9話
次の日、ジェイミーは仕事の準備をしているハロルドに向かってもう一度尋ねた。
「送っていこうか?」
「いいよ、いいよ。それより聞いて。今週末、シャルルと会う約束をしたんだ。昨晩電話したら、会おうっていってくれた」
「いいね。シャルルによろしく」
シャルルはハロルドの親友だ。中等学校の四年生だった頃に同じ選択授業を取っていたことがきっかけで仲良くなり、それ以来ずっとつるんでいる。別々の大学に進んだあとも、しょっちゅう手紙のやり取りをしていたし、夏の休暇にはヴェルロール家に泊まりに来ていた。
ハロルドがシャルルの家の別荘に招かれたこともある。
ただ、ジェイミーとシャルルはそんなに親しいわけではない。仲が悪いわけではないが、特別気が合うというわけではないから、中等学校時代にも時折話すくらいの仲だった。
だからハロルドが彼と食事に行くと聞いても、自分も付いていこうかな、などとは言わない。それに週末は映画館にも行きたいし、部屋で一人ごろごろする時間も欲しい。彼は一人の時間がないと耐えられない性質なのだ。
「お前は最近ミハエルと会っていないの?」
「ああ、そんな頻繁に連絡を取り合うわけでもないから。まぁ何かあったら電話してくるだろ」
ミハエルも中等学校時代の同級生で、お互い十三歳の頃から付かず離れず仲良くしている。
寄宿舎でもいつもつるんでいたわけではないし、卒業してからはたまに会ったり電話したりするくらいだが、そのくらいの距離感がジェイミーにとってはちょうどいいのだ。
ジェイミーは一人暮らしをしていた時、ハロルドともほとんど連絡を取らなかった。
お互いもう大人なのだからそれぞれの生活があるし、別の友人もいるから当たり前だ。
「そうだね、便りがないのは元気の証拠、っていうしね。それじゃ、そろそろ行くよ」
ハロルドは自分の車のキーを手にして玄関へと向かっていった。
ジェイミーは走っていき、重い扉を開けてやる。
「どうしたのさ」
「いや、その……安全運転でいけよ」
ハロルドが笑って手を振り、家を出た。車にキーを差し込みながら、仕事のことだけを考えようと努力する。
「いいか、週末にあった出来事は会社には何の関係もない。朝一番にクレイヴン社に電話をかけて、それから十一時までにマルエルトさんに資料を確認して貰う……その前に違算がないか最終確認。それだけは絶対忘れちゃいけない」
ぶつぶつ言いながらハロルドは車に乗り込む。
仕事に行くのは気が重いが、それでも彼女以外のことを嫌でも考える時間とやるべきことがあるのは有難い。
子供の頃は大人になったら強い人間になれると、ハロルドは漠然と信じていた。
仕事も遊びも人付き合いもそつなくこなして、滅多なことでもないと悩んだり泣いたりしないと信じていた。でも、現実は違う。少しでも気を抜くと仕事で未だに馬鹿みたいなミスをしそうになるし、優秀な同僚と自分を比べては消えたくなるし、やたらと当たりのきつい上司もいる。自分が至らないせいだと分かっているので同僚の慰めの言葉も耳に入らない。
おまけに婚約は解消されたし、悩み苦しむ中で未来に救いを求めていた思春期の頃の自分が今の姿を見たら卒倒するだろう。
お前は何て駄目な奴なんだ、今の僕と何も変わってないじゃないか、やっぱりそうだ、闇だけあるのが人生だ、と十四歳の自分が今の自分を罵ってくる気がする。
いや、違うんだ。
いっそ闇の中なら、自分のように駄目なやつは世の人々を呪いながら、立ち上がる勇気もなく、その場に蹲ったまま死を迎えるだろう。
そうではなくて、人生はほの暗い長い道を一人で進むようなもので、時折真っ暗になったり明るくなったりする、だから怖いのだと二十三歳の今だからこそ思う。
ハロルドはシートベルトを締め、ハンドルを握った。
「いってきます」
今日は仕事がある、帰ったらきっとエクレアが用意されている、週末にはシャルルに会う。
それで今は十分だ、と自分を無理矢理納得させながらハロルドは車を発進させた。