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 生き返るのは生きるより苦しい。人が生まれてくる時、産む人も生まれる人も苦しいと聞いたことがある。

 咳をする度に口から鼻から溢れ出る水。空気が入らず、水を体から追い出そうと咳が止まらない。

 思いっきり水を吸い込んだ私がまともに呼吸できるようになるには、かなりの時間が必要だった。そのまま寝込んでしまい、今回の事件の顛末を聞けるようになった時には、卒業式は既に終わっていた。


 世間では私は死んだことになっていた。

 今後伯父達に目をつけられなくなったのならそれで良かったのかもしれない。私の卒業証書を誰が持っているかはわからないけれど、どのみち私の学歴を証明することはない。マリー-ベル・ソーントンはこの世からいなくなってしまったのだから。




 目覚めてしばらくすると、ラルフ様が訪ねて来た。

 息を切らして、急いで駆けつけてきてくれたのがわかった。安堵した表情に私のことを心配してくれていたのだとわかったけれど、嬉しいという感情が浮かばないほど心は疲れすぎていた。

 私はラルフ様に問われるまま、自分が呼び出されて池に行った経緯と、そこで起きたことを話した。


 マリアベルは亡き娘の死に関わっている可能性が高い。

 池に行く前にアッシュクロフト侯爵から聞いた話では、かつて王女様と侯爵のお嬢様が池で亡くなる事故があり、その時にマリアベルことマリアさんもその場にいたはずだった。事故のことを聞くために呼び出そうとしたものの、マリアさんは修道院に送られていて、追求を逃れた。

 そのマリアさんが今頃になって姿を現した。それも他人になりすまして。


 私が呼び出された場所はかつて事故があった池。あえてそこに呼び出したということは、何かしでかす可能性が高い。

 私が預かっている青いバラのペンダントは、位置を知らせるほか音を記録することができるもの。マリアベルさんの言葉を残し、もしあの事故に関する発言があれば証拠にしたい。私に万が一のことがあれば、その記録にもなる。


 元々呼び出しに応じる気だった私は囮役を買って出て、警戒しながらマリアベルさんに近づいた。


 マリアベルさんの連れていた護衛がエリックを襲った。それもまたマリアベルさんを油断させるためあえてやられたふりをしたらしいけれど、私には知らされていなかった。周囲に侯爵家の騎士団員が何人かいると聞かされていたのに信じられないくらいに静かで、不安が募るばかりだった。


 夜の池に落ちれば、下手したら沈んだきり二度と浮かび上がることはないかもしれない。そうならないことを祈っていたけれど、マリアベルさんはアナベルさんの人形を池に投げ捨て、とっさに手を伸ばした私を池へと突き飛ばした。

 桟橋に届いた手を踏みつけられ、その足が私の頭を水面下に沈み込ませた。

 溺れながら自分を踏みつけるマリアベルさんの足を必死でつかんだ。何とか助かりたい思いだった。マリアベルさんの言うとおり、泳げない者はむやみに溺れる者に手を伸ばさない方がいいのかもしれない。

 やがて力尽きた私は、マリアベルさんの靴とアナベルさんの人形を手にしたまま水底に沈んでいった。




「君には怖い思いをさせてしまった。…本当に申し訳ない」

 ラルフ様は深く頭を下げた。平民になった私には過分な対応だった。なのに私は何も感じなかった。

「周囲は暗く、マリアベルが君を突き飛ばしたかどうか決め手がなかったようだ。マリアベルに言い逃れをさせないためとはいえ、君を助けに行くのがずいぶん遅れ、君を死なせてしまうところだった。我々の判断ミスだ」

 私が「死ぬ」ぎりぎりまで見届け、確かな証拠を得るつもりだったのだろう。もしかしたら、身内のいない平民の一人くらい死んだところで大したことはないと思われていたのかもしれない。証拠さえ得られれば、私の役目は終わっているのだから。

 だけど、

「君を引き上げた時、意識はなく息は止まっていた。何度も、何度も祈った。…生き返ってくれて、本当に、…本当に良かった」

 ラルフ様は私が生きていたことを喜んでくれている。自分が助け出された時のことは覚えてないけれど、この人は私を助けに来てくれていた。

 侯爵様はあえてラルフ様をこの囮捜査から遠ざけたのかもしれない。顔見知りだけに、私が溺れる所を黙って見ていられないと思って。


 ラルフ様は私の手をそっと持ち上げた。マリアベルさんに踏まれ傷だらけの指を痛々しげに見つめて、祈るように指先を自分の額に当てた。

「この指の傷と、君がマリアにつけたひっかき傷が決め手になり、マリアは言い逃れできなかった。マリアはかつて王女と妹を見捨てたことを認めたよ。妹の手を踏んだことも…」

 ラルフ様は事件の真実を知ってなお苦しそうな顔をしていた。真実が明らかになっても何の救いにもならないこともある。

 傷に触れないよう、そっと手の甲を撫でられて、ゆっくりと離れていく手。


「子爵夫妻は領に来たマリアを追い出したそうだ。無断で娘の部屋に入り、部屋の中の物をごみとして捨てたのを見て耐えられなかったんだそうだ」

 アナベルさんのためならお父様もお母様も戦えるのね。やはり私はアナベルさんの代わりになんてなれなかった。きっと誰にも代わりは務まらない。お二人はアナベルさんのことをこよなく愛しているのだから。

「マリアベルさんの気持ちもわからなくはないです。アナベルさんの代わりとして呼ばれながら、あの部屋を見てしまうとつらくなりますから」


「子爵家のアナベルは人形を拾おうとして池に落ち、命を落としていた。事故ではあったんだが、お気に入りの人形をマリアが奪い取り、池に投げ捨てていたことがわかり、夫人は泣き崩れていた。…あの人形は濡れたままだったけれど、夫人に返したよ」

「ありがとう、ございます」

 人形がお母様の手元に戻ったと聞いてほっとした。お母様にとってはアナベルさんとの思い出が大事だろうけど、あの人形は二人の命を奪った呪いの人形、なんて思うことはないのだろうか…。


「そう言えば、…人形にペンダントが巻き付いていませんでしたか?」

「いや、何もなかったな」

 あのペンダントは水の底。水の妖精が私の命の代わりに持って行ったのかもしれない。

 なくなったと聞いてほっとした。

 思わず笑ってしまった私をラルフ様は変な顔で見ていたけれど、それ以上は聞かれなかった。


「マリー-ベル・ソーントンが死んだことでオリヴァーの婿入りはなくなったが、そのままオリヴァーが養子になり、ソーントン子爵家を継ぐそうだ」

「そうですか」

 それを聞いても、不思議なくらい心は冷めていた。

 ブルックス家にとってはあのマリアベルと縁が切れてなお子爵位が手に入り、好都合かもしれない。子爵夫妻もオリヴァー様も何もなければ穏やかないい人だ。どちらも非常時に立ち向かうような強さはないけれど、きっと仲良くやっていけるだろう。

「ソーントン夫妻は元々跡継ぎが欲しかったそうですから。…丁度良かったのかもしれませんね」

「君はそれで…、いや、何でもない」

 ラルフ様は何かを言いかけてやめた。

 もう全て終わったこと。子爵家の養女だった私も、オリヴァー様の恋人だった私も、もういない。


 マリアベルさんは私を殺した罪で連行されたけれど、貴族が平民を殺しても罪に問われないことだってある。その罪状は王女様や侯爵令嬢、子爵令嬢を見殺しにした罪を問い詰めるための代わりに過ぎない。侯爵家が貴重な音の残るペンダントを貸してくださったのも令嬢の無念を晴らすため。私は侯爵様の娘の死の再現に、娘に代わり死ぬことを求められ、その役目は果たした。

 何をしても、みんな何かの、誰かの代わり。


「これで解決ですね」

 安心と言うより虚しさが募った。それなのに私は笑っていた。嬉しくもないのに。

「君はこれからどうするんだ?」

 ラルフ様に聞かれて、私こそ困った。名をなくし、身分をなくした私ができることなど、そう多くはない。学歴だって役に立たないし、死んだことになっているから、せっかく学校でできた伝手を使うこともできない。

 だけど、今度こそ。今度こそ誰かの代わりではなく、私として生きていける。

 私はラルフ様の問いに無言で返した。


「君をあんな目に遭わせてしまい、本当に申し訳なかった。これは侯爵家からの詫びと礼だ。金なんかで解決できることじゃないんだが、…どうか受け取ってほしい」

 ラルフ様はずっしりと重い袋をサイドテーブルの上に載せ、部屋を出ていった。

 感謝とお詫びを込めた袋の中身は全て金貨だった。金貨は上の五枚だけで残りは銅貨だった伯父の「餞別」とは違う。


 体調が戻るまで充分休むように言われたけれど、翌日の早朝、私は一握りの金貨をもらって後はそのまま部屋に残し、侯爵家を出た。


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