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初めての馬車の旅は長く、その日のうちには着かなかった。私の出自がわからないよう、あえて遠くの養護院を選んだのだと聞いた。
「今日からあなたの名前はマリー-ベルよ」
新しい家に向かう馬車の中で、新しく「母」になる人にそう言われた。
私は養護院ではマリーと呼ばれていた。恐らくシスターの誰かがつけてくれた名前で、引き取られるとアルファベット順に名前があてがわれ、院の中で同じ名前にならないようにしていることは知っていた。
「私の名前はイザベルで、私達にはアナベルという娘がいたの。あなたにも名前の後ろにベルをつけたいの。いいかしら?」
私が頷くと、二人はほっとした顔をした。
マリー-ベル・ソーントン。それが私の新しい名前だった。
新しい両親は小さな領を運営する子爵様だった。領の家は大きくて立派で、養護院のあった村の村長さんの家なんて比較にならないくらい。庭も手入れされていて、色とりどりの花が育ち、部屋の中の家具は年代物のようだったけれど見るからに作りがよく、きれいに磨かれていた。居間の壁には穏やかで優しい風景画と、ご先祖様と思われる人達の小さな肖像画がたくさん飾られていて、小さな女の子の絵は壁面ではなく暖炉の上に飾られていた。絵の新しさからもそれがアナベルさんなのだとすぐにわかった。
アナベルさんの部屋はそのままになっていて、普段は鍵がかけられていたけれど定期的に掃除されていた。
一度だけ中に入れてもらったことがあった。白い壁に窓にも天蓋にも淡いピンクのカーテンが掛かり、愛用していた名残のある人形が置かれ、動物やお姫様が出てくる子供向けの本が書架にたくさん並んでいる。今でもそこで誰かが暮らしているかのようで、メイド達が夜に子供の遊ぶ声を聞いたなんて噂したくなるのもわかるような気がした。
私はアナベルさんの代わりだけど、その部屋をあてがわれなかったのには、ちょっと、いえかなりほっとした。
引き取られてからの私は幸せだった。街の子供達と遊んでも止められることもなく、収穫の時期には農場にお手伝いに行き、街のお祭りにも参加した。街の子供達と同じ初等学校に通わせてもらえ、みんなと一緒に受ける授業は家で一人で学ぶよりずっと楽しかった。
夕方の鐘が鳴り、「お嬢様、お帰りの時間ですよ」と侍女のアリーが呼びに来てくれる。それは、私にとって何よりも幸せを感じる時間だった。帰るところがある。呼んでくれる人がいる。ほつれもなく、きれいに洗濯された服を着て、呼ばれて帰ればおいしいご飯があり、ゆっくりと安心して眠れる寝床がある。まさに私が夢見ていた「家」だった。
両親が求めるのは、この領の後継者を育てること。本当は男の子を引き取るつもりで養護院に行ったのだけど、私を見た瞬間、亡くなった娘アナベルさんのことを思い出し、目を離せなくなったのだとお母様が教えてくれた。私はお二人の期待に応えられるようしっかりと勉強し、両親が恥をかくことがないよう礼儀作法を身に着けた。街の子供達と仲良くしながらも身だしなみに気を遣い、自分に合った振る舞いを自覚し、誇りを持って接する。そう意識することで、私はニセモノながらも子爵令嬢らしくなっていった。
両親は月に一度アナベルさんのお墓参りに行くことを習慣にしていた。私は二人の後ろで一緒に手を組み、祈りを捧げた。幼くして亡くなった娘のためにいつも淡く明るい色の花が手向けられる。両親のアナベルさんへの深い愛を感じ、二人の背中を見ながらいつも私は思い知らされる。私は養女になったけれど、両親の心の中はアナベルさんでいっぱいで、代わりでありながら代わり得ることはないのだと。
たとえアナベルさんの代わりでも、いえ、代わりだからこそ、愛を分けてもらったお礼に父母の期待に応え、やがて父母の目に叶った人と結婚して、一緒に領を守っていく。それが私のすべきこと。
きっとお父様、お母様のお力になれる人になるわ。
私はアナベルさんに誓った。