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『私、何してたんだっけ……?』
部屋の真ん中にポツンと立っているだけ。何をしようとしたのかも何をしていたのかも分からない。思い出そうと辺りを見回すが、何かの途中だった訳でもなさそうだ。
窓の外は暗く、ベッドにある時計は七時を過ぎていた。
『……あれ、こんなにぬいぐるみ少なかったっけ?』
もう少し山のように積んであって、黒い何かがそこによく入り込んでいた様なあやふやな記憶が頭を過る。だが、やはり何も思い出せない。
部屋の外に出ると、空き部屋の扉が開いていた。誰か入っているのかと思い、中を覗くもそこには誰もいなかった。山積みのダンボールと私が小中で作った工作などが積み上げられているだけ。
『あれ? そもそも、こんな空き部屋あったっけ?』
私の記憶がすっぽりと抜けているような感覚。放課後にひよりと遊んだ記憶が無い。そもそも放課後の記憶が無い。
『ねぇ、ウィ……ウィ?』
私が向いた方向に当然人の姿はない。だが、私は今、そこにいるはずの何かに話しかけようとした。けれど、それが誰なのかやはり思い出せない。
静かな階段を降り、リビングに向かう。夕ご飯の匂いが鼻を抜け、椅子へ吸い寄せられる。私と同じ様にお父さんも顔を出す。テーブルにはすでに三人分の夕食が並べられ、そのどれもから美味しそうな香りと湯気を立ち昇らせる。
『あら、丁度出来たところよ。座って』
手を合わせ、箸を取る。広く広げられた食器達、一つの椅子に積み上げられた書類。私たちはいつもと変わらず楽しいお話をしながら夕食の時間を過ごす。テレビに一緒に反応し、笑う。余った一つの唐揚げを私にくれ、美味しく頬張る。そして箸を置き、手を合わせる。
『お風呂入っちゃいなさい』
元気な返事を残し、自室へ戻る。だが、なぜか空き部屋の方へ一歩踏み出しており、不思議に思いながら進めた一歩を引く。
扉を閉め、服を脱ぐ。夜になっても生暖かい夏の空気が私の全身をそっと包む。蛇口を捻り、夏にも関わらず一晩で冷めきった水が鮎になるのを眺める。冷たい水の感触が段々と生ぬるく変わっていき、私の足元を全て濡らす。
視界にノイズが入る様にブレ、一瞬その生暖かい水が赤く血のように映り、私は思わず後退る。脳裏に浮かんだのは誰かの苦痛の表情。だが、それはフラッシュバックの様に現れてはすぐに消える。再度視線を落とすと何事も無かったかのように水が流れていた。
何かがおかしい。今日の私は何かがおかしい。曇った鏡を水で流し、自分自身を見つめる。どこにも傷は無い。身体の変化も無い。鏡に映るのはただの私。女子高生の私。この家の長女の私。
『……? 長女? 私以外に誰かいたっけ?』
なにも思い出せない。ただこれは普通でないのは確かだ。頭からシャワーを被り、その何かを思い出そうとする。
そう、確か私はこうして大量の水に打たれていた。
生ぬるく、天からまるでシャワーの様に降り注いでいた。ゆっくりと上を見上げ、光る電気を眺める。
そう、確か私は光る空を見上げていた。
青白い光が私を照らした。けれど、こんなに長くも無く、温かくも無い。もっと怖くて、逃げられなくて、どうしようもないと思うような光だった。静かに鏡を見つめ、瞬きをすると黒い何かが私の右上に見えた気がした。
そう、確か私の周りによくいた。ウザったいけど優しくて。けど、非情を装う存在。それでも、私はそれが何か分からない。どうやって浮いてるのかも、身体の中身がどうなってるのかも、私は何も分からない。
『やっぱり、おかしいよ。私……いや、この世界は!』
私は水を止め、扉を勢いよく空けた。温かい空気が外へ逃げ出し、洗面所の鏡も曇らす。ぼやけて映るのは私の白い肌。ここに映る私は心までもが白い。何も知らず、何もしていない。だが、私はもっと黒い。何人も殺した。何人もの願いを終わらせてきた。私のために。私の願いのために――
『反転の星に願いを……トランスフィグラーレ』
胸を焦がすこの熱を、身体をきつく締め付けるこの服を、内腿に触れる金属の感触を、私は憶えていた。私は今思い出した。こんな世界が嫌だから魔法少女になったんだ。私には妹がいる。もうじき死んでしまうかもしれない妹がいる。
鏡に映る私は黒い。濡れていた肌も、髪も何もかも乾き切っている。私は固く拳を握りしめた。爪が肌に突き刺さり、ゆっくりと血が滲む。だが、痛みは無い。あの食事も美味しいとは感じられなかった。これは現実ではない。
私は家を飛び出して走り出した。人通りの少ない住宅街を飛びぬけ、私はあの場所へ向かった。色々な所から夕食の匂いが漂い、余暇を楽しむ子供の笑い声が薄く聞こえる。だが、私は魔法少女になった。そんな時間も全て費やした。願いを叶えるために。
妹を助けたい。こんな生活が嫌だったから。どこか暗くて、枷の付いたように動かない世界が嫌だから。私の心の重荷を下ろしたかったから。
もう何年も前の記憶が呼び起こされる。他愛もない、『覚えている意味があるのか』と聞きたい会話。鮮明に、ハッキリと想い起こされる景色。そして、妹が事故に遭ってからの静かで、暗く、重くなった世界。年月が立つにつれ段々と重くなっていくが、視界は明るくなっていく世界。諦めたはずだった世界。
その記憶が溢れるにつれて、涙が溜まる。だが、私は走る。この涙を置いて走り続ける。息苦しくても、躓いても、道が合っているか分からなくても走る。
おぼろげな記憶を辿り、飛び進む。一つの薄暗い路地を通り過ぎた瞬間、脚が止まった。何かに導かれるように私はその路地に吸い込まれた。
ビルの間に薄っすらと差す月の光が、建物の壁に生えた深緑色のコケ優しく照らし、時折水滴が静かに落ちる。排気口からは油と鉄とが混ざり合った変な匂いが鼻を刺激する。明らかに人間が通るような場所ではない。
ネズミが私に驚き、横を逃げて行くが、止まらずに進み続ける。記憶にある何本もの分かれ道を抜け、自然と足が止まる。
『ウィ、ウィルネさん?』
足元からガサゴソと動く音が聞こえ、その様子を眺める。身体を屈めて浮き上がる気配のないウィルネさんを覗き込むと丸々と太ったネズミが私の脚の間を通り、暗闇へ駆けだしていった。
『……今更ネズミが怖いのかい? 何回も死にかけているのに』
勢いよく顔を上げると黄色く目が光る二頭身の謎の生物が私の頭の上を優雅に浮いていた。どこか恥ずかしさがあり、咳払いをしながら立ち上がる。視線の高さが重なり、奥の深い目を見つめる。私の知るウィルネさん。よく知らないウィルネさん。
『聞きたいことが沢山あるんです。覚悟していてくださいね』
私はウィルネさんを睨みながら手を伸ばした。
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