1話
広間の中央でハロルドはへたり込んでしまった。情けない姿をこれ以上見せたくない、と思ったのにどうしても力が入らず立ち上がれない。
顔を見合わせ笑う者、気の毒そうに見つめている者、或いは茫然と立ち尽くしている者、反応は様々だったが彼に誰も手を貸さない、という点では皆一致していた。
酷いわ、と呟いた一人の婦人が彼に歩み寄った。彼女の夫も慌てて妻の後を追いかける。
「さぁ、掴まって。大丈夫、私たちが玄関まで送り届けてあげましょう」
「そんな、あなた方に迷惑がかかります」
ハロルドは慌てて夫妻の申し出を断ろうとしたが、まだ足が震えていて上手く立ちあがることが出来ず、結局見知らぬ紳士の肩を借りた。
客人たちの目が突き刺さるように痛い。明日から何を言われるのだろうか、考えただけで胃の腑が縮み上がる。
「ありがとうございます。ごめんなさい、僕……」
「気にすることはないよ、ひどい目にあったね。私が控えの間で君の従僕を呼んでこよう。名前は?」
紳士が優しく尋ねると、ハロルドが絞り出すような声で答える。
「ジェイミー、ジェイミー・ヴェルロール」
それを聞いて夫妻は顔を見合わせてぱちぱち目を瞬いたが、紳士はすぐに平静を装って控えの間の方へ進んでいき、婦人は小さな革張りのソファにハロルドを座らせる。
ハロルドはこれが夢ならばいいのに、と思いながら目の前の婦人に向かって尋ねる。
「あの、お名前をお伺いしても?」
「私はリーマ、夫はウィストン・マグダレナ」
長い金色の巻き毛を揺らしながら、赤子をあやすような、ゆったりとした口調でリーマは答えた。自分の母より少し上だろうか。首元と手首にはっきりとした皺が刻み込まれているが、頬は薔薇色で、素晴らしく大きな亜麻色の瞳と長い睫毛を持っている。
「リーマさん、本当にありがとうございました。お礼は後程必ず」
「そんな、いいのよ。それよりも貴方が心配、あの子は一体何を考えているのかしら」
「僕が愚鈍な男だから嫌になったのでしょう」
ハロルドは自嘲気味に笑う。彼は先ほど広間で婚約を解消したいと愛しい人から告げられたのだった。
クピタ・イレンコルスとハロルド・ヴェルロールが見合いをすることになったのは、互いの母同士が友人である、という縁からだった。互いの母親が家格の不釣り合いなこの縁談を熱心に勧めたのである。
イレンコルス家はかつて刺繍レースの製造で財を成した一族だが、五十七年前にこの国で奢侈禁止令が出され、指定された品目の中に刺繍レースも入っていたことから大きな打撃を受けた。
当時この国にいた王侯貴族でさえレースを購入することに厳しい制限が設けられたために、イレンコルス家の財政はたちまち苦しくなり、他の事業を模索したが上手くいかずに多くの財産を失う。
そんな中でイレンコルス家の子供たちは家業を廃した後に料理人や時計修理師、仕立物師といった技術を身につけて独立していったが、クピタの祖父だけは別だった。
クピタの曾祖父は家に残った長男に、そうした手に職をつけろ、さもなくば勘当するぞとやかましく言っていたが、結局は情を断ち切ることが出来ないままこの世を去った。
曾祖父が自身の生活を切り詰めてどうにか残した財産を祖父は瞬く間に食いつぶし、更にその贅沢好きを受け継いだ息子もまた同様だった。使用人も一人しか雇えず、先祖が遺した僅かな美術品や銀食器を売り払い、娘を寄宿学校に入れるのも親族から借金をする有様だった。
一方でヴェルロール家は、父がジンジャーシロップの製造で一山当てた所謂成金である。
父は苦学の末に大学を出て経営学を学び、卒業して製糖会社に十年勤めたあとに会社を興した。
事業で成功して名士の仲間入りをした父を持つハロルドと、ろくでなしの父を抱えたクピタはヴェルロール家で開催されたガーデンパーティで初めて顔を合わせた。
しかし最初ハロルドは彼女のことなど意識しておらず、自分が招待した学生時代の友人、ディアンやシャルルとの再会を喜び、大いに騒いだ。それから招待客の中でひときわ目立っていた、若き地質学者のアレクサンドラ女史を三人でうっとりと見つめていた。
その時、ハロルドは何も知らなかった。母と旧知の仲であるルクレツィア・イレンコルスがクピタと自分の縁談を進めていたことを。
後日、母のマーリーから婚約のことを聞いたとき、ハロルドは椅子から転げ落ちそうになった。
その時、彼は大学の最終学年で五か月後に卒業試験を控えていた。今の今まで次に帰宅するのは落ちた時だ、卒業式の正装をした同級生を見たくないから、と母に向かって軽口を叩いていたのである。それが突然、自分の友人の娘と見合いをしろ、と言われて困惑の色を隠せない。
今そんな話を持ち掛けられても困る、とハロルドははっきり言った。
「貴方が大事な時期であることは分かるけど」
母はそう前置きして話を続ける。
「とにかく彼女と会ってみてちょうだい、お父様もご承知済です」
「冗談じゃないよ。僕、その子のこと殆ど何も知らない。母さんとクピタさんの母親が友達なのは知っているけれど、お互いの家をしょっちゅう行き来していたわけでもないじゃない。それなのに、どうして突然」
ハロルドは猛然と抗議したが、母は申し訳なさそうに首を振るだけ。そして、もう決まったことなのだから、試験頑張ってね、と言ったきり逃げるように部屋を後にしてしまった。
そんなこと承知してたまるか、僕らは新しい世代だぞ、自分の結婚相手は自分で決める、とハロルドは叫んだ。
母の娘時代、三十五年ほど前までは親同士が結婚を決めるのも当たり前だったかもしれないが、今は違う。急激に国と社会の仕組みが変わり、この国の人々は新時代を困惑と歓喜をもって受け入れた。
母は未だに旧時代から脱し切れていないのかもしれないが、自分たちは生まれた時から新時代を謳歌しているのだ。旧弊制度に縛られちゃたまらない、と思いながらハロルドは母を追いかけた。
しかし、返答は同じで、既に決まったことだと繰り返されるのみ。その夜、ハロルドは従兄弟のジェイミーに愚痴をぶちまけた。
自分には将来があるのに、自分なりの展望もあったのに、なんということをしてくれるんだ、と。
するとジェイミーが珍しく感傷的なことを言った。
「文明は絶えず発展しているのに、どうして大昔の人間と同じことで僕らはあれこれ悩んだりするんだろう」
「大昔の人間と同じこと?」
「家族のことや、仕事や恋について」
ジェイミーが自分の赤銅色の髪をかき上げ、ため息を吐く。
「そうだねえ」
ハロルドは神妙な面持ちで相槌を打ちながら、ほとんど顔も覚えていない婚約者のことを考えながら、新しいボトルを開ける。
それから二時間近くジェイミーと話していたが、彼の話が右から左へと抜けていった。
腹立たしく思いつつも、彼はクピタに興味を持ち始めていたのだった。
今では思う、どうして自分は会って自分の口から断ろうなどと悠長に構えてしまったのだろうか、と。頑として拒否して会わなければ良かったのだ、と今更後悔する。
ウィストン氏に呼ばれて控えの間を飛び出してきたジェイミーが目の前に現れたとき、ハロルドは小さく呟いた。
「どうしてこんなことになってしまったんだろう……!」
車まで見送ってくれたマグダレナ夫妻に丁重に礼を述べた後、ハロルドは一言も口を利かなかった。ジェイミーも何かを察したのか、黙ってハンドルを握っている。
明日が日曜日で良かった、ハロルドは胸を撫でおろす。ハロルドは今、ガラス瓶の製造会社で働いている。いずれは父の会社を継ぐことになるだろうが、それまでに社会の荒波に揉まれた方が良い、という父の意向からだった。
自分で事業を動かすには知識だけではなくて、胆力も人付き合いを上手くすることも必要だから鍛えてもらえ、と父は言う。
ハロルドが働き始めて七か月、悔しくて眠れない夜も自分の失敗を引きずって食事も喉を通らない日々もあったが、自分にはクピタがいる、という安心感がどこかにあった。
彼女という拠り所を失った今、どうすれば良いんだろうか、と考える。友人たちはきっと自分を励ましてくれるだろう。自分の前でハンドルを動かしているジェイミーだって、事の顛末を聞けば激しく彼女を罵って、自分の味方をしてくれるに違いない。
両親だって、怒り狂ってイレンコルス家に抗議してくれるだろう。先ほど自分に慎ましやかな嘲笑を投げかけていた人たちでさえ、会場の外を出て世間の目に触れれば神妙な顔で慰めの言葉をかけてくるだろう。
でもそれで自分のなにを埋めてくれるだろうか?海の中に一人小船で投げ出されたような孤独を感じながら、ハロルドは低く呻いた。
やがて車はヴェルロール家に到着した。車庫に車を停めてから、ジェイミーは後部座席でぐったりとしているハロルドに向かって尋ねた。
「着いたよ。立てる?」
「ここにもう少しいる。ジェイミーは先に入っていて良いよ」
「風邪ひくよ。とにかく中へ入ろう」
小さな子供をあやすような優しい声でジェイミーは促すが、ハロルドはむっつりと黙り込んだまま答えない。
少しの間、ジェイミーは運転席で待っていたが、やがて痺れをきらしたように横へ来て、俺だけ家に入ったら叔母様が変な顔するだろ、と言いながら彼の腕を軽く引っ張った。
するとハロルドは彼の手を振り払い、放っておいてくれと叫んだ。
「君が凍死するのは勝手だが、責任を問われるのは俺なんだ。何があったのか知らないけれど、とにかく家の中には入ってくれ。その後は好きにすればいいだろう」
「分かったよ」
ハロルドは渋々、といった様子で起き上がる。自分の為ではない、従兄弟の為だと思いながらむっくりと起き上がり、シャツの襟を正した。
「立てる?立てないなら肩を貸すよ。裏口から行こうか?」
先ほどより幾分和らいだ口調で尋ねるジェイミーにハロルドは首を振る。
「いいよ、玄関から行く。話さないといけないことがあるから」
重い足取りで玄関へ向かい、鍵を背広のポケットから取り出してねじ込んでから、扉を開けようとしたが力が入らず、ジェイミーに手伝って貰う。
「全くどうしてこんなに重い扉を選んだわけ?これが無いだけで、みんな随分楽になるだろうよ」
「君が主になったら変えてやることだな」
そう言いながらジェイミーは疲れた様子で肩を回す。リビングの灯りがまだついていて、仲へ入るとハロルドの父であるデーヴィスが晩酌を楽しんでいた。
「おかえり!思っていたより早かったね」
父は上機嫌にグラスを掲げながら二人に向かって声をかけた。ジェイミーが些か遠慮がちにただいま、と言ったがハロルドは何も答えずソファにどさりと倒れこんだ。
「何だ、飲みすぎて早く帰って来たのか。まぁ明日も休みなんだから構やしないがね、クピタ嬢を困らせていないだろうな。ああジェイミー、お疲れ様。土曜の夜を潰して悪かった、今から飲むかい?」
ジェイミーが頷くと、デーヴィスは彼の為に用意してあったらしいグラスに酒を注いだ。ちらちらとハロルドの方を見ながら、ジェイミーはグラスを受け取る。
「ねえ、父さん」
「なんだ、お前はもう止めておきなさい。それから寝るなら自分の部屋へ行って寝ろ」
ソファに寝転がったまま、か細い声で話かけてきた息子に呆れた様子で目を向けながらぶっきらぼうに父は言う。
「僕さ、クピタ嬢に振られたよ」
「なんだって?」
吃驚した様子で父は叫んだ。ジェイミーは喉に流し込んでいたアルコールに噎せ、慌ててグラスを置くと、涙目になりながらハンカチを取り出した。
「僕とは結婚できない、ってさ。大広間で言われたよ。皆、吃驚しただろうね。僕が一番驚いたけど」
その言葉を聞いたとき、どうして言ってくれなかったんだ、と叫んでやりたがったがジェイミーはまだ咳き込んでいて声を出せなかった。
デーヴィスがコップに水を注いで持ってきてくれたので、それを一気に飲み干して、彼はようやく叫ぶことが出来た。
「どうして言わなかった?てっきり喧嘩でもしたのかと、それだけかと……」
婚約者と言い争いでもして、パーティーを抜け出してきたんだろう、くらいにしかジェイミーは考えていなかった。
ハロルドは考え込みやすい性格だから、互いの神経が昂って発してしまった言葉に自己嫌悪を、そして発せられた言葉の一つ一つを重く受け止めてしまったのだろう、と。
「最近は二人すごく仲が良かったじゃない。それにクピタ嬢は叔母様とも打ち解けて、今度二人でカーダードホテルのティールームに行くって……」
彼女が婚約の解消を申し出るなど俄かには信じがたかった。最初はぎこちなかった二人だが、最近はすっかり打ち解けて冗談を言い合ったり、町へ二人きりで出かけたり、家で一緒に雑誌を眺めたりしていたのだ。
ハロルドの母であるマーリーとも天気と自分の母親の話しかしなかったのが、段々と会話の幅を広げて、最近では顔を合わせるとモードや流行の小説や巷で人気の俳優について熱っぽく語り合っている。
今度は評判のレモンメレンゲパイを出すティールームに女だけで行きましょう、と誘われて嬉しそうに笑っていたのに。
「分からないよ。他に好きな人が出来たわけでも、僕が嫌いになったわけでもないって言うのだもの」
「とにかく明日あちらの家に問い合わせてみる。二人とも今日はもう寝なさい」
デーヴィスにそう言われて、二人は素直に寝ることにした。
ハロルドは大きなため息を吐いて、手すりを握りしめながら一歩一歩階段を上っていく。
「明日、大変だろうな」
ハロルドが振り返ってぽつりと呟く。
明日のことを考えると気が重いのはジェイミーも同じだ。ハロルドが根掘り葉掘り聞かれて疲弊する姿は見たくないし、叔母様が泣いたり叫んだりする姿も見たくなかった。
「その、今日は眠れないかもしれないけれど、せめて……」
ジェイミーがもごもご言うと、ハロルドは微笑んだ。
「うん、少しでも眠るよう努力するよ。今日はありがとう、ジェイミー。それじゃ、おやすみ」
「おやすみ」
二人はそれぞれの部屋へ帰っていった。ジェイミーはシャツを脱ぐとすぐベッドの中へもぐりこんだ。明日、早く起きてシャワーを浴びて、熱い濃いコーヒーを飲もうと思いながら目を閉じる。彼はすぐに深い眠りの底へ落ちて行った。
一方でハロルドは、何度も寝返りを打っては起き上がり、カーテンの隙間から真っ暗な闇の中を覗いていた。




