飢えと渇き
床にへたりこんでから立ち上がり、歩きはじめてからもう五時間は歩き続けていた。足も腰も痛かった。それ以上に喉が渇きすぎてひりひりと痛んだ。
「みず……水が飲みたい」
絞るようにして出した声はかすれていた。
「みず……」
全身の倦怠感と惑乱してきた意識に押しつぶされて、わたしはがくりと膝をついたあと、床に仰向けに寝ころんだ。
どうなっている。マラソンだって給水所くらいはあるぞ。こんな過酷なツアーが夢への旅だって? 笑わせるな。さすがに限界だ。少し休もう。きっと給水所はあるさ。
胸が上下するほど肺も空気を求めていた。全身の毛穴からは薄気味悪いくらい汗が噴き出して服を濡らしていた。
もう少しなんとかならないのか。たしかにあの女は「過酷な旅でもあります」とかなんとか言っていたが、これは論外だ。そもそも説明にあったような自由がどこにあるっていうんだ。「貴方が求めさえすれば何でも手に入れることが出来るのです」だと? あの女は大嘘つきだ。
耳鳴りがしていた。あの女の声の耳鳴りだ。入口から歩きはじめたときに耳にした声だ。
ああ、そういえば全部聞かなかったんだったな。どうでもいいと思ったんだ。だけど――。
わたしはあの女が言っていたことをほとんど聞かなかったことを後悔しはじめていた。かといって今から引き返す気になどとうていなれなかった。喉と肺が訴える苦痛は和らぐ様子がないというのに、それに加わるように空腹感が湧いてくるのがわかった。閉じた瞼に幻覚が見えた。美味しそうなオレンジジュースだ。ごくりと唾を飲んだ瞬間、喉に激痛が走った。
「水だ! 水をくれ! オレンジジュースでもいい!」
わたしは苦痛に耐えかねて、絶叫していた。その時だった。どこからともなく、
「水ですか? オレンジジュースですか?」という、あの女の声がしたのだ。
一瞬幻聴かと思ったが、体は正直だった。条件反射のようにわたしは、
「水だ! とりあえず水をくれ!」と叫んでいたのだ。
「水ですね。承知いたしました。富士の清水をご用意いたします。夢はおおよそ五百メートル先にあります。どうぞあなたの手で夢を掴んでください」
女の声が天使のように思えた。
けれどもまだ五百メートル歩けっていうのか。
わたしは腹立たしさを感じながらも、気力を振り絞って立ち上った。
歩け、歩くんだ。水は五百メートル先だ。
自分を励ましながら、壁に手をつきながら足をひき摺るようにして歩いた。
そういえばあの声はどこからしていたんだ? そうか、壁にあるマイクとスピーカーはそのためにあったんだな。
わたしはそのことが確かめたくて、ふたたび枯れ果てた声で叫んだ。
「オレンジジュースも欲しい! たっぷりだ!」と。
「かしこまりました。オレンジジュースですね。ストレートと濃縮還元がございます。どちらかをお選びください」
「濃縮還元だ!」
「承知いたしました。濃縮還元のオレンジジュースをご用意いたします。夢はおおよそ四百メートル先にあります。どうぞあなたの手で……」
胸が躍るような高揚感に痺れながら、歩いていた。女に新しい注文を出すまでに百メートル歩いたことが確認できたこともあって、わたしの足取りは力強くなっていた。歩き、また歩き、そしてまた歩いた。視界の端に何かが見えてきた。何もなかったはずの壁から小さな棚状のものが突き出し、その上に二本のペットボトルが並んでいるのが霞んで見えた。気絶しそうなほどの喜びに打たれながら、わたしは残った数十メートルを歩ききると、貪るように水を飲んだ。
餓鬼だ。これではまるで餓鬼じゃないか。
喉元から胸へと零れた水の冷気を感じながらわたしは自嘲せざるをえなかった。なんとか潤いを取り戻しかけたことで、頭もすっきりとしはじめてきた。そこで、夢を掴むツアーのシステムについてわたしは思考をめぐらせてみた。
きっとこうだ。あのマイクとスピーカーに届く範囲でオーダーしたことは現実化する。ただしそれは範囲が限られている。おそらく自動案内という手前、頼みかたにもコツがあるのだろう。わたしはこのツアーについて記憶に残っていそうなものを洗いざらい思い出してみたあと、言った。
「焼肉定食が食べたい。肉は牛肉にしてくれ。それから、デザートもくれ。カットフルーツの詰め合わせがいい」
「承知いたしました。ご用意いたします。夢は今この場所で手にできます」
女がすぐにそう答えたかと思うと、壁の一部がスライドして穴が開き、しばらくするとその穴から焼肉定食とカットフルーツを乗せたテーブルがせり出してきたのだ。それを目にしたとき、嬉しさでわたしの頬はゆるみにゆるんだのだった。




