冷酷な青色
我ながら、冷めているなとは思った。
家庭内が崩壊しかけていることは知っていた。
でも、何故かそれに対して何も感じず、ただただぼんやりと家庭が壊れる様を、じっと眺めていた。とりあえず自分の身を守り、両親の癇癪を逆撫でしないようにと、それだけを気をつけて生活した。料理も人並みに作れるし、家事だって自分でやればなんとかなる。小学五年生でそんなことを心得ていたのは、環境故なのだろう。
病院に入院することが増えた。理由は栄養失調とか寝不足とかで、一日一回は必ず気絶していたから。入院してなんにもすることが無くなって、つまらなくなったから脱走したりもしたけど、結局は気絶したまま見つかって病院に戻る。そんなことの繰り返しだ。
やっと病院から退院したら、もう小学校の卒業式前日だった。
トモダチってやつと友情を育むことができなくて惜しいなぁって悔しがった。
だから中学校に行ったら入院せずに、友情を育もうっていうのがあたしの目標だった。
馬鹿らしいでしょ、でも本気だったんだ。
まぁ、そんな目標も三日で崩れたけど。
入学当初から気絶して、保健室。
入学してから三日、入院してしまったのだ。
ああ、なんて面白みがない中学校生活なのだろう。
ただただ何も無く、終わってしまう。
でも、薄々勘付いてはいた。
あたしのこの病弱な体は、栄養失調とか、寝不足とか、貧血からだけではない。
「きつい・・・」
きっと、ココロが悲鳴を上げている。
助けて、助けて。
周りの人の思っていることは手に取るようにわかるのに、誰もあたしのことはわかってくれない。
誰もあたしのココロに気付いてくれない。
あたしを知ってくれるのは、あたしだけ。
あたしのセカイには、あたししかいないの。
誰もいないの。
ねぇ、あたしは独りぼっちなのに。
誰にも影響を与えられないのに。
―――・・生きている価値なんて、あるのかな。
*
「けほッ」
咳き込んで、目を閉じる。
今日は少しだけ体調がいいから久しぶりの登校だ、けれど。
来た意味はなかったみたい。
もうここに、あたしの居場所はなかった。
入学して二週間が経過、もうとっくにクラスでグループが出来あがってしまっていたのだ。つまり、入院していたせいで完全に出遅れたあたしは独りぼっち。
ああ、また。
あたしは一つ、居場所を作るチャンスを見逃してしまった。
ひやり、とココロが冷えた気がした。
雑音にも聞こえる、クラスのざわめき。
こんなに人がいるのに、皆あたしがいないみたいに生活をする。いないのに、なんであたしはここにいるのかな。
「・・・」
口を閉ざし、目を細める。
もう、どうでもいいかな。
暫く調子が良くて、そのまま一週間登校した。
その間、誰かと話をしたのは三回。
友達がいないのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。
「もうやだ・・・」
ここに、いたくない。
近くにいると、知りたくないことまでわかってしまう。
だから本当は、学校なんて嫌いで、友達なんていらなくて、一人の方が気楽だった。
怖いんだ。
人の汚いところを感じ取ってしまう、怖くて足がすくんでしまいそう。
幻滅したくない。
裏切られたくない。
人と関わることが、怖くて仕方なかったんだ。
それでもトモダチが欲しかったのは―――・・
あたしは独りでは生きていけないんだ、そう思っちゃったから。
*
半ば現実逃避だった。
屋上で深呼吸をして、壁にずり落ちるようにして座ったあたしは、持っていた本を読もうと開いたのだ。本は一つのセカイ、読む人によってセカイの在り様が変わる。
本は、好きだ。
居場所をくれる。何も無いあたしに、与えてくれる。
「ね」
ふっと声がかかり、びくりと肩を震わせた。バタッと反射的に本を閉じると、顔を勢いよく上げて周りを見渡した。すると、視界に入ったのは短くて黒い髪の女の子。
「髪綺麗だね」
いきなり何を言い出すのか、その女の子はあたしの茶髪の髪をジッと見つめながら笑った。
「地毛なんだ」
対処に困って素っ気なく返すと、その女の子はニッと口角を上げた。
「ねぇ、あんた」
「?」
「あたしも殺してみない?」
「―――・・」
絶句。
そして、呆然。
暫くして思考回路が働き、しぱしぱと目を瞬かせた。
やばい、なんか危ない人が来たんですけど。
何が危ないって、この人本当なの。マジであたしに自分を殺させようとしてるの。
ビリビリと伝わってくる、この女の子の自分に対しての殺意。
憎くて憎くて、しょうがない。
そんな感情が、抑えられることもなく流れ出ている。
待って、なんかナイフ出してきたんですけど!?
銃刀法違反で訴えるぞこら!!
ナイフをあたしに握らせ、刃先を彼女自身の心臓に向けさせる。
「さ、よく狙ってー」
待て待て待て、なにあたしに殺させようとしてんのこいつ!
死にたいなら自殺でもすればいいじゃん、やばいあたしとんでもない人に目ぇつけられた。
表情は無表情であるものの、内心パニック状態であったあたしは、何を思ったかナイフを女の子にではなく―――・・自分に向けて手に力を込めた。
「ちょ」
女の子の焦る声が聞こえた。
それでもあたしはやめない。お腹に向けて、ナイフを突き立てた。
だけど、刃先があたしのお腹に突き刺さることはなかった。
「あ・・・え・・・?」
何が起こったのだろうか、と状況把握をする。
ナイフの刃が、女の子の手によって握り潰されていたのだった。
あたしの行動に驚いた女の子が、あたしのお腹にナイフが刺さる前に握って粉砕させたのだ。
開いた女の子の手の平から、パラパラとナイフの破片がコンクリートに落ちる。
「ナイフ・・・」
ナイフが、砕けた?
「そんなにパニックにならなくても、冗談だったのにさー」
ケラケラと笑った女の子は、パンパンと手についたナイフの破片を払った。
ちょっと待て、なんでナイフが握り潰せる?
なんで怪我ひとつしていない?
「あたし、稔っていうんだ。アナタは?」
「い、郁・・・」
「郁、ね。了解」
何を了解してんだこいつ。
いきなり無理難題押し付けといて、ナチュラルに会話進めてんじゃねぇよ馬鹿野郎。
「あたしねぇ、きっとこんな安っぽいナイフじゃ死ねないの」
「は?」
「さっきも見たとおり、あたしって怪力でさ」
怪力、のせいだったのか。それにしても、人間離れしている。
「加えて、傷とか早く治っちゃうもんだから。自殺しようと自分のお腹にナイフ刺したところで、すぐ治っちゃうの。あーあ、困った困った」
呆れたように肩をすくめるものだから、いよいよこの目の前の人間はまともじゃないなってことに気付き始めた(遅い)。
でも、違うことにも気付いた。
この稔って女の子、さっきからあたしと目を合わせる。
あたしと向き合おうとしている。
稔にも、友達はいないのかもしれない。
でもその稔の行動にあたしは、多少救われてしまったのも事実だった。
*
あたしは、あたしのセカイで好き勝手遊んでいる奴を見つけた。
名前は稔、歳は同い年。
短くて黒い髪、あたしより高い身長。
太ってはいないが、筋肉で引き締まって少しだけ太くなった手足。
何か企んでいるようにも見える笑顔。
全てがあたしとは違った。
新鮮だった。
あたし以外の誰かが、あたしのセカイに居座っていることが―――・・
とても、新鮮だった。
*
「嘘つき」
あたしはそっと口にした。
あたしの目の前で固まるのは、美人で優しいと評判の幸という近所のお姉さんだった。
幸姉は目を丸くしたまま固まり、あたしは少し目を細めた。
自然と、もう恐怖はなかった。
人と関わること。
稔のおかげなのかもしれない。
私のセカイで勝手にうるさく走り回る黒髪の女の子の顔を思い出し、やれやれとため息をついた。私のセカイで生きるのは、あたしだけじゃなくなったのだ。
「え、郁ちゃん?」
ニコリと笑いながらも困惑する幸姉を見据え、あたしは口を開いた。
「笑わないで」
「え?」
「そんな笑い方するなら、笑わないでよ」
そんな笑い方って・・・?と、幸姉が困っているのが感じ取れる。
あたしはそれでも続けた。
「あたしに嘘はつかないで」
嘘ついたって、わかっちゃうから。と、言って、幸姉の視線に目を合わせた。
稔にそうしてもらったように、あたしは幸姉に同じことをした。
きっと幸姉も、苦しんでいる。
誰にもわかってもらえなくて、怖がっている。
あたしと目を合わせた幸姉は、困った笑顔をスッと消し去ると―――・・眉を潜めた。
*
あたしのセカイにもう一人住人が増えた。
名前は幸、ポニーテールの近所のお姉さん。
美人で、スタイルがよくて、笑顔がとても可愛い。
でも、嘘つき。
本当は腹黒くて、口が悪くて、笑った顔は悪人面だ。
幸姉はあれから口が悪い。けれど、あたしの前で取り繕わなくなった。
それが、どことなく嬉しかった。
セカイに居座るキャラの濃い二人を眺め、あたしは笑った。
それからどんどん住人は増えていった。
ああ、独りぼっちだったのは―――・・
あたしが線を引いていたからだったんだね。
怖がっていたからだったんだね。
この世界はまだまだ広くて、あたしには到底仲良くなれる気はしないけれど。
少しだけ、好きになったよ。
*
「やぁやぁ、郁ちゃんこんにちは」
「?」
真っ白な肌、真っ白な髪、真っ白な睫毛にグレーの瞳、真っ白な洋服。
なんてことだ。
こんな人間、テレビでだって見たことがない。顔立ちはヨーロッパ寄りではあるけど、日本語の発音に違和感なく喋っている辺り、ハーフかなと思った。
「僕は朧、親しみをこめて〝ロウ〟って呼んでくれていいよ」
ロウ・・・ああ、音読みか。
ニコリと笑ったロウに、あたしは目を細めた。
なんか、セールスマンみたいな笑顔を貼り付ける人だな。
気持ち悪い笑顔浮かべやがって、なんか怪しさ100%だし、通報したほうがいいかなぁ。
「うん、やめてね。通報しようとしないでね」
あたしが交番に足を向けようとすると、ロウが焦ったように肩に手を置く。こんなところを稔が見たら、きっとロウは誘拐犯と間違えられて半殺しにされちゃうだろうなぁって思いながら。
「ところでさ」
ロウがあたしの顔を覗く。容姿端麗な顔があたしの視界に入った。でも、ロウの輪郭は白すぎて周りの色にかき消されてしまい、少しだけあやふやになっている。
不思議な感じだ。
「郁ちゃんはさ、何も無いところに興味ない?」
「?」
「何も無いとこ」
「どういうこと?」
「そのまんまの意味さ」
クスリと笑ったロウを訝しげな表情で見つめると、ロウは更に続けた。
「何も無いセカイに行く気はないかい?」
「なにも、ない」
ロウは頷いた。
どういう意味だろう。と訊いても、そのままの意味としか答えない。
新手の誘拐犯だろうか、とも思ったが、どうやらそうではないらしい。
ロウからは何も感じられない―――・・なにも。
「何も無い世界は、素敵だよ」
「なん、で・・・」
あたしの動悸が少し高鳴った。
「何も無いってことは、何も感じなくて済むんだよ。友達関係に苦しむことも、恋愛に悩むことも、現実逃避の必要もないんだ。ああ、なんて素敵な世界だろう」
ロウはニコリと笑った。
「理想のセカイ、だろう?」
望んだことはあった。
こんなに独りぼっちを嫌うなら、こんなに寂しくなるのなら、いっそ消えてしまえばいいのかもしれない。
生きる価値なんてない、あたしには何も無い。
苦しみたくない、悲しいのも辛いのも嫌だ。
生きていると、それを感じざるを得ない。
それがあたしにとっての、最大の苦痛だったんだ。
―――・・でも、でもね。
今のあたしのセカイを見てみてよ。
「郁ぅー」
「なぁに?」
「おやつちょうだい」
稔が口を尖らせるようにして手を伸ばしている。
「郁、あたしのプリン知らない?」
「さーせん、稔に食われましたッ」
幸姉の腹黒い笑みが、あたしに向けられる。
「郁ちゃん、どうしたの?」
「ごめん唯くん、あたしプリンのせいで死んじゃうかも」
困ったように唯くんが笑う。
あたしを呼ぶ声が、周りからたくさん聞こえる。
ほら、あたしのセカイは、もうこんなに出来上がってるの。
「あらら、もう先客がいたのか」
ロウは苦笑を浮かべた。
「郁ちゃんにはもう、セカイは存在していたんだね」
「うん」
「独りぼっちの郁ちゃんなら、もしかしたら僕と一緒に来てくれるかと思ったけど」
「・・・」
「郁ちゃんは、とうに自分のセカイを持っていた」
ロウは残念そうに眉を下げ、頭を掻いた。
「あたしには何も無い世界はいらない」
「・・・」
「あたしのセカイは、ここしかないの」
「うん、そうみたいだね」
ロウは笑った。
「僕の世界はね、何も無いんだ。真っ白で、どこもかしこも何も無くて、寂しくなって飛び出した。僕はそんなセカイの一部であるけれど、同時に人間でもあるんだ」
「それは、完全な〝無〟なの?」
「どうだろう。僕自身、僕のセカイはあまりわからない」
「ロウのセカイは、何も無いんだね」
「うん」
「寂しいんだ」
「うん」
「じゃあさ」
あたしは息をついた。
「そんなセカイ、捨てちゃえば?」
ロウは寂しそうに伏せていた目を見開いた。
「え・・・」
「そんなセカイ、ロウが護る必要なんてない」
「・・・」
「寂しいなら、あたしのセカイにいなよ」
ロウは自分が勧誘する身であったから、まさか自分が勧誘される側になるとは夢にも思わなかっただろう。あたしも、そんな気はさらさらなかった。
でも、似ていたから。
稔に出会う前のあたしに、なんとなく。
ロウは驚いて固まっていたが、やがてふっと笑った。
「そうしたいのは山々だけど」
そして、手をひらりと振った。
「僕のセカイは、皆の理想だから」
哀しそうに、笑いながら。
「僕のセカイは―――・・僕の、存在意義だから」
ロウの言葉に、あたしは少しだけ胸が痛くなった。
ロウはあたしの表情を見つめると、ぽんぽんとあたしの頭を撫でて言った。
「キミは、青色だね」
「?」
「何に対しても慎重で、冷静だ。でも、稔ちゃんに会って少し変わったね」
「稔を知ってるの?」
「稔ちゃんにも、振られちゃったんだ」
ロウは苦笑を浮かべた。
「慎重であるがために、人との関わりが怖かったんだね。でも、稔ちゃんが変えた」
「どういうこと?」
「この青空みたいな、明るい色になった」
ロウがゆっくりと、空を指差した。
それにつられて、あたしも天を仰いでみる。
ああ、初めてだ。
こんなに落ち着いて、空を見上げるのは。
そして、こんなにまじまじと空を見上げるのは。
だからなのかな―――・・少しだけこの青空が、いつもより晴れ晴れして見える。
自分のココロの悲鳴は、既に消えていた。
「ばいばい、青色の郁ちゃん。今度は、キミ自身を殺してしまわないように、気をつけて」
「?」
あたしは首を傾げると、
「それってどういう―――・・」
ロウの言葉を聞き返して振り返るが、もうロウの姿は見えなかった。
神出鬼没、怪しすぎる。
「あ・・・」
そういえば、出会ったころに稔が言っていた。
―――・・あたし〝も〟殺してみない?
おかしいと思っていたが、言い間違いだと思っていた。
さして気にも留めなかった。
あたしは右手をそっと、心臓の近くに添える。
そっか、あたし。
「自分を、殺し続けてたんだ」
稔に会うまで、ずっと。
ずっと。
ずっと。
怖がって、慎重になって、人と関わらなくなって。
自分のココロの悲鳴を聞きながら、殺し続けていた。
冷酷、残虐極まりない。
見ないフリをして、何度自分が死んでいくところを眺めただろう。
でも、もう終わり。
「あれ、郁じゃーん」
「稔」
「どうしたの?あれ、今日顔色いいねぇ」
「そう?天気がいいからかなぁ」
「え、あれ天気に左右されんの!?天気予報とかできんのッ!?」
「できるわけないじゃん、馬鹿なの?」
「・・・」
稔の渋い顔を見て、笑った。
ロウ、あたしのセカイにはね。
たくさんの人がいるの。
だからあたしはもう、自分を殺す必要はなくなったんだ。
「稔ぅー」
「なになに?」
「ばぁーか」
「え、何いきなり」
ケラケラとひときしり笑ったあとに、小さく呟いた。
ありがとう。
稔に、セカイに、あたしは救われたんだ。
冷酷な青色。
あたしのセカイはいつだって、この馬鹿で人間離れした彼女なんだ。