表裏一体
それを目にした時のことをどう言葉にすればいいかわからない。それでもと聞かれれば――
「来た、見た、勝った!」
と答えるとしか言いようがなかったのだ。わたしはカエサルのように優れた人物ではないが、わたしだって、それまで筆舌を尽くすとか言語道断だとか、そんな風なものは沢山見聞してきた。だが、現実はそんな仰々しいものではない。物事はシンプルなのだ。本当のところ、わたしは、たった一語、
「よっしゃ!!」
と叫んだのだ。あまりの嬉しさに取り乱したわたしは、
「とにかく椅子だ、椅子が欲しい! 早くしろ!」
と言いながら、辺りをうろつきまわった。それでも何秒かに一回は小さなテーブルに設置されたノートパソコンに視線を落として、それが消えてしまわないことを確認したのだ。
落ちつけ、落ち着くんだ。そうだ、よっしゃ!! は英語で何というのかを考えよう。あれは確か……。
動揺した人間のとる行動とは、そんなものなのだろう。そうして、わたしは、「did it !!」という表現を思い出したのだ。
いいや、わたしはそこにあったパソコンに興奮したのではなかった。灰色の壁に取り囲まれた通路の側壁に、張りつくように閉じられた錆びた鉄製の扉を発見したことに興奮したのだ。
チェックポイントのコンピューターは何のためにある? 決まっている、側壁の扉のロックを解除するためさ!
一年ほど歩き続けた間に何度も何度も自問自答して出した答えだ。
――いやそうではない。
などと言われようが、知ったことではなかった。それ以外に何もなかった。誰に何と非難され中傷されようと、わたしは信念という名のもとに、確信していたのだ。
そんなことをしていると、ようやくといった体で、壁に開いた穴から椅子がせり出してきた。
「さあ、はじめよう。何としてもここから出るんだ!」
ノートパソコンの前に陣取ったわたしは、タッチパネルに触れた。指が振るえているのがわかった。起動音とともに現れたのは、
「ようこそ夢の世界へ! 高度八万メートルの世界へ!」
と、宇宙から地球を見下ろした風景に重ねられた、白く太い文字だった。なんだか腹が立った。だが、この一年ほど歩きに歩き、ただただ歩き続けてきたわたしは忍耐強くなっていたから、すぐに気を取り直して、とりあえずコンピューターの指示に従ってみることにした。
入口の扉をくぐったとき、見逃したもの、聞き逃したものがあるのだから、同じことを繰り替えされても構わない。まずはそれをしっかりと確認すればいいのだ。
そのようにして、わたしは注意事項を読み、十五分以上ある音声ガイドの説明に耳をそばだてていた。しかし、これといった収穫はなかった。全てこの一年ほどで既に体験し、経験してきたことだったのだ。虚しさに憑りつかれそうになるのを溜息で紛らわせながら、ほかに出来ることはないのかと、画面を見まわしていると、「検索」と書かれた入力ボックスがあることに気づいた。わたしはすぐさま、キーボードを使って、「出口」という単語を入力してエンターキーを押した。
すると、画面がそれまで見たことのない映像に切り替わったあと、あの女が、
「出口は、『本当の自由』を手にいれた方のみにご案内させて頂いています。『本当の自由』を掴み取ったというお客様は、画面にある入力ボックスに内容をタイプして、エンターキーを押してください」
と、聞きなれた声でアナウンスしてきた。
自分自身に生きる。
すぐさまわたしは、そう入力してエンターキーを叩いた。
「入力項目に不備がございます。お客様の思われる『本当の自由』以外の自由をまず、入力してください。そのあと、『本当の自由』の内容をご入力することで、出口という夢を掴むことが出来ます」
「なんてこった……」
どう説明しろっていうんだ。自由でない自由だと? 確かにわたしは世間で自由と呼ばれているものに、嫌というほど辛苦を味あわされてきた。それを全て思い出して入力しろというのか? だが、それでここから出られるなら、やってやる。
気を取り戻したわたしは、モニターに映し出された、煮えたぎる岩漿の中を黒光りしながら流れてゆく岩石の映像へと向きなおった。そこには、白く太い文字で、
「地底八万メートルの世界から夢の世界へ、現実へ!」と書かれている下に、女が言っていた入力ボックスがあった。
まずは何だ? ここへ来てまず初めに味わった不自由は何だったかな?
記憶を巻き戻したわたしは、「先が見えない」と入力した。
「正しい解答です。出口は、夢は貴方へと一歩近づきました。ですが、まだ歩数が足りません。引き続き入力を続けてください」
女があまりにも非情なことを言っているのが聞こえた。それでもめげなかった。わたしは、この一年ほどで味わった苦痛という苦痛を思い出しながら、不自由したことを次々に入力していった。
ラジオが聞けないのは不自由だ。交通機関が使用できないのは不自由だ。ノートと筆記用具の所持が出来ないのは不自由だ。音声案内の選択項目が少ないことは不自由だ。顔も名前もわからないガイドとのやり取りは不自由だ。マイクとスピーカーだけの案内は不自由だ。直線だけの通路は不自由だ。決まった距離でしか飲食の提供がされないのは不自由だ。いちいちわたしが注文しない限り、照明が落ちないのは不自由だ。尿意のままに放尿できないのは不自由だ。太陽や青い空、夕暮れの風景を見れないのは不自由だ。腕時計が時計の機能を果たさなくなるのは不自由だ。カレンダーを見れないのは不自由だ。正確な日付も時間もわからないのは不自由だ。いまが春なのか秋なのかもわからないのは不自由だ。理解できない長編小説を読むことは不自由だ。弾けもしないギターをつまびきながら歌うのは不自由だ。お気に入りの靴と同じ靴が手に入らないのは不自由だ。贅沢をしても心が満たされないのは不自由だ。
わたしは湧いては蒸発してゆく喜怒哀楽の感情の波に揉まれながら、ひたすら入力し続けた。
風呂に入って誰かに背中を流してもらえないことは不自由だ。
そう入力したとき、頬を涙がつたい落ちた。
わたしは自由だったのだ。それなりの努力さえすれば、わたしはいつでも容易に自由を手にすることが出来たのだ。ともすれば、何もしなくても自由はそこにあったのだ。すべてが自由であったのに、既に手に入れていたのに、ここに自由なんてないと思い込んでいたのだ。それにさえ気づけず「自由が欲しい」と嘆いてきた自分が恥ずかしかった。恵まれていた現実を見ることもせず、悲嘆にくれて肩を落として歩く自分の姿が見えたとき、たまらなく悲しくなった。それまで出会った馴染みのある人達の顔が次々に浮んでは消えて行った。愛し合った彼女と背中を流し合ったあの感触を思い出したとき、わたしは入力し続けることが出来なくなっていた。
幸せだったのだ。なのに……なのに。なぜ自ら進んでその幸せを捨てたのだろうか……。
悲嘆に暮れたわたしは、涙を流しながら、わけもわからずに歌を口ずさんでいた。
夕やけ小やけの 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か
山の畑の 桑の実を
小篭に摘んだは まぼろしか
十五で姐やは 嫁に行き
お里のたよりも 絶えはてた
夕やけ小やけの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先