7話
「あれは母のドレスだよ、代金は受け取れない。僕が返す、返したいんだ。今更言っても遅いけど、ずっと無理をさせてきて悪かった。ああ、君を許せない気持ちと、君に申し訳ない気持ちがごちゃごちゃだ」
「それなら、せめて指輪の代金は支払わせて。自分のしたことに責任は持つわ」
「分かった。じゃあ半分支払って貰おう」
ハロルドが渋々といった様子で承知すると、クピタは強く頷いた。指輪を贈られた時、自分はこの人に恋をしているのだ、と思い込もうとした。金に目が眩んだのは両親だけではない、ということを忘れない為にも指輪の代金だけは何としても支払いたい。彼がどんな気持ちで贈ってくれたのか、そんなことを考えもせずに指輪だけを見つめていた自分を戒めるために。
「必ず支払う。私、自分の決断に後悔はしていない。もう正直にぶちまけるけど、あの場で言ったのも、自分が味わった屈辱を貴方にも味わわせてやる、っていう意地悪な気持ちがあったのも本当よ」
「そうだろうね」
そう言いながらハロルドはおずおずと右手を差し出した。クピタがぎょっとした顔をする。
「やっぱりどうしても君を許すことが出来ない。今の僕では。でも、その、どうにか道を拓けよ。僕もそうする」
貴方にも屈辱を与えてやりたかった、と聞いてハロルドは脱力してしまった。自分にも非があったのは認めるが、そんなやり方は好きじゃない。そう思ったときに、彼女に対して嫌悪というよりも拒否感を抱いてしまい、彼女に対する関心をなくしてしまった。
これ以上彼女と話すのは嫌だと思っただけでなく、何かしらの罰を与えてやりたいという気持ちも不思議と失せてしまったのだ。
クピタが恐る恐るといった様子で彼の手を握り返した。
「あのドレスは」
ハロルドは母が半分選んだ純白のドレスを思い浮かべながら呟いた。
「僕がいつか出会う花嫁には着させないようにするよ」
「そうしてちょうだい」
クピタは手を離すと、一瞬申し訳なさそうな表情を浮かべ、それから深くお辞儀した。
彼女を罵りたいとも、罰を与えたいとも思わないのは、きっと僕が今すごく傷ついているからなのだろう、とハロルドは考えた。
時が経てば、彼女を激しく憎んだり罵ったりするかもしれない。ただ、今はその余裕さえなくて、さっさと彼女から離れたい、そんな気持ちでいっぱいだ。だが、まだ彼女と行かねばならない場所がある。応接間だ。
ハロルドは憂鬱そうに屋敷を見上げて呟いた。
「戻ろう、説明だけはしなくちゃ」
二人はそれから一言も口を利かず、重い足取りで応接間へ向かった。
ハロルドが戻ると、マーリーはすぐさま息子に駆け寄った。
そして彼の肩をぐんぐん揺すって、どうなったか、誤解は解けたのか、と問い質す。
ハロルドは父に目で合図を送り、母親を引きはがしてもらった。部屋の隅に突っ立っているジェイミーは黙って従兄弟を見つめている。
「彼女との婚約は解消します。結納金は当然返還して貰います」
その言葉を聞いて、クピタの父であるドアンが取り縋るような目で娘の方を見る。クピタは唇を強く噛みしめながら父を睨んだ。
「マーリー、貴方、息子さんを説得してくださらない?」
ルクレツィアの言葉にマーリーはびくっと肩を震わせ、振り返った。まるで蛇に睨まれた蛙だ、と思いながらデーヴィスは妻を庇うように前へ進み出て、静かに問うた。
「それは二人の婚約を?結納金を?」
「どちらもです」
「母さん、止めて。お願いだから」
クピタが母の腕を掴んで懇願したが、無駄だった。ルクレツィアは娘の手を引きはがし、貼り付けたような笑みでマーリーに近づいた。
「マーリー、私たちは友達よね。我が家の状況も知っている筈よ。助けてくれるわね」
「無理だわ、二人が決めたことだもの」
マーリーが申し訳なさそうに俯きながら断ると、ルクレツィアは行儀悪く舌打ちした。それを目にしたジェイミーは思わずドアノブに手をかけたが、デーヴィスがそれを制止した。
「ジェイミー、待ちなさい。あの人たちに出て行って貰うのはまだ早いよ」
渋々ドアノブから手を離したジェイミーは叔母とルクレツィアを交互に見つめた。
マーリーはふらふらした足取りで彼女に近づき、勇気を振り絞って彼女の命令を拒否する。
「ルクレツィア、二人が決めたことよ。私たちが口出しすることじゃないわ」
「そう、貴方は私を裏切るのね。あれだけ私を慕っていたくせに、自分が上の立場になったら、私をあっさり裏切るのね。マーリーさん、奥様」
ルクレツィアが茶化すような口調で言う。
マーリーはその瞬間、彼女に夢中だった少女時代を思い出した。
ルクレツィアは気が強く、口の悪い、我儘で贅沢好きな少女だった。
誰にでも思ったことをすぐ言うし、約束の時間は守らないし、自分の荷物は相手が持つのが当たり前、というような少女だった。
しかし万人に一定の水準で受け入れられる性質、温厚や勤勉、明朗といったものを備えた人物よりも、その魅力らしきものを咀嚼することに悦びを感じられるような歪で刺々しい人物の方が熱狂的な信奉者を作り出す。
ルクレツィアの信奉者は性別や年齢、階級といった垣根を越えて存在した。勿論、自分もその中の一人だった。
彼女は学校の規則や親の言いつけを素直に守る自分を見下し、呆れていた。
私はあんたみたいに世の中に遠慮しない、いつ死んでもいいと思っているから。そう言い放つ彼女は美しかった。ああ、彼女が持っているのは透き通った生命だ、その一方で自分は、生きているかも分からない明日に何が起きるか心配してびくびくしている淀んだ生命だ。
自分たちが律儀に守っていた奢侈禁止令を彼女は無視して、大きな刺繍レースの襟を身に付けていた姿を強烈に覚えている。
奢侈禁止令が出される以前に購入したものについては当然身に付けることを許されていたのに、明日を恐れる私たちは地味な装いで外出することを美徳と捉え、暗黙の中かなでそれを隣人にも強制していたのに、彼女は違った。
周囲に促されて着る、装飾のない地味な色合いの服で最期の時を迎えるなんて、考えただけでぞっとする、と言って彼女は毎日自らを飾り立てて街を闊歩していた。
死の匂いが充満した装いを、鏡ではなく人々の脳裏に焼き付けてこの世を去ろうとした彼女は今も人生にしがみついている。
自分と同じように、来るかもわからない明日を恐れながら。
それでも諦めの中に彼女の自尊心の炎は弱弱しくではあるがまだ揺らめいていて、かつての下僕であった自分に契約を持ち掛けたのであった。
彼女が得たかったものは金銭だけではない。
むしろ金銭よりも欲したのは、私がまだ自分の支配下にあるという優越感だったのだ。
互いの生活水準に大きな差が出ても、相変わらずルクレツィアは誇り高き女王のままで、自分は無様な召使に過ぎないのだ。
それを分かっていても、彼女から久々に便りを貰って再会したときは嬉しかった。今度は落ち着いた友情を育めるかもしれない、という無邪気な期待もあった。
彼女がヴェルロール家の玄関に飾られた陶磁器を、応接間のゴブラン織りのソファを、運ばれてきたラズベリータルトを見て顔をしかめたことに気が付いて、慌てて取り繕うように言った。
私は何にも変わってないわ、と。それは本当のことだった。自分で何か新しいことを始めようという勇気もなく、上流階級のご婦人方に一目置かれるような特技もなく散歩と編み物と読書が日々のささやかな楽しみだ。
夫が苦労して稼いだ金を自分が使ってしまうことは何となく気が引けたし、必要なものは揃っているし、奢侈禁止令が解かれた後も普段は好き好んで地味な恰好をしている。最新のファッションを身に纏って派手なパーティーに出かけることは滅多にしない。
夫はお前にも随分苦労をかけたのだから気にする必要はない、二人で稼いだ金だ、好きに使いなさい、と言ってくれたが、今の自分は家でゆったりとした気持ちで寛げるのが一番の贅沢だと思っている。
『私、マーリー・クレゼントだった頃の自分と何も変わらないわ。情けないほどに』
それを聞いたルクレツィアはラズベリータルトにフォークを突き刺し、ゆっくりと首を横に振った。
『いいえ、貴方はマーリー・ヴェルロールよ。変わってしまったのね、悲しいわ』
否定すれば否定するほど真実に思えて、狼狽してしまった自分に彼女は要求を告げた。
彼女にも家族にも見放されたくない自分は、息子にクピタ嬢と会うだけ会ってみて欲しい、と頼み込んだ……
マーリーはごくりと唾を飲み込むと、背筋をぴしりと伸ばし、はっきりとした口調で彼女に告げた。
「ルクレツィア、私にはもうどうにも出来ないわ。二人の婚約は解消、結納金は返還して貰う。当たり前のことでしょう?」
少女だった頃の自分ならば、女神のように崇めていた彼女に歯向かうことなど考えられなかっただろう。
全てを捨てて彼女の足元に跪いたかもしれない。
でも、やはり彼女の言う通り自分は変わってしまっていたのだ。家族に見放されたくない、これ以上息子を苦しめたくないという気持ちで今はいっぱいだった。
「ドレスの代金は僕が持ちます。婚約指輪は半分ずつ。クピタさんとそう決めました」
ハロルドが口を挟む。
「嘘だろ。このお人好し」
思わずジェイミーは呟いた。あちらから言い出したことならば、当然ドレスも婚約指輪も全額負担するのが筋だろう。
「分かった。二人でそう決めたのなら。但し、必ず返して貰うよ。クピタ嬢、ハロルド」
「勿論です。ご迷惑をおかけして本当に……」
俯くクピタをデーヴィスは厳しい表情で見つめる。彼女に言ってやりたいことは沢山あるが、ここはひとまず二人の意思を尊重したい。
「クピタ、これは貴方の責任よ。分かっているのでしょうね」
「はい、母さん。私が働いてお返します」
「そうして貰うわ。いくわよ、二人とも。さようなら、マーリー」
ルクレツィアは立ち上がり、娘と夫を置いてさっさと玄関の方へ行ってしまった。
クピタは深々と、ドアンは何度もぺこぺこ頭を下げて部屋を出て行った。
「さようなら、ルクレツィア」
きっぱりとした口調でマーリーは彼女に別れを告げ、見送りにも行かなかった。
ジェイミーはハロルドに尋ねる。
「キッチンに胡椒あったよな?」
「何だ、突然」
「ほら、遠いどこかの国では嫌な客が去った後に胡椒を撒くっていうじゃないか。家を清めるために」
「そりゃ塩だ。いいよ、要らないよ」
ハロルドは笑いながら玄関に向かって歩いて行ったが、彼女たちの為に扉を開けるのを手伝ってやろうとはしなかった。