二人の関係性に名前はまだない
「みぃーみぃー。みぃちゃーん」
馬鹿みたいに私を呼ぶ声を無視して、指先でカメラの枠組みを作り上げてみた。
その四角の中から外を眺めるだけで、世界が変わったような気がするんだ。
「お前さぁ、いい加減妹離れしたら?」
「みぃちゃん可愛いから。何かあったら困るだろう!!」
「お前は昭和の頑固オヤジか。しかも、みぃちゃんとか猫みたいな呼び方するなよ」
私を呼ぶ声から会話に変わっていて、その二つの声が徐々に近付いて来た。
ガサガサと草を掻き分けるような音がすぐ近くに聞こえて、私は小さなサイドバックを抱えて黄色の海へと飛び込んだ。
ふわりと香った花の香り。
それから太陽の匂いに心が洗われるような気がした。
二つの声が間近で聞こえる。
「あれ、いない……」
「お前が追いかけ回すから」
「愛情表現なの!!」
お兄ちゃんは相変わらず馬鹿だ。
昔から馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、ここまでとは思わなかった。
いや、馬鹿とは少し違うかもしれない。
シスコンなのだ。
それも重度の。
私も別にお兄ちゃんが嫌いなわけじゃない。
むしろ好きだ。
でもお兄ちゃんのは少し違う。
何だか色々違う。
私ももう高校生なんだから『みぃちゃん』とか『みぃ』とかあだ名で呼ばれるのは恥ずかしいのだ。
今日だって折角写真を撮りに行こうとしたら「俺もついて行く!」と言い出す始末。
私の荷物をひったくって、さぁさぁ、と腕を引っ張られ駅に着けばお兄ちゃんの友達がいた。
昔から家にも遊びに来ていたから、知らない人よりは全然いいのだけれど何故。
「ほら、俺は写真撮ってるから。お前は愛しの妹ちゃんを探して来い」
「おう……」
しょぼんとしたお兄ちゃんには申し訳ないけれど、趣味の写真くらい静かにさせて欲しい。
ごめんね、と心の中で手を合わせているとガサガサと音がして目の前には手。
「ほら、とっとと上がって来い」
カメラを首からぶら下げたお兄ちゃんの友達が、私に手を差し出していた。
どうやらバレていたらしい。
苦笑を返して有り難くその手を掴む。
「有難うございます」とお礼を言えば彼は小さく頷いた。
それから興味はすぐに目の前のひまわり畑に移ったらしく、早々にカメラを構えている。
キラキラした目で目の前の光景を見ていて、私よりも年上なのに子供みたいだ。
名前は、そう、香介。
湯崎 香介さんだ。
お兄ちゃんの高校時代からの友達で、私と同じで趣味はカメラ――写真を撮ること。
「そういや、お前さぁ」
写真を撮りながら香介さんが声をかけてくる。
私は香介さんの数歩後ろに立ったまま「はい?」と言葉の先を促した。
「アニキについて来て欲しくないなら、もう少しバレないように計画立てろよ」
カシャカシャ、とシャッターを切る音が聞こえる。
香介さんが教えてくれたことによると、私の部屋に出しっぱなしになっていた雑誌をお兄ちゃんが勝手に見たらしい。
その雑誌にはこのひまわり畑のことが書いてあって、是非とも行って写真を撮りたいと思っていたため、その部分に付箋を貼っていたのがアダとなったようだ。
そもそも私の部屋に勝手に入っている時点でおかしい気がするのだが。
何だ、私がおかしいのか。
部屋に鍵でもつけようかと本気で悩んでいると、香介さんが「愛されてんなぁ」と呟く。
喜ぶべきなのかすら分からない。
「香介さんはよくついて来ようと思いましたね」
仕返しの如くそう言ってやれば、香介さんはカメラを構えたままこちらを振り向く。
ファインダーを覗き込んだままだ。
「ここ、前から興味あったんだよ」
そう言ったのとほぼ同時にシャッターが切られた。
香介さんがこちらを向いているのだから、当然構えているカメラも私の方に向けられている。
「何で撮ったんですか」
「何となく」
ふてくされれば、ケロリと答えられる。
悪気のなさに悪意を感じるのは何故だろう。
ふてくされたまま、髪を掻き上げながら隣に並べば身長差が何とも言えない。
香介さんはお兄ちゃんに比べたら小さい。
でもやっぱり、私よりは大きい。
頭一つより少し小さいくらいの違いだ。
私が見上げているのにも関わらず、香介さんは写真を撮るのに夢中。
私もそういうところがあるけれど、少しは何かこうないのかな。
「……でも、お前も兄離れが必要じゃね?」
カシャッ、とシャッター音に紛れて聞こえた声に私は眉を顰めた。
そんな私に気が付かないのか、香介さんは更に言葉を続ける。
「『お兄ちゃん、プリン買ってきて』」
私の眉間にシワが刻まれる。
隣にいる香介さんの顔を見たけれど、真面目な顔でファインダーを覗き込んでいて、何を考えているのか分からない。
「『お兄ちゃん、迎えに来て』『お兄ちゃん、課題分からない』『お兄ちゃん、ご飯奢って』」
「……あっ」
聞いていて思い当たることがあった。
そのせいかサァッ、と顔から血の気の引くような感じがして香介さんが私を見る。
ニィッ、と意地の悪い笑みを浮かべていた。
「何で、知ってるんですか」
「そりゃあ、何年もアイツと付き合いがあればなぁ」
そうでしょうね。
意外と仲良しですもんね、知ってます。
口には出さないが心の中で呟いて小さく頷く。
何だかんだで二人は仲がいい。
どうせお兄ちゃんがメールを見せたか、話したかしかないのだから。
だが、そう言われると私もなかなかお兄ちゃんに甘えているところがあるらしい。
少し兄離れを考えよう。
「向こうが妹離れするかは怪しいけどな」
ケラケラ笑う香介さんに、私は舌を突き出してひまわり畑に飛び込む。
葉っぱや花びらの揺れる音がして、それと一緒になって太陽の匂いが肺いっぱいに詰まった。
いい匂い。
首にぶら下げたカメラがやっと存在意義を発揮して、その風景を切り取っていく。
この瞬間が好きだ。
一瞬一瞬を切り取るような感じ。
時間を止めてくれるような錯覚に陥る。
いつかの思い出になって形を残してくれる写真が大好きだ。
「香介さんも下りたらどうです?視点を変えて撮るのも大事ですよ」
そう言いながらサイドバックに手を突っ込んで、中に入れてある換えのレンズを取り出す。
レンズを取り替えては写真を撮る。
カシャパシャ、という乾いた音が耳によく馴染む。
香介さんは私を見下ろしたまま動こうとしない。
あまり見つめられると集中の妨げになるのだが。
仕方なく香介さんにカメラを向けて、そのぼんやりした顔を撮る。
少しだけ目を見開いて私を見る香介さんにしてやったり顔。
「なぁ、みぃちゃん」
「何ですか。というか、その呼び方止めてくださいよ」
香介さんがカメラを持って私を見る。
私もファインダーを覗きながら香介さんを見た。
「……美紅」
カメラが手から滑り落ちた。
紐は首に下げたままだから良かったけれど、首の後ろがグンッ、と引っ張られる。
痛い、絶対に赤くなった。
でもきっと、今一番赤いのは私の顔だ。
香介さんを見るとファインダーを覗き込んでいて、パシャッ、と軽快な乾いた音。
撮られた。
更に顔に熱が増す。
「うん、こっちのがいい写真撮れるわ」
無邪気な子供みたいな笑顔に絆されるなんて。