ゆりかごから墓場まで
通路の側壁に設けられている扉をくぐってから、ただただ歩き続けた。薄汚れた灰色の壁にあった入口に戻る気力は、もうとうに失せていた。
錆びついて鉄褐色の染みだらけになった扉を開けると、小さなテーブルに設置されたノートパソコンが見えた。近づくと、ドライブが唸る音で、コンピューターが起動していることはわかった。タッチパネルに触れるとモニターが明るく光った。画面には、宇宙から地球を見下ろした風景に重ねられた白く太い文字で、
「ようこそ夢の世界へ! 高度八万メートルの世界へ!」と、書かれていた。
周囲の薄汚れた壁と、あまりにも対照的な映像に、苦笑いを洩らさずにはいられなかった。
すると、静寂を破るかのように、突然コンピューターから音声案内が流れ出した。
「必要な情報を入力してください。注意事項をお読みのうえ、すべてに同意されましたら、あなたを夢の世界へといざないます。特別なご旅行を貴方にお届けするために当社は……」
画面には、名前、生年月日、年齢性別の入力項目があり、その下には、注意事項が箇条書きされ、さらにその下には、「同意する」というボタンがあった。
わたしがこの旅行への参加を思い立ったのは、もう随分昔のことだ。
両親と死に別れ、仲のよかった姉はずっと前に結婚して外国に住んでいた。だから、会うこともなかった。すぐ側にあったわずかな温もり。彼女との別れ。そんなふうにしてわたしは天涯孤独になったのだ。その広告を目にしたのは、孤独を味わいつくして何年かたってからだった。
「人生をやり直したいと思いませんか? いますぐコールを!」
陳腐なキャッチコピーだと思った。だが、わたしの手はなかば無意識に携帯電話にのびていた。誰かと話すことで退屈を紛らわせたかったのだろう。
「ドリームトラベル、DTセントラルへのお電話、誠にありがとうございます。このあとに続くアナウンスに従って、ご希望のコースをお選びください」
女の声が自動応答の音声案内だと気づいて、指が勝手に「切る」ボタンへと動いた。しかし、それから何日かごとにリダイヤルボタンを押している自分を見いだしたのだった。何度も女の声を聞いているうちに、ツアーの内容がどんなものかわかってきた。そうしてわたしは心を決めたのだ。
椅子ひとつ用意してくれない不親切な音声ガイドとのやりとりは、三分とかからなかった。キーボードを使って必要事項を入力しおえたわたしは、「同意する」と書かれたボタンを迷わずに押し込んだ。マーチ風のファンファレーに続いて、閑やかな音楽が流れはじめた。うら悲しい調べに似つかわしくない音声ガイドの声が、長々と注意事項を話していた。わたしは面倒になってそれを最後まで聞かずに、通路を歩きはじめた。静穏な旋律にまじって、入口の扉が軋みながら閉まる音が聞こえた。女の声はもうしていなかった。不安はなかった。不思議な感情を湧きあがらせるシンフォニーだけが遠くから響いている。それまで抑えられていた演奏が急激に盛り上がりはじめるのを耳にしたが、その曲のタイトルが『ゆりかごから墓場まで』だということを、わたしは知らなかった。