18
マリアベルは口角を上げたまま顔を引きつらせていた。
「アナベルの人形を、…あなたが池に投げたの?」
ソーントン子爵夫人が、いつも優しい叔母が泣きながら責め立てる。いつも穏やかな叔父が憎しみを込めた目で睨みつけてくる。
アナベルは落とした人形を拾おうとして池に落ち、命をなくした。そう思われていたが、人形は故意に池に投げ入れられていた。アナベルが落としたのではなく…
そんな昔の小さな意地悪、ずっと忘れていたわ。
あの子は人形を拾おうとして、かがんで手を伸ばして、
身を乗り出しすぎて落ちてしまったのよ。
バシャバシャと水しぶきがあがって、
でもどうしようもない。だって、私泳げないんだもの。
そのうち静かになって、人形だけが浮かんでた。
みんなから賢いって言われて、かわいいって言われて、いつもあの子ばかり褒められる。
そんなあの子が嫌いだった。
でもそんなに賢くないわ。人形なんかのために死んじゃうなんて。
あんな人形、取りに行かなければよかったのよ。
「ヴィオラとシェリー嬢が溺れた時、おまえは一緒にいたはずだ。何故助けを呼ばなかった」
マリアベルを見る王の目には表情がなかった。まるで聖堂にある像のようだった。心まで見透かそうとするかのように、冷静に、一挙一動を見据えている。
「娘が王女殿下を救おうとし、共に命を落としたのはやむを得ないことだと思っていた。だが、あの子の指に残る傷が私に訴えかけていた。溺れまいとしがみつく手を踏みつけた者がいるのではないか。同じ傷が昨日池で見つかった女性にもついていた」
アッシュクロフト侯爵は努めて冷静であろうとしたが、低く、うなるような声の揺らぎが心の動揺を表していた。目の前にいる、かつて尋問さえも許されず、匿われた者を前にして冷静でいられる筈がない。
「溺れて助けを求める者を、おまえは踏みつけるのだな。あの時も、昨日も」
「おまえがヴィオラを池に突き落としたのではないか?」
王の問いに、マリアベルは震えながらも即答した。
「王女様は内緒でボートに乗ろうとして落ちたのです。シェリー様が止めたのに…」
マリアベルの脳裏には、あの日の光景が蘇っていた。
ヴィオラ様は護衛の目をくぐって池に近づき、ボートに乗ろうとした。シェリー様が止めたのに振り切って、ボートに飛び乗って、大きく揺れてバランスを崩して池に落ちたのよ。
躊躇なく助けに飛び込んだシェリー様。
ヴィオラ様がシェリー様にしがみつき、シェリー様も溺れそうになっていた。
絡みつくドレスは重そうだった。
シェリー様が桟橋に手をかけて、偉そうに命令したの。ヴィオラ様を引き上げてって。
ヴィオラ様はシェリー様から離れなかった。沈んでいくのに、離さなかった。一緒に引きずり込もうとしているようだった。
シェリー様の手が伸びてきて、私まで引きずり込もうとした。
怖かった。だから、追い払ったの。来ないで。近づかないで。
私は死んではいけない子なの。私が死んだらみんなが悲しむわ。
シェリー様は私が手を踏んだって言うわ。
ヴィオラ様のことも全部私のせいにする。
このままいなくなってくれれば…。
誰も知らないまま。誰も…
「おまえはやはりあの場にいたんだな。どうして二人を助けようとしなかった」
「わ、私は泳げないんです。助ける力なんてありません。泳げない私は助けられなくてもしかたがないって、私の命が大事だって、父はそう言ってました」
免罪符のようにその言い訳を唱え、マリアベルは何度も頷いた。
「周りには人がいた。すぐに大人を呼べば二人とも助かっていたはずだ。それをおまえは人に紛れ、知らぬふりをしたな」
「そんなこと…、覚えていません…」
事故の調査が進み、一緒にいたはずのマリアから事情を聞こうとした時、既にマリアは修道院に送られていた。
恐ろしい事故で友人をなくし、怯えて世を儚もうとした娘を追い立てるのは神の御心に反すること。
神の御許で祈る者を何人たりとも妨げてはならない。
修道院からは一切の尋問が拒否され、王であっても、その拒絶を覆すことはできなかった。
しかし今、マリアベルを守る者はなく、問いかけに応じた言葉が真実を語っていた。
マリアがあの時あの場所にいたことを。溺れたのを見ていながら自ら助けることも、助けを呼ぶこともなくその場を離れたことを。
「昨日のことは知らないでは済まされないぞ」
アッシュクロフト侯爵が衛兵に合図すると、衛兵は靴を差し出した。
昨日なくした、右足の靴を。
「彼女は人形とこの靴を握りしめていたよ。爪に皮膚が残っていた」
護衛はすぐさまマリアベルの両腕と左足を押さえつけ、右足の靴が取られた。
「やめて! いやらしいわねっ、私は伯爵家の娘よ! こんなことをして許されると…」
続けてストッキングが脱がされると、足首には生々しいひっかき傷がくっきりと残っていた。
「助けを求める者を踏みつけて、おまえはどう思った?」
アッシュクロフト侯爵の問いに、マリアベルは懸命に言い訳を考えた。
「へ、平民のくせに私を池に引きずり込もうとしたんです、貴族の私を。私は泳げないのに」
「侯爵家の娘にも同じ事をしただろう」
マリアベルはうろたえ、とっさに「知らない」という言葉が出なかった。
「…泳げない子は、助けに行かなくても…」
「すがる手を踏んだんだな」
「私をつかもうと、引きずり込もうとしたのよ! 私は大事な子なの。私は死んじゃいけないのっ」
マリアベルに向けられた目は怒りに満ち、その場にいた誰もがマリアベルを憎み、殺意さえもにじませていた。マリアベルを守り続けた両親はいない。怖かったろう、可哀想に、おまえが生きていればいい、そう言い続けた父親は。
「おまえの親がおまえを大事だったように、我々にとって我が子はかけがえのないものだったのだ。何故今更戻ってきた。修道院で祈り続けると、そう言って全ての追求から逃れておきながら…」
王の言葉に、マリアベルは首を傾げた。
マリアベル自身わかっていなかった。あの事故の後、どうして自分が家を離れなければいけなかったのか。
父には少しの我慢だ、と言われていただけ。親元を離れ、王都を離れて寂しかった。自由のない生活、侍女代わりの修道女は冷たく、かわいい服を嫌い、地味な格好ばかりさせる。父母からの差し入れは半分はなくなり、手紙は検閲を受け、毎日祈りを捧げろと言われても何を祈ればいいのかわからず、早く迎えに来てくれますように、毎日そればかり願っていた。
父に外に出たいかと聞かれた。
マリアのままでは出られない。マリアはここに閉じ込め、別の人生を生きることになる。
新しい名前。新しい役割。婚約者がいて、優しい叔父叔母の養子になる。マリアにとってこの上ない提案だった。すぐに「はい」と返事した。
もう閉じ込められない。外に出られる。自由になれる。
ちっぽけな領でも我慢してあげる。田舎は嫌だけど時々遊びに行けばいいわ。お父様に頼めばいつだって王都のタウンハウスにいさせてくれるはず。
学校には行けなかったけれど、私の名前の卒業証書をもらえる。王都の学校をトップクラスで卒業したの。何て素敵なのかしら。きっと誰もが私をうらやむわ。
ふとマリー-ベルに言われた言葉が脳裏に浮かんだ。
あなたに私の代わりが務まるでしょうか
あの子こそ私の代わりだったのよ。叔父様も叔母様も、オリヴァー様も私を選んだ。もうあの子はいない。私はマリアベル・ソーントン。これからはマリアベルとして生きていくの。
「無理して助けに行かなければ死ななかったのに」
「おまえはっ!」
王は立ち上がり大きな声で叫んだが、溢れそうな罵詈を拳を握り懸命に耐えた。
マリアベルはいきなり大声で怒鳴られ身をすくませていたが、自分が言った言葉の意味を理解していなかった。
臣下でありながら、溺れる王女を見捨てろと、そう言ったことに。
「連れて行けっ」
王の一言でマリアベルは連行された。
自ら歩きはしなかったが、両腕を衛兵に押さえられ、力尽くで引かれても抵抗はしなかった。
残された者はかつて失った愛しい者を思い、すすり泣くだけだった。