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狂 気 前 夜   作者: Raymond Kobayashi 訳:天野なほみ
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   彼女も僕と同じ曲を習いに来たのでした、と云うのも、同じ曲を勉強している生徒は一緒に授業を受けてお互いに批評し合う仕組みになっていたのです。黙って楽曲研究に入ってしまった者と二人きりになったのが彼女も気詰まりなのでしょう、むやみに咳払いしています。どうしたことか他の生徒が来ません。今日は彼女と二人だけの授業なのか?時間も過ぎている。いったいマツバラ女史は何をしているのだ!生憎、僕の隣人は開くべき譜面を持ち合わせませんでした。(彼女はどんな曲もわけなく暗譜するので手ぶらで教室に入って来たのでした。)異様な沈黙にたまりかねて(と、後日、この日のことを彼女が僕に告白したように)彼女は独り言でも云うようにつぶやきました。【先生、遅いですね。どうしたんでしょう ・ ・ ・ 。今日の曲、難しい曲ですね。わたし、あまり練習できなくて ・ ・ ・】〈天野注。ここはローマ字で表記してある。以下、原文が日本語の場合、すみつき括弧〉【そうですね。そうですか。僕も、練習の時間がなくて。】僕は音声を呑み込むようにして意味のない相槌を立て続けに打って頷き、彼女を見ました。すぐさまその晩二度目の、数分以前に僕を立ち往生させた、何かしら深刻な事柄をでも訴えかけるように大きく見開かれた、あの信じがたく美しい目に再会しました。貴方もよく御存じの、彼女が人の話を聴く時にする、あの目です。その目達に見つめられている、あの二人きりの教室にいて、僕は自分自身の取り扱いに困りました。何か話の種は無いかと、頭の中を引っかき回しました。僕は生来、慌てるとまるで何も考えられなくなる質です。藪から棒に【趣味は何ですか。】と云ってしまった自分に呆れて、彼女の顔をぽかんと見ていました。彼女の目は益々大きく、いよいよ深刻そうに、あまっさえ大層潤んでいました。上気してかッかとなっている僕の顔を、一つの滑稽な対照物に為し得る、淡い蒼味を帯びた顔をして、彼女はひとことひとことゆっくり発声しました。【趣味 ・ ・ ・ わたしの趣味は、詩を読むこと。色々な国の、色々な時代の、詩を読むこと。たまに、自分でも、下手な詩を作ったりして。それから、どこでもいいから、都会の音が聞こえて来ない、寂しい所に旅して、一日中、ぼうっと、山を見て過ごすの。あの山には、きっと、仙人の庵があって、夕方になると、炉には、火が入る。仙人は、採ってきた山菜で、晩の食事を作る。そんな空想をしたり。馬鹿馬鹿しいでしょう?あなたは?】発言中焦点を失っているようになっていた彼女の瞳が、僕に向けられました。彼女の問いに対して趣味はピアノだと云い、云った後、自分の重ね重ねの愚劣さにへどもどして、今更自己紹介しました。そして右手を彼女に差し出しました。どうぞ随意に笑ってください。続いて彼女も自己紹介をしましたけれども、僕は全く動転していたので、何も聞こえませんでした。

   彼女の名前は滋子でした。

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