることに最後まで反対していたのではないか。そんなことを、ふとした時に考えてしまう。
本人に直接問い質した訳ではない。しかし辛い境遇を歩んできた兄弟の絆は固く、時には言葉にせずとも、互いの意志が伝わる時がある。
兄は確かに憂惧していた。弟である俺の身を心の底から案じていた。争忍血風の最中に身を晒し続けるのは、自分だけで良いと思っていたのではないか。
唐突に縁談なんぞを持ち出したのが良い例だ。兄は、俺とお千を引き合わせて夫婦にし、俺の心を争いの世界から少しでも遠ざけようとしたのではないか――俺の持つ優しさとやらが、何時か俺自身の首を絞めることを良しとしなかったのではないか。
電七郎の脳裏で、答えなき推測が渦を巻く。
だが兄の真意がどうであれ、電七郎にとって揺るぎない事実が確かにある。
今の俺は忍ではあっても、忍士ではなくなった――目を背けようにも、それだけはどうやっても変わらないのだ。重苦しい現状が一つ、いつまでも彼の目の前に横たわっていた。
気分を変えよう。そう思い立ち、電七郎は穴倉の外に出た。夜眼を効かせて、遥か遠くを睨みつける。果てなく続く闇色の世界。そのある一点が、うすぼんやりと茜色に光っているのが見えた。
御伽岳だ。まだ山火事は収まっていないらしい。ほんの少しだけ心に余裕が生まれる。
〈雷嵐奇天〉は、何も肉蝮を葬り去る為だけに放った忍法ではない。御伽岳一帯を炎で包めば自ずと敵の追跡も鈍るはずだと予想したがゆえに、あのような選択を取った。そして電七郎の狙い通り、追手らしき気配は周囲のどこにもなかった。
だがそれは、悠長に時を過ごしていいという意味では決してなかった。
肉蝮現生との一戦を経て、電七郎は強く感じた。奴らの機動力を甘く見てはならないと。それに、手練れの一人を撃退したとはいえ、追われる身であることに変わりはないのだ。日が昇る前に、早く此処から立ち去る必要がある。意志を改める。
電七郎は川岸にしゃがみ込むと、淡々と流れる清流で顔を洗った。頬が、唇が、額が凍みる。冷たい。実感すれば、気持ちもまた引き締まっていく。
それは、過去と現在に明確な線引きをする儀式だった。幻の様に過ぎていった日々へ馳せる想いと、滅ぼすべき敵へ向ける憎念。白と黒。二つの異なる情を駆動させて、電七郎は今日まで生きてきたのだ。そうしなければ、生きられなかった。
二回、三回、そして四回目と顔を洗ったところで、気配を感じた。
川面に向かって独り言のようにつぶやく。
「妖獣殿か」
電七郎は手を止めて、後ろを振り返った。闇夜でも目立つ赤い目をした小動物が、岩の上にちょこんと乗っかっていた。
「どうした。お主も水を浴びに来たのか」
「いや……その……」
顔をあっちこっちへ向け、しばし押し黙る栗介。
そうして、散々焦らした後、
「済まなかった」
電七郎は最初、それが自分に向けられた言葉だと、咄嗟には理解できなかった。
「お主の事を肉壁などと言って、申し訳ない……許してくれ」
項垂れるような声だった。ずっと頑なな態度を取り続けてきた栗介が、一歩を踏み出してくれた。身分を偽っていたにも関わらず、心を開いてくれた。
電七郎にしてみれば、栗介の言葉は純粋に嬉しく、何よりも安心感をもたらしてくれた。一緒に居て欲しいと、許可を得た気分になる。
だからこそ、静かに微笑みを浮かべて応えた。気にしていないという、無言の意思表示。その微笑みを見て、栗介の尻尾が僅かに震えた。二人の間に横たわっていた溝が、少しずつ埋められていく兆しがあった。
ぽんぽんと、電七郎は自身の隣を手で叩いた。その動作が何を意味するのか、聞かずとも栗介には理解できた。
「……失礼する」
どこか遠慮がちに四肢を前へ出し、ゆっくりと電七郎の隣に座る。そうして、月夜の明りに照らされた電七郎の顔を見上げ、彼はしみじみと声を発した。
「本当に驚いたわ。お主が忍だったとは」
「何時かは話そうと思っていたのだ。だが、あんな形で身を明らかにする羽目になるとは……言い訳がましくなってしまうが、あれは考えがあっての嘘だったのだ。お主らに無用な警戒はさせたくなかったのでな」
「どういう意味じゃ」
「初めて出会ったとき、俺が己の身分を正直に明かしていたら、きっとお主も姫も警戒したはずだ。違うか?」
電七郎の言葉を受けて、栗介は少し首を傾げ、やがて頷いた。
「確かに。あの時の儂らには、忍という言葉は忌まわしき響きを持っていた。だが、今はそうでもない」
「妖獣殿……」
「お主の助けが無ければ今頃どうなっていたか分からぬ。感謝するぞ、電七郎。姫を助けてくれて、本当に感謝している」
栗介は伝えたい事を伝えきると、視線を電七郎から外して河の流れに耳を澄ませるかのように、その小さな瞳を閉じた。電七郎もまた、淡々と流れる川面をじっと見つめる。
恐ろしく、静かな風景だった。冷えた暗闇を仄かに照らす月光に、虫たちのさざめき。時折、思い出したように吹きつける夜風の香りを肺に取り込めば、不思議と気分が落ち着いてくる。
「お主に比べて、儂は無力じゃなぁ」
深い、嘆息混じりの声だった。あるいは、己の出自を恨むようにも聞こえる。どちらにせよ、それは彩姫にも聞かせた事がない、栗介の心からの声だった。
「もしも儂が人間だったら。神戸が謀反を起こして以来、ずっとそんな事ばかり考えておったわ。人間だったなら、武芸の一つでも習得することが出来るだろう。そうすれば、姫様の盾になり、全力でお守りすることも叶うはずだ」
噛み締めるような物言いだった。
「なぜ、天は我に人としての生を与えて下さらなかったのか……こんなに悔しく思ったことは、未だかつてなかった」
「己を卑下するのはよせ」
黙って話を聞いていた電七郎が、窘める様に言った。
「妖獣と言えば、人間には扱えぬ妖術の類を扱う存在ではないか。お主は、決して無力ではない」
「なにを」
自嘲するような声と共に、栗介が尻尾を一回だけ、前後に揺らした。
「鉄鼠族など、大した力も持てぬ弱き獣よ。扱える術と言えば、自らの身を分身させたり、変化させたり、遠くの相手に思念を飛ばしたりすることだけ。それにな――」
栗介は言葉を区切り、満月の浮かぶ川面をじっと見下ろした。清流に浮かぶ月に照らされる己の毛むくじゃらの顔を川面越しに眺め、つくづく思い知らされたと言わんばかりに、気持ちを吐露する。
「こんな力を持っていても、解決できぬことがある」
「何だそれは」
「姫が抱えている孤独だ。獣では、人の孤独は満たせぬのだよ。お主も知っての通り、彩姫様の父君は、神戸の手に掛かり亡くなった。また、敬愛する母君も数年前に病に罹り、既にあの世へと旅立った。今の彩姫様は、独りぼっちじゃ」
「うむ……」
「姫様は人一倍優しいお方だが、その反面、気丈な性格をしておられる。耐え忍ぶ術を知っている。たった一人、辛さを抱えて孤独の中で生きようとされておるのじゃ。儂の力では、あの方の心の傷は癒せぬ。お傍に仕える事は出来るが、しかしそれだけだ。姫様の孤独を真に分かち合うことは、儂が儂である限り永遠に叶わぬ。儂には分かるのだ。獣と人間では……絶対的な隔たりがある。それが、たまらなく悔しいのだ」
「忠義者なのだな、お主は」
目を細めて、電七郎は優しく言った。
「その心があれば、大丈夫だろう」
「気休めはよせ」
「気休めではない。お主のように、相手を深く想う心を持つ者が大勢いれば、もう少しまともな世の中になっていたのかもしれん」
「……」
「それにな、兄者が以前、口にしておったわ。忍は正しき将に仕えなければ、その力を悪しき方向へ向かわせると。俺の見る限り、彩姫殿には将の器があると思う。そんな者と巡り合えただけでも、お主は果報者だ。誇りに思え」
「姫様に将の才能が? 莫迦な。幾ら何でも――」
「言い過ぎではない。妖獣に深く慕われる者など、俺は知らない。妖獣魔笛を扱えるのも、血筋だけが原因ではないのだろう。俺にはそう思えてならん。あの者の心は実に澄んでおる。並みの器ではないのは確かだ。大した度量の持ち主だ」
「鴎外守直も、そんな人物だったのか?」
予想外な栗介の一言を受け、電七郎の瞳に動揺の色が広がった。と思いきや、彼はその長い睫毛を伏せ、意味ありげに溜息をついた。そこに幾ばくかの悲哀が混じっているのを、確かに栗介は感じ取った。
「そうだ」
僅かに視線を上げ、対岸の向こうに広がる岩の森をじっと見つめる。
「殿は真の器量人であらせられた。親に捨てられ、塵芥を啜る毎日を送っていた俺と兄者を拾い、実の息子の様に接してくれた。情に厚く、誰もが殿を慕っていた。あのお方こそ、天下人に相応しい。それも、今となっては昔の話だがな」
喋りながら、電七郎は無意識のうちに両手をきつく握りしめていた。あらゆる感情が込められた拳だった。哀しみも、そして怒りもある。それを向ける矛先をようやく見つけたことへの歓喜すらも。
「お主、復讐の旅を続けていると言っていたな。慚魔の頭領を討つために、今まで生きてきたと」
「それが、ただ一人遺された俺の役目だ。あの地で死んでいった多くの者達の手向けになるならば、この命尽き果てようと、亡念になってでも奴を殺す。元よりそのつもりだ」
「儂らを越碁国へ送り届けた後、奴らと決着をつけるつもりか」
「ああ」
「勝てるのか?」
矢継ぎ早に飛んでくる質問に、初めて電七郎は押し黙った。
勝てぬ、とは口が裂けても言えないし、言うつもりない。
だが、確証も無しに勝てると断じるは愚行であるとも分かっていた。
あの惨劇の日。燃え落ちる安津地城の天守閣における戦いでは、手も足も出せず、一方的にやられたのだ。しかも黒嶺餓悶は、白鳳忍軍随一の使い手である雷牙すらもあっさりと討ち破っている。
五年の月日を、電七郎は怨敵捜索の為に費やしてきたわけではない。日々復讐の為の鍛錬は怠らず、術の切れ味は五年前より遥かに成長している。その自信はある。
だが、今の自分の実力が、果たして兄を越え、餓悶の首元へ届かんとしているかどうかまでは分からない。それは、実際に刃を交えてみなければ判然としない。
闇の中で松明を灯すことで炎の輝きが初めて分かるように。自ら闇の中へ飛び込んでいかぬ事には、どうしようもない。
「勝てるさ」
長いこと逡巡した挙句、絞り出すようにして電七郎は宣言した。それが虚勢であることは栗介にも分かった。そうでも口にしなければやっていられないという、電七郎の激しく燃え続ける憎悪の魂、その匂いがありありと感じられた。
だからこそ、栗介は口にせずにはいられなかった。
「儂らを無事に中杉の屋敷へ匿い、妖獣魔笛を守り抜く。それ自体が既に至難の業。しかし、これを無事に果たした暁には、慚魔の忍達も歯軋りして悔しがろう。鼻の穴を明かすことになる」
「何が言いたいのだ。妖獣殿」
「それだけでは足りぬのかと、聞いておるのじゃ」
「ああ、足りぬ」
今度は、迷いなく口にできた。それだけで、電七郎の心を鉄鎖の如く縛り上げるものが何であるかが、栗介には良く分かった。
「足りぬに決まっておる」
声が、次第に熱を帯びてくる。
「奴らはこれといった大義もなく、大勢の人を殺した。殿や兄者だけではない……大勢の仲間を殺した。罪なき近巳の人々を、悪戯に殺した」
電七郎様――脳裏で木霊するは、嘗て愛を誓い合った愛しき人の微笑みであった。
生傷だらけの体が、寒中に晒されたが如く震える。しかしその内には、身を焼き切る程の熱が迸っていた。
「ならば、報いは受けなければならぬ。神仏が裁かぬというなら、俺が裁くまでだ。俺が奴らを奈落に叩き落とさず、誰がやるというのだ」
「それは、そうかもしれぬが」
「妖獣殿、なんなのだ。さっきから何が言いたい?」
「別に儂は……」
「まさかお主、俺に復讐を止めさせようとしているのか? 許す事こそ強さだなどと、知った風な口を利くのではあるまいな」
夕焼け色の瞳。そこに宿る光が激しさを増して、傍らに佇む栗介の小さな体躯へ向けられる。これには思わず、栗介も何と口にしてよいか分からなくなり、狼狽するしかなかった。
その怯えた態度を目にした途端、電七郎は、己がいま何とした態度を取ったのかにようやく気が付いた風であった。はっとして後悔の色を顔に滲ませ、
「あ、いや、これは……」
今度は、電七郎が乱脈を極める番であった。
自分でもわからなかった。あろうことか、内に抱える憎しみの炎を出会ったばかりの、それも妖獣に向けてしまうとは。自分で自分の心が、恐ろしく醜く思えてきた。
だが、今更どうしようもなかった。
黒嶺餓悶。その忌まわしき存在が、電七郎の魂の一角を図々しくも占めている。寝ても覚めても、あの者の顔が浮かぶ。業火に呑まれる都を背に、酷薄の狂相を浮かべる仇の姿が。その度に、耐えがたいほどの痛憤を覚えてしまうのを、一体誰が止められよう。
獣――電七郎の無意識下に棲む獣が、獰悪な唸り声を上げている。それは、五年という月日をかけて澱の如く溜め込まれた怨恨を食べ、飽くことなく、もっと喰わせろと哭き、途方もなく吼え続けている。
それが感じ取れたからこそ、栗介は憂慮したのだ。電七郎の身を。孤独を抱えて恨みを背負い込み、勝ちの見えぬ暗黒の戦場へ躍り出ようとする忍の末路を。
彼が今の精神状態のまま黒嶺餓悶なる男を討ち取ったところで、獣の腹は満たされるのか。満たされなかった時、彼はどうなってしまうのか。何れは、自らの魂までも供物に捧げねばならぬような事態に陥ってしまうのではなかろうか。
ふと、栗介は天を仰いだ。二人を儚げに照らしていた月が、次第に黒ずんだ雲間に隠れていく。
その様を、電七郎も惜しむように眺め続けた。夕焼け色の瞳に、苦悩の色を乗せて。




