現在から過去へ
硬くてすわり心地の悪い椅子に腰かけて、わたしは自分が不自由だと感じた――本来は自由である――項目をひたすら入力し続けた。三日経ち、五日が過ぎた頃、女がつれない返事をするのを何度も耳にしはじめた。
「その項目は既に入力済みです。ほかの項目をご入力ください」
という声だ。
モニターに表示されている数字を見ると、125,963歩とあった。それは、十二万項目以上の自由を勝ち取ったという意味になるだろう。
駄目だ。もうどんなに考えて思い浮かばない……。
そうしてまたわたしは、違った意味での苦悩に襲われはじめたのだ。それから三日ほど、通路を歩いたときのことを思い出しては入力を続けていたが、やがてそれも限界を向かえてしまった。黙想だの瞑想だのというが、三日間考えて出てこないものは、出てこないのだ。わたしは否が応でも現実というものの厳しさを知った気がした。もっと時間をかければなんとかなるのは経験からしてわかっていた。しかし、固く閉じた鉄扉を目の前にして、足踏みをしていることが耐えがたくもあったのだ。これまで歩きに歩き続けてきたことで肉体が訴えてくる、「前へ進め、前へ進め!」という衝動もまた、耐えがたかったのだ。
苛つきをなんとかしたくて、わたしはチェックポイントから先に続いてる通路を進んでみた。だが通路はあいも変わらず真っすぐに続き、行き止まりであるとか、曲り角があるという雰囲気を微塵も伝えてこなかった。二時間ほど歩いたとき、引き返す決意をした。
いったいどうしろというんだ? 入力すべき項目が、この通路で経験したこと以外でもいいというならば、まだまだいけるだろう。だが、それが許されるものなのか? しかし、試してみる価値はある。
そう思いついたわたしは、歩調を早めた。
まてまて、落ち着くんだ。もしも、この通路であったこと以外の入力を拒否されたらどうするんだ? それを考えておかないと、ノーとあの女に提示されたときのショックに耐えられそうもないぞ。――確率は五十パーセント。そう考えておくのがいいだろう。どちらにしろ、入力してみないことには、答えは出ない。それだけは確実だ。よし、やってみようじゃないか。
ようやく冷静さを取り戻せた気がした頃、視線の先にノートパソコンのあるチェックポイントが見えてきた。
あと、四、五キロだな。あと四、五十分だ。そのときわたしは自分の全身が奇妙な高揚感に包まれていることに気づいた。そうそれは、歩いていることによる躍動感、前に進んでいるという単純明快な心地よさだったのだ。笑いが零れた。あれほど苦労して歩いてきたのに、まだわたしの肉体は歩くことを求めていることに笑いが止まらなかった。
「お前はまだ歩きたいのか。大した奴だな」
思わずそう口にしてしまった。あそこへ戻って、入力を拒否されようが、どうということがない気さえしてきたのだ。そしてそれは現実になった。
「過去の項目は、次のチェックポントで入力を受け付けています。次のチェックポイントへお進みください」
と女が答えたからだ。
「なんて意地が悪いんだ……けれども、頭がいいとも言えるな」
ツアーの参加料金を思い出してそう声に出した。時間がかかるツアーだということは説明からわかっていたが、あまりの高額に度胆を抜かれもしたのだ。参加料金はわたしの持っている資産の全額だったのだ。銀行に預金してあるものはもちろん、生命保険金さえも担保にしてきたことを思い出したのだ。道半ばで倒れて死んでもおかしくなかった。ようやくわたしはそういうことに気づいたのだ。考えてみればおかしいことばかりだった。途中で他の参加者に出会わないということもおかしかった。だが、参加料金の高額さに思いをいたせば、すべてに納得ができると思えたのだ。
「さあ行こう。負けはしない。なにしろ、人間は負けるようには作られていないのだから」
わたしは、道中で読み、憶えていたヘミングウェイの『老人と海』にあった言葉を口に出してから、歩き出した。
「どんな過去だ。子供の頃のことからはじめるか? それとも二度と帰れない、あいつと愛し合った一番美しかった日々か? いくらでも思い出してやるさ! 俺は負けはしないぞ」
ふたたび歩きはじめたわたしは、床にある足跡にデジャブのようなものを感じたが、さして気にも止めずに前へ前へと進んでいったのだった。