97話 目標
「タツノ君、大丈夫!?」
強く扉を開け放ち、開口一番にティナは辰乃へこう呼び掛けた。
部屋の様子は、ラックが出ていく前と変わらない。
傷を治そうと努めるセティと、辰乃に呼び掛け続けるアグニ。そして、少しずつ傷が悪化している辰乃。その嫌な空気に一瞬気圧されそうになるものの、直ぐにティナは部屋の中へ入っていき、辰乃の横へ座った。
同時に、ティナを連れてきたエストレアは外の様子を窺っていた。
もしかすると、魔族が攻めてくるかもしれない。と、今ここにいる誰もが考えもしないことを考えて、セティたちに危害が及ばぬよう、外へ注意を向けているのだ。
……辰乃が心配でないのか、と問われれば、当然心配だと答えるだろう。
それでも誰かが冷静で居なければならないと自分に言い聞かせ、エストレアは自分が出来ることだけを続けた。
『───』
生気が消えてきている辰乃の瞳に、ティナの姿が無機質に映る。それと同時に、辰乃は目を見開いて──最期に見納めるように、少女へ視線を向けた。
見るものが見れば射抜くような、強い意思の籠った眼光。
それを諦めや悲しみから来るものだと察したティナは、直ぐ様辰乃の側へ駆け寄り、腰を下ろして弱々しい手を取った。
「駄目、だよ。諦めないでよ!」
震える声で、そう叫び散らす。
『………ごめ、ん』
「謝らないで。……頑張って」
しかし、彼女の激励を受けてもなお、辰乃の意思は変わらない。──変わったようには、見えない。
長く話し続ける力も無い辰乃の胸中は、もう誰も知ることは不可能だ。
「いやだ。嫌だよ」
『………悪い』
これでは、本当に死んでしまうみたいではないか。と、初めて死の直前に触れたティナは思う。
当然のようにあったもの──例えるなら、地面が崩れ落ちていき、底の無い暗闇を落ちそうになる感覚。苦しくて、壊れそうで、でもどうしようもない無力感。
俗に絶望と言われる感覚に限りなく近付いたティナは、だからこそ辰乃に声をかけ続けた。
「一人は、嫌」
『爺さん、が。村の、皆が』
「タツノ君が居ないと、私……」
『独り立ち、しろって』
「頑張って、って、言ったのに」
『……』
死なせたくない者と、自分から離れて欲しい者。
二人の会話は平行線のまま、けれど着実に終わりへ向かっていく。
終わりは唐突に。
ティナの手の内にある、辰乃の手の力が抜けていく。それを感じ取ったティナは慌てて、辰乃へ声をぶつける。
悲鳴そのものであるその声は、最早辰乃に届ける為でなく、自分が彼の死を拒絶するためだけのもの。
救いの力も、常人離れした希望を抱いていない彼女には順当で、故に悲痛な叫びだ。
「やだ、やだやだやだやだ!死なないで!生きて!もう一回、ううん、ずっと笑っててよ!!」
『……ティ、ナ』
これから死に行く自分に、何が出来るというのか。考えても分からない──考える余裕の無い辰乃は、感覚を失っていく口になけなしの力を込めた。
同時に、空いている片手を無我夢中に伸ばして、彼女の頬に触れる。
人肌の温もりも、温かい涙も、今の辰乃は正しく知覚出来ていない。
……けれど、その瞳が僅かに捉えている、悲しみに染まった彼女の顔を。月の見えない夜に浮かぶ、一つの星のように、朧気に。
『………』
言いたい事は沢山ある。
伝えたいこともある、やりたいこともある、聞きたいこともある、知りたいこともある。
だが、彼は一つとして、それを伝えようとはしなかった。
『……今まで、ありがとう』
ただ小さく、けれど確かに少女へ告げた彼は、静かに目を瞑る。
この眠りは、少し永く──────。
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泣いた、慰めた、歯を食い縛った、悪態を吐いた、何も言わずに俯いた、物言わぬモノに呼び掛け続けた。
少女の悲鳴に引きずり込まれるように、かの屋敷に集まる人、人、人。
大半は屋敷には入らず尻込みしていたようではあるが、辰乃とよく話していたらしい数人は、屋敷の中へ入って事実を確認する。
そしてまた、悲しみが一つ生まれるのだ。
「………ちっ。やっぱり無理だったか」
人混みから離れた場所に、ラックは木にもたれ掛かりながら立っていた。顔は俯き気味で、表情からは悲しみが読み取れる。
「───これは」
「……タツノが死んだ。ここからでも微かに聞こえるだろ」
遅れてやって来た遊夢とユートは、屋敷を取り巻く人々に目を奪われ、茫然とする。
ラックの言葉に耳を傾けると、聞きなれた少女の、特大の悲鳴が風に乗って届いてきた。それで事態を把握した二人は、静かに地面へ座り込む。
「…くそ」
「もっと……早ければ!」
もっと早く目覚めていれば、もう一度【狂人化】が使えたかもしれないのに。
もっと早く遊夢と合流すれば、間に合ったかもしれないのに。
そんな念を抱いた二人は、どうすることも出来ずに、その場に留まっていた。
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「そう、か」
辰乃が息を引き取ってから数分後。ティナの悲鳴を真っ先に聞き付けた龍義は、何も言わぬまま、部屋の中に入った。
今、部屋の中に居るのは四人。
彼の最期まで《治癒》を続けていたセティ、ティナが来るまで辰乃を励まし続けていたアグニ、外の様子を窺っていたエストレア。そして、辰乃の傍らで大泣きしているティナである。
「……遅いのよ」
「ああ、遅かったようじゃな。………まさか、儂より先に逝くとは」
辰乃にすがりついているティナを見守るように、龍義は直ぐ近くに腰を降ろす。それに倣うように、エストレアが龍義の隣に腰を降ろした。
お互い視線は前に。
エストレアも龍義と同じように、ティナを心配そうに見つめている。
「大丈夫、じゃなさそうね」
「心配じゃな。潰れてしまわんか、不安じゃよ」
「……そう、ね」
初めてティナと話した夜、彼女が“大好き”だと言った人物を、エストレアは知っている。そして、その人物が物言わぬ遺体となっていることも。
「ティナは、アタシたちよりも弱いって思うのよ。体じゃなくて、心が」
「……概ね当たっとる。あやつは昔から、辰乃に引っ付いておったからの」
脳裏に甦るのは、過去の記憶。親しい者の死には、その人物との思い出が流れるのが人として当然だ。
龍義もその例に漏れることはない。彼は辰乃との記憶を振り返り───辰乃にいつもくっついていた、一人の少女の影が、自然と浮かぶ。
生まれつき【龍神化】という才能を持っていた辰乃は、心なしか村人たちに距離を取られ、彼自身も距離を取っていた。そんな彼と村人を繋げたのが───。
「……儂に出来ることは無い。ティナに関しては、時間に任せるしかないじゃろ」
「───そう」
そこまで考えた所で、龍義は“自分には何もしてやれない”と判断した。
十数年、あの二人を見てきたからこそ分かるのだ。ただ慰めただけでは、彼女は決して立ち直らない。許すだけでは、彼女は自分を赦せない。
彼女は良くも悪くも純粋である。今まで彼女が立ち直った時は、決まって辰乃が側に居て、彼が彼女を安心させていた。
その拠り所を失ったのだ。解決策は皆無に等しい。
龍義の判断は普遍的であり、的確である。………だからこそ、エストレアは不満げに返事をした。
言い返せることは何もない。自分が今すぐにティナを慰められる訳でもない。
「……こういうの、あんまり好きじゃないんだけど」
少し顔をしかめてから、エストレアは数秒間目を瞑り、決意をする。
デメリットは何もない。元々通ろうとしていた道に、目的が追加されただけだ。
───けれど、それは問題の先伸ばしである。
エストレアの思う“救い”には、到底至れるものではなかった。
「それでも、仕方ないか。アタシは神様じゃないんだから、的確に人を救うなんて出来ないし」
それでも、悲しみに潰れるくらいならば。
そして、また全員で笑えるならば。
「『ラウンド村』の村人、鬼の人たち、ここの皆。それに、ラックやウォール、シルドにアイにルミナに……数えたらキリがない、か」
一冒険者として活動していた際に、別の冒険者たちの飲み会を見たことがあった。
それを全員で出来れば、さぞ楽しいだろうと思い、
「ああ、男どもが余計なことしないか、見張っておかないとね」
目標を見出だしたエストレアは、叶えさせたい未来を思い描き、小さく笑った。




