隣室の拍手
大学を卒業した春、私は就職を機に地元を離れ、東京へ引っ越してきた。
知り合いもいない街。 慣れない満員電車。 初めての一人暮らし。
最初の数か月は、毎日が慌ただしかった。
仕事を覚えるだけで精一杯で、家に帰れば食事を済ませて寝るだけ。
休日は洗濯や掃除をしているうちに終わってしまう。
それでも少しずつ生活には慣れ、気が付けば一年が過ぎていた。
二年目になる頃には仕事にも余裕ができ、休日に近所を散歩することも増えた。
三年目ともなれば、この街はもう“住み慣れた場所”になっていた。
私が住んでいたのは、築十数年ほどの二階建てアパート。
派手さはないが、駅から徒歩十分。
会社までも電車で二十分ほどと通勤にも便利だった。
住人同士の付き合いはほとんどない。
朝、顔を合わせれば「おはようございます」と軽く会釈を交わす程度。
それくらいの距離感が、私には心地よかった。
隣の二〇二号室にも、同じくらいの年齢に見える男性が住んでいた。
名前も仕事も知らない。
けれど、朝に出勤時間が重なれば挨拶を交わし、宅配便が届いていれば「預かっていますよ」と声を掛け合う。
そんな、ごく普通の隣人だった。
だからこそ、その日も特に何も思わなかった。
休日の昼過ぎ。
買い物へ出掛けようと玄関を開けると、二〇二号室の前に引っ越し業者のトラックが止まっていた。
男性は段ボールを運び出す作業を眺めている。
私に気付くと、小さく頭を下げた。
「こんにちは」
「こんにちは」
いつも通り挨拶を返す。
少し迷ったあと、私は口を開いた。
「……お引っ越しですか?」
「ええ。転勤になりまして」
そう言って苦笑する。
「そうだったんですね」
「三年間、お世話になりました」
その言葉に、私も思わず笑顔になった。
「こちらこそ。お元気で」
短い会話だった。
それだけで十分だった。
夕方には部屋の中は空になり、トラックも走り去っていった。
二〇二号室は静まり返り、玄関にはもう人の気配はなかった。
新しい住人が入るまでは、しばらく空室なのだろう。
私はそう思っていた。
その日の夜も、いつもと変わらない。
夕食を済ませ、お風呂に入り、テレビを眺める。
眠くなったところで電気を消し、ベッドへ入った。
静かな夜だった。
春先とはいえ少し肌寒く、窓の外では風が吹いている。
時計を見ると、午後十一時を少し回っていた。
そろそろ眠ろう。
そう目を閉じた、その時――パン。
乾いた音がした。
私は目を開ける。
(……なんの音?)
一度だけ。 誰かが手を叩いたような音だった。
テレビでも付けっぱなしなのだろうか。
そんなことを考えて耳を澄ませる。
しばらく待ったが、それ以上は何も聞こえなかった。
「気のせいかな……」
独り言を呟き、私は眠りについた。
翌日
仕事を終えて帰宅し、夕食を済ませる。
いつも通りの一日。
昨日の拍手のことなど、すっかり忘れていた。
時計の針が午後十一時を回る。
部屋の電気を消し、布団へ潜り込む。
その時だった。
パン。
昨日と同じ音。
思わず目を開く。
(……また?)
少し間が空き、パン。
もう一度。
それで終わりだった。
私はベッドから起き上がり、壁に耳を当てる。
隣の部屋だろうか。
いや、昨日引っ越したばかりだ。
まだ誰も住んでいないはず。
管理会社が掃除でもしている?
いや、この時間に?
考えれば考えるほど分からなくなる。
結局、その夜も理由は分からないまま眠りについた。
そして三日目の夜。
午後十一時。
私は時計を見つめていた。
昨日と一昨日。
どちらも同じくらいの時間だった。
「……まさかね」
そう苦笑した、その瞬間だった。
パン。
心臓が跳ねる。
やっぱり、聞こえた。
昨日と同じ。
一昨日と同じ。
乾いた拍手の音。
部屋の中は静まり返っている。
聞こえるのは、自分の呼吸だけ。
そして――パン。
また、一つ。
私は息を呑んだ。
音は確かに、壁一枚向こうから聞こえてきていた。
けれど、その部屋には誰も住んでいないはずだ。
■ ■ ■
翌朝
目が覚めても、昨夜の拍手が頭から離れなかった。
(気のせい?)
そう思いたかった。
けれど、三日続けて同じ時間に聞こえた以上、偶然とは思えない。
会社へ向かう支度をしながら何度も考えた。
空室なのに音がする理由。
考えても答えは出なかった。
その日も仕事は忙しく、昼頃には拍手のことなど忘れていた。
だが、帰宅して玄関の鍵を開けた瞬間、思い出してしまう。
(今夜も鳴るのだろうか)
そう思うだけで胸が重くなった。
午後十一時。 私はベッドに入らず、部屋の明かりも消さずに時計を見つめていた。
秒針がゆっくりと進む。
そして―― パン。
聞こえた。
壁の向こうから。
私は思わず立ち上がり、玄関を飛び出した。
隣室の前へ行く。
部屋は真っ暗だった。
郵便受けには「空室」の札が差し込まれたまま。
耳を澄ませる。
何も聞こえない。
だが、自分の部屋へ戻った途端――パン。
(また鳴った…)
まるで、部屋へ戻るのを待っていたかのように。
その夜から拍手は毎晩聞こえるようになった。
午後十一時――決まって同じ時間だった。
一回だけの日もあれば、三回続く日もある。
五回聞こえた夜もあった。
だが、それ以上は鳴らない。
数分もすると、何事もなかったように静寂が戻る。
私は管理会社へ相談した。
「隣の部屋から拍手が聞こえるんです」
担当者は困ったように笑った。
「昨日も確認しましたが、二〇二号室は空室です。誰も入っていませんよ」
「でも、本当に聞こえるんです」
「建物の音ではないでしょうか」
納得できなかった。
それでも、管理会社は鍵を開けて部屋を見せてくれた。
家具は何一つない。
照明も消えたまま。
埃ひとつない、がらんとした部屋だった。
もちろん、人の姿などない。
私は何も言えなくなった。
それから数日後。
今度は隣の住人ではなく、向かいの部屋に住む女性へ聞いてみた。
「夜、拍手みたいな音って聞こえませんか?」
「拍手?」
女性は首を傾げる。
「聞いたことないですよ」
「本当に?」
「ええ」
聞こえているのは、私だけだった。
それから私は、午後十一時が怖くなった。
テレビを大音量で流しても、イヤホンで音楽を聴いていても、不思議なことに、拍手だけは聞こえた。
耳元で鳴っているわけではない。
壁の向こうから聞こえてくる。
どんな音よりもはっきりと。
眠れない日が増えた。
仕事中も集中できない。
目の下には隈ができ、同僚から「体調悪い?」と心配されるようになった。
限界だった。
私は引っ越すことを決めた。
幸い、会社にも近い部屋が見つかった。
今度は鉄筋コンクリート造のマンション。
隣の生活音もほとんど聞こえない。
引っ越しの日。
最後に部屋を見渡す。
三年間暮らした部屋。
楽しかった思い出もあった。
けれど最後の数週間は、午後十一時を恐れる毎日だった。
「もう、終わり」
誰に言うでもなく呟き、私は鍵を返した。
新しい部屋での生活は快適だった。
拍手は聞こえない。
午後十一時になっても、静かなまま。
ようやく普通の生活が戻ってきた。
私は心の底から安堵した。
あの出来事も、時間が経つにつれて思い出さなくなっていった。
数年後。
私は結婚し、夫と暮らしている。
仕事も順調で、穏やかな毎日を送っていた。
あのアパートのことを思い出すことは、ほとんどない。
――ただ、一つだけ。
今でも、たまに夢を見る。
あの部屋で、一人眠っている夢。
時計の針は午後十一時を指している。
静まり返った部屋。
私は夢の中で、“もう聞きたくない”と思っている。
それでも――パン。
拍手が鳴る。
パン。
また一つ。
私は飛び起きる。
隣では夫が静かな寝息を立てている。
時計を見る。
午前三時。
部屋は静まり返っていた。
もう、拍手は聞こえない。
聞こえないはずなのに。
夢の中で聞いたあの乾いた音だけは、耳の奥にいつまでも残り続けていた。
私は眠れないまま、夜が明けるのを待った。
あの日から何年経っても――
あの拍手だけは、忘れることができなかった。
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