introduction
人という生き物は、ただそこに在るというだけで、矛盾を持つものである。我々の祖先は、自然界からの逸脱を図って、まず群れを成し、階級や性別による差別をもってこれを社会とした。そうした非合理的な手法を用いなければ、人間の内側の野性を御しきることは、到底できないのだと、その時祖先たちは、本能的に理解していた。こういった差別は、しかし一方で、一集団におけるそれぞれの役割を明確にし、社会そのものの生産性の向上と、次世代への継承のための、女性という機能を再分配するというメリットまでも生み出し、結果これ以上なく、人間をシステマティックな生き物に成さしめ、社会という機構は安定したスループットを出力し続けた。だがシステマティックとは、言い換えれば自然的であるということだから、結局人は、自然界の中に、人間界という模倣型を孕ませたにすぎないということになる。これもまた矛盾である。
長らく、人はその矛盾の中で生きてきた。しかしその定められた規範を、社会は今、発現の基盤たる非合理性を否定し、平等とか個人の尊重とかを試みている。しかし当然ながら非合理からの逸脱は容易ならざることである。さきほ言った通り社会とは即ち、非平等性が生み出すものだからだ。平等でないから、人は生きる。現状を打破せんと抗い、社会とか人類とか呼ばれるものをより良いものにする。言い換えれば平等とは誰が誰でも、変わりがないということだから。そんな平坦な、まるで砂漠のようなものの中で、人が集団として生きることなど、到底不可能なのである。
しかしウィンドライバーはそんな砂漠の地からきた。合理性の世界。平等の世界。耳触りのいいだけの文句に流されて、自らの社会を自壊に追い込んだものたちからの悲鳴が、即ち彼らなのだ。彼らと私たちの邂逅が、この世の正義を今一度問うことになるが、結果は歴史を見れば明らかだ。勝つのは我々だよ諸君。