1
訳者より:下につづくのは、小林伶門が叔父牧師にあてた文。カッコ[ ]は翻訳する際につけたルビ。画面では、 [ひっきょう]畢竟 、 [そけいぶ]鼠蹊部 の如く、語の前に置くものとする。(天野なほみ)
1982年11月24日
親愛なる叔父さんへ
この予期せぬ手紙は貴方を少なからず驚かす事と想像します。僕がそう云うのは、僕がこれを外国語で書いているからでは無く、僕がこの中に書こうとしている事柄に因ってです。
何度か英語で語り合った事があるとは云え、普段、我々のコミュニケーションの媒体は日本語だったのですから、僕から貴方への最初にして最後の手紙は、仮名で書かれるのが、或いは自然かもしれません。しかし、僕が今掘り起こそうとしている、僕の心の内奥に秘められた、マグマの様にドロドロとして僕自身にも明確には定義も理解もできない何物かに、言語的な輪郭を与え且つそれを貴方に伝える手段として、仮名を用いる事は、僕の能力を越えます。僕は幼時より、自分の内側にある思想を、いつもフランス語か英語かであらわして来ました。日本語は僕の言語ではありません。僕がここに書こうとしている事柄も、僕の最も内側にある思想です:定義不能・理解不能であっても。
僕がしようとしている行為 ─ 貴方がこの手紙を受け取る時分には僕がし終えているであろう行為 ─ それを見て、貴方は考えるかも知れません:僕が背教者の身に転落した結果であると。僕に洗礼を授けた貴方がその様に考えるのは如何にも当然です。しかし、それは真実ではありません。そもそも僕は、未だ嘗て本当の信者だった事が無いのです。
伶門のタイプライタ原稿に忠実な翻字は以下で
https://db.tt/mcKCVKog