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3話

父がジェイミー以外を二階へ呼びにやらなかったのも、ジェイミーが自分を急かさなかったのも彼らなりの気遣いなのだろう、とハロルドは思った。

しかし特別扱いをされることで、昨日の出来事が夢じゃないと突き付けられているようで却って辛い。

それと同時に、人の気遣いを素直に受け取れない自分に腹が立つ。こんな僕だから婚約の解消を申し出られたのかも、と自嘲気味に笑いながらハロルドはパンケーキにシロップをかけ、ナイフを入れた。


「ハロルド、本当なの?クピタさんが……」


「うん、そうだよ。僕、それを聞いて立てなくなっちゃってさ。知らないご夫婦に助けられて、その人たちにジェイミーを呼んで貰ったんだよ。笑っちゃうよね」


母のマーリーがおろおろした様子で夫の方を見つめる。


「ご夫妻に礼をしないとな。しかし、今はイレンコルス家だ。朝一番に使いをやった。私はハロルドがこれ以上傷つくのは嫌だから、向こうが誠意ある対応をしてくるなら大事にはしないつもりだが、どうだ」


あんな公の場で婚約の解消を言い渡しておいて、誠意ある対応もなにもあるものか、と思いつつもハロルドは頷いた。

両親にもジェイミーにも余計な心配はかけたくない。


「うん、それでいいよ。ただクピタと最後にきちんと話がしたい。書類の上だけで何もかも終わってしまうのは納得がいかない。二人きりが嫌というなら、誰かに同席して貰って構わないから」



「それは当たり前だ。全く、何を考えているんだ。断る機会ならこれまでに幾らでもあっただろうに」


デーヴィスは怒りを込めて、罪のないオムレツにフォークを突き刺す。マーリーは次に黙々とパンケーキを口に運んでいるジェイミーに話しかけた。


「ジェイミーは何も知らなかったの?」


「控えの間にいたもので。昨日の僕は彼の付き人でしたから」


本来付き添うはずだった使用人が田舎の母が入院したということで急遽休暇を願い出て、それなら僕が行くよと彼が引き受けたのだった。


「そう、そうよね。ああ何てことでしょう。ルクレツィアは知っているのかしら。ハロルド、

ごめんなさい。ママを許して。これはママのせいだわ」


誰もそんなこと言ってないよ、とうんざりしながらハロルドもパンケーキを口の中に押し込んだ。

いつもは大好きなアンヌ特製のパンケーキなのに、味が全くわからないし、噛むことさえ億劫だ。喉を詰まらせそうになって、ハロルドは冷めた紅茶で流し込み、ぜえぜえと荒い呼吸をした。


「ハロルド、無理して食べなくていい。大丈夫だよ」


「ありがとう、父さん」


「水を飲む?」


ジェイミーが立ち上がって水差しを持ち上げた。ハロルドが欲しいと言ったのでコップに注いでやる。


結局、ハロルドは水を飲んだ後は何も口にしなかった。ジェイミーが皿を下げてキッチンへ運んで行った。ハロルドもティーカップとコップを盆に載せて、ジェイミーの後を追う。

ヴェルロール家には使用人が少ない。それは経済的な理由ではなく、ハロルドの母マーリーが家に人が入るのを嫌がるのだ。昔、実家の使用人が盗みを働いたからというのがその理由らしい。

デーヴィスはそんな妻の気持ちを汲んだのと、息子と甥が使用人に傅かれて育つよりも、自分のことは自分で出来るようにしておいた方が後々困らなくて良かろう、という思いから人を増やそうとは決して言わなかった。


アンヌはキッチンで一人朝食を取っていた。奥様から、悪いが今日は席を外して欲しいと言われたのだ。


「アンヌ、ご馳走さま」


ジェイミーが皿を流し台に載せる。


「ごめんなさい、残しちゃった。食欲がなくて……」


「ハロルドさん、顔色が悪いわ。大丈夫?」


「ちょっと、大丈夫じゃないかも」


そう言いながらハロルドも盆に載せたティーカップとソーサーを一つ一つ慎重に流し台へ置いていく。それが終わると、電気冷蔵庫の扉を開けてジュースを取る。その時、不意に思い出した。クピタが、電気冷蔵庫が家にあるなんてすごいわ、とはしゃいでいたことを。

確かにすごい、自分の月給十か月分はする。家で氷の残量を気にせず、いつでも冷たい飲みものを手にすることが出来るなんて最高だ、と父が家庭用電気機械器具製造会社からカタログを受け取るなり購入を決めたものだ。


父がいるから、電気冷蔵庫を我が家は所有しているが自分の稼ぎだけでは氷式冷蔵庫を買うのが精いっぱいだろう。あの時、彼女はこの冷蔵庫を見てはしゃぐと同時に、自分のことを結局は甘ったれの苦労知らずで、大した才能もないお坊ちゃんと軽蔑していたのだろうか。

冷気に体温を奪われそうになりながら、ハロルドが立ち尽くしているとジェイミ―が注意してきた。


「冷蔵庫、早く閉めろよ」


「うん、そうだね」


葡萄ジュースの入った瓶を開け、ジェイミーが渡してくれた洗いたてのコップに注ぐ。


「君も飲む?」


「今はいいや」


「そう。これ飲んだら洗い物手伝うよ」


その言葉にジェイミーが首を振る。自分を気遣ってくれているのだ、と分かっていてもハロルドは苛立ちを隠せずに口を尖らす。



「いいよ、そういうの。やめて欲しい」


「俺に八つ当たりするなよ!こっちもお前に気を遣っているんだよ。じゃあ、いいよ。後は頼んだ」


ジェイミーは洗剤の泡がついた手を洗い流すとキッチンを出て行った。アンヌがおろおろしながらジェイミーの背中とハロルドの顔を見比べる。


「ちょっと昨日、くだらない言い争いをしてね。それが尾に引いているだけ」


「何かあったのでしょう。言い争いじゃなく」


アンヌが彼の瞳をまっすぐ見つめながら静かに問いかけた。

ハロルドはまるで企んでいた悪戯がばれた子供のような、ばつの悪い表情を浮かべる。

そして、降参、というように両手を挙げて、彼女に真実を告げた。


「アンヌは家族同然なのに、隠していて悪かった。僕、クピタ嬢に婚約の解消を言い渡されたんだ。まだ他の人には内緒だよ。まぁ、これからすぐにばれてしまうだろうがね」


アンヌはその言葉を聞いて、さあっと青ざめた後、エプロンを握りしめながらどうにか声を絞り出そうとしていた。


「驚かせてごめんね。僕は大丈夫、もうどうしようもないものね。ジェイミーに謝ってくる」


ハロルドは無理矢理笑顔をつくって、キッチンから逃げ出した。

アンヌに無用な心配をかけたくないからそう言ったが、本当は大丈夫なんかじゃない、クピタに対して自分はものすごく怒っている。

イレンコルス家には制裁を加えてやりたいし、あの大広間で薄ら笑いを浮かべていた連中にも罰を与えてやりたい。

それから、やけ酒をして馬鹿みたいに泣いて喚いて地団太を踏んだあとに死んだように眠りたい、という気持ちに蓋をしながら逃げ出した。


リビングへ行くと、ジェイミーはソファに寝転がって雑誌をめくっていた。その周りをデーヴィスがうろうろと落ち着きなく歩き回っている。マーリーはいなかった。

ハロルドはジェイミーに近づいて謝罪の言葉を口にした。しかし、ジェイミーは顔をあげない。

もう一度、さっきはごめん、と言ってみる。しかし相変わらずジェイミーは雑誌に夢中なふりをしている。


「僕が悪かったよ」


「俺はね、お前のこと心配していた。辛いのは分かるけど、なんでもかんでも悪く捉えて怒るなら、もう話したくない」


「ごめん」


「次はないからな」


そう言ってジェイミーはようやく雑誌から顔を上げた。ハロルドが傷ついているのは分かるが、どうしようもない怒りを周囲の人間にぶつけて自分の感情を和らげようとするのはいただけない。


「お前が怒りをぶつけるべきはクピタだろ」


「その通りだ」


デーヴィスが腕時計と壁時計を見比べる、という意味のない動作を繰り返しながら同意する。


ヴェルロール家には電話があるが、イレンコルス家にはない。

だから朝一番に使いを送った。

もう帰ってきてもいいはずだ、とデーヴィスはそわそわしている。



そして、妻があまりにも強く勧めてきた縁談で、ハロルドも彼女を気に入っていたようだから同意したが、やはり止めておけばよかった、と彼は今更後悔する。


「私が反対を貫けば良かったんだ。マーリーがどうしても、と言ったから会わせたんだが。そもそも……」


そう言いかけたときに呼び鈴が鳴った。ジェイミーがぱっと立ち上がる。


「見てきましょうか」


「いや、ジェイミーはハロルドとここにいなさい。私が出よう」


デーヴィスがばたばたと玄関までかけて行った。

ジェイミーはもう一度ソファに座り、雑誌を閉じてハロルドの方をちらちら見ると、声を出さずに唇を動かしている。




「大丈夫、気付け薬の在庫は確認しておいた」


ジェイミーがわざとおどけて言う。


「それを使わないで済むよう祈るばかりさ」


ハロルドは青白い顔で答えた。




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