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8話

三人を見送ったあと、ハロルドがキッチンでお茶を飲んでいると、マーリーがキッチンへとやってきて、息子に向かって話しかけた。


「ハロルド、あのね」


「父さんとジェイミーは?」


母親の言葉を遮り、ハロルドは尋ねた。


「父さんは、弁護士のワイルズさんにお電話を。ジェイミーはお部屋に戻っているわ。それで、私は貴方に……」


「止めて。きっかけは母さんでも、決めたのは僕なんだから。全部自分が悪いの、なんて言ってめそめそしないで」


マーリーはちょっと躊躇ったあとに息子の向かいに座った。ハロルドは黙って紅茶を啜っている。


「貴方たちが婚約した時、私はルクレツィアと親戚になれることを喜んでいた……」


苦しそうに声を絞り出したマーリーは、裁きの時を待つ罪人のように蒼白な顔をして震えている。それを聞いて、ハロルドは思わずかっとなった。

あんな女と親戚になるのを喜んでいたのか、という怒りがふつふつ湧いてきて、それが引き金になって彼は長年蓄積されてきた疑問を母にぶつけた。


「あんな人と?相手を利用することしか考えていないような人と?親戚になってどうするつもりだったの、母さんがジェイミーに冷たいのはお金が理由だと思っていたけれど、あの人には喜んで金を差し出すつもりだったの」


「結納金以外は何も支払わない約束をしていたわ。パパだってイレンコルス家に援助しないと約束していたのを知っているでしょう。それに、私はジェイミーのことを嫌ってなんていないわ」


「いつだってジェイミーに遠慮させてきた。僕がそれに気が付かなかったと思うの?上辺だけ取り繕って、優しいふりして」




確かに母は自分とジェイミーを表面上は区別なく育ててくれた。父がまだ勤め人で、小さなアパートに四人で暮らしていた時も二人の衣服や食事に差をつけることなんてなかった。

息子と同い年の甥の面倒を見るのは大変だったと思う。二人交互に、或いは同時に熱を出すこともしょっちゅうだった。元気な時は喧嘩するし、食事は零すし、物は散らかす。

本当に大変だったと思う、感謝はしている。

しかしジェイミーが甘えて抱き着いてきても、すぐにぱっと身体を離す母が子供の頃は怖かった。

外に行くときは、はぐれないようジェイミーの手も繋ぐし、おやすみのキスもする。でもそのくらいだった。自分は母の膝にのって甘えたり、抱っこをせがんだりした記憶がぼんやりあるけれど、ジェイミーがそうしていた記憶は全くなかった。

今、必死に記憶を辿ろうとしてもやはり思い浮かぶ光景は一つもない。

代わりに思い出すのは自分が母に甘えていると、ジェイミーは慌てて絵本に夢中なふりをして俯いたり、別の部屋へ移動していたりしていたことだ。

そんな従兄弟の姿を見るのが嫌で、自分はいつしか甘えるなら父の方へ行くようになっていた。

父は二人を順番に抱き上げてぐるぐる回したり、狭い家の中で行われる探検ごっこに付き合ったり、恐竜の図鑑を見せてくれたりした。


それに比べて母さんは、と思うとハロルドは情けなくなった。


「父さんは自分とジェイミーに差をつけず可愛がってくれていたのに、どうして母さんは出来なかったの。ねえ、それにどうして両親のことを話してやらないの、もう大人なんだから……」


「怖いのよ!あの子の両親が、ジェイミーが」


マーリーは一歳になったばかりの息子と一緒にバスルームで震えていたあの夜のことを思い出していた。夫はまだ帰らない。ドアノブががちゃがちゃと回され、次に扉がどんどんと叩かれる。その音が止んだあとも、泣きわめく息子をあやしながら、恐ろしくて何時間もバスルームに籠っていた。

夫の開けてくれ、という声がした時、すぐには返事が出来なかった。荒い息を吐きだしながら、どうにか鍵を開け、夫の顔を見た瞬間に子供のようにわあわあ泣いてしまった。



「あの子の父親には酷い目に遭わされたわ。ルイーズはルイーズで、こんな風になったのは全部私のせいだと言うし……」


「一体何があったの?」


「嫌よ、話したくない。私だって……ジェイミーをこれ以上傷つけたくはないのよ」


「それなら、なおのこと話してよ。あいつ、ずっと知りたがっているんだよ。自分の親のこと。もう大人だもの、受け止められるはずさ」


ハロルドが先ほどより幾分和らいだ表情で、母を宥めるように言う。マーリーは息子をまじまじ眺め、呆れたように首を振った。


「駄目よ。それに、貴方はジェイミーのことを心配している場合じゃないでしょう。自分の事を心配なさい」


ぴしゃりと言って、母は自室に引っ込んでしまった。ハロルドはそんな母の態度に腹が立って、ティーカップを壁に投げつけてやりたい衝動に駆られたが、明日は仕事だと思うと急に怒りが萎んで胃がきりきりと痛みだした。



静まり返ったキッチンで彼は明日からのことを考える。


事の真相を知れば、昨夜自分を嘲笑った噂好きな人々が、建前の同情を自分に寄こしてくれることだろう。

自分が世間知らずの甘やかされたお坊ちゃんであっても、彼女はその男からの求婚を一度は受け入れたのだし、自分と結婚することで得られる物質的な幸福に惹かれていたことも確かなのだ。

でも、彼女をそんな人たちの娯楽に提供したくはない。これは彼女に対する情でも憐れみでもない、彼の意地だ。

自分の人生をあんな人たちに食いつぶされるなんてまっぴらごめんと思っているのだ。


そう強がっても、弱気な彼は自分の背後でひそひそ話す声を聞いたら、自分のことかと思って顔を青くするだろう。


本当は家に閉じこもっていたい、誰にも会いたくないし彼女のことを聞かれたくないと思っている。

しかしドレスの代金は自分が支払うと啖呵を切ってしまったから、いま会社を辞める訳にはいかない。明日はいつも通り六時半に起きて支度をして……考えるだけでもぞっとするが、自分の選んだ道なのだ。


クピタも明日は仕事に行くのだろう。彼女は金を帰すと約束した、それがせめてもの償いだと考えているからだ。

もっと酷い罰を与えてやっても良かったのかもしれない、という思いが一瞬頭によぎったが、それで自分が幸福になれるわけじゃなし、金銭を返す苦労を味わって貰うだけで充分だ、とハロルドは自分に言い聞かせた。


その日の夜、誰もハロルドに起きたことに触れなかった。夕食はハロルドの大好きな白身魚のレモンソテーで、皆黙々と食べた。

ハロルドは自分のことだけ考えるのに精いっぱいな筈なのに、母が話したくないというジェイミーの両親のことがまだ気になっている。自分のことで精いっぱいだからこそ、人の秘密に首を突っ込んで気を紛らわせたいのかもしれない。


ハロルドはそんな自分に罪悪感を抱きながらも、ジェイミーの両親は母に何をしたのだろうと考えながら白身魚を口に放り込む。



「ハロルド、明日はどうするんだい。ワイヤットさんに送っていって貰うか?父さんもたまには運転したいから」


デーヴィスが何気ない風を装いながらハロルドに尋ねる。ワイヤットはデーヴィスお抱えの運転手である。


「大丈夫、自分で運転していくよ。いつも通り」


「ハロルド、僕の車で送っていこうか?途中まで同じだから、気にすることないよ」


父にも従兄弟にも気を遣われて、ハロルドは居心地が悪そうに苦笑いを浮かべる。

仕事くらい一人でいける、子供じゃないんだからと言いたくなるけれど、二人の優しさを無碍にしたくなくて自分も必死に何気ない風を装って言う。


「本当に大丈夫。でも、もし僕を気遣ってくれているのなら、ルーゼ・トァンソンのエクレアを買ってきてくれたら嬉しいな」


「買ってくるわ。明日、街へ出かけようと考えていたから」


誰が聞いても嘘だと分かる言葉を、マーリーだけがさも真実であるかのように必死に話す。

今のマーリーは夫に誘われない限り、ほとんど家から出ない。

昔はそうではなかった。デーヴィスの事業を手伝うために子供たちを人に預けて、帰らない日も多かった。しかし夫が成功を収めた途端、家に引きこもるようになってしまった。


母さんはもう少し家族以外の人と触れ合った方が良い、とハロルドは父に洩らしたことがある。

するとデーヴィスは、母さんのことはそっとしておいてやれ、と言って其処で話を打ち切った。

これも触れてはいけないことらしい。ヴェルロール家は歪な家族だ。表面上は穏やかに過ごしているつもりでも、聞いてはいけないことが沢山あって時折息が詰まりそうになる。

父と母の馴れ初めでさえ、聞いてはいけないことの一つなのだ。


ハロルドはワインを薄めた水を飲みながら、陰鬱な気持ちで食卓を眺めた。




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