6話
「貴方が私を楽しませようと連れて行ってくれたパーティーも、私には眩しすぎた。考えれば分かるでしょう?同い年くらいの子たちが流行のドレスを身に纏っているのに、私は母のお下がり、惨めだったわ。三十年前なら貴方以外にも素敵と言ってくれる人もいたでしょうけどね!」
クピタは怒りのままに吠えたてた。
無言の侮蔑が、カーテンの奥の嘲笑が蘇る。こんなのはただの八つ当たりと思っていても、恨みをぶつけずにはいられない。
彼は周りと見比べて暗い顔をしている自分に向かって、周囲のことなど気にする必要はない、君は素敵だよ、と言ってくれた。
その言葉を素直に受け取れない自分に腹が立つと同時に、何不自由ない家庭で育ったが故に持っているように見える、彼の世間知らずな善良さと心の余裕が妬ましかった。
「ねえ、クピタ。僕は君となら幸せになれると思っていたけれど、本当は君ならば幸せに出来ると思っていたのかもしれない」
ハロルドは自分を落ち着かせるように額に手を当て、ゆったりとした口調で話す。
「何ですって?」
クピタが噛みつくような声で聞き返す。
ハロルドは目の前にいる彼女を見ずに、頼りない両親と可愛い妹の為に、卒業後すぐにタイプライターとしての職を得て働きだした健気な女の子を思い出していた。
華奢な肩に背負っているものは重いのに、ちっとも弱音を吐かず、恨み言も言わず、ただ諦めたような顔で淋しそうに微笑んでいる彼女を幸せにしてやりたい、と考えた。
そして婚約者の豪勢な家を見ても嫉妬などおくびにも出さず、母と楽しそうにお喋りし、お茶を運んできたアンヌに丁寧な礼を述べる彼女ならば上手くやっていけると思った。
「僕の頭には本の中の知識は詰まっていても、世の中のことになると悲しいほど無知で出来が悪い人間であることを自覚しているよ。そのせいで君を傷つけてしまったことは本当に申し訳なく思う」
ハロルドは拳を握りしめながら、ぺこりと頭を下げた。爪を掌の肉に食い込ませ、少しでも自分に痛みを与えようとする。彼は自分に与えられた辱めだけが二人の間の痛みだと思い込んでいたのだ。
「顔を上げて、ハロルド。お願いだから」
クピタはハロルドの謝罪の言葉を聞き、急激に落ち着きを取り戻した。感情に任せて言い過ぎた、とそこでようやく気が付いたのだった。
「僕はそんな良い奴じゃない。その証拠に、君だけじゃない、一番身近な友人であり、従兄弟でもあるジェイミーのことだって……僕は一度も助けてやろうとしなかった。放っておうた。そのくせ、あいつに嫌われたくなかったんだよ。友情の上澄みだけが欲しかった」
ハロルドは顔を上げ、吐き捨てるように言った。今度はクピタが俯く番だった。
「僕はいつもそうだ、自分が相手を失いたくないから必死に優しいふりをする。全部、自分のためさ」
彼の脳裏に汽車が見えなくなった後もホームの端っこで手を振っている少年の姿が蘇る。自分はその横で、線路の方を見もせずに、よそ行きの服の袖をぐしゃぐしゃに濡らしていたはずだ。
別れ際に先生は、これからは私がいなくても良き生徒でいられるわよね、と念を押すように僕たちに言った。僕は先生との約束を未だに守ることが出来ていない。先生は僕たちと離れるのが寂しいと言いながらも、それ以上に成長を悦び、僕たちの新しい生活を応援してくれていたというのに、自分はそれが不満だった。
もっと寂しがって、悲しがって、離れるのなんて嫌よ、と言って欲しかったのだ。
こんな時、自分が相手を思い遣れる人間に成長していたなら、あの時はまだ子供だった、と赤面することが出来るだろう。
僕はまだ、あの頃の自分と一緒に泣いている。いつまでそうしているつもりなのだ?
このままではいけない。己を悲劇の主人公に落とし込む為に罪を背負い込むふりをするな。ちゃんと言わなくちゃ、ハロルドは大きく息を吸い込んで、途切れ途切れに言った。
「僕にも悪い所はあったよ。でも、やっぱり君を許せない。自分の道を自分一人の力で切り拓きたかったなら、どうしてもっと早く決断しなかった?尤もらしい理由を付けてはいるけれど、つまり君は僕を信用していなかっただけじゃなく、自分のことも信用していなかったんだよ」
そこまで言い切ってハロルドはぎゅっと目を閉じた。頭がぐらぐらする。率直にものを言うのは、嘘を吐くより難しい、と思いながら暗闇の中で彼女の言葉を待つ。
「言ったでしょう。楽な方へ流れそうな自分が怖かったって。愛していないまま結婚しても互いが不幸になるだけだと思ったのよ。貴方は私のことを考えている風を装いながら、本当は何も考えていなかった」
ハロルドはその言葉を聞いて、瞼を開き、眉間に皺を寄せた。
「楽な方?君は愛してもいない相手と人生を共にすることが楽な道だと思っていたのか」
ハロルドは呆れた声で返した後に、はたと気付いた。
自分が恋をしていたのは自分の中で都合良く作り変えられたクピタだった。健気で、優しく真面目な女の子に恋をしていた。
そして彼女の方は自分のことを愛してはいなかった、ただヴェルロール家の財産だけが見えていた。
そこに何の違いがあろうか。互いの姿を見ようともしないまま、結婚に進もうとしていた自分たちが行き着く先は、結局暗いものだったのかもしれない。
いや、そう思い込むことで自分の傷を少しでも癒そうと必死になっているのかもしれない。
ただ確実なのは、一方は恋に恋して、もう一方は金銭に恋をしていたことだ。
「僕たちは互いに心を許そうとしなかったのだから、この結末には納得せねばならないな」
クピタは黙ったまま再びベンチに腰を下ろした。ハロルドは深いため息を吐いたあと、彼女に向かってこう言った。
「結納金は返還して貰う。婚約指輪は僕が勝手に贈ったものだから気にしなくて構わない」
それはけじめをつける為と精一杯の強がりだった。彼女に贈った婚約指輪は自分の稼ぎをこつこつ貯めて購入したものだ。
寄宿舎の友人が恋人に贈ったと話していた指輪のように、これで家が一軒建つ、とは到底言えないが、彼女が希望する店で購入することが出来た。
それも彼女は自分の機嫌を伺っていただけで、本当は欲しくなかったのかもしれない。
「いいえ、返すわ。色々と偉そうに言ったけれど、私……高価な物を恋人から贈って貰うことに、憧れがあったのよ。あれは私が欲しがったものだから、きちんと返す。ドレスも」
「駄目だ。指輪は僕が勝手に贈った、だから要らない。ドレスの代金はもっと要らない」
ハロルドが眉間に皺を寄せて首を振る。
ドレスは、娘が欲しかったという母がきゃあきゃあ言いながら何冊もカタログを取り寄せて発注したものだ。彼女の意見も一応聞きはしたが、母親が半分選んだようなものだった。
それはクピタが着るものだから母さんは口を出さないで、代金も頼らないから、と何度も言ったが母はなかなか承知しなかった。
父も注意してくれたが、結局クピタが母の強く勧めたドレスで良いと言った為にそれを注文することになった。ハロルドはクピタに今からでも変更しよう、と提案したが彼女は受け入れなかった。
二人の結婚式なのに、互いに親の言いなりになってしまっていたのだ。