無関心な緑色
生と死に対しての恐怖は薄かった。
病気で生と死の境目を何度も巡ったって、恐怖はなかったのだ。
普通は誰しも恐怖を持つ。それは、死が理解できないからだと思う。
死を知る者はいない。死を体験した者はもうこの世にはいないのだから。すると死は理解することができない。何故って、体験もしていないのにわかろうとする方が無謀でしょ?互いに違う環境にいる人間同士が相容れないのと同じさ。
生と死の境目。
病状が悪化するときは多々ある。昔と違って最近は知恵がついて、眠い時は寝るだけじゃなくなり、頭を使って考えることも増えた。病院生活が長いのに、成長したなってしみじみ思うよ。だって昔は何もすることが無くて、起きて、食べて、寝て、起きて、食べて、寝ての繰り返し。運動もしてないから体つきは細くなるし、顔色は年がら年中悪い。
そんなことを延々と繰り返すと思うんだ。
もしかしたら、今眠ったらもう二度と起きないんじゃないかって。
不思議だよね。
今ここにいるのに、数分したらいなくなってるのかもしれないって考えると。死ぬって言うのは体がここに無くなるだけで、存在が無くなるわけじゃない。だって、存在はちゃんと残ってるから。自分がこれまで繋がってきた周りの人たちの記憶に。
だからかな。
怖くはないんだ、いつ死んでもおかしくないこの状況下なのに。
僕は確かにここにいた。
そう言ってくれる人が、周りにいたからか。
それとも――――・・
どちらにしても、僕にはわからなかった。
死、というモノが、本当に世間が言うように残酷なモノなのかって。
*
病院生活は長かった。独特な薬の匂いにも、味気のない病院食も、大きな声を出せない病室も、長い間入院していれば慣れるモノだった。これぞ、人間の順応力。
僕は生まれつき病気を患っている。何の病気かは忘れてしまった。けど、重い病気だそうだ。小さい頃に説明された気がするけど、何やら難しいことを言っていて頭に入らなかったのだ。あまり、興味が無かった。自分が生きてることも、これから死んでも。
どうでもいい、と思うようになった。
そんな僕が唯一わかることは、この病気は治らないということ。
僕的には病状はそこまで悪くないと思う。
辛いなんて思うことも無くなったし、病状自体は生活内で全然気にならない。まあ、ときどき発作が起きることもあるけど、もう慣れた。
でも、今更学校に戻ると言うのも気が滅入ってしまった。だから、僕は口実のために病気に縋っていた。病気というのは、体の良い言い訳だった。
僕がそうやって病室に依存している中、同室の人は退院し、また別の人が入り、退院し、そんなことを繰り返していた。そうやって代わる代わる同室の人が変わっていく内に、話すことや仲良くすることも面倒くさくなって、同室の人とも関係を持つことなく寝ているだけの生活をした。同室の人が話しかけてきても、聞こえない振りをして寝る。
実に面白味のない生活。
そんな生活をして毎日を過ごしていると、やがてまた病室に新たな人が入ってきた。
女の子だ。
小学生?でも仕草は大人っぽい。髪は染めているのか、栗色の柔らかい色の長い髪にウェーブがかかり、歩く度に揺れる。
「こんにちは」
挨拶をする割に目を合わせない、その子はとても変な子だった。僕は相槌を打つように軽く頭を下げると、ベッドに横たわった。
興味はあるけど、あまり関わりたくなかったのだ。
だって、長い間病院で生活していたせいで僕は人と接する方法だってわからないのだから。
ある日、同室のあの不思議な子が僕のベッドに歩み寄った。僕は寝るふりをしようか迷った末、対処に間に合わずに諦めた。
「あなた、海ヶ丘中学三年五組の、唯くんだよね」
「え」
唐突な問いだった。
海ヶ丘中学とは、僕が通う学校。と言っても、まともに登校したことなんか一度も無い。病院に行かないといけないから、早退や遅刻がほとんどだったし。二年でクラス替えだけど、僕は全然友達とかいないから、関係無いイベントだったし。
今目の前にいる女の子は、誰なんだろう。
そんな疑問を浮かべていると、その疑問を感じ取ったのか、女の子は無表情のまま言った。
「あたし、唯くんのクラスメートで郁っていうんだ。よろしくね」
笑いもしない、表情も変えない。だけど偽りの無いその素っ気ない自己紹介は、少しだけ清々しい気がした。嘘だらけの笑顔より、ずっと心地いい。
僕は「そうなんだ」と頷くと、改めてクラスメートである郁を眺めた。
中学三年にしては幼い。
まだまだふっくらした頬は、血色が悪くて真っ白だった。心なしかやつれ、クマもできている。でもその一方、どちらかと言うと整った顔立ちをし、人形のようだった。
どちらにしても、表情は能面のように固まったままなのだが。
「キミはさ、笑わないの?」
表情が変わらないのがつまらなくなって、訊いてみる。
郁はこくんと頷くと、頬を摘んで伸ばし、口の端を無理矢理上げた作り笑いをしてみた。
「なんかね、笑えなくなっちゃった。理由はいろいろ考えてみたんだけど、家庭内事情とか、友達できないとか、体弱いとか。でも、わからなくなっちゃった。どれもそこまで悲しくもないし、辛くもないしさ」
「へぇ」
「でもね、稔と一緒だと笑えるんだ」
「稔?」
「唯くんのクラスメート、まぁ来てないからわかんないか」
来てないから、と言うのは皮肉ではないらしい。他意が感じられない。
「稔、私の唯一の理解者なの」
「理解者?」
「私と稔は、変人だから」
「・・・ああ」
風の噂で聞いたことがある。海ヶ丘中学の、僕と同い年に二人の変人がいて〝変人ペア〟なんて酷いあだ名をつけられた女の子がいるって。気の毒だななんて思っていたけど。
まさかこの子が?
「そっか」
僕は適当に相槌を打った。
あれ、そう言えば。
こんなに誰かと話したの久しぶり。兄貴はともかく、親にも看護師にも周りの人間にもあんまり話しかけられないのに、最近は。兄貴曰く、「雰囲気が話しかけにくくなった」らしい。話しかけないならそれでもいいと思って、兄貴の言葉は軽く流した。
遠ざかるなら遠ざかればいい。
僕は人形じゃない。
人形。
お前の人形なんかじゃないんだ。
だから。
勝手に僕を決めつけて、逃げ場を消して、追い詰めて。
あんたのそのやり方には、心底嫌気が差したよ。
ああ。
兄貴が兄貴でいてくれてよかった。
「唯くんてさ」
「ん?」
ハッと我に返り、声に反応して顔を上げる。すると、無表情の郁の顔が僕を覗いていた。
「面倒くさいの苦手?」
「え」
不意を突かれて漏れてしまった声。それで、確信が持てたようだ。郁は納得するように軽く頷くと、「やっぱり」と言った。
「そうか、唯くんは傍観者なんだね」
「傍観者?」
郁は頷いた。
「あたしが話しかけたとき、答えたでしょ」
「え、話しかけたら普通答えるじゃん」
「ところが、唯くんは私を避けようと暫く口実探してた」
「・・・」
確かに探してた。
だけど、僕はそんなこと言っただろうか。
そんな僕の訝しげな表情を感じ取ってか、郁は目を細めた。
「あたし、人の心に聡いの」
「ココロ?」
「そ」
心に聡い。それって、人の感情に敏感ということだろうか。
好き、嫌い。
そんな心が自然とわかる、それって面倒。
だって、相手を窺わなくちゃいけなくなるから。
「なんでだろうね、自然と相手の心がわかるようになって。隠してたって、自分に好意を持つ人間と、持たない人間の区別は完璧に出来る」
「すごいね」
「どうだろう。余計なことまでわかっちゃって、面倒くさい」
「余計なこと?」
「たとえば、少し仲良くなった子がいたとする。その子はある男の子が好きで、その男の子があたしを好きだと気付いてしまった。そうなったとき、対応って困っちゃうじゃん」
「あー、確かに」
「たとえば、相手が知られたくない秘密をあたしが知ってしまったとする。その人が表は人の良い性格だけど、裏ではすっごく腹黒い人だとか。それを知って、どうしようかとか」
「うんうん」
嫌にリアルな話だ。
多分、全部実話だろう。郁が言葉に込めた想いが、ひしひしと伝わってくる。でも、これがもし全部実話だったら、相当苦労したんだろうな。なんてふと思いながら頷いた。
「苦労はしたよ」
心を読まれた。正確には感じ取られた。なんか、心臓に悪い。
もはやほとんど超能力だ。
「でも、稔とかサチ姉とかいるし、もうなんでもいいやって」
「サチ姉?」
サチってどこかで聞いたことあるな、なんて思いながら首を傾げる。
「あたしの近所のお姉さん、めっちゃ美人で、めっちゃ嘘つき。でも、サチ姉は好きだ」
「なんで?」
「サチ姉は嘘つきだけど、人一倍嘘を嫌ってるから」
「意味わからない」
矛盾してるだろう、と言うと、郁は小さく笑った。初めての笑顔に少しだけ鼓動が高鳴る。
「唯くん」
「ん?」
「唯くん、元気になったら学校来て。稔を紹介したいから」
「稔、ちゃん?」
「そ、唯くんだったら友達になれる」
「なんで?」
「私たちと、同じだからだよ」
郁は不思議な子だった。心を感じ取ることができるのは抜きとしても、雰囲気からして、普通とは少しだけ違う。そんな郁に、少しだけ惹かれた。
学校に来て、と先生がわざわざ病院に訪れて言うときはある。でも僕は、曖昧に返事をして、適当に流しただけだった。郁に会って、少しだけ学校に興味が湧いた。郁や稔という女の子は、一体どんな人間なんだろう。と。
久しぶりに、興味が湧いたんだ。
「何事にも傍観者でありたいと願う唯くんは、やっぱり私とどこか似てるんだよ」
そうボソリと呟いた郁の声は、ぼうっとしていた僕の耳を通り抜けた。
ガラリ、と病室のドアが開く。
「あ?」
誰だよ、と呟いたのは僕の兄貴の旭だった。僕が楽しく円満に話している姿が、余程珍しかったのだろう。病室の扉を開けたままの恰好で、暫く固まっていた。やがて、ピクリと眉を動かすと「唯、お前の彼女か?」なんて馬鹿げたことを言う。
「そんなわけないじゃん」
「だよな、お前病院生活長いもんな」
兄貴は内心どこかでホッとしたように言った。何故兄貴がホッとする。
「唯くんのクラスメートの郁です。偶然同室になったので、学校の様子を話してました」
「おお、そうかそうか」
兄貴は僕と郁を見比べ、二カッと笑った。
「お前も隅に置けねェな」
「何勘違いしてるのか知らないけど、この子は僕じゃとても彼氏になれないよ」
抱えてるモノが大きすぎる、と続けた。兄貴はその言葉に首を傾げるばかりだったが、郁は伝わったのかクスリと小さく笑って、自分のベッドに戻る。
「あたしもう寝るね」
そう言った郁は、カーテンでベッドを囲むとそれっきり声は聞こえなくなった。本当に寝たのだろうか。それにしては眠りにつくのが早い。
「・・・可愛かったな」
兄貴が呟くのを横目で眺めながら、あからさまに眉を潜めてみる。
「兄貴、彼女いるじゃん。あのモデルみたいな可愛い・・・ってよりは美しい・・・確か名前―――・・名前は、サ――――・・」
〝サチ〟と言おうとした口が止まった。確か、さっきもこの名前を聞いた。確かさっきは郁が近所のお姉さんだとか言っていた。
「まさか」
まさかね、なんて思っていると、兄貴は訝しげにこちらを見つめ「サチがどうしたよ」と言っている。心なしか顔が赤いのは、惚気ととっていいのだろうか。あほらしい。
「別に?」
言うのはやめといた。もし、僕が郁と付き合ったとして、この縁がのちのち知られたら兄貴はどんなに驚くかな、なんて思えば、兄貴の焦り顔が脳裏に浮かんで面白くなった。
「なんだよ、気になるじゃねェか」
「僕の目の前で惚気た罰だよ」
「いつ惚気たッ!!」
あーあ、耳まで真っ赤にして。この純情馬鹿、僕よりも歳は上の筈なのに、僕よりも女の子の扱い方を知らない。馬鹿みたいに真っ直ぐで、馬鹿みたいに優しい。
だからこそ、絶世の美女が兄貴を選んだのかな、なんて。
「兄貴」
そう思ったりするのは、僕の心の中だけに留めておこう。
「・・・なんだよ」
からかいすぎて少し不貞腐れた兄貴に、僕は呆れ気味に言った。
「兄貴ってほんと、馬鹿だよね」
郁が寝ていることもすっかり忘れ、兄貴があり得ない程照れて騒ぎたててしまったのは、言うまでも無い。郁の為に人差し指を立てて「静かにしてよ」と言うと、兄貴は喉まで出かかった言葉を呑みこんで、大人しく椅子に座った。
こう見えても兄貴はここら辺近所で有名な、問題児兼不良だ。そんな兄貴が、万年病室にいると言ってもおかしくない病弱な弟に丸め込まれているなんていう構図は、きっと誰も想像がつかない程おかしくて堪らない。
*
僕がまだ入院したての頃。病院という箱に閉じ込められるのが嫌で、しょっちゅう病室から抜け出した。その度に僕はお医者さんから怒られて、やがて僕は病院内での問題児になった。今の兄貴みたいだったのだ。
入院したてと言っても、生まれつきの病気だから結構前だ。今から―――・・十年前かな。それまでは家でなんとかしてたけど、病状が悪化したから仕方なく。
五歳ともなれば、環境が変わればそれなりに負担がかかる。保育園にも行けなくなったし、友達とも話せない。外にも出してもらえない日も会った。そんな病院生活は、当時五歳の僕にとってはとてつもなくつまらない日々だったから。僕は病院を抜け出した。
病院付近の裏路地、薄暗くて湿っぽい通路の薄汚れたダンボールから、小さく「みぃ・・・」と鳴き声が聞こえた。僕は驚いて、弱々しい鳴き声の元を探した。
死にかけた捨て猫だった。しかも、まだ生まれて間もない。
僕は猫を抱えてみる。
服に泥がついたけど、構いやしなかった。
不思議な感じがした。
僕は医者によって生かされ、母親によって望まれ、兄貴によってここに在る。そんな僕が、僕自身の命ではなく、僕以外の小さな生命を今この手で持っている、と言うことが。
ドキリ、ドキリと意味のわからない鼓動が次第に高鳴った。
今この手を握り潰してしまえば、一つの生命を消すことができる。そんなことを五歳で思った僕は、そんなことを思う自分自身に少し恐怖を感じた。
僕は日に日に抜け出す回数を増やした。小さな布団をダンボールに敷き詰めたり、雨の為に傘を固定したり、食べ物を与えたり。そうやって世話をしていく内に、僕はその猫に愛着を持ってしまったのだろう。
気付いていた。
何故だかはわからない。もしかしたら、僕がたくさん死にかけてるからかもしれない。
笑えない冗談を心で唱えながら、猫を撫でた。
気付いていたのだ。
その猫はもう、死を免れないのだと。
猫に会って三日目。
その猫は息をしていなかった。体は硬直し、撫でたときに感じる温かさも無かった。小さな小さな生命は、三日で消えてしまったのだ。所詮僕も飼われている側だ。飼われている〝僕〟が何かを飼うことなんて、出来る筈がないのだ。
僕は病室に帰ることができなかった。
悲しかったのか。寂しかったのか。
ズキリ、ズキリと鈍い痛みが胸を走っていた。僕は服が泥だらけになっても、雨が降っても、薄暗いゴミのようなこの裏路地から離れることができなかった。
「―――――・・」
声が聞こえた気がして、ハッと我に返り顔を上げた。自分の体を見てみると、もう全身びしょぬれ。髪はお風呂に入ったみたいに水が滴り、体は冷えていた。そのせいで寒気がゾッと背筋を走る。
「唯ッ!!」
声の正体は兄貴だった。
「兄ちゃん・・・?」
出した声はビックリするほど弱々しく、微かに震えていた。僕は立ち上がると、すごい形相を浮かべながら走り寄る兄貴を見つめた。兄貴は雨が降っていると言うのに、傘をさしていなかった。乱れた呼吸は、ここに来るまで走っていた証拠だ。切羽詰まった顔からは、ずっと僕を探していたことがわかった。
兄ちゃん、雨で服びしょびしょじゃん。そこまで急がなくても、よかったのに。と僕は兄貴を見つめ、口角を上げて笑った。
「唯、てめェ何して―――・・」
兄貴は僕の顔を見るや否や言葉を失った。どうしてだろうと思って首を傾げると、兄貴は何も言わず強く僕を抱きしめた。そして、「馬鹿、馬鹿野郎」と何度も何度も呟いた。
僕は訳が分からず抱きしめ返し、「兄ちゃん?」と声をかけると、兄貴はクシャクシャと濡れた僕の頭を撫で「泣いてんじゃねェか・・・」と吐き捨てるように言った。
泣いてる?
嘘だ。
僕は今笑ってるんだよ。面白くも無いのに頬を上げて、なるべく心配させないように作り笑いをしてるところなのに。なんで、なんでだろう。
幼いながらに考え、そこで初めて僕は気付いた。
―――・・ああ、悲しかったんだ。
それで、怖かったんだ。
身近な存在が消えて無くなって、もう僕の頬っぺたを小さなザラザラした舌で舐めることもなくなって、あったかい体で僕の腕の中に収まることもなくて。
もう、どこにもいない。
そう思ったら、悲しくて。
雨で混じってしまった涙は、確かに流れていた。
もし僕が死んで、兄貴だけが残ったら。兄貴もこんな思いをしなくちゃならなくなるって思ったら、怖くなったんだ。ポッカリ空いて、風通しなよくなってしまったココロは、兄貴みたいな真っ直ぐな人には辛いだろうから。
「俺が行ったら、ベッドがもぬけの殻で」
「うん」
「お前がいなくなったって理解して探しに行ったのに、どこにもいなくて」
「うん」
「もしお前の存在が今までずっと幻だったらって、そんなことも思うようになっちまって」
「うん」
「でもお前は確かにいたから、必死こいて探して―――・・」
「うん」
兄貴は何も言わなくなった。僕が兄貴の背中をポンポンと撫でると、兄貴は更に抱きしめる力を強め、苦しくなった。兄貴の腕が微かに震えている。
やがて、兄貴は口を開いた。
「勝手に、いなくなんなよ・・・」
「うん、ごめんね」
兄貴の言葉に頷くと、兄貴はパッと腕を離した。
「お前、そう言えばなんでここに?」
「猫、が・・・いて」
「猫?」
そこまで言って兄貴の視線が僕の足元に止まった。もう動かないことを知らしめるように倒れている、一つの小さな体。雨に降られ、びしょびしょだ。
「そうか、お前ずっとここで」
「うん」
「よかったな」
自分が死んで泣いてくれるような良い奴と出会えて、と兄貴は続けた。それは猫に言った言葉なのだろう。僕は目を伏せ、それから歯を食いしばった。
死。
死が恐怖を与えるのは、理解できないからじゃない。周りが、自分と同じように悲しむことを考えることができないからだ。兄貴のように、僕が死んで死にたくなるほど悲しくなってしまうことが、安易に予想できてしまったからだ。
泣いた。
五歳にもなると言うのに、兄貴は僕が泣いたところを見るのは初めてだそうだ。我慢強く、何に対しても無関心だった僕が、初めて人間らしくなった瞬間だと言う。
初めて人間になったその瞬間は、思ったよりもずっとずっと―――・・ずっと辛かった。
猫の死体は、次の日病院の木の下に埋めた。
*
「唯くん、ようこそ」
真っ白な世界に、真っ白な人間。瞼を持ち上げれば、奇妙な世界が広がっていた。
「夢、かな」
「半分正解」
「残りの半分は?」
当たり前のように話している白い人間は、現実ではかなり怪しい人物だった。真っ白な髪の毛(白髪にしては若い)に真っ白な睫毛、眉毛、肌も真っ白な純白だと思っていると、服も白衣のように真っ白だ。瞳がグレーな辺り、外人だとも考えた。だけど、真っ白な髪を持つ外人は、テレビでも見たことが無い。
とにかく、現実離れをしていた。
「残りの半分は、現実だってことさ」
「どう言う意味?」
「そのまんまの意味だよ」
「・・・あっそ」
これ以上聞いても何も出ないと思い、僕は早々に真っ白な男に興味を失った。男はそのことに驚き「もう何も訊かないのかい?」と首を傾げる。
「じゃあ訊くけど」
僕は言った。
「僕に昔の記憶を見せたのはキミ?」
「あらら、気付いてたんだ」
男は面白そうにクスクス笑った。何がそんなに面白いんだ。僕はそれを肯定と認め、眉を潜めて男を睨みつける。別に今更悲しいと言う感情はないけど、昔の嫌なことを掘り返されたら誰だっていい気はしないだろう。
「キミみたいな無関心な子が、随分とあの猫には執着してるんだね」
「だったら何?アンタに迷惑でもかけてるの?」
自然と口調が荒くなる。最初から気に食わないのだ。何でも見透かしているようなグレーの瞳、人を見下しているように見つめるあの態度。全て気に食わない。
「かけてはないさ」
男はニッと笑った。
「単刀直入に訊こう。キミ、この世界に来る気ない?」
この世界、と言うのは僕が立つ〝真っ白な世界〟ということだろう。否、立っているのかも怪しい。床も壁も天井も見えない、立っている感覚だってない。ただ浮いているように、ふらふらと足元が安定しない。
「この世界に来ると、どうなる?」
「ふふ、冷静だね。やっぱりキミは傍観者だ」
傍観者。郁が僕に向かって言った言葉だ。僕は言葉の意味がわからず訝しげな表情を浮かべると、男は柔らかな笑みを浮かべながら更に続けた。
「傍観者。事の在り様を横から眺める、それ故冷静に物事を見極めることができる。普通はそんなことできないはずなんだ。人間は誰しも言ってることやってることには主観が入るからね。でもキミはできる、傍観しているだけだから。キミが死に対しての恐怖が薄いのも、そのせいさ」
「郁が言ってたのは・・・」
そのことか、と僕は納得した。確かに、例えがうまい。
「ここに来ると、無が手に入る」
「無?」
「世界自体が無いのさ、真っ白だからね。友達関係にも、キミが以前感じたポッカリとココロに穴が空いたような喪失感も、辛い想いも悲しい想いも、全て感じなくなる」
「全て・・・」
感じなくなる。
辛くなるから、無関心でいた。
ずっとずっと、何に対しても冷めていた。
家庭の事情も歪み、気が許せる人間は兄貴しかいなくて、でもそんな中でも僕はずっと傍観者であった。
ありたかった。
昔の僕のように、猫が死んでも揺らぐことがないような―――・・そんな強い心を持てたなら、どんなに楽だっただろう。そんなことを何度も何度も思った。だから僕は全てを世界から除外した。どんなに仲が良くても、僕の世界に入れない。
別れが辛くなるからね。
そうやって自分に言い訳をしてきた。ずっとずっと、繋がりを持たなかった。
「僕の世界は完璧さ。無は理想、理想は無。全てを受け入れ、更に無になる。僕自身だって無いのさ。ただそこに在るだけ」
「ただ、そこに・・・」
僕は男に手を伸ばす。縋りたい、消えてしまいたい。
あんな辛い想いをするなら、再び悲しい想いをしなければならないのなら、この真っ白な世界に消えて無くなれたら、どんなに楽だろう。
死にたくない、消えたい。
僕と繋がった全ての人間から、僕の存在を消すことができたなら。兄貴は僕を護ることも、探すことも、縋ることもしなくてよかった。
僕がいないことになれば、よかったんだ。
――――・・
「・・・・・も・・」
「え?」
逃げたい、消えたい。
「でもね」
僕は男に伸ばしていた手を、ゆっくりゆっくり下げた。
「約束したから」
瞼を閉じ、一言一言を大事に紡ぐ。
――――――――――・・勝手に、いなくなんなよ・・・
いつもよりずっと弱々しい声で、掠れた声で、震えた声で、兄貴は僕に縋るように言った。だからこそ、僕はずっとここに在った。僕の存在を肯定してくれる人間がいたから。
「無関心なのは、外側だけか」
男が呟いた。
「キミのお兄さんだけは、無関心じゃいられないんだね。キミが思ってるよりもずっと、キミはお兄さんに執着しているってことさ。無関心なら、白に干渉しないし好都合だと思ったけど、さしづめキミは緑ってとこかな?」
「緑?」
「平和主義、我慢強くて―――・・自分に疎そうだ。それでいて、確かに色は存在する。毒々しい色ではないものの、白には相応しくない」
「・・・」
「はぁ、残念。ミノルちゃんは真っ赤で怖いし、唯くんもちゃんと色を持ってる。果たして白に見合う白は、この世に存在するのかな?」
男はそう言うと、言葉通り残念そうに眉を下げた。
「僕は朧。親しみをこめて〝ロウ〟って呼んでくれて構わないよ。ま、もう出会うことも無いだろうけどね」
「どう言うこと?」
「帰っていいよ。僕はまだ、人探ししなくちゃいけないんだ」
「ちょッ・・・」
「バイバイ、唯くん」
自分勝手に自分の世界に連れてきて、自分勝手に再び帰す。そんな朧は、やはり現実ではなかったようだ。真っ白な世界が段々と黒くなる。瞼が、落ちたようだ。
*
「唯?」
起きたのか、と兄貴は笑う。随分と眠っていたようだ、もう夕方なのか病室が夕焼けの色で染まっている。僕は小さく欠伸をし、兄貴の顔を見た。
「おはよ」
「おう」
兄貴は椅子に座り、ずっと僕を見ていたそうだ。
「えらく懐かしい夢見てたよ」
「懐かしい?」
「ううん、なんでもない」
兄貴は訝しげに僕を見つめ、首を傾げた。僕はその様子に軽く笑みを零した。
「兄貴」
「あん?」
「兄貴って寂しがり屋だったんだねー」
「なッ!?」
何の話だ!!と叫ぶ兄貴の声で起きたのか、隣のベッドの郁が顔を出した。それに気付き、兄貴は椅子の上で縮こまる。僕は、ははッと笑いながら体を起こした。
「いなくなんないよ」
いつかの兄貴の言葉を思い出した。
「僕は、兄貴がいる限り」
「ゆ―――」
「死ぬ気なんてこれっぽっちもないや」
兄貴の表情は見なかった。僕はそれだけ言うと、再びベッドに倒れ込んで瞼を閉じた。
死ぬ気なんて無いよ。
怖くないのと、死にたいのはまた別の話だ。まだこの世に僕に頼る人間がいるのなら、僕の存在理由を見出してくれる人間がいるのなら、僕はまだここに在りたい。
朧には悪いけど、ね。
無関心な緑色。
僕の〝理由〟は、兄貴が創った。