逸脱に間に合う
自らの欠陥の中で焚火を起こし、側に立てかけた携帯スピーカーで音楽を流して踊るのが僕だ。宇宙への旅が寂しいことも知っているし、朝起きるのがダルいことも知っている。その他知るべきこと、何でも知っている。知識を集積したうえで知識の不要を説くなんてことは真実でも何でもなく、所詮は趣味に過ぎないんだ。自分を滑稽にみせることに注力する人々を趣味人という。それが意識的どうかはあまり重要ではない。
残念だ。人にとっては何かしら中途半端なことを成し遂げ、後々になって相対的な優越に浸るのが安定する人生攻略法なんだ。中途半端な人はたびたび自分の価値を確かめたくなって社会に対しラインを引いて上下関係を生み出し、自分の暮らすセーフティの味を噛みしめる。ここまでの文章自体、そんな人間の特徴をよく表している。批判するのもされるのも同じ。人はどこまで行っても人だし、他人同士と言いつつそんなには変わらないのかもしれない。今までに誰かしら変わろうなんて決心したことがあったっけ。いつだって誰だってそのときにしたことをしているよ。君ってばやりたいことができてないなんて変わっているね。もしそうだとしたら君の過去とは誰の物だったのだろう。幸せと辛苦とは責任の一点において必ず同一人物に課されることになっている。これはどれだけ国の腐敗政治が蔓延ろうと職場で劣悪な上司が猛威を振るおうと、神さまの不変の決まり事なんだ。よく道徳的な話にある、大変なことは自ら進んでやろうっていうのは別に見返りを期待しての行為ではなかった。辛いことを引き受けるのは幸せを引き受けるのと等価であると、これは論理学あるいはピアノ教室をかじったことのある人間ならだれもが肌で理解するところの1項である。大体頑張ったからって良いことが必ず起きるはずがない。それに自分は頑張っているから大丈夫だなんて本気で思い込むような奴は全員滅べばいいと思っている。心底滅んでしまえばいい。ああ、もう終わりにしよう。すでにそういう類の人間は余すとこなくこの世から消え去ったと仮定して、でも君はまだその身をここに残している。つまりだ。仮定の話をしてみたところで現実には何の影響もないということがよく分かるな。分かったら今すぐできるだけ遠くで死んで来てくれ。そしたらまたここに帰って来てくれ。僕もそうする。アメリカは広いのである。