第十一話 追憶の日々
『重要なのは、二字を理解することだ、電七郎』
口酸っぱく、兄はいつも弟に言い聞かせていた。
電七郎はその度に『はい』と口にするものの、正直なところ、兄の言葉が真に意味するところまでは、理解が及ばないでいた。
それを分かっていて問いかけるのだから、雷牙も結構、意地悪なところがある。
しかし、からかっているわけではない。
何時だって雷牙は弟に対して真剣だった。
弟と同じ夕焼け色の瞳が、無言でそれを物語っていた。
『忍士たるべき二字でございますね、兄者』
居間の下座に座る電七郎が、溌溂とした声と共に頷いた。
やや開いた障子から差し込む陽の光が、短く切り揃えられた黒髪を照らしている。
まだ幼さの残る顔立ちでありながら、電七郎の忍法と体術は、この時すでに、目を見張るものになっていた。
素早く確実に印を組む姿も、切れ味鋭い刀捌きも、しなやかな体術も、どれもが忍の一線足りうる力量に及んでいる。
実の兄である雷牙にとっても、弟の目覚ましい成長は、大層誇らしい事であったに違いない。
それでも、甘やかすことはしない。
雷牙は、いつも電七郎に厳しく稽古をつけた。可愛い弟だからこそ、己が持ちうる限りの全てを伝えたかったのだ。
電七郎もまた、兄の意を理解していたからこそ、厳しい修練に耐えてこれた。
胸にあるのは、兄に追いつきたいという想いと、平和を希求する曇り無き願い。
その二つだけで、他の事に気をやっている余裕はなかった。
雷牙にしてみれば頼もしいと思う反面、その純粋さがいつか、電七郎の心に暗い影を落とす切っ掛けになるのでは、という心配もあった。
いくら腕が立とうとも、心の間隙を突かれてはどうしようもない。
鴎外守直の下で数多の戦場に立ってきたからこそ、雷牙には、それが痛いほど沁みていた。
だからこそ、電七郎が銀色の忍装束の着用が許されて一人前と認められた今も、雷牙は弟の教導役から身を引くことはしなかった。
『忍士たるべき二字。それ即ち、生と死でございます。忍士は常に生死を意識し、その狭間に立ち続けていく生き物。それを自覚して戦場に立てば、如何な相手であろうと、最良の立ち回りを可能といたします』
『……ふむ』
上座に座る雷牙が、キセルの灰を落としながら憮然と応える。
『半分は合っている。だが、もう半分は駄目だ』
雷牙の容赦ない一言を受けて、電七郎の顔がにわかに曇った。
彼なりに頭を使って導いた回答だったが、雷牙の求める答えと、それは一致していなかった。
『忍士たるべき二字。お前の言う通り、それは確かに生と死だ。重要なのは、生きるべき時と、死ぬべき時の選択を見誤ってはならぬという事』
諭すような物言いだった。
電七郎は真剣な眼差しを兄へ向け、石のように黙り続けていた。
『生きるべき時に死を晒し、死ぬべき時に惨めに生きてはならぬ。生と死。万物流転の象徴たる唯一の理。その真たるところを深く理解していれば、これを見誤ることはない。だが、お前は……』
『私には、それが出来ぬと申されるか、兄者』
電七郎の目に悲し気な色が浮かび、その声は何処か、道に迷い母の名を呼ぶ幼子のそれに似ていた。
己に足りないもの、欠けているものを手に入れようとしている愛弟の姿勢を見て、雷牙は、ふぅと溜息をついた。
実に意味ありげな溜息であった。
『電七郎。お主の忍法、その体術。俺より四つも年下ながら、よくぞそこまで磨き上げたものだ。白鳳忍軍の中で俺の次に腕が立つのは、お前でまず間違いないだろう。兄としての贔屓目を無くしてもそう思う。だが、お前は優しすぎる。それが唯一の欠点にして、最大の弱点だ』
『…………』
『その優しさが、いつか命取りになる。ここぞという時に非情になれぬようであれば、生きるべき時に生きられぬし、死に時を失う羽目になる。俺はそれが言いたいのだ』
『そうは申しますが……』
電七郎は苦々しい表情を浮かべながらもごもごと口を動かすも、言葉が出てこない。
遠慮しているのか、それとも、頭に浮かぶ言葉を上手くまとめきれていないのか。
あるいは、その両方やもしれぬ。
もう少し、踏み込んでみる必要がある――雷牙は、ずいと体を前に預けると、挑みかかるような目で口にした。
『ところでお主、好いている女子はおらんのか?』
『は、はい?』
たじろぐ。当たり前である。予想の遥か斜め上からの質問だった。
『話の意図が見えぬのですが……』
『いいから答えよ。おるのか、おらんのか?』
『は、はぁ』
手持ち無沙汰に頭を掻きながら、電七郎はちらりと兄の表情を盗み取った。
笑って誤魔化そうとも思ったが、やめた。
雷牙の表情が真剣味を帯びており、そこにいささかの緩みもないのを感じ取ったからだ。
兄は本気だ。
しかし、何故こんな事を聞いてきたのだ?
頭の中を疑問符が巡る中、仕方なく電七郎は白状することにした。
『あ、生憎と、未だに心を奪われるような女子には、出会っておりませぬ』
『まことか』
『嘘を申し上げてどうするのですか』
『うむ……まぁ、それもそうか』
『一体、どうしたというのですか。好きな女子がおる事と、先ほどの話に何か関係があるとでも言うのですか』
『ある。好きな女子というのは、一つのあやだ』
『あや、でございますか』
『守るべき者の為なら、人は幾らでも非情になれる。たとえどんなに心根の優しい奴でも、自分にとって一番大切な者を傷つけられた時には、鬼になる。電七郎、主は鬼になるべきだ。その為にも、命に代えても守りたくなる女を見つけよ。俺の眼の黒いうちにな』
『いや、しかし兄者』
『どうした』
『そういう兄者には、守るべき女子がおるのですか? その、未だに独り身ではございませぬか』
電七郎のもっともな問いに、しかし雷牙は声を上げて笑った。
『たわけが。俺の事を気にしてどうするのだ。案ずるな。白鳳忍軍の上忍頭を何だと思っておるのだ。俺はな、大切なものがあろうとなかろうと、何時だって非情になれる。電七郎、俺はお前とは違うのだ』
『なんだか、ずるいですぞ』
『ずるくなどない。それにしても……』
雷牙は、取り逃がした魚を逃がすような目で、弟の整った顔立ちをまじまじと見やった。
『惜しいなぁ、電七郎。お主、少し朴念仁の過ぎるところがあるぞ』
『はい?』
『上様が仰っていたわ。お主の弟、女中達の間で大変な人気があって、羨ましいとな』
『それは、ただの冗談、ではございませぬか?』
『俺も最初はそう思ったが、どうも本当の事らしい。お主の話題になると、女中達の間で黄色い声がきゃんきゃん飛ぶそうだ。喜べよ我が弟よ。引く手は数多だ。こんな恵まれた状況を前にして好きな女子がおらんとは、朴訥を越えて嫌味に聞こえるぞ』
電七郎は目線を外し、天井付近を見やり、何事かを思案し始めた。
時折、その顔がだらしなく歪むこともあったが、はっと我に帰るや否や、首をぶんぶんと振り、誘惑を断ち切るようにはっきり告げた。
『なりませぬ。兄者、拙者は女の尻を追い掛け回す暇があったら、忍法の修練に時間を費やしとうございます。そっちの方が、ずっと己の為になります』
『頑固者よな』
『何とでも仰いませ。兎に角、兄者の言うところの〈忍士たるべき二字〉、しかと心に留めて置きまする。では、これで』
そう言い残して、席を立とうとした時である。
次に雷牙の発した一言は、電七郎にとってまさに寝耳に水。
晴天の霹靂も同然の一句であった。
『そう言うと思ってな、俺も考えたのだ』
『何を、でございますか?』
『お前に縁談の話を持ってきた』
『はぁっ!?』
上げかけた腰をすとんと落とし、電七郎は訳が分からないという表情で兄を見つめた。
困惑しきった弟の慌てぶりを見て、雷牙は僅かに相好を崩した。
『そんなに驚くこともないだろう。お主も、もう十五だ。そろそろ身を固める時ではないのか?』
『それを、未だに独り身の兄者が申されるか!』
『だから、俺の事は放っておけというに!』
『なりませぬ! そんな、なりませぬぞ、兄者! 縁談など、俺にはまだ早うございます!』
『こんのたわけ! うつけ! その年でまだ筆卸しも済ませておらんのだろう? 男として情けないとは思わぬのか!』
『ふ、筆卸しなど、何時だってできまする! 三十になるまでに済ませば、何の問題もございませぬ!』
『遅すぎるわ! 言うておくが、もう縁談の日取りも決めてあるのだぞ。逃げられると思うてか?』
舌鋒合戦を幾ばくかやり終えて、両者共に軽く息を整える。
雷牙は電七郎を頑固者となじったが、なかなか、当の本人も一度決めたことは梃でも動かさぬ様子。
兄弟とは言え、ここまで似るのも珍妙な事だった。
『兄者』
襟を正して、やおらに電七郎が口にした。
『兄者は、そんなに俺に非情な性格の持ち主になって欲しいのですか? 非情な性格に俺を生まれ変わらせるために、女を娶れと、そう仰るのですか?』
『無論。だが、それだけではない』
『それだけでないとすると、他にどのような理由があるというのですか』
『それは、今は関係ない』
雷牙の言葉尻が、少し鈍った。
いつも理路整然と、流れるように話を展開する彼にしては、少し意外な反応であった。
訝しむ電七郎の視線を感じつつ、『とくもかくにも』と、無理やり雷牙は話を続けた。
『いくら駄々を捏ねても無駄だぞ。さっきも言ったが、既に日取りは決めてあるのだ』
頑として動かぬ兄の態度を見て、これは流石に無理だと悟ったのか。
諦めたように項垂れ、電七郎は弱々しく問いかけた。
『それで、何時でございますか? 縁談とやらの日は』
『今日だ』
『……はい?』
『というか、もうそこに来ておるようだぞ』
くいっと、雷牙が障子の向こうへ顎をしゃくった。
自然と、電七郎の視線もそちらへ流れる。障子に薄く影が出来ていた。
遅れて、そこに人がいることを電七郎は悟った。
縁談の相手が、この薄い壁を隔てた向こう側にいる。
妙な現実感が、ざわりと電七郎の胸を炙り始めた。
どうしよう。もしかすると、さっきの言い争いを聞かれたか?
いや、そんな事関係ない。
俺は忍だ。忍なら、もっと堂々としているべきだ。
覚悟を決めよう。
あ、いやしかし……
冷静さを失いかけている電七郎を他所に、雷牙が腰を上げ、勿体ぶる様に障子をゆっくり開けた。
縁側に、二人の女が立っていた。
一人は、電七郎の知っている人物だった。
確か宮島のところへ奉公に出ている、お里とかいう年増の女だ。
その傍らに立つもう一人の女には、見覚えがない。
緊張しているのか。やや俯き加減で、こちらを見ようともしない。
『ほんに、今日はたいそうお日柄も良く、このようなめでたい日に縁談のお申込みとは、まことに行幸でございます。お招き頂きまして、有難うございます』
お里は弾んだ声で挨拶を口にすると、隣に立つ女の腰を軽く叩いた。
弾かれるように女は顔を上げ、縁側に立つ雷牙と、居間に地蔵の様に座す電七郎へ、交互に視線を向け、
『お、お初にお目にかかります』
緊張しきった声で、莫迦丁寧に頭を直角に下げた。
『縁組の相手は、この女子だ、電七郎』
兄の声にはっとして、電七郎はまじまじと女を見た。
女が、ゆっくりと面を上げる。
年の頃は、雷牙と同じ十五と言ったところか。
山吹色の小袖が、女の低い背丈をより可愛らしく映えさせている。
だが、ひときわ電七郎の目を引いたのは、
『初めまして、電七郎様。お千、と申します。今日は、その……よ、宜しくお願い致します』
陽光を浴びて綺麗に輝く、肩まで伸びた女の黒髪であった。




