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花はだお菓子な物語

昔書いたやつを、ほんのちょっとだけ手直ししました。

 雪の残る道ばたを、一人の少女がスキップしながら歩いている。

『軽い足取り』と言いたい所だが、実際の所カバの赤ちゃんがよたっているようだ。ぽてんぽてん、と太めのももを揺らして歩を進める姿は、可愛らしくも面白い。

 少女が歩くたび、たてロールのツインテールがほよほよ揺れる。

 妖精のラッパのような香り水仙の花を手に、瀬名せな 琴音ことねはうきうき気分で家の戸を開けた。

「ただいまあ! ねぇねぇ春華はるかお姉ちゃん、見て見て、これ! 学校の帰りに、庭仕事してたおばちゃんにお花もらったの! 綺麗でしょう? 良い香りでしょう?」

 琴音はきらきらした目でまくしたて、ほらあ、と姉の鼻先に花を突き出す。輝いていた瞳を不思議そうにまたたいて、琴音は姉の顔を見つめた。

 春華の目が潤んでいる。

 そっか、お姉ちゃん感動したんだ。花を持ってきてくれるなんて、何て良い妹なの! お姉ちゃん感激しちゃったぁ、って? えへへ、あたし姉孝行?

 一人で納得して照れる琴音の目の前で、春華の形の良い鼻から思いきり鼻水が垂れた。

 あ、と固まる妹を、姉が肩を震わせて怒鳴りつける。

「捨てて来ーーーーーーいっ!!」

 ぺ、っと不燃ごみみたいに放り出されて、琴音はまたやっちゃったよ、と舌を出して頭をかいた。

 表の水道から水を出して、小さなじょうろに水を溜め、水仙を生ける。

「ごめんね、ここでがまんして?」

 冬の花に両手を合わせてあやまって、手を良く洗って家に入った。目から涙を流してティッシュで鼻をかむ姉に、苦笑いで頭を下げる。

「お姉ちゃんごめん、また忘れちゃったぁ」

 春華は、えげつないほど重度の花粉症なのだ。花粉のある花ならば、ほとんど何にでも反応してしまう。

 春華は、黙って鼻をかむ。返事をしない姉の態度にあせり、琴音は可愛い声で弁解した。

「で、でもさ、良い香りだったでしょう?」

「冗談。鼻がずびずびで、香りなんか分かんなかったわ」

 赤くなった鼻をティッシュで押さえ、春華が涙声で吐き捨てた。

「まったく、本当に毎回見事に忘れるんだから。あんたの頭、脳みその代わりにチョコクリームが詰まってるんじゃないの? このコルネ!」

「『コルネ』じゃないよう、琴音だよう!」

「何言ってんのよ、頭に二つもコルネぶら下げて」

「これは縦ロール! この頭にセットするの、大変なんだからね!」

 琴音は自分の髪に触れながら抗議する。くるくると丸まった髪型は、チョコののぞいた方を上にして、コルネを二つくっつけたようにも見える。

 ぷん、とふくれた頬をさらにふくらます妹に、春華は餌付えづけするように今日のおやつを差し出した。

 巻貝のような形のパンの中に、たっぷりとチョコクリーム。この展開を待っていたかのような、チョココルネの登場だ。

「……お姉ちゃん、ワザとやってない?」

 琴音は桜色のくちびるを尖らせつつも、やっぱりコルネに手を伸ばす。

 甘いものを食べれば妹の機嫌が直る事を、春華は良く知っている。コルネのおしりにかじり付いた琴音が、ほにゃ、っとふくれた頬を緩ませた。

 大福もちのようなぷにゃぷにゃした頬が、急に心持ち引き締まる。

「う」

 小さく呟き口元からおやつを引き離し、琴音はくちびるへ手をやった。

「どした?」

「……歯ぁ痛い」

「歯ぁ?」

 どれどれ、と妹の口に手をやり、春華が開いた口内を覗き込む。

「あー、左の奥の歯、穴開いてるわ。こりゃ歯医者だなぁ」

「えー? やだぁ!」

 琴音が大げさな声を上げ、頬を両手ではさみこむように押さえていやいやをする。

 春華は人の悪い笑顔で

「ふぅん?」

 と呟いて腕を組んだ。さらりと流れた黒髪をかき上げて、細い肩をそびやかす。

「わたしは良いわよ、あんたが甘いもん一切食べらんなくなって、普通の食事も出来なくなって、おかゆとおもゆしかすすれなくなった挙句あげくに、その歳で総入れ歯になっても構わないっていうんなら……」

「行くよ」

 うつむいた琴音が、ぽつりと小さく呟いた。春華は

「んん? 聞こえんなぁ」

 とワザとらしく耳を近づける。

「あぁもう行くよ! 行けば良いんでしょう!?」

 半ギレでわめき立てる妹の頭に、春華はぽんぽん、と軽く手を置いた。

「うむ。虫歯は早くに治すが一番」

「お姉ちゃんこそ、花粉注射してもらって、早く花粉症治せば良いのに」

 琴音が逆襲にかかると、春華はああ、だめだめ、と嫌そうに手を振った。

 花粉注射。

 ざっくり言うと、微量の花粉を注入して体を慣らし、いざ本番の花粉が襲った時に、過剰な反応を示さぬようにするものだ。

「あれ、全然だめよ。体中じんましん出来ちゃって」

 春華はぶるっと体を震わせ、肩をすくめる。

 注入された花粉のせい、と言うよりは、『にっくき花粉が入ってきた』という、春華の精神的な作用だろう。

 肉体が受け入れても、長い間花粉に痛めつけられた心は注射を受けつけず、ひどく大げさな反応を示してしまうのだ。

「わたしは良いのよ、昔からずっとこうだったんだから。問題なのはあんたの方よ。甘いもん食べらんなくなったら困るでしょ?」

 食べかけのコルネを手にとってかぶりつく春華に、琴音が恨めしそうな上目遣いでうなずいた。春華は口をもくもくさせながら、「ん」と妹に細い右手を差し伸べる。

「へ? 何、この手」

「何、じゃないわよ。虫歯治るまでお菓子は没収。おやつバッグ出しなさい」

 白い手をひらひらさせる姉の姿に、琴音は泣き出しそうに目を細める。少し迷ったそぶりをした後、すねたような顔つきで『おやつバッグ』を差し出した。

 猫のキャラクターがプリントされた、ピンクと白を基調とした小さめのバッグ。

 ファスナーが馬鹿になりそうなほどぱっつんぱっつんになっている。頬ぶくろにヒマワリの種を詰め込んだ、リスの顔みたいだ。

 春華はバッグを受け取ると、苦戦しながらファスナーを開け、中身を点検し始めた。

「フルーツ系にコーヒー、紅茶……キャンディーの種類、半端ないわね。ビスケット砕けてるわよ、あんた。うわ、冬季限定のチョコがめいっぱい。あんた本当にチョコ好きねぇ」

 呆れたように言いながら、春華がチョコを何となしに口に入れる。

「うわ、甘っ」と呟いて、飲みかけの紅茶で咽喉を潤した。空いた左手は、まだバッグの中をあさっている。

「あぁグミとかガムの数もすごい。ガムなんかキシリトール系のも多いのに、虫歯かあ……まあこんだけの甘物、常時口に入れてれば無理もないかなぁ」

 居心地悪そうに身を縮めていた琴音が、こわごわ口を開く。

「お姉ちゃん、それ、どうするの?」

「ん? そうねえ、わたしは甘いものそんな好きじゃないし。誰かにあげるか、思い切って全部捨てるかねぇ」

「捨てるの!? もったいないよぉ!」

 琴音が可愛い声を張り上げる。

 肩を跳ね上げた春華が、

「じゃあどうしろって言うのよ」

 と言葉を出し終える前に、がちゃり、と玄関のドアが開いた。

 迷彩服に身を固めた、三十代前半の見た目の女性が、がんがん中へ入ってくる。

「ただいまぁ! おぅ久しぶり、春華に琴音! 仲良くしてる? いやぁ忘れ物しちゃってさあ、あわてて戻って来たよ、あぁ疲れたぁ」

 見た目は三十代だが、しゃべりの勢いは大阪のおばちゃんを思わせる。年齢不詳の女性は、ふとテーブルの上のお菓子バッグに目を落とした。

「お? 何これ、良いもん持ってんじゃん。もーらいっ」

 女性はテーブルに散らばった甘物をお菓子バッグへ無理やり詰め込み、みちみちのバッグを片手に

「じゃあね、来月頃には戻って来るから!」

 と言い残して出て行った。

「おぉ、いけないまた忘れるとこだった」

 と玄関のドアから顔を出し、何故か靴墨くつずみを片手に去って行く。

 女性を見送った姉妹は、呆然と玄関に立ち尽くした。

「相変わらず若いねえ、お母さん」

「……何の仕事してるんだっけ?」

 妹の呟きに、春華が首をひねる。

「大学教授、とか言ってたような……」

「自然保護観察員、とか聞いた事がある」

「あれ? たしか前、『あたしは女を仕事にしても、まだまだやっていけるのよぉ』って笑いながら言ってたけど」

 結局良く分からない。

 早くに夫を亡くし、女手一つで娘二人を伸び伸び育てているのだから、なかなかの収入があるのだろうけど。

「……まあ、あの人なら何でも出来そうな気がするけどね」

 見切りをつけたように軽く首を振り、春華が

「紅茶飲む?」

 と促した。琴音は大きくうなずいた後に考えこみ、

「ミルクあり、砂糖なしでお願いします」

 と頭を下げる。

 春華は満足そうに腕を組んでうなずいた。

「うむ、良し。虫歯治るまでは、その調子で行きなさい」

 春華はテディベア柄のマグカップに紅茶をそそぎ、ミルクをついだ。カップを受け取った琴音が、そっと紅茶に口をつける。

 甘い紅茶に慣れた舌には、ひどく素っ気ない味だった。


 翌週の火曜日の午後四時頃。琴音は近所の「佐々木歯科」を訪れた。電話を入れたのは一週間前だったのだが、予約がいっぱいだったので次の週に回されたのだ。

 一週間も経つと、けっこう歯が痛い。甘いものどころか、普通に食事をしていても何となく違和感がある。

 下手にしゃべると口の左側ががちがちして、ちょっときつく噛み合わせる度に小さく痛む。

(これはもう、治してもらわなしゃーないなぁ……)

 何故か関西弁で思いながら、琴音は待合室で順番を待っていた。治療室の奥から、虫歯を削る末期的な音がひっきりなしに聞こえるので、自然と憂鬱ゆううつになる。

 限りなく痛そうなこの音は、何とかならんのだろうか。

 まあ、実際痛くなきゃ良いんだけどさ。

 軽く考えて治療室に入った琴音は、自分の見通しが甘かった事を知った。

「あ、虫歯ですね。治療も行いますが、とにかく歯石しせきが多いので、まず歯石を除去します」

 歯石が歯垢しこうの固まったやつ、という知識はあったので、琴音はひとまず息をついた。ああ、それなら多分そんなに痛くはないだろう、と。

 痛くないどころではなかった。

 歯石に当てる水の勢いがハンパなく強い。一ダースの小人たちが消火用ホースを束ねて、必死で大火事の消火にあたっているようだ。

 かなり痛い。『限りなく痛そうな音』の五割増しぐらい痛い。

 でもまあ歯石の除去だし、まさか血は出ないだろう。

 顔をしかめながら耐えきった琴音は、看護婦に促され、手元の水でうがいをした。

 ぐちゅぐちゅ、とうがいをした琴音が水を吐き出すと、恐ろしいくらい鮮やかに赤く染まった液体が流れ出た。

(く、クリムゾンリバー!)

 何故か英語で嘆いた琴音は、もうここには来るまい、と固く誓った。

 もうやだここ。結局虫歯の治療はしてくんないし。もっと痛くないとこ探そう。

 内心でぼやきながら部屋を出る。ふと目を上げると、診察室の椅子に腰かけた、同い年くらいの少年と目が合った。

 薄っすらと青味を帯びた黒い髪。細い髪束の透き間から、黒目がちの切れ長の目が、琴音をにらむように見据えている。

 左の目のふちに、小さな泣き黒子ぼくろがあった。

 うわ、綺麗な男の子……。

 思わず吐息する琴音の腕を、少年が乱暴に引き寄せた。「ひゃっ」と声を上げた琴音を見つめ、少年が高飛車に問いかける。

「お前、ここ初めてか?」

 気を呑まれ、黙ってうなずく琴音の顔を、少年がぶしつけに眺め回した。

「ふぅん。菓子とか好きだろ」

「あ……はい。チョコレートとか……」

「チョコぉ!?」

 大きな声で復唱され、琴音の肩が跳ね上がる。少年は呆れたように息をつき、さとす口調でこう言った。

「お前なぁ、チョコなんか砂糖の固まりだぞ? めっちゃ苦いだろ、カカオって」

「……うん」

「お前、カカオ九十九パーセントのチョコって、食った事あるか?」

 琴音がこくりと首を折り

「すごく苦かった」

 と付け足すと、少年は

「そうだろ」

 と深くうなずいた。つながれたままの右手が、何だかこそばゆい。

「あのくそ苦いのがあんだけ甘くなるって事は、死ぬほど砂糖やら甘味料やらが入ってる、って事なんだからな」

「……うん」

 琴音が素直にうなずくと、少年は、ぐっと琴音の顔にくちびるを寄せ、耳元でささやいた。

「ごめん、ウチの親父ドSだからさ。腕は良いと思うんだけど。また痛い目遭いたくなかったら、治療終わっても、甘いもんあんま食うなよな?」

 え? 親父? って事は、つまり……。

 琴音の思考を後押しするように、治療室から声が響いた。

「おい満流みつるぅ、あんま騒ぐなよぉ」

「わーってるよ、親父!」

 満流、と呼ばれた少年はうるさそうに声を張り上げ、さっと立ち上がる。

『関係者以外立ち入り禁止』の札のかかったドアに手をかけ、振り向きざまに八重歯をむき出してに、っと微笑い、部屋の奥に消えた。

 少年の後ろ姿を見送った琴音は、受付けの看護婦に問いかけた。

「あの、今の男の子、お医者さんの息子さんですか?」

「そうよ、満流君て言うの。佐々木院長の息子さん。良くああして、待合室でぶらぶらしてるわ」

 琴音は看護婦の答えを聞いて、内心で、ぐっとこぶしを固めた。

 前言撤回。あの子が居るんなら、毎日でも通うぞぉ!

 思ったとたん、耳を不快な金属音がつんざいて、琴音は急に弱気になった。

 だぁあやっぱり痛いのは嫌だぁあ、どうしようーっ!

 ああそうだ、お姉ちゃん! 困った時には春華お姉ちゃんに相談だ!

 琴音は一人で悩み一人で納得し、会計と予約を済ませると、走り出すような勢いで出て行った。

 百面相を披露して去って行くぽっちゃり娘の後ろ姿を、若い看護婦が口を開けて見送った。


 琴音が家で姉の帰りを待っている頃、春華は一人冬の道を歩いていた。

 無骨なサングラスにがっちりした帽子ぼうし、男物の分厚いコートに、医療用のマスク。

 このままの格好で銀行に飛び込めば、強盗と間違えられて通報されそうだ。過敏な体を花粉からまもるには、この重装備が必要不可欠なのである。

 たまには女の子らしくおしゃれもしてみたいが、まあしょうがない。いくらメイクを決めてワンピースなど着てみても、涙目鼻水ずびずび顔ではサマにならないし。

 春華は、帽子の中に巻き込んだ長い黒髪に手をやって、大学バッグを背負い直した。

 行く手に庭仕事をしているおばさんを見つけ、進路を変える。あのおばさんは、やたら人に庭の花をあげたがる。琴音が毎日のように花を持って来るのも、おばさんのせいだ。

 冬の土を割るように、淡い色合いの水仙が咲いている。春華は横道にそれながら、水仙を流し見て、さも嫌そうに目を歪めた。

「水仙は、嫌い」

 ぽつりと呟いて、サングラスをかけ直す。

 どういう訳か、春華は水仙の花粉が一番苦手だ。水仙を目の前に出されると、香りも分からない位、大量の涙と鼻水があふれ出す。

 横道にそれた先は、あまり見慣れない通りだった。

 なじみがないといえば、春華はどこの道にもあまりなじみがない。いつも花粉を気にして、下を向いてざくざく歩いて過ぎるから、琴音のようにどこどこの人と親しくなる、という経験は皆無に近い。

 見慣れぬ通りを無関心に歩いて過ぎる内、山茶花さざんかの咲いている垣根に出くわした。急に鼻水が出てきた。

 春華は慣れた手つきでポケットティッシュを取り出した。が、ティッシュはほとんど空だった。

「ああ、ヤバい! ……なんてね」

 この位のハプニングには、花粉症女かふんしょうじょは慣れている。春華がバックの中の箱ティッシュを取り出そうとした時、とんとん、と軽く肩を叩かれた。

「はい」

 声変わり前の少年のような通る声音で、見知らぬ青年がポケットティッシュを差し出した。

 見上げた春華は、思わず見とれた。

 ゆるくウェーブした長い髪。小鹿のそれのように、大きく潤みがちの瞳。

 厚手のセーターにジーンズ、というラフな格好をのぞけば、絵本の中に出てくる王子様さながらの容姿だった。

 春華は鼻声になるのが嫌で、黙っておじぎした。心持ちそっぽを向いてマスクを外し、鼻をかむ。威勢良く音を立ててかみたかったが、青年が居るのでそうもいかない。

 三回くらい続けざまにティッシュを使い、

「ありがとうございました」

 とお礼を言ってティッシュを返す。青年は微笑って

「良いですよ、差し上げます」

 と柔らかく断った。

「風邪ですか? お体に気をつけて下さいね」

 よっぽど人の良い性質たちなのだろう、青年はおっとりと微笑むと、ゆったりした足取りで去って行く。

 その後をついふらふらとつけていった春華は、涙をぬぐいながら青年を遠巻きに見つめた。

「……すっごい綺麗……それに優しいし」

 思わず呟いた春華が、潤んだ瞳で青年を眺める。

 こう例えるのは悔しいけれど、何だか花を背負っているみたいだ。薔薇バラみたいな、牡丹ぼたんみたいな、美しい大輪の花。何だか目に浮かぶよう。

 ……あれ? 本当に何だか、背後バックに花が見える?

 サングラスを外した春華が、ふいに目線を上げて言葉を失った。

『花屋・杉原すぎはら』というファンシーな字体の看板が、大写しで目に入る。

 青年は花屋のエプロンをつけ、店にやってきた老婆に

「いらっしゃいませ」

 とにこやかに挨拶をした。

けいちゃん、いつもご苦労さま。お父さん具合はどうだい?」

「はい、もう大分良くなりました。じきに店に出られると思います」

 老婆と青年の会話を聞く内に、大体の事情が掴めてきた。

 青年の名前は、杉原すぎはら けい。この花屋の息子らしい。父親である店主が過労で倒れ、蛍青年は家族タッグで店を切り盛りしているらしい。

 今の人数でやっていくのはキツいのだろう、店の外壁に『バイト急募』の張り紙がしてあった。

 あぁ、何かめちゃくちゃ良い息子!

 話に打たれた春華は、思わず花屋に突進していってしまった。進むたび涙と鼻水が出てくるが、構ってはいられない。

 青年が春華に気付いてにっこり笑い、

「何をお探しで?」

 と声をかけてくる。

 春華は鼻をすすり上げながら、やっとの思いでこう答えた。

「い、一番花粉の少ない花を!」

『花かんざし』という小さな鉢植えをすすめられた春華は、それを買い求めた。自分で花を買うなんて、生まれて初めてかもしれない。

 出来るだけ鉢を遠ざけ、半ば掲げるようにして花を持ち帰る。花かんざしを手に家に入った春華に、琴音が涙声を上げてタックルをかましてきた。

「うわぁああん、お姉ちゃんぅううーっ!!」

「ちょっ、何すんの、危ないじゃない!」

 とっさに花をかばった春華の腰に、琴音がしがみついて訴える。

「あのねお姉ちゃん、歯医者さんめちゃくちゃに痛くてね、その上歯石しか取ってくれなくてね、もう来るの止めようかと思ったらとっても綺麗な男の子がいて、その子が院長の息子さんだったのぉ! どうしようどうしたら良い?」

 一気に言葉を吐き出した妹の頭に左手を添えて、春華が息をつく。

「……なるほど。要するに医者の息子に惚れたのか」

 一言で要約する姉の右手を見上げ、琴音が目を輝かせた。

「わあ綺麗なお花! それどうしたの、お姉ちゃん?」

「『花かんざし』だって。花屋で買ったのよ」

 鼻をぐずつかせながら答える姉の手から鉢を受け取り、琴音が

「あれ?」

 と首をかしげた。

「でもお姉ちゃん、花粉症じゃ……」

 春華はティッシュを取り出し、音を立てて鼻をかむ。丸めたティッシュを片手に、嬉しそうな、情けなさそうな、微妙な声音で呟いた。

「わたしも恋したの。花屋の息子にね」

 琴音が花かんざしを手にしたままで固まった。相談役が、自分よりもっと難題を抱えている状況に、ついていけなくなったらしい。

「それこそどうしよう、だね。お姉ちゃん」

「どうしよう、よねえ」

 似ていない二人の姉妹が、玄関先で息をつく。

 琴音の手のひらにくるまれて、小人のぼんぼりめいた白い花が、ふるる、と揺れた。


 その夜、姉妹は遅くまで会議を開いた。

 ベランダに置かれた花かんざしの鉢が、白熱する二人の話し合いをひっそり見守っている。

 砂糖なしのミルクティーを片手に、春華が琴音に指を突きつけた。

「要するに、よ。あんたの場合は、歯が治るまでに男の子にアタックして、メールアドレスの一つも交換して来る事ね。これしかないわ」

「えぇえ!? あたしにナンパしろって事? 無理だよう!」

 縦ロールを振り立てる妹に、春華が

「無理じゃない!」

 と勝手に決めつける。

「今時メアドの一つも交換出来なくてどうすんのよ? 何にも無いまま歯の治療が終わっちゃったら、あんたとその男の子、もう接点がないじゃない」

「……って事は、治るまでずっとあの歯医者さんに通え、って事?」

 もちろん、と春華は当然のように首を折る。

「途中でバックれちゃったら、お父様にも満流君にも、良くは思われないわよね。治療ボイコットしちゃった病院に、もっかいは行き辛いわよぉ?」

 半分意地悪で言っているような春華の口調に、琴音がうつむいてうぅう、と呻る。ぱっと顔を上げた琴音が、むすくれたような口調で尋ねた。

「じゃあ、お姉ちゃんはどうするの?」

「わたしはまあ、無理して花屋に通うしかないわよね。涙と鼻水でぐじゅぐじゅの女を、向こうが恋愛対象として見てくれるかは疑問だけど」

 黙ってミルクティーをすすった琴音が、上目遣いで姉を見つめた。

「……花粉注射は?」

「そこなのよねぇ。花粉が体内に入ってくるって事実に、耐えられるかしら? わたしの頭」

 春華は捨て鉢に呟いて、ミルクティーに口をつける。

 自分の花粉症の要因には、精神的なダメージも含まれているという事に、春華本人も気付いている。

 そもそもごく幼い頃には、花粉など平気だったはずなのだ。

 なら一体、いつからおかしくなったのか。

 春華は軽く頭を振って、淡い考えを散らした後「まぁ何とかなるわよ」と適当な事を言って笑った。

 琴音は何となく腑に落ちない思いで、砂糖なしのミルクティーをすすり込む。

 ミルクの自然な甘さが口の中に広がって、慣れてしまえば、これはこれで悪くない。

「ねえ、お姉ちゃん」

「ん?」

「何であたし、あんなにお菓子持ち歩いてたんだろう」

 そうねえ、と春華が首をかしげる。あれだけの量の甘味をいつも持ち歩くというのは、今にして思えば、少し異常だ。

 自分たちの中には、わずかなずれとぶれがある。

 気付かなかった小さな揺らぎを、いびつな恋がじわじわとあぶり出してゆく。

 恋が成就するのかも、揺らぎの原因が何なのかも分からずに、二人は黙ってお茶を飲む。

 目を上げた春華に向かい、ベランダの花かんざしが思わせぶりに花を揺らした。


 痛みと涙と鼻水に彩られた、二人の恋が始まった。

 琴音は毎週火曜日に歯医者へ出かけて行き、いつもぷっくり頬をらして帰って来る。

 行く度に満流君が居て、琴音と話をしてくれるらしい。

 満流君は琴音の学校のおとなりの中学校に通っていて、本が好きな帰宅部で、家では猫を一匹飼っている、という。そんな情報は歯医者に行くたび増えるのに、肝心のメールアドレスは、全く訊けないままだった。

「あんたねぇ、早く訊いてきなさいよ。もうすぐ治療終わっちゃうんでしょう?」

 じれったそうに責める春華を、琴音は逆に問い詰める。

「じゃあお姉ちゃんは? 蛍さんと何か良い事あった?」

 ぐ、っと詰まった春華が、ベランダに視線を逃がす。

 クリスマスベコニア、はなきりん、ポインセチア。こじんまりとしたベランダが、花の小さな鉢植えや、葉物の鉢で埋もれるようになっている。

 増えるのは花と鼻水ばかり。どうやら春華の恋も進展していないらしい。

 大きく息をついた春華が、勢い良く顔を上げた。赤く腫れた妹の頬に手を触れて、詰め寄るように問いかける。

「治療終わるの、いつ?」

「えっと……次の次の火曜日、かな」

 壁掛けのカレンダーを見た春華が

「バレンタインじゃん」

 と声を上げた。

「何だ、ちょうど良いわ。良し、あんた治療終わる日に、チョコ持って行きなさい」

「えぇえ!? 歯医者の息子にチョコぉ? それはちょっと……」

 渋る琴音の縦ロールに手をかけて、春華が、ぐいっと引っぱった。

「ちょ、お姉ちゃん、セットが乱れる」

「きっかけは何でも良いの。それ位のイベントがないと、あんた踏ん切りつかないでしょう?お姉ちゃんも蛍さんにチョコ持って行くから、それでおあいこよ」

 何がおあいこなのか良く分からないが、姉の勢いに押されて琴音はうなずいた。

「良し、決まり。そうと決まれば、鼻水ずばずばで告白するのもあれだから、花粉注射もしないとなぁ」

 何でもなさそうに呟く春華に、琴音が栗色の目を見開いた。

「お姉ちゃん、花粉注射するの? 大丈夫?」

「小っちゃい頃とは違うと思うのよ。現にこんなに花、買ってるし」

 自信ありげに春華は答え、小さなベランダを指差した。

 あふれる程の鉢物が、春華の言葉を裏打ちする。ふと首をかしげた琴音が、何となしに問いかけた。

「そもそもさ、お姉ちゃんいつから花粉症になったんだっけ?」

「そうねえ。あんたが生まれた頃には、もうなってたな。お父さんが生きてた頃は、まだ平気だったと思う」

 呟いた春華が、逃げるように視線をそらす。

 父の話をするのを、春華はあまり好まない。あんなに好きだったはずなのに、何故だろうか。

 春華本人にも、その理由は分からない。

 考えこむようにうつむく春華が、ぐじっと鼻を鳴らす。

 琴音がティッシュを箱ごと差し出すと、春華は

「ありがと」

 と鼻声で礼を言い、ティッシュを乱雑に抜き取った。


 花粉注射をされた夕方、春華は熱を出した。

「大丈夫、お姉ちゃん?」

「……ん。大丈夫。大したことないわ」

 ひたいに冷却シートを張ってくれた妹に、横になった春華が微笑いかける。

「全身じんましんと比べりゃ、軽いもんよ」

 弱々しく微笑い、春華が静かに目をつぶる。

「何か、欲しいものある?」

「蛍さんの愛」

 すかさず切り返す春華に、琴音はほっとしたように笑った。

「あたし、おかゆ作ってくる。何かあったら言ってね」

 琴音が部屋を出て行った後、春華はぼんやりと天井の木目を数えていた。

 お父さんは、どうして死んだんだっけ。

 もともと体の弱い人だったけど、何がきっかけで死んだんだっけ。

 意識がぼやけて消えかけて、春華は目をつぶる。

 眠る直前。とても具合の悪い時。

 意識が朦朧もうろうとした時にしか、わたしはこの事を考えない。

(逃げている……)

 何から逃げているのかも分からぬまま、春華は眠りに落ちた。


 バレンタインがやってきた。

 晴れて治療が終わり、自由の身となった琴音は、満流を病院の裏手に呼び出した。

 手持ちのバッグに隠したチョコを取り出そうと焦っていると、ぽん、と何かで軽く頭を叩かれる。

 目を上げて頭の上に手をやると、乗っていたのは水色をベースに黄色の水玉模様の散った、可愛い細長い箱だった。

「満流君、これ、何?」

「バレンタインだよ。……好きな奴には、男からあげたって良いらしいから」

 心なしか頬を染めてそっぽを向く少年に、琴音が目を見開いた。少しお肉の落ちたほっぺが、じんわりと赤く染まってゆく。

「あ、でもあんま一気に食べんなよ? また虫歯になるぞ」

 こういう台詞せりふが、やっぱり歯医者の息子なのだ。琴音はくすぐったそうに微笑い、ささげるように水玉の箱を持ち上げた。

「ありがとう。……中身、見ても良い?」

 琴音の問いかけに、満流が絵に描いたような大げさなあわて方をする。

「だぁあ開けんな開けんな! 家に帰ってから見ろ、お願いだ!」

 訳も分からずにうなずいた琴音は、お返しに赤い包装のチョコレートを手渡して、さようならを言った。

 帰り道、「あ」と一人で大きな声を出す。

 駄目じゃん、あたし満流君のメアド訊いてない! どうしよう! 今からでも引き返して訊きに行った方が良いかなぁ?

 おろおろと来た道を振り返ると、ふと指先に小さな違和感があった。あれ? と首をかしげてチョコの箱に目をやると、包装のひだの所に、白い紙がはさまっている。

 紙を引き出して広げると、ぶっきらぼうな筆跡でこう記されていた。

『俺が好きなら連絡くれ』――。

 短い文章の下に、メールアドレスと、携帯電話の番号が書いてあった。琴音は泣き出しそうな顔で頬をほころばせ、大事に紙を折りたたみ、さいふに入れた。

 チョコを食べたら、感想を送ろう。

 ゆったりと考えた後、ふと首をひねる。

 そもそも何で、あたしは甘いものにあんなに執着していたんだろう。

「……失礼します」

 ふと思いつき、疑問をほどくように水玉の包装紙をはがしてゆく。『ぱくん』と音を立てて、チョコのふたを開けた。

「うわ」と思わず声が出る。

 赤、オレンジ、黄、緑。様々な色合いのチョコレートが整然と肩を並べている。とりどりの絵の具をしぼり出した、細長いパレットのようだった。

 うっとりとチョコのあやを見ているうち、琴音は思い出した。

 まだごく幼かった頃、このチョコを食べた事がある。当時から忙しかった母さんが、おわびにとこのチョコを持ってきて、しみじみあたしに言ったのだ。

『琴音は甘いもの食べてる時が、一番可愛いわね』と。

 そうなんだ、と思った。じゃあ、もっと甘いもの食べなくちゃ。

 あたしがもっと可愛くなれば、お母さんはきっともっと構ってくれる。

 あたしがいつも甘いものを口に入れて、いつも可愛くしていれば、お母さんはもっとあたしを愛してくれる。

 淋しかった琴音は、自分に歪んだまじないをかけた。

 母が忙しいままで、あまり構ってくれないままでも、甘いものを食べ続けた。

 悲しみと淋しさを全身に溜めこむように、少しずつ太っていった。

「……何だ。そういう事か」

 琴音は小さく笑う。今のあたしに、呪いはもう必要ない。

 お菓子なしでも母さんがあたしを愛してくれること、あたしはちゃんと知っている。

 呪いをほどく魔法のように、琴音は黄緑のチョコを一つつまんで口に入れた。

 甘くて、ほんのりとワサビの味がして。

 少しだけ、涙が出た。


 春華は学校帰り、チョコをバッグに忍ばせて、花屋を訪れた。

 もうマスクもサングラスもしていない。花屋に近づくごとに鼻が少しむずむずしたけど、鼻水は垂れて来なかった。

 春華に気づいた蛍が、少し戸惑ったように微笑う。

「い、らっしゃいませ。春華さん?」

「ええ。……何か?」

 春華が上目遣いで訊ねると、蛍はいやあ、と頭へ手をやった。

「やっぱり春華さんかあ。いえ、いっつもサングラスとマスクしてたから、一瞬誰だか分かんなくて。……思った以上に、綺麗な人ですね」

 言い慣れていないのだろう、目をそらして決まり悪そうに呟かれると、かえってこっちが恥ずかしい。

 春華は顔を赤くして、バッグからオレンジ色のチョコの包みを取り出した。

 突きつけるように手渡すと、蛍はびっくりしたように微笑い、

「お返しに」

 と手にしていた水仙の花を差し出した。

 黄色いらっぱ型の花が、目の前に咲いている。

 春華の鼻の中を、どのくらいぶりだろう、澄みきった甘い香りが満たしてゆく。

 その香りが、眠っていた記憶の扉を押し広げた。父との思い出と、封じこめていた水仙の香りで、脳裏が埋まる。

 目の前が白くなる。

 薄れてゆく意識のふちで、蛍が自分の名を呼ぶのを、確かに聞いた。

 頭の中で、その声は父の声になって響いた。

 春華は幼い姿で、小川の川べりに立っていた。

 一時退院になったお父さんと、近所を散歩していたあの時だ。

 幼い春華の目は、川向こうに咲いた黄色い花に吸い寄せられていた。小さならっぱ型の、可愛らしい花。

 あれを取ってきてあげれば、お父さんは喜ぶだろう。幼い頭で単純に考えて、春華は春先の小川に足を踏み入れた。あわてたお父さんの声が、背後から響く。

「おいおい春華! 止めなよ、冷たいだろう?」

「あの、お花」

「……お花が欲しいの?」

 問いかける父親に、春華はこくりとうなずいた。お父さんはようし、と腕まくりをして

「父さんが取ってきてあげる」

 と勇んで川へ入っていった。

 黄色い花は、手に入らなかった。

 病弱な父の体は、父本人すら思いもかけない位、もろくなっていた。

 向こう岸へ着いたと同時に、父はその場に倒れこんだ。

 春華は泣きながら家へ駆け戻り、母にすがった。その後の事は、良く覚えていない。

 それから一週間足らずで、父は亡くなった。

 次に思い出したのは、父の葬儀の光景だ。

 呪わしい光景だった。笑った父の写真も、眠ったような父の顔も、琴音をお腹に宿した母の泣き顔も、皆黄色い彩と甘い香りに霞んでいる。

 葬儀場には、あの日見た水仙の花が、哀しみを覆い尽くすように飾られていた。

 春華は、黄色い色彩に灼かれるような思いで座っていた。葬式を終え、家に帰ってから、高い熱を出した。

 目覚めた時には、父はもう墓の下だった。その時にはもう、春華は全てを忘れていた。

 名残のように、負の感情と痛んだ精神が、体の内に宿っていた。

 春華は花という花をうとみ、花を見れば涙と鼻水を出すようになった。

 症状だけを見て、花粉症だと医者は告げた。

 目覚めそうな意識の下で、春華は

「ああ」

 と声を上げた。

 ああ、駄目だ。駄目じゃないか。

 わたしはまだ、お父さんに水仙の花をあげていない。

 わたしは、まだ。


 目を開いた春華の手を、蛍が握っていた。

 細い首元まで、布団がかぶせてある。どうやら蛍の自宅のベットのようだ。

 蛍は深く大きく息をつき、良かったあ、と心底ほっとした声を上げた。春華は空いた右手を差し上げ、

「花は」

 と呟いた。

 蛍が立ち上がり、水仙の花束を持って来る。

「これ、男の人にあげて良い?」

 受け取った春華がささやくと、蛍は小さく身をこわばらせた。

「……男の人?」

「うん、父親に」

 春華が微笑って答えると、蛍はほっとしたように微笑した。

 笑い方が、亡くなった父に似ている事に、その時初めて気が付いた。


 春華が家に帰ると、珍しく母親が家にいた。琴音と二人向かい合い、色鮮やかなチョコレートを食べている。

「ちょ、何? 何二人して良いもん食べてんのよう」

「おう、お帰り! 何その水仙?」

 母が春華の手元を指差し、軽く問いかける。春華は小さく微笑い

「お父さんにあげてくる」

 と告げて、仏壇の花を挿し替えた。

 まだ大量に余っている花を手に「お墓、行こうか」と二人を誘う。

 行く道すがら、父の事を考えた。

 花の好きだったお父さん。

 優しかったお父さん。

 お父さん、あの水仙はね、わたしがお父さんにプレゼントしようと思ったの。あの日から何もあげられないまま、今日まで来ちゃったけど。

 やっと、あげられる。

 墓に着き、春華は水仙を供え、手を合わせた。

 ねえ、お父さん。

 この匂い、そっちまで香ってる?

 春華は手を合わせたまま、じっと目をつぶっている。微かに震える肩に、母親がそっと手を触れた。

「ねえ春華。水仙はね、お父さんが一番好きだった花なのよ」

 線香のびた匂いと混じって、清純で華やかな香りが、す、っと鼻をくすぐった。

 もう花粉症は治ったはずなのに、ずる、っと鼻水が出た。

 やっと立ち上がった娘に、母が訊く。

「ずいぶん長かったわね。お父さんと、何しゃべってたの?」

「ん? ……花屋で、バイトして良いかな、って」

 冗談めかして答えながら、花屋・杉原の店に張られていた『バイト急募』の紙を思い出す。

 お父さん、良いっていうかな。反対するかな。

 まあ、叱られたらまた花を持って行けば良い。ああそうだ、今度は水仙の球根を買って、お墓の周りにずらっと植えよう。

 それで良いかな、お父さん。

 春華は胸の内で父に訊ねた。仏壇に置いてある、写真の父の笑顔が浮かび、やがて違う顔になった。

 嬉しそうで、こそばゆそうで、可愛らしい。

 蛍の、笑い顔だった。

                              (了)


  

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