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短編集

隣室の拍手

作者: 火川蓮
掲載日:2026/07/25

大学を卒業した春、私は就職を機に地元を離れ、東京へ引っ越してきた。

知り合いもいない街。  慣れない満員電車。  初めての一人暮らし。

最初の数か月は、毎日が慌ただしかった。

仕事を覚えるだけで精一杯で、家に帰れば食事を済ませて寝るだけ。

休日は洗濯や掃除をしているうちに終わってしまう。


それでも少しずつ生活には慣れ、気が付けば一年が過ぎていた。

二年目になる頃には仕事にも余裕ができ、休日に近所を散歩することも増えた。

三年目ともなれば、この街はもう“住み慣れた場所”になっていた。


私が住んでいたのは、築十数年ほどの二階建てアパート。

派手さはないが、駅から徒歩十分。

会社までも電車で二十分ほどと通勤にも便利だった。


住人同士の付き合いはほとんどない。

朝、顔を合わせれば「おはようございます」と軽く会釈を交わす程度。

それくらいの距離感が、私には心地よかった。


隣の二〇二号室にも、同じくらいの年齢に見える男性が住んでいた。

名前も仕事も知らない。

けれど、朝に出勤時間が重なれば挨拶を交わし、宅配便が届いていれば「預かっていますよ」と声を掛け合う。

そんな、ごく普通の隣人だった。

だからこそ、その日も特に何も思わなかった。


休日の昼過ぎ。


買い物へ出掛けようと玄関を開けると、二〇二号室の前に引っ越し業者のトラックが止まっていた。

男性は段ボールを運び出す作業を眺めている。

私に気付くと、小さく頭を下げた。


「こんにちは」


「こんにちは」


いつも通り挨拶を返す。

少し迷ったあと、私は口を開いた。


「……お引っ越しですか?」


「ええ。転勤になりまして」


そう言って苦笑する。


「そうだったんですね」


「三年間、お世話になりました」


その言葉に、私も思わず笑顔になった。


「こちらこそ。お元気で」

短い会話だった。

それだけで十分だった。

夕方には部屋の中は空になり、トラックも走り去っていった。


二〇二号室は静まり返り、玄関にはもう人の気配はなかった。

新しい住人が入るまでは、しばらく空室なのだろう。

私はそう思っていた。


その日の夜も、いつもと変わらない。

夕食を済ませ、お風呂に入り、テレビを眺める。

眠くなったところで電気を消し、ベッドへ入った。


静かな夜だった。

春先とはいえ少し肌寒く、窓の外では風が吹いている。

時計を見ると、午後十一時を少し回っていた。

そろそろ眠ろう。


そう目を閉じた、その時――パン。

乾いた音がした。

私は目を開ける。


(……なんの音?)


一度だけ。 誰かが手を叩いたような音だった。

テレビでも付けっぱなしなのだろうか。

そんなことを考えて耳を澄ませる。

しばらく待ったが、それ以上は何も聞こえなかった。


「気のせいかな……」


独り言を呟き、私は眠りについた。


翌日


仕事を終えて帰宅し、夕食を済ませる。

いつも通りの一日。

昨日の拍手のことなど、すっかり忘れていた。


時計の針が午後十一時を回る。

部屋の電気を消し、布団へ潜り込む。

その時だった。

パン。


昨日と同じ音。

思わず目を開く。


(……また?)


少し間が空き、パン。

もう一度。

それで終わりだった。


私はベッドから起き上がり、壁に耳を当てる。

隣の部屋だろうか。

いや、昨日引っ越したばかりだ。

まだ誰も住んでいないはず。


管理会社が掃除でもしている?

いや、この時間に?

考えれば考えるほど分からなくなる。

結局、その夜も理由は分からないまま眠りについた。


そして三日目の夜。


午後十一時。

私は時計を見つめていた。

昨日と一昨日。

どちらも同じくらいの時間だった。


「……まさかね」


そう苦笑した、その瞬間だった。


パン。


心臓が跳ねる。

やっぱり、聞こえた。


昨日と同じ。

一昨日と同じ。

乾いた拍手の音。


部屋の中は静まり返っている。

聞こえるのは、自分の呼吸だけ。

そして――パン。

また、一つ。


私は息を呑んだ。

音は確かに、壁一枚向こうから聞こえてきていた。

けれど、その部屋には誰も住んでいないはずだ。


■ ■ ■


翌朝


目が覚めても、昨夜の拍手が頭から離れなかった。


(気のせい?)


そう思いたかった。

けれど、三日続けて同じ時間に聞こえた以上、偶然とは思えない。


会社へ向かう支度をしながら何度も考えた。

空室なのに音がする理由。

考えても答えは出なかった。

その日も仕事は忙しく、昼頃には拍手のことなど忘れていた。


だが、帰宅して玄関の鍵を開けた瞬間、思い出してしまう。


(今夜も鳴るのだろうか)


そう思うだけで胸が重くなった。

午後十一時。 私はベッドに入らず、部屋の明かりも消さずに時計を見つめていた。

秒針がゆっくりと進む。


そして―― パン。


聞こえた。

壁の向こうから。

私は思わず立ち上がり、玄関を飛び出した。


隣室の前へ行く。

部屋は真っ暗だった。

郵便受けには「空室」の札が差し込まれたまま。

耳を澄ませる。

何も聞こえない。


だが、自分の部屋へ戻った途端――パン。


(また鳴った…)


まるで、部屋へ戻るのを待っていたかのように。

その夜から拍手は毎晩聞こえるようになった。

午後十一時――決まって同じ時間だった。


一回だけの日もあれば、三回続く日もある。

五回聞こえた夜もあった。

だが、それ以上は鳴らない。


数分もすると、何事もなかったように静寂が戻る。

私は管理会社へ相談した。


「隣の部屋から拍手が聞こえるんです」


担当者は困ったように笑った。


「昨日も確認しましたが、二〇二号室は空室です。誰も入っていませんよ」


「でも、本当に聞こえるんです」


「建物の音ではないでしょうか」


納得できなかった。

それでも、管理会社は鍵を開けて部屋を見せてくれた。


家具は何一つない。

照明も消えたまま。

埃ひとつない、がらんとした部屋だった。


もちろん、人の姿などない。

私は何も言えなくなった。

それから数日後。

今度は隣の住人ではなく、向かいの部屋に住む女性へ聞いてみた。


「夜、拍手みたいな音って聞こえませんか?」


「拍手?」


女性は首を傾げる。


「聞いたことないですよ」


「本当に?」


「ええ」


聞こえているのは、私だけだった。

それから私は、午後十一時が怖くなった。


テレビを大音量で流しても、イヤホンで音楽を聴いていても、不思議なことに、拍手だけは聞こえた。


耳元で鳴っているわけではない。

壁の向こうから聞こえてくる。

どんな音よりもはっきりと。


眠れない日が増えた。

仕事中も集中できない。

目の下には隈ができ、同僚から「体調悪い?」と心配されるようになった。


限界だった。

私は引っ越すことを決めた。

幸い、会社にも近い部屋が見つかった。

今度は鉄筋コンクリート造のマンション。

隣の生活音もほとんど聞こえない。


引っ越しの日。

最後に部屋を見渡す。

三年間暮らした部屋。

楽しかった思い出もあった。

けれど最後の数週間は、午後十一時を恐れる毎日だった。


「もう、終わり」


誰に言うでもなく呟き、私は鍵を返した。

新しい部屋での生活は快適だった。

拍手は聞こえない。

午後十一時になっても、静かなまま。

ようやく普通の生活が戻ってきた。


私は心の底から安堵した。

あの出来事も、時間が経つにつれて思い出さなくなっていった。


数年後。

私は結婚し、夫と暮らしている。

仕事も順調で、穏やかな毎日を送っていた。

あのアパートのことを思い出すことは、ほとんどない。

――ただ、一つだけ。

今でも、たまに夢を見る。


あの部屋で、一人眠っている夢。

時計の針は午後十一時を指している。

静まり返った部屋。

私は夢の中で、“もう聞きたくない”と思っている。


それでも――パン。

拍手が鳴る。

パン。

また一つ。

私は飛び起きる。


隣では夫が静かな寝息を立てている。

時計を見る。

午前三時。

部屋は静まり返っていた。

もう、拍手は聞こえない。


聞こえないはずなのに。

夢の中で聞いたあの乾いた音だけは、耳の奥にいつまでも残り続けていた。


私は眠れないまま、夜が明けるのを待った。

あの日から何年経っても――

あの拍手だけは、忘れることができなかった。

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