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11月26日は金曜日だった。
Kobayashiが叔父あての手紙を書いたのが水曜日、11月の24日。したがって、二日後。
Kobayashiの日本名は小林伶門ゆえ、以下「伶門」としよう。
叔父の名が小林信。「まこと」と読む。キリスト教会の牧師だ。伶門の父親は「とおる」で通。大学教授だったらしい。
さて、手紙が書かれた二日後である11月26日の金曜日 ─ 16時過ぎ ─ 封を切ってそのただならない内容に接した信は、大森に向かった。
大森には兄通の家がある。伶門が生い育ったのもその家。大学を中退してからというもの、ぶらぶら遊んで居候を決め込んでいる。(幼少のみぎり二親は離婚し、母親がフランスへ帰国して以来、父ひとり子ひとりで成長した)
かよいの家政婦が扉をあけた。伶門の部屋がある二階へ、信を連れてあがった。
中の様子を見ながら聞いた:私も来たばかりです、お二人は病院にいらっしゃいます、と。信はあとを任せて親子のいるもとへ急いだ。
急ぐ程にひどい様子だ。血の中を這いまわりでもしなければああはなりにくい。
手の跡に足の跡でもって床がべとべと。血のにおい。汗のにおい。息のにおい。暖房機の出す熱。蒸発する薬品類。 ……… こもった温気がむッとするようだった。
机の上へ蓋のとれた消毒用アルコールが転がっている。そばに縫い針が七八本、血糊の中で固まっていた。
ベッドがまた偉いことにシーツなんか真っ赤だ。血が染み込んだ模様から、人が寝ていたと分かる。ここにも一本、針が黒糸をとおしたまま落ちていた。
信が病院に着いた時、甥は集中治療室に入れられていた。18時ごろだ。薬物を飲んだといい、胃を洗ったあとだった。
解せないのがしかし、あの二階部屋。受けた医療的処置は胃洗浄だ。大きな切り傷を縫合する、といった事ではない。外傷はないのだ。外傷がないけれども部屋はあの通りで、この謎に答える物証は、彼の体内から出た。
大きさで言うならマッシュルームの傘ぐらいだろう。相手は相当な怪我だ。胃袋になまの人肉が入っていた。死のうとする寸前、人の肉を食べたのに相違ない。なんぴとか女と見られる他者よりちぎった。切り取った肉片ではない。刃物を使わないで、食い千切ってあった。生きた人間の肉を食い千切ったら、あんな部屋になった。
こうなるともう分かっている。肉片のもとの持ち主は、甥と婚約した娘しかいない。滋子 ─ 例の娘の名だったが ─ すでに御覧のとおり、第42回・43回等、甥の遺書は滋子のせいで思考力を奪われ悩殺され呻吟する文字どもで埋まっていた。極ネクラにして完全オタクの彼であってみれば、ほかに女の出入りがあったろうとも思われぬ。
その滋子。
咬まれて暫くのあいだ、気を失ってしまった。目がさめると、薬を飲んだと思しき伶門がひっくり返っているのを発見したので、119番を回し、自分はタクシーを呼んで立ち去った。その現場を、信はさっき大森の二階で見て来たわけで。
父親の通は何をしていたか。服毒自殺の急報が入るやいなや、大学の研究室を出るなり病院へ直行した。息子の犯した人食いを知るよしもない。少し遅れて駆けつけた弟牧師に、血だらけになった部屋の話を聞いて驚いたろう。
自殺は失敗した。天才児が初歩の薬学を踏まえないでやったものらしい。伶門は睡眠薬を飲んだ。しかしながら、昔の映画ではないのだし、まさかそんな事で人間が一人死ねはしない。今日一般に処方している睡眠導入剤は ─ 1980年代当時もそうだったというが ─ 見て字のごとく眠りに誘うのみで、腹いっぱい飲んだから死んでしまうなど、まずありえない。胃洗浄を施されるのが関の山である。とはいえ、それで口へ鼻へと管を差し込まれるのは、むしろこの方が死ぬ苦しみなのだそうな。伶門も次の日に帰された。
ところで、事を起こす少し前に右の脚に肉腫が見つかって、手術を控えていた。だから自殺しようと欲したのかもしれない。脚を切断後、リハビリの目的で滞在していた療養施設で首をつって、今度は本当に死んだ。それが12月の19日だった。( 目次画面 http://ncode.syosetu.com/n4490cq 及び、第0回 http://ncode.syosetu.com/n4490cq/1 )
全体、滋子は咬まれたのだったか、咬ませたのだったか、定かでない。愛する男がいずれ長くはないと決まった時、我が身を与えて別れのちぎりとなしたのでもあろうか。生涯語ることなくシングルライフを貫いた彼女までがいなくなった今、いろいろな場合を考えるよりほかに仕方はあるまい。




