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2話

ジェイミーは朝の七時に起きて浴槽に湯を溜め、熱い湯の中に身体を沈めた。ああ、このままもうひと眠りできそうだ、と思いながら手足を伸ばす。

僕はやっぱり薄情だな、と塗れた髪をかきあげてバスルームの天井を見上げる。

友人がこんなに傷ついているのに朝風呂に心からの幸福を感じてしまう。

もしも立場が逆だったら、きっとハロルドはすごく心配して烏の行水で出てきて自分を必死に慰めてくれただろう。


彼には自分と違って感傷的な部分がある。

家庭教師のローズ先生がヴェルロール家を去ったとき、読めば辛くなるからと先生が別れ際にくれた本を三ヶ月は開かなかったし、中等学校時代に皆から好かれていた先輩が卒業していなくなったのを最後まで寂しがっていた組だったし、十六歳の時の失恋はきっかり一年間引きずっていた。



一方で自分は、ローズ先生と駅で最後の抱擁を交わしたときは流石に涙が滲んだが、帰宅するとさっさと本を開いたし、先輩がいなくなるのも寂しいとは思ったが、ハロルドや他の何人かのように時折思い出しては恋しく思うようなこともなかった。

手痛い失恋も、生きていればそれくらいあるだろう、と半月もすれば立ち直った。


しかしハロルドは違う。人生で度々起こり得る別離や失敗を自分より深刻に捉える。それは人それぞれの性質でどちらが良い悪いといった問題ではないのだが、見ていて辛いものはある。

もう少し、気楽に生きてもいいんだよ、と言いたくなるがそれが出来れば苦労しないのだろう。


ジェイミーはそこまで考えたところで首をぶんぶん振り、大急ぎで髪と身体を洗ってバスルームを出た。


肩のあたりまである赤い髪をタオルで拭きながら、ジェイミーは脱衣場にある鏡で自分の顔をまじまじ眺めた。

ハロルドとも叔母様ともちっとも似ていない。叔母様はふわふわとした長い優美な金髪、ハロルドもその髪を受け継いでいる。叔母様の瞳は淡いブルー、ハロルドは父親譲りの鳶色の瞳。

自分は赤い髪に濃い緑の瞳で、小さい頃に僕はママに似ているの、それともパパに似ているのと尋ねたことがあるが、叔母様は困ったような微笑を浮かべるだけで何もいってはくれなかった。

写真はないの、と尋ねても、うちはあまり裕福じゃなかったから写真館に行けなかったの、と返された。姉さんの結婚写真も見ていないのよ、と付け加えて叔母様は悲しそうな顔でハロルドを抱き寄せた。


しかしある時、アルバムを盗み見たハロルドが、ママの子供の時の写真が何枚かあったよ、と教えてくれた。自分の母の写真もあるかもしれない、と期待したがママ以外は大人しか映っていなかった、と聞いてがっかりした。

それでも自分に似た人の姿がどこかにあるかもしれない、見てみたい、と思って場所を聞いたが、ハロルドがアルバムを盗み見たことに気付いた叔母様がどこかにそれを隠してしまっていた。


二歳の頃に自分はヴェルロール家に引き取られ、物質的に何不自由なく過ごしてきた。

しかし母は違ったのかもしれない、何等かの理由で家族から疎まれて、苦しい日々を送っていたのではと母と隠されたアルバムのことを思うと胸がちくちく痛んだ。


その痛みは今でも消えないでいる。


***********


ジェイミーはキッチンへ行き、二人分のコーヒーを淹れた。メイドのアンヌがボウルに卵を割りながら申し訳なさそうに頭を下げる。


「いいよ、いいよ、気にしないで。それより今日はパンケーキ?嬉しいなぁ」


「ええ、坊ちゃんたち好きですものねぇ」


アンヌが忙しなく手を動かしながら目尻を下げる。アンヌは二人が三歳の頃からこの家で働いていて、ヴェルロール家の一員としてみなされている。特に奥様とは雇い人と使用人というよりも、友人のような間柄だ。


日曜の朝は朝食のあとに長いことお喋りを楽しんでいるが、今日は楽しめないお喋りになるだろう。今のうちに気つけ薬の在庫を確認した方が良いかもしれない。

薬箱はどこだったか、と考えていたところにデーヴィスがやってきて、二人に声をかけた。


「おはよう」


「おはようございます。もう少しお待ちくださいね、すみません」


アンヌは一瞬だけデーヴィスの方を見て挨拶すると、すぐに視線をフライパンに戻して生地を流し込んだ。


「いや、ゆっくりでいいよ。ジェイミー、ハロルドを起こしてきてくれるかい?」


「おはようございます。ええ、目覚まし代わりのコーヒーを二階へ持っていこうとしていたところです」


「ありがとう。先に食堂へ行っているよ」


叔父の背中を見送ってから、ジェイミーはコーヒーカップを盆に載せて二階へと上がった。


「ハロルド、起きてる?開けて」


盆を傾けないよう注意しながらノックするが、返事がない。仕方なく盆を床に置いて、今度は強めにノックする。それでも返事がないのでドアノブを回すと、鍵がかかっていなかったようで扉が開いた。


「大丈夫?」


「勝手に開けるなよ」


ハロルドはもう起きて、着替えも済ませていた。ジェイミーは謝りながら床に置いていた盆を持ち上げてローテーブルの上に置く。


「起きていたなら返事しろよ。目覚まし代わりにコーヒー持ってきたけど要らなかったかな」


「貰う」


ハロルドは自分のカップを受け取り、まだ湯気のたっているコーヒーを飲む。結局昨夜は一睡も出来ず、明け方にシャワーを浴び、それから自室で何をすることなくじっとしていたのだった。

ジェイミーも自分の分のコーヒーを飲んだ。飲みながら、最初は格好つけて無理して流し込んでいたこの液体を美味しいと感じるようになったのはいつからだろう、と考えた。寄宿舎の時に砂糖を入れないのが大人の証、なんて馬鹿な事を皆で言い合っていたのをジェイミーは思い出す。


「ねえ、君がジョージアナと別れたとき、どれくらいで元気になったっけ?」


ハロルドが突然、懐かしい名を口にした。


「随分古い話を持ち出すな」


ジェイミーは微笑を浮かべる。ジョージアナと初めて出会ったのは学校の創立記念日のパーティーだった。二駅離れた場所にある女子寄宿学校と合同で行うパーティーが近付くと、大抵の者が色めき立つ。髪の毛を伸ばしたり切ったり、眉を整えたり、親に新しい靴をねだったりする。

また、華奢な生徒は女役になってダンスの練習相手をさせられるという伝統があったので、それを回避するために急に体を鍛えだしたり牛乳をがぶ飲みしだしたりする者も出る。


逆に、女役を務めたら先輩がお礼にチョコレートだのキャンディだのを上機嫌に恵んでくれるから、最上級生になるまで女役のままがいい、と言い出す者もいた。

三年間女役を務めた生徒が、先輩も段々女の子と踊っているような気分になるのか、それとも練習できたから当日に良い結果を出せると思い込むのか知らないけれど、まあ役得だね、と笑っていた。


但し、この伝統は彼らが卒業して二年後に廃止されたので、もう牛乳をがぶ飲みする者も、キャンディを貰える者もいない。



とにかく、創立記念パーティーは寄宿生にとって大きなイベントで、この時ばかりは普段は名前も忘れている創立者に心から感謝を捧げる者が絶えない。


しかし、大抵彼らの計画は上手くいかない。こっちは女子に慣れておらず、あっちは男子に慣れていないから、互いに意識しながらも言葉を交わすことが出来ずに友人同士でサンドイッチだのクラッカーだのをつまんでいたら終わりの時間になっていた、ということも珍しくはない。

そうした者達は、意図せずに厳格な教師たちの言う通りにしてしまった、と肩を落とす。つまり彼らは、本校の生徒である誇りを忘れず紳士としてふさわしい振る舞いでパーティーを終えたのだ。


勿論、果敢にも女子生徒の方へ行き、ダンスを申し込む者もいる。上手くいけば二三曲踊ってもらい、最後に手紙を書いていいですかとか、また会いたいとか言って帰還する。成功した者はにやにやしながら帰還するのですぐ分かる。

撃沈した者には次の外出日に仲間からカフェでコーヒーとケーキを奢って貰える。挑んだことを称えてそうすることが伝統なのだ。


反対に、女の子よりご馳走に心奪われる者もいる。寄宿舎の食事では滅多に出ないバターたっぷりのパイや詰め物いりのチキンをここぞとばかりに腹に詰めこむのだ。

どちらにも興味のない者や満腹になってしまった者は、つまらなさそうにぼんやり立っていたり、友人と他愛ないお喋りを楽しんだりする。

ジェイミーもそうだった。パイの大きな一切れを食べたら満足してしまい、友人たちとくだらない会話をしていた。

すると、一人の女の子が所在なげに突っ立っているのが見えて目が合った。すると、その子がぎこちなく微笑んでくれて、ジェイミーは突然ぼーっとしてしまった。

互いに気恥ずかしくなってすぐ目を逸らしたが、それを友人の一人が目ざとく見つけ、ジェイミー行けよ、と囃し立てる。

友人たちに促されて仕方なく、といった様子でジェイミーはその子に近寄り、ダンスを申し込んだ。

女の子は周囲を見回しながら、わたしダンスが上手くないから踊りたくないの、と囁くような声で言う。

それなら少しお喋りしないか、と誘ってみたら、その子が頷いたので二人は部屋の隅へ移動した。

ジェイミーがにやにやしながら帰還したとき、ハロルドは友人のシャルルと一切れ残った洋梨のタルトを巡って激しく口論していた。一応、周囲の目を気にして小声ではあったが。


それからジェイミーは彼女と文通を始め、外出日には何度か会ったが、突然彼女から別れを告げられた。他に好きな人が出来たのだという。


ジェイミーは頭がくらくらしながらも、どうにか寄宿舎へたどり着いた。そして何かを察した友人たちがクッキーを一袋買ってきてくれたがなんの味もしなかった。


頭の中の引き出しにしまいこんでいた古い思い出が蘇る。


「半月くらいかな」


「早いね、初恋だったのに」


「初恋だったから。永遠じゃないとどこかで思っていたんだよ」


「初恋って自分の愛情のすべてを注ぎ込むものじゃない?やっぱりジェイミーはどこか冷めてる」


「そうかもしれない」


君は初恋じゃないのに全て注ぎ込んだな、と返したくなる気持ちをぐっと堪える。あんな女より、ずっと君にふさわしい良い子がいるさ、という寒々しい励ましの言葉も控える。


ただ、彼がコーヒーを飲み終えるのを待ち続けていた。飲み終えて数分ほどハロルドは黙って床に敷かれた絨毯を見つめていたが、やがてカップに盆を載せて立ち上がった。


「コーヒーありがとう。そろそろ下に行かなきゃね」


二人が食堂へつくと、パンケーキはすっかり冷めてしまっていた。


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