20
街で身の回りの物をそろえると、駅馬車に乗り込み、アッシュクロフト領に向かった。
顔見知りになった領主様の治める所。とはいえアッシュクロフト領は広いし、平民になった私が領主様やそのご子息に会うことなんてない、…はず。マリーとして私が育った養護院を見たら、もっと遠く、知らないどこかへ行くつもりだった。
王都からアッシュクロフト領の領都ノークスまで駅馬車を乗り継いで四日。そこからさらに北へと馬車を乗り換えた。駅馬車の終点エイゼルからさらに距離があり、気の良い農家のおじさんに荷馬車の後ろに乗せてもらい、村に向かった。
周りの景色を見ているうちに、記憶がよみがえってきた。
あの山を知っている。あの川も、あの大きな木も、教会の屋根も、そのすぐ隣にある養護院も。
養護院の前に箒で掃除しているシスターがいた。記憶の中よりずっと年を取ってしまったシスター。
「何かご用で…、…マリー?」
私のことを、覚えてくれていた。
たったそれだけのことだったのに、涙がボロボロとこぼれてきた。
「お帰りなさい、マリー」
笑顔で迎えられ、私はシスターにしがみつき、声を上げて泣いた。泣くことしかできない私に、シスターは優しく背中を撫でてくれた。
見るだけのつもりで立ち寄ったのに、それからしばらく私は養護院で暮らしていた。
田舎の養護院では王都の噂話どころか領都の話さえ聞こえてこない。今までいた世界と完全に切り離されてようやく周りが怖くなくなった。
不相応なお金を持っていたので、侯爵様からもらったお金で養護院の屋根や壁を修繕した。お金の出所はシスターには「腹立たしい事で手に入れた賠償金だから使い切りたい」と説明し、世間的には匿名の寄付ということにしてもらった。
自分にとっては持ち慣れない大金も、修繕費となるとあっという間に使い切った。やっぱり金貨は全部もらっておけば良かったとちょっぴり後悔した。
シスター見習いになる訳でもなく、年長すぎる養護院の一員として元気な子供達に囲まれながら、料理も洗濯も針仕事も、養護院の雑用を何でも引き受け、久々に畑仕事だって手伝った。村の子供達がちょっかいをかけてくると、かつてのエリックのように駆けつけて仲裁した。口が達者になった私は村人に負けてはいなかった。
どこにでも悪ガキはいて、とっ捕まえて、反省文なんて書けない子供に名前を書かせた。
名前を書けない子供にはアルファベットから教え、関心を持ってもらえたら、来たい時だけでいいからと、養護院の一室で文字を教えてみた。冬場はすることが多くないこの地方で、何人かの子供は真面目に通ってきて、それを面白くないと思う親もいれば、是非学ばせてやってほしいと願い出る親もいた。
王都の学校に行かせてもらえたけれど、それを証明する物がない私。だけど、私の頭の中には学んだことが詰め込まれている。正規の学校だったら雇ってもらえないだろうけど、養護院の一角の小さな勉強会なら資格を問われることもない。収入はないけれど、ささやかでもやりがいのある仕事だった。
村長さんからは使用人に算術を教えて欲しいと言われ、短期間だったけれどこちらはちょっとした収入源になった。
エイゼルまで行くことがあれば何か仕事はないか探してみた。けれど住み込みの仕事はほとんどなく、身元の不確かな私では職種も限られていた。
春になったら、もっと大きな街に行こう。そう思いながらも重い腰はなかなか上がらない。
ここを出ると自分の居場所はもうどこにもないような気がして、怖くて勇気が出なかった。
翌年の春、養護院のある村に学校ができることになった。
領主様が初等教育を充実させたいと領内のあちこちに小規模の学校を作り、学業はもちろん武芸も教えて自衛力を養い、能力のある子供は領主様の私設騎士団に入る道も開かれるのだそうだ。そう言えばエリックも出自を問わない入団試験で騎士団に入れたと言ってたっけ。
こうやって領民が職に就き、生活が豊かになっていけば領は栄える。それはとても良いこと…、なのだけど…。
学校には新しい先生が派遣される事が決まっていて、学校ができれば養護院での勉強会は必要なくなる。
私は不要な人になってしまった。
結局私の人生は何かの代わりでしかない。そう思うと落ち込んでしまうけれど、嘆いていても仕方がない。そろそろここを出なければいけない頃だったんだし、踏ん切りもついた。