59話 遊夢を知る者~記憶~
───それは、誰に責められたことでもない。
「あぁ……あ、ぁ!?」
少女はただ、自分の手の内にあるナイフを見つめることしか出来なかった。
日はとうに暮れていて、空には白い月がかかっていた。
風は無く、動物の声も聞こえない。
今ここに二人が居ることを知らせているのは、一つの街灯だけだった。
街灯が、少女を照す。
一言で言えば、赤だった。
赤いマフラーと白いブラウスに、赤黒い液体がこびりついている。
それは紛れもなく、誰かの血液。
普通からかけ離れた、異常な光景だった。
しかし、まだ異常は終わらない。
少女の足元に転がっている何かがピクリと、震えるように動いた。
それは人の形をしていて、紛れもなく生きている。
「───」
「ぇ、生きて、る?」
その事実が、少女を震わせた。
声が震え、紅くなった手が震える。
遂には足まで震えてしまい、少女はその場に座り込んでしまった。
───確かに、胸をナイフで滅多刺しにしたはず。
少女はソレを早く殺すために、心臓目掛けてナイフを降り下ろしたのだ。
何度も、何度も。
ソレの悲鳴を聞く度に、狂いそうになる意識を出来るだけ排除して、一心不乱に胸を刺し続けた。
それでも運悪く、ソレは死ななかった。
心臓に届かせるべきナイフは、ソレの肋骨に阻まれたのである。
ソレは苦しそうに胸元を押さえながら、這って少女の下へ移動した。
「───な、ん」
「ひっ…!?」
それが、恐ろしかった。
痛みに歪んだその声は、さながら映画に出てくるゾンビのそれだ。
幾ら即死していないとはいえ、体を貫かれる痛みは筆舌に尽くしがたい。
だが、それはまだ許容範囲。
人がそこまで苦しんでいることも、それが目の前に転がっていることも。
今この瞬間の少女に限って、そんな事実は意識に伝わりきっていない。
視界に映る殺人未遂現場など、既に感覚が麻痺しきっていてよく見えない。
では、何が恐ろしいのか。
単純だ。
少女は、ソレを殺しきれていないことが、堪らなく怖いのである。
何故ならば、だ。
「嫌……こんなの、もう」
死んでいないならば、また殺さなければ。
ナイフを再び握る。
手は震えて、唇は固く閉じられている。
そうでもしないと、今にも叫びだしかねないのだ。
目には、涙が滲み、それは滝のように頬を伝っている。
対してソレは、思考が停止していた。
何故こうなったのか、どうして自分の体から、こんなにも赤いモノが流れ出ているのか。
恐怖はない。そんなもの、疑問に押し潰されている。
だが停止した思考では、ソレの疑問は晴れることはないだろう。
故に、問う。
「──なん、」
───なんで、そこまで。
ソレが知りたかったことはとんでもなく、どうでもいいことだ。
どうして自分を刺したのか。
決して、ソレが聞きたかったのはそのようなことではない。
そもそも、ソレだって感覚が麻痺して、これが夢なのか現実なのか分からなくなっている。
「…ぁ、ああああああぁぁぁぁぁぁあ!!」
「泣、てる」
───泣いてるんだ?
雑な軌道を描いた銀閃が、ソレの腹部を穿つ。
ドス、と鈍い音がしたかと思えば、直ぐ様鮮血が吹き出した。
どうみても助からない大きな傷、湯水のように溢れる、儚い命。
それは少女を汚し、体を紅く染めていく。
勢いが強かったのは始めだけ。
その後は、ソレを中心として紅い花を咲かせていった。
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「……」
意識が戻ると、最初に暗い空が目に入った。
どれだけ眠っていたのか、体は少し重い。
「っていうか、どこだここ」
『山の梺近くじゃねぇの?結構な勢いで転がり落ちてたし』
狂夢の言葉を適当に聞き流しながら、俺は立ち上がり、伸びをした。
辺りを見渡すが、誰も居ないらしい。
嫌な予感はしないので、この近くに魔物は居ない。もしくは少ないと思っていいだろう。
「皆は…行ったよな」
俺があの場から居なくなってから、それなりに時間が経っているはず。
となると、馬車は既に目的地へ到着したと考える方が妥当だ。
ここがどこなのか分からない以上、まずはあの山道に戻らなければ。
「《ファイア》」
適当な木の枝に火を灯し、辺りを照らす。
すると、先ほどまで見えなかったものが見えてきた。
一つは、幾らかの山菜らしきもの。
少し土を被っているそれは、間違いなく採られたばかりのものだ。
そしてもう一つ。いや、もう一人は……。
『あの魔族か』
「ああ」
俺を気絶させた張本人とも言える、魔族の少女だった。
彼女はその大きな翼で体を包み、木に体を預けて眠っている。
眠っている様子だが…とても快眠状態とは言えなかった。
何かにうなされているのか。目の前の少女は苦しそうに呻き、首筋には汗が流れている。寒いのか、体は小さく震えていた。
極めつけは、
「ご───な、さい」
彼女の唇から漏れる小さな謝罪と、頬を伝う涙だ。
『どうする?離れるなら今のうちだぞ』
「……お前なぁ」
理性的な判断をする狂夢に内心で呆れながら、俺は少女を見つめた。
名前なんて知らない。
姿に見覚えも、ない。
そもそも前世に女友達なんて居なかったはずだし、仮に居たとしても今は関係のない話だ。
しかし、しかしだ。
彼女は俺を知っている。
名前を、姿を知っていて、何故だか分からないが悔やんでいる。
そんなの、放っておける訳がない。
『可愛いしな』
「余計なこと言うな」
『余計なんかじゃないさ。小動物みたいに怯えてる女の子は、とてつもなく可愛いと思───』
「黙ろうか」
少し危ない雰囲気を出し始めた狂夢に釘を刺しながら、俺は辺りを見回した。
看病なんて出来るほど器用でもないが、せめて汗ぐらいは拭ってやるべきだろう。
そういう訳で、タオルの代わりになるようなものを探しているのだが、当然のように見つからない。
俺の服を千切って使おうかと思ったが、山を転がり落ちたせいか泥だらけなので使えない。
当然、手で拭うのなんて論外である。
『なんで念を押したし』
「お前が言いそうだったからな」
汗を拭うのは断念。
次に目を着けたのは、明かりだ。
今ここにある灯りと言えば、右手に持った木の枝くらいである。
光がそれだけだと心許ないし、暖だってとれない。
そう思うと、急に寒く感じてきたから不思議だ。
「適当に枝とか集めるか」
早速決行する。
具体的には、少女から離れ過ぎないように気を付けながら、落ちている枝を拾ったり、枝をむしったりしただけである。
それらを一ヶ所に集め、周りの木々に引火しないよう注意しながら《ファイア》を発動。
俺の手から放たれた魔法は、薪を燃やし光を発した。
「……よし」
熱を発し燃え始める気を見つめながら、俺は少女の隣に腰を下ろした。
そして、何をするわけでもなく、炎を見つめ続ける。
───そして気付けば、朝日が昇ろうとしていた。
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少女は、夢のなかにいた。
見ている夢は何時もと変わらず、絶望にまみれた紅い世界。
少女に精神世界があるならば、目の前の光景はまさにそれだ。
「……また、ここ」
気分が悪くなる。
その世界は───懺悔に満ちていた。
最愛の人を手にかけた。
何度も何度も、その体に刃を突き立てて、命を奪ったのだ。
少なくとも、それは少女の望んだことではない。
だからこそ、少女は罪の意識を感じているのだ。
それでも、助けたい家族がいた。
妹を魔の手から救い出したかった。
───それが、無意味なことだと知りながら。
『死ねよ』
『───』
結局、誰も救われなかったのだから。
「───っ」
その事実を否応なしに見せつけられるこの世界は、彼女にとって嫌悪すべき対象だ。
「……変わらなかったね、遊夢君は」
目を瞑り、見るに絶えない世界から逃げる。
そして、少し姿が違う少年の姿を思い浮かべた。
白い髪、白濁した瞳。
何時もより嫌な感覚を彼から感じた少女だったが、そんなもの、全く気にならなかった。
そんなものより、自分自身が醜く見えて仕方ない。
大きな翼も、長い尻尾も。そして、魔力の渇望・吸収という魔族の特性すらも。
特に最後のものは、我慢するだけで頭がおかしくなりそうなのだから手に負えない。
まるで、卑しい狗のようだ。
「まだ、人を襲ってはない、けど…」
それも何時まで持つか。
彼女自体、つい先日呼び出されたため、この世界に馴染んではいない。
そして彼女自身は気付いていないだろうが───。
ついさっきの逃避行で、彼女は余りにも魔力を使い過ぎた。
目覚めれば間違いなく、近くに居る人間を襲ってしまうだろう。
だが、ここが夢のなかである以上、何時までも居られる訳ではない。
終わりは唐突に、少女の意識は一瞬で消え失せる。
そして、意識は現実へ引き戻され、彼女はあの少年と再開することとなった。




