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フラッシュバック(後編)  作者: 八巻 篤史
1/1

(後編)


家族、期待してくれた方々、同級生たちに



- フラッシュバック /名詞/【flashback】

   1. 照り返し。強い光による後炎現象。

   2. ふとした瞬間にはっきりと何かを思い出すこと。

   3. 覚せい剤の使用を止めた後やPTSDによって再燃する幻覚や妄想。

   4. テレビ・映画で瞬間的な場面転換を繰り返す手法。クロスカッティング。

   5. 走馬灯。


   20


 ぼくは小説を書いていた。

 書いているとさまざまな思いが巡った。これまでの軌跡がプレイバックした。

 つまらない仕事。地下のバー。天使と飛んだ夜。病院。ケイコ。『PSC』。ステージ。キャンプ。放送事故。……いろいろやらかしてきたなぁ。


 あるいは、ふと自分の留学時代の思い出が巡った。


 飛行機。はじめての海外。かつてないワクワク。脳内音楽は『NEXUS 4』。日本人の名前は聞き取ってもらいにくい。変なイントネーションで呼ばれる。リスがでかい。月の石かのような黒い化石色のクッキー。ルームメイト。アメリカとイスラエルのハーフ。マリオみたいで最初イタリア人かと思った。とてもいいやつ。ヘブライ語で中東情勢を聞いていた。ニューヨークに三週間滞在。ルームメイトの家に泊まらせてもらう。ボストンの街並みは洒落ていて、自分の理想が具現化してくれていたかのようなダメージジーンズを買う。ワシントンDC。スミソニアンは無料。零戦やリンドバーグ号の実物。小さなギャラリー。ゴッホの『部屋』の実物を見る。時間を忘れる。本物はオーラがある。インディアナは何もない。地平線までトウモロコシ畑。道や道路がだだっ広い。娯楽はあまりない。あらゆるものが雑でも大丈夫。二段ベッドで集団で相部屋のモーテル。フランスから来て旅しているという青年。自分ももうどこででも生きていけるのかもなと思う。ランドリールームの乾燥機のパワーは桁違いでホカホカ。日本料理屋はだいたい中国系。ニューヨークのチャイナタウンは映画の街並みと雑踏。マンハッタンには洒落たカフェが至る所にある。まさかの大寒波。長距離バスを間違えて途中で降りる。途方に暮れる。路面店の不動産屋で助けを求める。電話でタクシーを呼ぶ。あまりにも通じなくて死ぬのかと思う。とりあえずそこに行くから待ってろと言われる。奇跡的に生還する。フィラデルフィアとシカゴは行きそびれた。西海岸には行かなかった。パンダエクスプレスはおいしい。日本人だが軽んじられはしなかった。バックストリートボーイズは未だに大学生の定番。普通にノーパンで歩く人々。頭で考えて変換した英語は通じない。一から真似るしかない。音声学が役に立った。買い物して欲しいものがなくなる。生きていて欲しいものが一旦なくなった。その頃からものを書いてみたいと思うようになった――。


 こうして曲がりなりにも執筆していて確信したのは、確かな思い出や、必要なアイディアは消えないということだった。


 しかし。

 浮かんでは書き、消す。書き、消す。書けなくなる。オーバーヒートを起こす。休む。書けなくなる。繰り返し。……。


 ひとまず、誰でもこんな感じなのだろうか? はたして、書いたこともない小説など、本当に完成するのだろうか?


 目的は、単純でありながらも終わりなきものであった。



   21


 ……何だい、それ?

 ある日、天使が部屋で椅子に腰かけて何やらハガキを書いていた。

 ……誰宛て? とぼくは聞いた。

 「ラジオの投稿だ」と天使は答えた。

 なんでも、天使は知り合いにラジオDJがいるというのだった。どうやら、その知り合いにあえて投稿者の立場からコンタクトを取ってにぎやかすのを、彼は趣味の一環にしていた。天使とはそういうやつだった。

 そして、彼の知り合いのラジオDJは、別の天界に所属している人物とのこと。さらには、別々の天界同士に公共のラジオ放送がいくつかあり、下界からでも波長を合わせさえすればそれは受信できるというのだった。

 ……なんだか、生きていればそういうこともあるのか……と、ぼくは気が遠くなりながらも思った。

 「聴きたければ聴いてみろ」と天使が言う。


 ぼくは天使の部屋にある壊れかけのラジオで、その放送を聴いてみた。


 「…天界FMよりお届けする、『こちら天国。そう、エンジェル』。今週もやってまいりましたー、どうぞよろしくお願いします。ご機嫌いかがでしょう?

 ナビゲーターわたくしの天界では、眼下に広がる人間界の監理を生業(なりわい)としております……。役割としては、人間界の混沌と秩序のバランスを整えることであります。大切なのは、きちんと秩序立て過ぎてもいけないし、混沌とさせ過ぎてもいけないということ。……この塩梅(あんばい)がまた難しい!

 もっとも、二一世紀を四半世紀ほど過ぎた今日この頃では、わたくし共が介入しなければ、常に混沌過多な状況であります。困ったものです。とかく人の世は住みにくい!

 元来、人間たちに取り憑く混沌とは以下の問いでした。


 ・一体何のために生まれ、本当は何をしたらいいのでしょう?


 こちら天国。これこそ、およそ人間に「意識」というものが芽生えて以来、三〇〇〇年間寄せられ続けているお悩みハガキです。もう、ほとほと聞き飽きました! しかし、今日(こんにち)の人間たちの抱える悩みのトレンドは少し奇妙です。


 ・何も意味を感じられません


 こちら天国。不感症の人間が増えているというのです。だれかが意味を泥棒しているとでもいうのでしょうか? 一体これは弊天界のどの部署の責任でしょうか?

 (こと)(ほど)左様(さよう)に、意味を見出せなくなって人生に立ち止まってしまう人間は多いです。もっとも、「意味」というものは人間界特有の産物で、いくらでも自由に創り出せるものなのですが。それを離さずに持っているのは大いに難しいようです。まったく人間たちは、自らの内側に囚われている……。

 大切なのは自分が何であるか知っているということなのに、人間たちはみな関係のないことに解決策を見出そうとしています。もしも全員がそのことに気づけば、今にも世界は変わるというのに。しかしご存知の通り、たとえ必要十分な数でさえ、人間たちがそうなることはないのでした。やれやれ、まったくもう……。各界の天上のリスナー方も、思うところあるのではないでしょうか? さて、今週の番組企画に移り――」



   22


 その日の朝、ぼくはいつになく襟を正し天使の部屋を出ていった。


 停職処分が明けた日、ぼくはコンコンコンと社長室のドアを叩いた。

 失礼します。

 「よう(笑)」

 そこには社長がいた。まるで親戚のおじさんにでも会いに来たような感じだ。社長と会うといつもこうだった。十中八九そうではないだろうが、社長はぼくと話したがっていたようだった。

 「……ま、座れよ」と社長が言った。


 「……おもしれぇなお前(笑) 何だよ、ポッピング・シャワーって(笑)」そう言って社長はカッ、カッ、カッ、と笑った。

 社長は器の大きい人だった。社長だけが唯一この会社でぼくを認識してくれていたのだった。本当にすごい人は認識力が違う。ぼくのすべてを見抜かれている気がした。そして、こんな変わり者のぼくでも受け入れてくれる包容力があった。

 後で知ったことだが、役員会の件でも社長はただ一人ぼくを擁護してくれ、ぼくは懲戒解雇を免れていたのだった。


 非常にフランクな時間(とき)が流れた。


 「お前最近何やってんだよ、それで」と社長が言う。

 実は小説を書いてまして。

 「へぇー、すげぇな! おもしろそうじゃん」と社長が言う。「読ましてよ(笑)」

 はい、いつか。

 そんなこんなで頃合いを見てぼくは言った。

 社長。この度は誠に、度重なるご迷惑をおかけし、大変――以下省略。

 すると社長が言った。「……気にすんなよ(笑)」

 ……さすがにこれにはぼくもきょとんとした。

 そして社長は続けた。「どんどん好きなことやりゃいいんだよ」

 とんでもなく器の大きな人だった。

 はい……。

 「会社なんて関係なくたってよ」と社長が言う。

 はい……。そう言われてぼくは目が潤んだ。

 「そうしていつかまた戻って来いよ」と社長が言う。

 はい……。

 「どうしたいかなんてお前が決めりゃいいんだからさ」

 はい……。ぼくはもはや涙が止まらなかった。

 そしてぼくは言った。

 ……社長。今まで大変お世話に…………なりました。


 こうしてぼくは机に忍ばせていた切り札を切った。



   23


 ある晩、天使は何やらブラウン管でケーブルテレビを観ていた。大学教授が出演する教養番組のようだ。


 「…グノーシス主義にとって、肉体は悪です。そして肉体ありきのこの世界、宇宙の万物自体が悪だと考えます。この物質世界を創造した神、つまり造物神も悪で、善である至高の神が別にいるのだと主張します。闇と光と言い換えてもいいです。

 そして、魂は解放されると、光の至高神のもとへ、「いにしえの故郷」へと還っていくといいます。個々人の救済は、このことを認識して、それにふさわしく生き、肉体の死後、造物神の支配する領域を突破して、その彼方の光の世界へ回帰することにあると説く。

 これは一神教の主流な教えとは相容れない考えです。一神教では、人間は神に造られたものであり、この人間対神の関係は絶対に覆せないものですから。でもグノーシス主義は、本当の神は自分のなかに一部としてあるから、いわば「めざめよ」と言っているのですね。なので、これはまさしくこれからの時代にぴったりだと思うわけです。

 どういうことかと言いますと、要は従来の枠組みがこれ以上機能しない、既存の秩序がどんどん倒れていく中で、新しい枠組みへの転換が生じます。今までの正統が崩れて、異端とされていたもの浮かび上がってくる。

 べつに、宗教としてのグノーシス思想が流行していくと言いたいわけではないのです。ただ、この象徴的現象、異端と正統が切り替わるメタファーというのは、まさしく今後起きてくることだと思うのですね。

 自分の外側、つまり周りはすべて崩壊していくんです。従来型の枠組みに囚われていると。デフォルトしますから。でも、そうじゃない在り方があると目覚めて、新しい方向に踏み出していく。自分を信じて、心の声に耳を傾けて進んでいく。

 これこそがまさに重要で、今後ますます意味があると思って、私のいいたい「グノーシス」ということの中身であります――」



   24


 ぼくは不吉な夢を見た。夢の中では、抗えない一つのシナリオの中に閉じ込められていた。


 夢はある場面から始まる。

 横にいるだれかがぼくの顔を見れず突っ伏している。頑なに。

 意地を張っている。素直になれずにいる。

 ぼくは隣でじっとしている。

 だが、それを受け入れて抱き寄せる。

 なし崩し的で有耶無耶な仲直りだ。

 しかし、それがだれなのかはわからない。


 夢はある場面へと移り、ぼくはだれかと向かい合って座っている。どうやら別れのシーンだ。

 振られたショックがあまりにも大きくて、何を言われたかは覚えていない。何も言われなかったのかもしれない。それがだれなのかもはっきりと思い出せない。ただ、そのだれかは席を立って店を出て行った。

 ぼくは追いかけられなかった。それが果たしてだれなのかわからない。


 ぼーっとしていた瞬間、前からボールが飛んでくる! グラウンドで小学校のクラブをしていた! コーチの罵声も飛んでくるが、ぼくはまだ準備していない!


 気がつくと次の場面へと切り替わっている。

 広場の公園の、空まで伸びる湾曲した三本足の、とんでもなく高い遊具の上からぼくは降りられないでいる。足がすくむ。ふらついて泣き出しそうだ。

 そこへトンビが空から襲ってくる。うわっ!と思った瞬間、踏み外して下へ落ちかけ、ぐらつく。落ちた!と思った次の瞬間。


 ぼくは広い大教室に座っている。人がざわざわ大勢いる。どうやら大学の大講義室だ。ぼくは一番後ろに座っている。いま授業に到着したばかりだ。

 すると、前から次々に人が立っては、ぼくの後ろのドアへと歩いてきて退場していく。授業だと思っていたのは学期末試験だったとわかった。気がつけば、ぼくは何も準備していない。しまった、と焦る。筆記用具を探す。しかし教授が告げた。

 「今日いらした方に単位は認められません」

 ぼくは愕然とする。いつまで大学生でいるんだ!?


 夢は終わらない。続きへと移る。

 ぼくはどうやら手持ちのカネがない。貧して鈍している。握りしめた請求明細の、クレジットカードの使用履歴にどれも心当たりがない。

 仕方なく食事を一食抜く。やれることはやる。腹が減っていてどうしようもなく悲観的になる。

 背に腹は代えられず消費者金融のATMに入る。無担保の借金に手を出し、鼻持ちならない信用の前借りで食いつなぐ。借用証書のレシートを見ると、金利が日歩(ひぶ)で三十三パーセント……来月には十倍に膨れ上がる……。


 さらに夢は変わる。ぼくは自分の足を触っている。足の裏の皮を削っている。(かんな)がけのようにピーラーで()いている。魚の目がある。押すと痛い。タコになっていて、堅い芯がある。それをえぐり取ろうとする。液体窒素で瞬間冷却する。コテを押しつける。凍り付かせて〆(しめ)る。焼を入れる。

 そしてくり抜く。神経がズキズキする。穴が開いてへっこんだ、赤ちゃんの肌がのぞく。

 やがて、ぼくの額に吹き出物ができている。鬱血して、大きく赤く膨れ、盛り上がってこぶができている。それがひりひりと疼いている。ぼくはそっと触診して確かめる。()れているかどうか。

 ぼくはそれを潰しにかかる。指と指で挟んで両側から圧迫する。血流が一ヶ所に押し固められる。すると先端の火口が破裂する。前に立っていた鏡に飛び散る。空いた穴からどろっとした、(りょく)白色(はくしょく)の膿が流れ出る。腐敗した白血球。死んだ体液の色。

 そのあとを、どす黒い無駄な血液が追って流れ出る。押しても押しても足りない。まだまだ溢れてくる。拭き取りきれないほどの大量の血と膿。いつまでも止まらず出てくる。ぼくのなかに溜まる老廃物。滞る毒。皮膚を突き破って滲み出た汚物……。

 ぼくは最後の一滴まで血を搾り取り、抗生物質を塗って蓋をした。

 しかし、また再発するのだろう。



   25


 朝起きると、ぼくは頭がずきずきした。天使は天井に片膝を立てて寝そべり、両手を組んで後頭部に敷きながら黙想していた。

 プレスリリースで半島の北と南の国が併合したことを知り、ぼくは残された時間のことを思った。

夜の時間帯の方が小説が捗ることもあり、ぼくは日中の残された時間で同級生を訪ねてまわることにした。ぼくは留学をし成人式を欠席していて、久しく地元のみんなとは会えていなかったからでもあった。


 歩いて地元をまわり、あるいは連絡のつく同級生を追って順々に訪ねた。


 結婚して子供を育てている同級生もいた。

 「家族がいると頑張れるぞ」

 いいなぁ。ぼくはまだまだだよ。結婚か……。何か引っかかるが……でもそれにしても羨ましいな。


 新聞記者になっている同級生もいた。

 「ジャーナリストやってても世界なんて変えられねぇよ」

 そうなのか? でも実際にやっててそう言うのなら一理あるか。大変だろうけど頼むな。


 独立して鍼灸院をやっている同級生もいた。

 「東洋医学でファンタジーをやりたい」

 何だかすごいな。独自の城を築いて、唯一無二の世界観でやってて。今度教えて。


 官僚になっている同級生もいた。

 「必要とされるのも充実してるさ」

 すばらしいな。ぼくは自分がそんな重要な立場になったことはないよ。ごめんな、納税にケチつけてばっかで。


 エンジニアになっている同級生もいた。

 「デジタルプラットフォームで世界獲るから」

 安泰なのにまだギラギラしてるのかよ。ぼくは手に技術なんてないから、すごいよ。


 会計士で激務を極めている同級生もいた。

 「成長できてる気がするから」

 いやぁ、ふつうに立派に稼いでるのすげーよ。とてもそんな働けないよぼくは。

 

 飲食業で一旗揚げている同級生もいた。

 「何とでもなるよ、やった分だけ」

 バイタリティあるよなー。いろんな遊びにも繰り出してて。また誘ってや。


 化粧品の研究職に就いている同級生もいた。

 「缶詰めであの頃と変わんないよ」

 いいなー。大学から専門分野が続いてるなんて。ぼくは理系は挫折して、なりたくてもなれなかったよ。


 墓石職人になっている同級生もいた。

 「あの貸してたやつどうなったよ」

 すげーなぁ、職人に弟子入りするなんて。ぼくじゃ無理だよ。ハハハ。何の話?


 学校の先生をやっている友達もいた。

 「お前また何かやらかしただろ」

 いや、あれはさぁ。でも、みんなの面倒見れるの尊敬するよ。やっぱぼくには向いてなかったから。


 あるいは、思い出の場所を訪れた。

 刑務所の官舎内にあるグラウンドを訪れた。

 剣道の道場を訪れた。

 車に乗せられて行った試合の遠征会場を訪れた。

 通学路にあった駄菓子屋を訪れた。

 郷土の森にあるプラネタリウムを訪れた。


 ときにそれは、自分はすでに通って、終えて、戻りたくない場所でもあった。

 こうしていると、あの頃の何もかもを思い出させられる。


 この場所を行きつ戻りつするぼくの寂寥(せきりょう)感も、この胸の拭えない傷跡も。

 ぼくの散ってバラバラになった企ても、捨てきれず沁みついた憧れも。

 

 記憶は、自分の未来の判断に反映させてこそ意味がある。しかし、ぼくに未来は訪れるのだろうか。

 脳に関する本で読んだ。あらゆる事物は等価に扱うことが可能で、その記号化のプロセスで、すべては五感から切り離された抽象概念になってしまうと。ぼくのだれかと過ごした記憶もそうなってしまうのだろうか。なんだかそれは嫌な気がした。たとえこの世で最も予想がつかなく、いつもふいにされるのが他人というものであったとしても――。


 そのうち夕刻の解散を告げるチャイムが鳴って、ぼくらは遊びを片付けて帰るしかなくなるのだろうか。


 ケイコの写真館を訪れた。

 壊れていく世界で今はもう閉店してしまっていた。

 ぼくはどうしてもPSC時代が懐かしく、中へ入りたくなった。ここで練習したり、アーティスト写真を撮ったりして、もう一度青春を追いかけていた。すると入り口の鍵は開いていた。

 ぼく自身のしょうもない現実、そしてあの頃とは違った意味で、遠くまで来てしまったようにも感じる。あの日々には戻れず、今は道なき道を進むしかない。

 人のいない店内は薄暗く(さみ)しかったが、思い出がよぎった。玄関でケイコに不意打ちをくらったのが初めての出会いだった。昨日のことのようだ。

 スタジオ内は、整とんして店を畳んだというよりも、突然中の人だけ撤収したように、機材が居抜きで残されていた。それがまた懐古を誘った。

 ポッピング・シャワー・クロニクルの三人でアーティスト写真を撮ったのが思い出された。撮影用の垂れ幕に向けて置かれているカメラがそのまま残されていた。

 ぼくはふと、撮影者側の立場で、垂れ幕の前でこちらを向くぼくら三人を思い描きながら、そのシャッターを押した。ストロボが焚かれた。郷愁が閃く。

 ……ん?

 ぼくは目を細めた。

 今だれかいなかったか……?

 通常ならホラーのワンシーンだが、ぼくが通常の人間ではないのはもうおわかりだろう。そのときのぼくは、不思議と禍々しい感じを覚えなかった。むしろ懐かしさすらあった。

 ……だれだ?

 この世界はどこまでも狂っていた。しかし、辻褄(つじつま)を合わせたいぼくは、どういうことなのだろうかと意味を探していた。

 気がつくと、横にいつも見かける女の子が立っていた。

 これには心底驚いてぼくはへたれの叫び声を上げ、思い出の写真館を後にした。女の子はじっとぼくのことを見つめていた。



   26


 天使は深夜にブラウン管でケーブルテレビを観ていた。


 「…話は戻りまして、心の無秩序が最大の敵ともいえないでしょうか。心はいつも、簡単に乱されるものです。エントロピーの増大則といいまして、物質つまり自然界は、放っておくと時間の経過とともに崩壊し、無秩序に、つまりカオスと化していきます。プリゴジンらによって証明された科学法則です。だから、心も放っておくと、無秩序になっていって苦しくなるのだとチクセントミハイは言いました。ですから心は整えたり、ニュートラルに戻すことが必要になってくる。

 そもそも物理がそうなっているということですが、実はエントロピーの増大則に逆らうのが生命であるともいえるのですね。どんどん拡散して無秩序化していく環境の中で、生命は自ら情報を創り出すことができる。この情報こそが、実は秩序だといえます。情報は、より無秩序な環境においてこそ、より秩序の高い質、状態が可能であるという性質をもちます。そして反復ですが、生命は自ら情報を生み出すのです。

 どんどん無秩序さを増していく世界で、生命はそのカオスを捉え、より複雑な秩序に作り替えることができる。これを科学用語で「散逸構造」といいます。この作用こそが人間が進歩・発展していける原動力とはいえないでしょうか。生命にはそれが備わっている。

 環境は複雑さを増していくので、定常化、つまり一度その状態になればずっと大丈夫だということはありませんが、たびたびカオスに出合いながらも生命は発展していけるのです。カオスも必要悪というか、乗り越えてより発展できるために必要な問いかけではないかと私は思います。

 さて、フローとはメンタルの秩序が「意味のある目的に向かって」最適化されることでしたから、外部環境には左右されません。外面的な事実よりも、内面の真実がものをいうんですね。ニーチェは「生きる理由を持つ人は、どんな生き方にも耐えられる」と言いましたが、目的を持つこと、自分が何を欲して、何を手に入れたいか、自分の内なる声を聴くということ。スティーブ・ジョブズも言いましたが、心はつねに知っている。これからはそういう時代じゃないかと思います――」



   27


 「……こんなんでどうでしょう」とケイコが言った。

 「ふむ」と天使が言った。「採用」

 「きゃー!」ケイコが言った。「いえーい!」

 「ケイコ、がんばります!」ケイコが敬礼した。

 「よろしく頼む」天使は二本指で敬礼した。

 「天使さん、天使さん」

 「なんだい」

 「空飛べるの?」

 「これか?」折り畳んでいた翼をワイパーのように振った。「まあね」

 「すご!」ケイコが言う。「飛んでみせて!」

 天使はその場で浮いてみせた。

 「ほおおおおおおお」ケイコはたまげた。「超すげえええええ」

 天使は降りた。

 「それより」と天使が言いかける。

 「天使さん写真撮ろ!」とケイコが言う。

 「…写真はNGでね」だが、ケイコはすでに自撮りの画角調整に入っていた。

 カシャ。カシャ。カシャシャシャシャシャシャシャ――連射。

 深く息を吐く天使。

 「あだ名は?」とケイコが言う。「天さん?」

 「……」と天使が言う。「それはもういるな」

 「じゃあ天ちゃんだね」

 「え」と天使が言う。「ああ」

 「それより」と天使が言う。

 「明日病院に行ってきなさい」

 「なんで?やだよー」

 「残された時間は…」と天使が言いかける。

 「やだし」とケイコが言う。

 天使は仕方なく病院についていった。

 レントゲンを撮らす。

 手の骨はまだら模様だった。

 「……おっ!」とケイコは言った。「……きれい」

 天使は片手でゆっくりと頭を抱えた。

 「なんに使うの?」

「ん」と天使が言った。「ぶっ飛ばしたいやつがいてな」





 天使、何飲むの?


 ギュイーンと鳴らす。 ああ、その音はコーラね。



 天使、ここもっとギター抑えない?


 ピキィーンとピッキングハーモニクス。 ああ、嫌なのね。



 天使っ。


 飛行機のジェット音のようなピックスクラッチ。 ごめん何でもない。





 ねぇねぇねぇと、内緒話のようにケイコに捕まる。

 「天ちゃんてさ」とケイコが言う。「だいぶナルシスト強めだよね」

 …今さら!?



   28


 ぼくは図書館併設のカフェに来ていた。一連の情勢で仮想敵国がいなくなり、国内から長いことお世話になっていた外国軍が撤退したため、憲法が改正され、まもなく徴兵が始まろうとしていた。

 なんとなく本を蹂躙(じゅうりん)してから小説を書く算段でこの場所に来ていた。ぼくの頭は偏頭痛に悩まされ始めてもいた。そしてまずは本にあたった。

 その日の収穫の模様をお届けする――。

 記憶は脳の一体どこに、どのように蓄積されているのだろう? 脳の特定の場所に特定の記憶が位置しているのではなく、何らかの形で脳全体に広がって、または分散して蓄積されているのでは? すべての部分に全体が含まれるというホログラムの性質を読んだ。人間の脳があれだけ小さなスペースにどうやってこれだけ(ぼう)(だい)な記憶を蓄積できるのだろう?

 脳は身体の物理的境界を越えたところに感覚体験の場所を設定することもできると知った。つまり、脳の中の法則が物理法則と似ている必然性はない。もっといえば、人間にとって「現実と幻想」という分け方にも、意味がないということになる。

 外に広がっているのは、実は茫漠(ぼうばく)とした波動の共鳴が奏でるシンフォニーで、いわば「波動領域」なのか? そしてそれは、この身体の感覚器官に入ってきた後にはじめて、ぼくらの知るような世界にその姿を変えているにすぎないのだろうか……。脳は、時間と空間を超えた深いレベルに存在する秩序から、投影される波動を解釈して、目の前の客観的事実なるものを数学的に構築しているのだろうか。つまり脳がその波動の(もや)を、机や椅子といったおなじみの物質に変換しているのか……? 意識と物質は同じ根源的な何か、もともとは一つである何かの異なった側面にすぎないのだろうか?

 アカシックレコードというものを読んだ。ぼくらの窺い知れない次元には、過去現在未来のあらゆる世界の記憶が保存されている宇宙倉庫があるという。

 あるいはユングを読んだ。精神が現実の創造に参加し、ぼくらの精神の最も深いところにあるものが、シンクロニシティとして客観的世界に表出するという。意識は、無意識の結果をまとめた受動的体験を、あたかも主体的な経験であるかのように錯覚するシステムなのかもしれないという仮説にも触れた。だがしかし、人間に特有なゆらぎは、人が実際にできる以上のことを期待することや、条件が許す以上のことができるという感覚が含まれているのかもしれない。それは心が、今あるものだけではなく、何か未来に可能なものを知っている時にだけ生じるのでは? そして何かの本で、「心臓も知覚する」と知った。なぜ自分は、思い出せないだれかに心は奪われたままなのだろう……。

 だがしかし。結局こうして必要なのは、自分の運命は自分が握っているという暗黙の信念なのだろう。

 ――おっと、またぼくの悪い癖が出てしまった。


 ぼくは司書さんに、すいません、ぜんぶ返却で、と声をかけ、ロビーにあるカフェへと移動し、ラップトップのロックを解いた。

 それにしてもだ。


 ……肝心の小説の方が進まない……。

 

 また得意の空想ばかりして、こうして現実が手に着かないでいる。このままではわざわざ仕事を辞めた意味がない。望まないとはいえ、何もかも中途半端なぼくには一大決心だった。お世話になった人たちのことも顧みず飛び出してきてしまった。やらなければだ。やりきらなければ。そうしなければ意味がない……。


 ぼくは小説を書くために一人でいる時間が多くなっていたので、天使とはお互いソロ活動の状態だった。家に帰ったら見かけるのが殆どだった。


 その日、部屋に戻ると、天使はエプロンをしてお菓子作りをしていた。

 ……と思いながらも、ぼくはだれかとそれを作ったような覚えがある――。


 薄力粉五〇グラムに砂糖一〇グラムを加える。卵を溶いて加え、よく混ぜる。ねばりけが出る。牛乳二二〇ミリリットルを入れる。少しずつ入れ、ほどほどに混ぜ、繰り返す。サラダ油を小さじ一杯入れる。ラップをし、冷蔵庫で一時間ほど寝かせる。生地の液ができる。

 ぼくは作り方を逐一覚えている……。

 フライパンを温める。油をひく。お玉一杯分の液を流し入れる。トンボで薄く生地を延ばす。時計回り、そして反時計回り。弱火で三十秒から一分程度焼く。薄い生地が出来上がる。箸ですくってキッチンの天板に置く。

 一体なぜだ……?

 生クリームを乗せる。フルーツを盛る。チョコレートをかける。生地をくるくると丸めて紙を穿()かす。クレープができあがる。


 ……なぜかこう、もやもやと引っかかる。どうしてぼくは、どうしてもだれかを思い出せないんだろう……?


 世界の崩壊が進む。ぼくの不調はつづく。



   29


 ある夜に、ぼくは悪夢を見た。夢の中では、抗えない一つのシナリオに閉じこめられている。


 ぼくは旅支度をしている。旅行鞄(かばん)に荷物を詰め込んでいる。着替え、地図、カメラ、ガイドブック、帽子などを収まりよく配置する。

 ……しかし、いつまでも旅に出られない。なぜか出発できない。なぜなら、手元に自分を証明するものがない……。想いはあるのに。


 気分転換に手を洗う。水を流し、自分のこすり合わせている両手を眺める。しかし、洗っても洗っても手が濡れない。むしろどんどん黒ずんで汚れていく。手の不快感が増していく……どうすればいい……。


 ぼくは洗い場から以前の自分の部屋に戻る。天使の部屋ではない。そうして仕方なく布団に入る。部屋の向こうで何かが物音をさせている。ぼくの部屋で何かがバシッと鳴る。

 そこへ四つん這いに何かがやってくる。ガサゴソと動く。隙間からこちらを覗く。口から熱線のようなものを吐いてきて、避けきれない……。


 ぼくは寝床にしがみつく。ただひたすら伏せて待つ。やがて布団はベッドへと変わり、動きだす。あたりから水が湧き出す。ベッドが持ち上げられる。

 すると、ぼくの眠るベッドはどんどん水に流されている。気がつくと海の沖へと流されてきている。ゆらゆらと漂っている。夜の暗い大洋の真ん中まで来ている。

 ベッドは今にも沈みそうに漂っている。ぼくは幅のないベッドの中央にひたすら(すが)る。どうしようもなく濡れる。怖い潮の匂いがする。

 そこへ、ぼくの浮かぶベッドの真下を、とてつもなく大きな何かが通る。巨大な背鰭(せびれ)が見え隠れする。ぼくは(すく)みあがる。そしてすれすれの水面下を往復される。あたりが波打ち、転覆しそうなほど揺らされる。ベッドから落ちれば死ぬと直観する。

 さらには土砂降りの雨が降り出す。海が時化(しけ)る。巨大な何かの(うめ)き声が海の中を飛び出して響く。いつの時代の生物なのか……?

 ぼくはどうすることもできず、波に叩きつけられ飲み込まれる。溺れて潮を飲む。そして暗い海の底へと沈んでいく。

 そこで虚無に捕らえられる。

 ぼくは深海に落ちたはずなのに、あたりには何もない。いつものように、突然空っぽの闇が襲ってきて、ぼくは耐えがたい深淵に飲み込まれる。

 ぼくは眠っているのに、眠っていた気がしない。

 ぼくは穴の開いたビン。溜まっていかない。

 心が正しい方向に向かっていないとき、虚無が口を開ける。逃れられない。

 ぼくは自分の求めているものが分からず、自分を紹介するものが見つからず、ただただ苦しくなる。

 目の前の虚無は地割れのように口を広げ、中から巨大な黒い腕がぼくを掴む。

 ぼくは人と向き合えない。責任感の欠片もない。人を裏切る。恩を仇で返す。傷つける。泣かせる。突然いなくなる。


 あしらわれる。無視される。腫れ物にされる。あてにされない。


 ぼくは剝がれ落ちていく。ひび割れる。破片になる。粉々になる。どろどろに溶け落ちて崩れる。


 そのとき翼がはためく。ぼくが見ている天使は幻だろうか?

 

 「すべてが幻だとしても、見えている意味を信じろ」


 助けてくれ、天使! お願いだ! ぼくを救ってくれ!

 ぼくを救い出してくれ……!



   30


 目を覚ますと、天使が言った。

 「ゴルフでも行くか」


 こうしてある日、彼とゴルフに行った。雨ではないが天気は死ぬほど悪く、コースの芝は夜逃げされたように放っておかれ、そこら中ぼこぼこだった。

 世界は崩壊していく最中(さなか)だったが、天使との思い出はたくさんある。彼はふとした時に習字にして飾っておきたくなるようなことを呟く。いろいろ言ってくるので、未だにぼくの座右の銘は決まらない。一緒に六番ホールを回っているときだった。

 「普通以上を目指さなければ」とテイクバックしながら天使は言う。「普通ですら手に入らない」

 ……なるほどそうかもな、とぼくは思った。…ナイッショ!


 あるいは夕飯の支度をしているときだった。

 「人生は必ず深いものを感じさせてくれる」と、ぼくと餃子を包みながら天使は言う。「ちっぽけな自分の思い通りにはならないが」

 天使とはそういうやつだった。ふむふむと、ぼくは納得させられた。そして…あ、入れすぎた。


 二人で公園でキャッチボールをしているときだった。

 「世界はコップ半分の水だ」と、振りかぶりながら天使は言う。

 「すでに半分しかないと思うか」足を上げ「まだ半分もあると思うかだ」投げた。

 ……ぼくはなんだか深いなと感じながら、キャッチャーの姿勢で顔面にめがけて飛んでくる速球をショートバウンドで(さば)いた。っぶねー。


 さらには二人で部屋で麻雀をしているときだった。

 「身につけるべき振る舞いを覚えなければ」と、牌を見極めながら天使は言う。「それ以上の旅は続けられない」

 そうか……。

 そう言われて、ふと自分の()(かた)を振り返らざるを得ないぼくだった。…あ、ツモ。


 信じられないかもしれないが、こんなこともあった。

 ある晩、消灯後にぼくがパソコンで自分を照らしながら小説を書いていると、のそのそと天使が近づいてくるのを感じた。そして彼は言った。

 洗顔貸してくんね。

 あ、いいよ。と、ぼくは手渡した。

 ぼくはその姿をありありと覚えている。一度限りのパジャマ姿の天使だった。


 ある朝には、コーヒー豆を挽きながら

 「ありのままを受け入れて初めて変われる」と天使は言った。


 外で死にそうな野良猫を見かけるとこう言った。

 「死ぬほど大丈夫だと言い聞かせてやれ」


 こうして、ぼくと天使とのやりとりは枚挙に(いとま)がない。


 ある時、ぼくの小説の進みが芳しくなく、苦悶しているのを見て天使は言った。

 「苦痛や諦めや経験してみることなしに、何も得られやしない」


 そしてこうも言った。

 「自分自身に疑いを抱かない者はいない」

 「立って、おまえの戦いに意味があることを証明し続けろ」



   31


 ぼくは引き続き小説を書いていた。


 徐々にいいところまでは来ていた。しかし。

 ……この日々と思い出ををシンプルに綴っているだけなのに、なんだか完成させたら終わるような気がした。

 どうしてだろうか……。

 そしてあろうことか、そもそも疑問に思い始めた。

 ぼくの書いている小説が、この終わりゆく世界の中でそもそも陽の目を見ることなどないはずだ。もはや生きた証として残すのみ。しかし……それすらも望みは薄いのではないだろうか? なぜなら天使の言った通り、世界はこうして終わっていくからだ。すでに北海道と沖縄は他国に占領されていた。世界中の(しん)(がん)のある血族や民族がこの国に押し寄せていて、街は日本語の通じない人と謎に高級そうな装いの人で溢れていて、一体だれのための国なのかわからない状態だった。それに、ぼく自身は一体どうやって終わるんだ……?


 こうしてぼくはいつまでも小説を完成させられなかった。どこで区切りをつけていいのかわからなかった。何かが抜けているような気がした。

 わかっていても。書ききる気力が出ない。体力が足りない。力が湧いてこない。

 どうしてだろうか……。


 そしてただやみくもに気がついただけだった。

 どんな境遇でも、作品と向き合っている瞬間はみな同じだ。仕事をしていても、していなくても。すばらしいものを生むために払う犠牲はみな同じだ。まだ見えてないものを見てみたいという想いだけで。まだこの世にないものを生み出したいという希望だけで、みなそれを追い求める。報酬はないかもしれない。だれにもみな追い求めたい光があり、みなそれを追っている。平等の苦しみ。そこにこの世における身分は関係ない。

 その事実だけがぼくを支えてくれた。自分を信じられなくなる瞬間は何度もある。ただ作品に向き合っているという充実感だけはあった。死んでゆくときこの胸に抱いていたかったのは、創作をしたという実感だった。何かを生み出せる人間として死にたかった。挑戦しなければ得られなかった気づきだった。

 世の中には創作をしないと息が詰まる人間も存在する。心の息の根が止まる連中がいる。ぼくもその類だ。最初は自己顕示欲の表れかと思う。しかし、だんだんとそうではない何かによってではないかと思えてくる。そんな気がする。

 そうだと思えることが肝心だ。人間に自由意思というものがなくても、自由だと感じられるうちは自由だ。

 だんだんと、自分はそれをするしかなかったのだと気づかされる。諦めにも似たように。はじめから知っていたように。しかし、人はなぜそれを最後の最後まで試みないのだろう?ぼく自身、世界が終わると聞かされた極限まで踏み出すことができなかった。おそらく、自分の思い描くものを実現させることこそ、最も恐ろしいことなのだと思う。

 ぼくは結局、世界の終わりが身に迫ってやってくるまで、それに踏み出せなかった臆病な人間だ。本当はいつも知っていた。このしょうもない現実を抜けるには、自分だけの世界を打ち立てるしかないのだと。


 天使はぼくに、自分を確立しろとは言わず、「自己を定立しろ」と言った。それがなんだかしっくりきた。


 そして、日が昇りすぎると見えづらくなる。ある意味白昼(はくちゅう)は正気付きすぎている。書き留めてでもおかない限り、一度得た決意は、きのう夜に想ったことは、簡単に見えなくなるのだった。

 そうして何が大切かもわからなくなっているのだった。



   32


 天使は深夜に、ブラウン管でケーブルテレビを観ていた。


 「…シンクロニシティの定義ですが、名付け親であるユングは「二つ以上の出来事が重要な意味を持って同時に起こること。そこには単なる好機の到来以外の何かが関わっている」と言いました。意味のある偶然の一致。

 例えば、昔流行ったある歌を口ずさんでいて、その後テレビをつけたら、たまたまその歌が流れたり。きのう夢に見た人に、突然街でばったりと遭遇したり。そういう些細な偶然から、それこそ人生を左右するような出来事まで、ある種シンクロニシティといえます。ある人との出会いや、本の中の一節、ある決断の基になったきっかけなど。より深淵な、人に大きく影響を及ぼすような出来事まで。

 そういう転機は、後になって初めてわかることが多いですが、でも「なぜ今、自分はこれに出くわすんだろう?」とか「この人は、なぜ今、私にこのことを伝えるんだろう?」という、意味深に感じたり不思議な出来事というのは、つねにたくさんあると思うわけです。

 今この瞬間もそうかもしれませんが、「なぜなんだろう?」と、意味を感じたとしたら、それは必然だと思うのですね。出来事自体は偶然だとしても、己が意味を感じるのは必然ではないかと。すべてに意味や理由があると捉えると、見える世界が違ってきます。

 ひも理論やホログラム理論など、世界はすべてつながりあっていると捉えた方が説明がつく理論もありますが、一見バラバラに見える世界につながりを持たせてくれるのが、先程言った個々人が感じる「意味」ではないでしょうか。ジャウォースキーは、「この世界に現れたがっているものがあり、世界が望むとおりに世界を実現させる。その流れに身を任せると、身の周りのことは不思議とうまく回りだす」のだと表現しました。

 世界の流れに身を任せる、これこそまさにフローですね。そうすると、シンクロニシティが紡がれていくと言っているんです。これが、今回の論点です。つまり、自分のあるべき方向に向かって、シンクロニシティは起きるのです。自分が意味のある方向に向かっているからこそ、もしくはあるべき方向に気づかせるために、意味のあることが起きるというのですね。人生が捨てたものではないからこそ、そういう不思議なことが起きると私は思います。どの視点から見ても救いようのない人生など、あるはずはないからです。しかし、自分のあるべき方向とは何だろうと、度々思い悩むのも事実です。そのときに、グノーシスの発想が生きてくると思うのですね――」


 最後にテロップが流れた。

 「出演者によって提供されたいかなる見解又は意見は、当該出演者自身の見解や分析であって、当番組の見解、分析ではありません――」



   33


 雨の日に、天使と二人で歩いていた。

 灰と降る雨の中を、二人ともビニール傘を差して、天使はポケットに片手を突っ込んで前を歩いていた。背中の羽が足並みに合わせて揺れていた。

 パチンコやカラオケの目立つ猥雑な駅前を抜けて、電車に乗った。雨のにおいがした。

 なんとなく気が向いた駅で降りた。

 目にとまった楽器屋で試奏する。買って帰ろうか悩む。弾かなきゃよかったと思う。

 喫茶店に入る。コーヒーだけ頼む。喋ることもない。時間をつぶす。

 ビリヤードに興じる。できない技を試す。できる・できない、快・不快をくり返す。

 瀬戸物や調理器具の路面店を眺めながら通り過ぎる。スポーツ用品の街を抜ける。あたりは個人経営の店が多くなる。


 また電車に乗る。人混みのする駅で降りる。

 坂。めかしこんだ飲食店街。あまり若者にも響かない都市計画。永遠に終わらない再開発。ショーウインドー。マネキン。電気屋。勢ぞろいする旗艦店。ガラス張り。地下一階から地上三階まで品揃え。冷やかし無用。

 アウトレット店が痒い所に手を伸ばしてくる。コスプレ衣装の専門店を見かける。いつもある電子タバコの店。

 学生街を歩く。エスニック料理店が並ぶ。キャンパスの前を通り過ぎる。ここの道はここと繋がっていたのかと気づく。ケータイショップ。


 雨がひどくなりすぎ、(ひさし)の下にぼーうっと突っ立つ。しばらく身動きできない。天使は壁に寄りかかり、ぼくは段に腰かける。二人で別々の方向を向いていた。

 やがて古本屋に入る。懐かしい漫画を立ち読みする。思いがけずハマる。あと十分。

 コンビニで同じおにぎりを二つ買って出る。


 狭い坪数のこまごました商店の軒並みが現れる。オーダーメイドの手袋店がある。映画をフィーチャーした時計を売っている。

 高級店の通りに迷い込む。アスファルトの森が続く。百貨店がある。ありとあらゆる文房具が揃う店もある。画材屋もある。熱帯魚の専門店を覗く。

 外国の食品を取りそろえるスーパーに出くわす。高級車だけが通るようになる。ビルの合間に(ほこら)が佇む。やがて会員制の高級施設。

 タワーは変わらない首都の象徴。安定の気品。もう一度記念に撮る。

 オブジェが立つ。車の展示。野外映画館の名残り。歌劇団の出待ち。煉瓦造りの駅。

 ペットの病院がある。珍しい哺乳類を持ち込む人。近くに爬虫類の巣窟。文豪と先祖の眠る霊園。高級中華の面影。和食の仕出し屋。背の高い鉄塔。

 スポーツ公園を通る。高速道路が近くなる。バイパス。立体の二重構造。空中のハイウェイ。地上のトンネル。

 高架下をくぐる。幹線道路沿いの狭い歩道に来てしまう。自転車による急襲。

 住宅街に入る。敷地の広い低層住宅。空気が澄む。貫禄の平屋建て。溶け込んで気配を消した料理店。世界中の絵本の専門店。

 やがて糸や布地など服飾の雑貨専門店。国道の立体交差。足の下を通る新幹線。車の統一された教習所。


 ひたすら歩く。雨は止まない。

 何もない道。ブロック塀に苔が()している。季節の花が咲いている。(かえる)を見かける。

 街灯で雨足を再確認する。靴が濡れる。まだ水を弾いてくれる。

 時々傘を振る。消耗が回復した気になる。肩に寄りかからせる。持ち手以外宙に浮かせる。

 指が濡れる。鉄臭くなる。気にせず歩く。傘の中の空間だけ雨が遮られる。

 頭の中で好きな曲が流れる。たまに思うまま立ち止まる。Uターンもする。三叉路で冒険する。

 くり返した日々が懐かしくなる。不思議な香りがする。


 夜になっていた。最後は天使の車で部屋へ戻った。車中で彼の過去を聞いた。さいご車は、もう使うことはないからと、乗り捨てて帰った。



   34


 天使の過去。遠い昔の出来事。


 かつて、彼は今とは別の世界にいた。そして、ある一人の女性がいた。

 彼は自分のことがわからなかった。人々は幽霊のように自分の姿を見なかった。鏡にも映らなかった。話しかけても聞かれなかった。そうして雨の日、だれもいない広場で茫然と座り込み、ひたすらうずくまっていた。そこへ、彼は声をかけられた。


 「濡れないんですね」


 …へ? 初めて人に声をかけられた。女性の声だった。

 

 「あなたは天からの人?」


 …え? 彼は自分でも自分がよくわからなかった。


 「だって、羽が生えてるから」


 その女性には天使の姿が見え、声も聞こえた。天使は彼女の存在によって、はじめて自分が天使だと気がついた。

 彼女には不思議な能力があった。遠隔透視能力や、ものに触れるだけで本質が見抜けたりした。現代ではリモート・ビューイングや千里眼ともいわれる。

 彼女には、人が探している物の在処(ありか)がわかったり、近々起こる未来の出来事を言い当てることができた。それらは、彼女にとっては「()える」のだった。

 もてはやされたり、恐れられたりした。加えて、人の気持ちが読めてしまうのは苦痛だった。拾いたくない相手の内面が見えた。しだいに彼女は周囲に心を閉ざして生きるようになった。

 特殊な能力を持っていると、嫌でも人が寄ってくる。なかでも近づいてくるのは、彼女の能力を私的に利用しようとする恐ろしい連中だった。彼女はますます人を信じられなくなっていった。


 非常に優れた能力を持ちながらも、彼女は孤独で、だれからも愛されないという不安を抱いていた。自分を愛することができなかった。

 その頃、天使にはさほど人間らしい心が芽生えていなかった。純真無垢で、まっさらな状態だった。羽も比較的白い状態だった。なので、天使はただ彼女のことを可哀そうだと思った。


 彼女が垣間見る未来は、しだいに不穏で終末的なものになっていった。おそろしい未来と近づかれたくない足音に怯えていた。そんな彼女を救うには、彼女の心を真に落ち着かせる何かが必要だった。


 それは一度だれかに愛されることによる癒しだった。それを得て初めて彼女は、この世界で本当に生きていけるのだった。

 そして、いつからか彼女は天使のことを愛していた。

 

 天使は純真な心の持ち主だったので、彼女の為になるならばと、ありのままにただ求めを受け入れた。そのときの彼には実体がなかったが、彼女を満たすため、その禁忌を犯した。


 天使は彼女が望むように、触れられた部分から順に皮膚をまとい、体温を持った。そしてただ、つらかったねと言い、彼女を包んでやった。


 天から(くだ)された実体化の罰は、有限の存在になることだった。天使の羽はやがて朽ち始め、能力を使うたびに身体は醜く変化し、姿が再び元に戻るまでにさらに時間がかかっていった。


 あるとき二人は写真を撮った。正常な状態で横並びでの写真を撮ったが、天使の姿は怪物にしか映らなくなった。


 やがて彼女は自分の運命を受け入れ、持って生まれた能力を役立てることを決意した。

天使とその女性は、一旦はそこで(たもと)を分かった。天使は彼女に恩を感じつつ、しばらくは天上から見守ることにした。


 そうして彼女を見出したのは、好ましくない世界の現実があれば、それを創り変えてしまうことを生業にする、決して表には出てこない人脈だった。現代ではそれはインテリジェンスとも呼ばれる。

そうして彼女は、そこでの角逐に巻き込まれていくのだった。


 彼女が身を投じることとなった角逐は、さいしょ経済的であったり、軍事的であったり、政治的なものであるように見えた。ある時は、あらかじめ金融相場で先回りした上で、外国との為替を急変動させるため、ある地域で紛争を(けしか)けた。またある時は、政界の目障りな人物を引きずり下ろすため、表沙汰になっていない醜聞(しゅうぶん)を報道機関に耳打ちした。どこでどんな汚職に手を染めているか、その人たちにとっては「()える」のだった。

 しかし、角逐はしだいに根本は宗教的なものなのだと判明していった。各々の勢力には、各々の信仰する神々があり、究極的にはその意志を実現させようとする、当事者らにとっては切実な聖戦だった。


 やがて角逐は、人間界だけでなく、各々の宗教に紐づけられた各天界すら巻き込んだ、血みどろの抗争だったと明らかになった。そのことについて天使に自覚はなかったが、彼の属す天界は本来それらとは無縁の自由勢力だった。彼女の動向を上から見ていた天使は、いよいよ抗争が凄惨さを増していくのを確信し、彼女を助け出すことを決心した。だが、それが裏目に出た。


 当時の天使は純粋で、思慮深くはなかった。彼女はそれまで各勢力との絶妙な均衡を維持して立ち回っていた。彼女の能力はその界隈ですら非凡だった。そこへ無関係の天使が介入したことで、彼女は一方に加担したとみなされ、真っ先に命を狙われる身となった。


 世界の陰謀から彼女を遠ざける方法はないのだろうか。


 考えた末に天使は、永世中立の楽園の存在を知り、彼女をそこへ匿うことに決めた。


 やがて角逐は人知れない水面下から世間一般へと表面化し、大陸で戦争が起こった。空を兵器が行き交い、世界は燃えているなか、天使は有限化によって残された最後の力を振り絞り、彼女を楽園に運んでいった。その時すでに天使は、後戻りはできない醜い怪物の姿に変身を遂げていた。


 楽園には無事到着したが、天使は醜く、そこに居座れなかった。しかし彼女には天使が必要だった。

 天使は、離れていても風に想いを乗せて届けるからと約束した。特殊な能力の持ち主である彼女は、十分なことを悟り、はいと答えた。


 彼女のもとを去る天使。彼女は楽園の小さな家で、襲われる心配とは無縁で、天使から届く便りを読みながら過ごした。


 禁を破った天使は、純正なこの世からは追放された。だが、捨てる神があれば拾う神もあった。

彼女にはもう二度と会えなかったが、天使は人間を善きものに導くという誓いのもと、元通りの姿と別の世界での役割を与えられた。

 そして、まどろむ個人が最期に見る個別の世界に降り立ち、後悔なく逝かせる任に就いたのだった。


 彼女と過ごした記憶とともに、天使には人間らしい心が芽生えていた。



   35


 「そうか」と天使が言った。「なら明日病院に行け」


 気がつくと、彼は姿を消していた。

 ぼくは呼吸が落ち着くのを待ちながら、あぐらをかいて屋上からどこでもない街の彼方を眺めていた。

 何だったんだあれは……。

 剝き出しの昇降機を降りながら、ぼくは出来事の意味を考えていた。

 どうしてこんな目に遭うんだ……。

 夜の住宅街の家々の間を抜けて、歩いて家へ帰った。

 そして朝になると、肝心なことをすべて忘れているのだった。


 そうして今、ぼくは真夜中のコーヒーショップに来ていた。


 ここへ来る途中にあの夜と同じ道を通り、あの夜見かけた三階建ての戸建ての上半分に、今は乗用車がユニバーサル・スタジオ・ジャパンのように突き刺さっていて、いよいよぼくのズレた感性もある意味ノーマルで正常なものに思えてくる。

 店内にはダルなBGMがかかっていた。ぼくは前にだれかとここに来たことがある。

 深夜シフトは人型アンドロイドで、心の通じない会話が響く。

 「ご注文は?」


 こうしてぼくは小説が書けないでいる。

 「どうもこんにちは、ズドン。銃声が鳴り響きます。ご、ご、ご注文は?」

 また目の前をいつもの少女が駆け回っては、ぼくにがらくたを渡してくる。だが今ぼくはそれどころではない。

 「夢も見れない夜でしょう。アンドロイドが催促します。ご注文はいかが、ご、ご、ご注文はいかがでで、ご、ご、ご注文は、ご注文は」

 タバコの煙がくゆる。いつから全席喫煙になったのか?店内を黒猫がうろついている。ぼくのことが見えているか?

 「人々が逃げまどいます。ミサイルが降り注ぎます。ご注文はうさぎですか?町が吹き飛びます。鳥の群れが襲います。ゴ注文ハ?」

 この瞬間にも、ぼくの身体を素粒子が貫通していく。

 「あなたはスターバックスに来ています。あなたの隣にだれかいます。人々は指をさしてきます。あ、あなたはテレビに出ていましたね。今や世界の恥さらしです」

 そこへアンドロイドが聞きに来る。「ご注文は?」

 「あなたは中華街に来ています。雑踏で子供が生まれます。ついでにセットのダークコーヒーもいかがで。そして顔にパイをぶつけられます。ご注文は?」

 店内のメニューはハイパーインフレーションを起こし、ぼくのお札は紙くずになりつつある。

 「空からレーザービームが降って湧きます。あなたの身体は一瞬で消されます。事故を装って。理想郷へあなたをゴ注文ハ?」

 ぼくは小説が書けないでいる。

 「繰り返します。電気信号が。破滅。そしてそして。どうして?」

 ぼくはこれまでのことを考えている。

 「あ、またそうやって人の前からいなくなるんですね。期待外れ。オイ、ご注文してみ?」

 ぼくの旅も終わろうとしているのか、とぼくは考えている。

 「トランス状態の涙が蒸発します。星が降るでしょう。地上に。世界は燃えています」

 また明日もこうしてやってくるのだろうか。こうして何も手に着かないまま。

 「あなたは東京都府中市に来ています。太古の神社の封印が解かれます。麒麟が雷を呼び、狛犬が阿吽の呼吸で踊り、龍がわなないて飛び立ちます」

 ぼくはパソコンをへし折りそうになる。

 「おい、ご注文は?掣肘(せいちゅう)はあなたの喉を貫通します。苦しさにまぎれます。ここはどこ?真夜中のコーヒーショップに来ています」

 今年もこうして暮れていくのか。だれかと並ぶ初詣もわるくなかったな。

 「(なまず)が地球を揺らします。(ばく)があなたの脳を嚙み潰します。(ぬえ)が襲います。八咫(やた)(がらす)が舞い降ります。金鵄(きんし)が揃います。知りすぎて命を狙われます」

 世界の崩壊が進む。

 「バット・ハードディスク・トランスコンチネーターが回ります。どうも波浪。土砂降りの雨です。押し流されて。ご注文は?」

 ぼくは頭が割れそうだ。

 「ご注文は?エーテルが口と鼻に押さえつけられます。強く。あなたは気を失います。オイ、ゴ注文ハッツッテンダロ」

 だれかの嫌いがぼくの好きなものを打ち消そうとしている。

 「あなたはクトゥルフの宮殿に来ています。古墳から砂の巨人が出現します。触手で絡めとられます。キリエロイドがあなたのお部屋の暗がりにいます」

 ぐるぐるぐるぐる。めらめらめらめらめら。

 「出直して来てはいかが?ひどい顔ですよ。どの面下げてるんですか?大地が割れます。丘が吹き飛びます。早クゴ注文シロヨ帰れねえだろ」

 ぼくはパソコンを閉じた。


 そのとき頭と胸がズキン!と疼いた。まさか……!?


 店を出て、暴動が起きて車が燃やされている道を、人を押し分けながら歩いて家に帰ると、天使が窓から空を見上げていて、「明日だ」と言った。

 「明日終わりが来る」



   36


 「明日だ」と天使が言った。「明日終わりが来る」


 それを聞いてぼくは茫然と天使の部屋を後にし、あてもなく彼の家の前の川沿いの道を、海に向かって歩き始めていた。


 しまった……。ついに終わる……。


 どうしようもない感情を抱えながらぼくは歩いていた。世界は終わると同時に、今こうしてぼく自身の心臓と頭も疼いている。


 来る……。終わる……。詰む……。


 道沿いの川には河口からクジラの死体が押し流されてきていて、耐えがたい腐臭を放っている。どの家の明かりもついていない。それどころか、どの家もあっさりと諦めるかのように自重で潰れてしまっている。車と車が正面衝突を起こしたまま放置されている。人だけがいない。


 やばい……。何も残してない……。終わる……。


 道沿いの川の護岸の果てしなく続く安全柵には、黒いペリカンのような怪鳥が所狭しと列をなして留まっていて、ぼくを威嚇しながら鳴き狂っている。その目はどの方向を見ているのかわからない。道には赤黒い蜘蛛のようなカニが大群で移動していて足の踏み場がない。何の骨かわからない(むくろ)が散乱している。


 死ぬ……。終わる……。何も残せなかった……。


 やがて視界には何も入らなくなる。ただ茫然として終末の道を歩んでいく。


 そうしてだんだんとぼくの心は、深く深く堕ち、堕ち、堕ち、堕ち、堕ちては、闇病み闇闇闇病み闇の詩人詩人詩吟詩人死人詩人死詩詩詩人へと変貌変貌変貌変貌変貌変貌変貌変貌、してしてしてしてしていっいっいっいっいぅいぅいったたたたたあああ――。


 世界はどこに向かうのか……。いったい、個人に何ができるというのか……。この世に生を受けた意味はなんだ……? 閉塞。いいところまで進む。しかしそれはマヤカシ。現実には通用せず圧を受ける。本当に潰されかける。いつからかうまく笑えずに何もかもが同じ 無機質の沼に足を取られて目的のない日々 それを無為に過ごす 君を知らない 人生はどこ 何をもって満たされるのだろう 術を知らない 憧れはどこ つまらない基準に身を預けて 正直者が踏み外しかける 自分のことばかり手一杯で他人に興味を見出せない 意味を知らない 終わりはいつ ここを出ずにはいられないだろう 伝手を知らない 未来はどこ 予感と情熱に身を委ねて 深く深く沈潜したい 無秩序をさらけだす朝を逃れて 長く長く流れに乗りたい ほんの僅かなワクワクに縋る 見いだせない情熱 手に入らない目的 辿り着く境地はみんな同じ どこにもない どこであっても関係ない どこにいても現実は地獄 尊敬する人の死 混沌に満ちたナンセンスな日常 ふざけ倒して狂った毎日 お遊びに溢れてるかのように見える でも実は 突き抜ける錆び ぼくは飛びたい ぼくに翼はない 中の状態 中の状態次第 存在 不在 広い世界に行きたい 形にしなければ存在していないも同然 訪れるのは危機 新しい役割 徐々に悪くなる世界……終末 打算で現状を維持していく意味がなくなる 懐疑と諦念 さまよえる信念 それがいい未来なのかは見当がつかない 悲しい情報が溢れていて、無力を感じる 不安と絶望が人間の棲家だと 認識を根底から新たにする 望みなく燃える 捨てきれず騒ぐ 降り続く災厄 自分だけが何故か助かる 混沌 退廃 今に固執すると澱む 未来が見通せないから 今まさに過渡期 既存の世俗的価値観はすべて覆される その発端となる社会制度が悉く消滅する 思い悩む必要はない すべて杞憂と化す それまでを楽しめばいいだけ 今のシステムにしがみついても、どうせ破綻することになる 真綿で首を締めるような支配 覚醒に相応しい危機 道を外しかけると身に危険が迫る 既得権層破壊の慰安装置 恒常的な脳のフロー化 意識の統制 バグが起こる 普段は体制の為の強制昏倒装置 危機も襲う 必然的に知りすぎてしまう 言論空間の統制 思考の枠組みの設計 ビッグデータから個々の情報端末への操作 人間を正常にさせない 広告・情報操作 資本主義経済が回るための これまでの正解 インテリジェンス 非常に過酷だからこそスピリチュアル 究極的にどうなるのか 知っているというのは凄い状態 違いを生む 知らない側からは覗き見れない 現代の愛は通俗的・商業的に バーチャルになっていく経済 電波から通じるメッセージ どうすればいいのか どうすれば通俗的感覚から抜け出せるのか 現代 現代的な苦しみ 予兆的な夢 朝起きて 一日の始まり 朝ぼらけを呪う テレビの報道 通勤風景 いつも屯している 動画稼業の連中 理不尽な指令 非現実的な目標 そのとき地震 外回り 仕事しているふり 街の様子 意味の分からない広告 退廃? 閉塞した雰囲気 時間を潰して凌ぐ 将来の懐疑 成長への疑義 そこにクレーム …はぼくのせいじゃない。きっとぼくのせいじゃない 鈍感になる必要 生き抜く為に 思い詰める必要はない

 責任の欠如とは違う 非難の矛先を自分に向けないということ

 非難の所在は自己にはないと決心すること それが自分への正当な報酬

 すべての仕事は楽しくない ひいては事を長期に継続する秘訣

 当事者になってはならない 持ち帰らない

 嫌なことや苦しみは不可避だから 鋭い感受性は危機を孕む

 閉ざすことを学ばなければならない 感じすぎない それがある種のフロー

 次の日は雨 機を窺う やれることは本の蒐集 こういう流れでこうなる世の中

 閉塞している時代 何も成し遂げられないという焦燥 どこにも行けないのではないかという疑念

 現代的な問題の凝縮 人間の論理的思考には限界があった それらは何も生み出さなかった

 自分で考えつくものは常に誤謬を孕んだ 鴉が鳴いた

 科学的には説明のつかないもの かつてなく激しく移り変わる今

 昨日のことは今日役に立たない 物質的・感覚的なものは全く信用できない

 停滞したくない 他人と時間を無駄にしたくない

 三十五年先の未来など存在しない

 それほどまで信念の提示に難儀する

 だれもが投機をしている

 世界中のだれもが急いでいる

 本当に必要なのはそんな事じゃない

 本当に価値があるものはそんなものじゃない

 ぼくは生き残れるのだろうか

 財政破綻

 天使は現れない

 どうすればいい

 取引先の倒産

 街の荒廃

 忘れ閉ざしていた絶望が押し寄せる

 ぼくは地上に由来していない

 誤ってはならない

 なぜ科学には限界があるのか

 救済

 職を失う

 人口に膾炙させる

 こうして抜け出せないでいる

 思いあがる結果、塗炭の苦しみ

 気づけることにも気づけない

 終わる

 頭が痛い

 死ぬ

 心臓もいたい

 死ぬ

 頭が痛い

 目がまわる

 消える

 まだ何も残してない

 死ぬ

 頭が痛い

 心臓が

 終わる

 死ぬ

 まだ

 何も

 残して

 もう

 ない

 死ね

 終わる…………………………何も……………かも………………………………………


 すべてを飲み込むような黒い夜の海に到着していた。自分の力ではどうにも抗えない自然の猛威を感じる。沖には巨大な光らない月が今にも地球に衝突しそうに待ち構えている。ぼくは波打ち際へと歩いていく。靴が濡れていく。海の中へと入っていく。膝まで浸かる。腹のあたりがひやっとする。そろそろ足の着かない深さまで来る。


 そうして、世界は終わるというのに、ぼくは絶望して、暗い海の中へと入水(じゅすい)していった――。



   37

 

 息が続かない。体の感覚がなくなる。視界がなくなる。やがて消える。意識が途切れる。ぼやける。やがて小さな穴があく。何かが見える。しだいに鮮明になっていく。目の前が進んでいく。どこだここは―――――――――――。

 ぼくは歩き続けている。身体が宙を蹴って動いていく。どこなんだここは……。

 すると視界が開けていった――。


 ――音のしない砂漠。浅葱(あさぎ)色と薄紅(うすべに)色が空に同居している。一日のどの時間帯なのかわからない。太陽は動かず、白砂の丘が茫々(ぼうぼう)と広がっている。風があらゆる方向からそよいでいる。

 暑さを感じない。温度がない。日差しが(まぶ)しくもない。砂が舞うことも、(ほこり)(まみ)れることもない。渇きを感じることもない。ぼくはその中を歩いている。

 

 いつからここへ来ていたのだろう。わからない。ただ気づいたら歩き続けてきている。そうして何も考えずに身体が進む。自分とは無縁に動いているように感じる。そしてそれをぼくは自分の目の内側から眺めている。視界は茫然と再生されていく。


 果てしなく続く白い砂と極彩色の空の下に、目の前には道が続いている。歩き続ける。進んでいく。疲れることはない。

 やがてその先に(みどり)の一帯が見えてくる。少しずつ揺らめくように近づいていく。あれは何だろう。砂漠の中で、それは隔絶され、超然として()る。

 するすると迫る。道なき道を進んでいる。近づいてくる。ここはどこだろう。もうそろそろ到着する。

 足を踏み入れるとそこには(あお)く澄んだ湖があって、水面(みなも)が凪いでいる。その先には小さな森があって、異国情緒のする見たことのない樹が整然と生い茂っている。それが風にそよがれて揺蕩(たゆた)うように揺れている。

 その砂漠の真ん中には小さなオアシスがあり、翠の楽園の先には小さな家があった。

 その小さな木の家は隅々にわたって手入れが行き届いている。決して新しくはなく、何百年も佇んできたような古さすらあるが、時間の衰えを感じさせない。ひっそりと佇む姿はぼくの訪れを待ち望んでいたかのように見える。そう思える。そう感じられる。


 するとその小さな家の慎ましい扉が開いて、一人の女の人が姿を現す。白いベールのような服を着ている。どこの国の人の容貌なのかわからない。ただぼくを出迎える。どこの国の言葉を話しているのか、音声としてはわからない。だが、その人の話している内容は不思議と理解できる。


 行きましょうかという無言の目配せをもらい、ぼくらは外を散歩しに歩きだした。

 そうしてゆったりと砂漠とオアシスの境を巡った。


 その人は時々風に手を当てては、胸に手を当てて祈るようにしている。

 その人は、ぼくが何か思っていることを口にするよう期待している様子でこちらを見ている。泰然として、決して目を逸らさない。その人はじっと深く余裕をもってぼくを見つめていて、ぼくも何も考えず自然とその人の目を見ていられる。


 ぼくは言った。

 自分はずっと何かを表現したいと思って生きてきました。自分だけの生きた証を残したかったのです。そうしてどこにも行けずもがいてきました。それは物語でなくてもよかったのかもしれません。自分を知りたかったのです。まだ見ぬ自分を追いかけてみたかったのです。

 そしてただ報われたかったのです。なんとか自分の証を完成させて、自分自身の何にも代えがたい満足を手に入れたかったのです。それを得ればさらに先へ進めるようになると、ずっとそう考えて生きてきました。

 でも、まもなく世界は終わりそうです。ぼく自身もまもなく終わろうとしています。そうして何も残せませんでした。何もかも終わっていきます。ぼくはこの程度でした。


 するとその人は言った。「世界はそんなに狭量ではありませんよ」


 そしてこう言った。

 「あなたは愛を知っていますか」


 ぼくは心にピンとくるものを感じなかったが、その人は愛について教えてくれた。


 愛する者とは住む世界を異にする運命もあります。愛とはときに間違いを犯すから。

 私の愛した人は善きもののためにだけ存在を許されるから。かつて私たちはともに暮らし、やがて離れ離れになりました。

 でも離れていても、その人は風に乗せて想いを運んでくれます。そして私はそれに手を伸ばすだけでいい。私はそれだけでその人を感じ、こうして生きていられるのです、と。


 そしてその人は言った。

 「人はみな、ひとりではないのですよ」


 すると世界は急転しだし、視界は遠のいていった。目の前のその人は遠ざかり、声は(おぼろ)になっていった。ぼくは後方の暗闇の彼方へと引き戻されていくのだった。






 ひとりじゃない、か。

 思えばぼくには、いつもだれかがいてくれたな。


 幼い頃、テレビの中には光の巨人がいて、終末から奇跡を起こしてくれた。

 がらがら声の愉快なロボットがいて、一人でいても飽きさせないでくれた。


 サッカーの代表戦には左利きのファンタジスタがいて、いつも夢を見せてくれた。

 学校に行くとうっとうしい友達がいて、ぼくを放っておかないでくれた。


 最初の職場に面倒見のいい先輩がいて、仕事の仕方を教えてくれた。

 本社に出向くと社長がいて、いつもぼくに期待してくれた。


 日曜の朝、家に父親がいて、ぼくを大学に行かせてくれた。

 朝早くと夕方、台所に母親がいて、ぼくを見捨てないでくれた。


 あの夜バーに天使がいて、だれにも気づかれないぼくに話しかけてくれた。

 写真館にケイコがいて、いつかまた晴れると教えてくれた。


 ぼくの隣に思い出せないだれかがいて、ぼくはまだ生きていけると思えた。

 ぼくはまだ。


 ぼくは。



   38


 遠くで波の砕ける音が聞こえ、気がつくと、海岸の波打ち際に打ち上げられていた。ぼくは砂浜に伏せって倒れていた。倒れたまま海水を口から吹きだして咳き込み、鼻が強く痛んだ。しかし頭と胸は不思議と痛まなかった。

 世界が終わる日の朝を迎えていた。

 ふと気がつくと、いつも見かける幼い女の子が、しゃがんでぼくを見下ろしていた。だれかいてくれたのか……と、ぼくはふとほっとしてそう思った。

 あたりには打ち上げられたヒトデが散乱しているだけで、恐ろしい終末の雰囲気とは束の間無縁だった。


 少女はぼくの顔を覗き込み、目覚めるのを待っていたかのようだった。ぼくは頭がぼーっとしながら起き上がり、なんとなく少女のそばにちょこんと座った。

 天使が世界が滅びると言う日の朝、空は果てしなく灰に曇って(よど)んでいたが、朝だとわかる程度には薄明るかった。


 少女は全く喋らない子だったが、ぼくは地獄の朝だね、と不謹慎なことを言った。

 見ると、ぼくが倒れていた間、少女は濡れた浜に木の棒でお絵かきをしていた。何だこれは、とぼくは思った。直線とギザギザが交互に繰り返して書いてある。……心電図か?

 少女はぼくの様子をうかがっていたが、どこからともなく車のおもちゃを取り出しては、それを手で転がしてぼくにぶつけ始めた。

 ……やれやれ、なんだか珍しいおままごとだが、最後にこうして過ごすのも悪くないか……。そう思って、ぼくはしばらく少女に付き合うことにした。


 あたりにはだれもいなかった。


 少女は次に、ヘリウムで浮かぶひも付きの赤い風船を手にしていた。ひもの先にはストローを手でつなぎ、その先端をぼくの腕にひたすらプスプスと刺してくる。

 痛いなぁ。とだけぼくは感じていた。しかし。

 少女は無口だったが、見ると何かを訴えかけている様子だ。

 …ん?

 次に少女は、ちぎって分けて使う前の、郵便切手の束を取り出して、ぺろぺろとキャンディーのように舌で舐めだした。

 ……きたないよ、どうしたの?

 しかし、ぼくに何かを披露している。何かの意図を感じる。

 次に少女は、何やらパントマイムをしだす。ジェスチャーゲームのようだ。手でコップを持っているように輪っかにして口に運び、ゴクゴクゴク、ごっくん、といった感じで飲み干しては、その場にぱたりと倒れる。

 ……どうした? ……水を飲んで倒れる?

 少女は倒れた状態でこっちを確認し、ぼくがちんぷんかんぷんでいるのを見ると、引き続き何度も繰り返す。

 ……ごくごく、ごっくんして、ぱたり? ……何を飲んでいる?

 見かねた様子で、さらに少女はぼくと片手で手をつなぎ、ひたすら片手でごっくん、ぱたりと倒れるのを繰り返しては、ぼくの上に覆いかぶさるようにして倒れる。

 ……手をつなぎ? ……倒れる? ……折り重なる?

 ねぇ、まだなの?という目で少女はぼくを見る。

 何だこれは……いや待てよ……?

 少女は包帯でぼくの頭を巻きだす。

 ……これは……。

 少女はぼくの身体を揺さぶる。そして繰り返す。

 車のおもちゃをぶつける。

 ストローで刺す。

 切手を舐め、ごっくん、ぱたり。

 ぼくの手を握り、覆いかぶさり倒れる。

 ……これは……。

 最後に、少女はぼくの口元に呼吸器のマスクを押し当ててくる。

 口と鼻を塞がれてふと息が苦しくなった瞬間、ぼくは刮目した――。


 そして記憶が蘇る――。

 上書き消去が取り消されていくように――。そして今いる世界のあらましを理解する――。



 ごっくん。ぱたり。

 吐きそうになりながら。

 思い出せないだれか。

 おまえが何をしたかだ。

 呼吸器。

 車。

 運ばれていく。 

 自殺未遂。

 心電図。

 病院。

 手をつなぎながら。

 絶望。

 目に涙を浮かべながら。

 脳。

 ストレッチャーで。

 夜。

 点滴。

 死が待ち構える。

 願い事には十分気をつけるんだな。

 ひどい頭痛で目を覚ました。

 崩壊。

 思い出せないだれか。

 天使。

 このしょうもない現実。

 おまえがおれを引き寄せたんだ。

 誰かが好きそうな世界を演じる。

 ひとりじゃない。

 こうして抜け出せないでいる。

 世界を閉じ込めておく玉。

 残された時間は少ない。

 住む世界を異にする。

 思い出せないだれか。

 観測されてはじめて収束。

 幻。

 見えている意味を信じろ。

 終わりはやってくる。

 だれかがいないような。

 愛を知っていますか。



 ああそうか……! そういうことだったのか!! そして君は……!


 気がつくと、そこに天使がいる! ヒトデを拾って海に投げ返している。

 これは仮説にすぎないがと、すぐさま彼に確認を取る。


 ぼくはある夜病院で間違いを犯し、気がつくと自宅で倒れていた……。

 「それで」と天使が言う。

 ぼくはその過ちを、間違いなくだれかのために犯した……。

 「おまえの都合でな」と天使が言う。

 そして……。


 ここはそのだれかが見ている世界で、その人だけが抜けて不在の世界……。

 この世界に存在しないだれかを、ぼくははっきりとは認識できない……。

 だれかの覗く世界の中で演じられるぼくの最後の日々……。

 そして、そのだれかの命には、終わりが近づいている……。

 こうしてこの世界は滅んでいく……。


 天使はしばらくぼくを見つめていたが、やがて口を開いた。

 「(あた)らずとも遠からずかと思ったが」と天使が言う。「……ようやく気づいたか」

 そして言った。「よくもここまで現実を難しくしたな」

 ……ああ、ああ、ああ、ああ、ああ、とぼくはいつもの調子を取り戻す。

 ぼくは自分でもありえないと思いながら、不思議と納得していた……。そもそもすべて自分で望んでこうなった……。そうしてこの世界にいた……。

 「これでわかっただろう」と天使が言う。「おまえはとことん救いがたいやつだ」

 そうだ……。ぼくはある間違いを犯し、記憶を消されたかのように天罰が(くだ)ったのだろう……。そうして狂っていく世界の中で残り少ない日々を演じさせられていた……。

 「言っただろう」と天使が言う。「この世界はまもなく終わり、おまえ自身に残された時間も少ないと」

 そういうことだったのか……。ある意味すべて幻覚にすぎなかったのか……。だが……こうして過ごしてきた時間は……やり直しを(ゆる)された日々であったようにも感じる……。そうして天使が現れてくれたからだ……。


 ぼくはこれまでの日々を瞬時に思った。ある朝ひどい頭痛で目を覚まし、耐えきれない仕事をし、天使に出会い、ケイコに出会い、日々を過ごしながらも、ずっと思い出せないだれかがいた……。


 「で」と天使が言う。「どうするつもりだ」



39


 ぼくはこうして過ごしてきた日々を漠然と思い返していた。

 不可解な日々の連続ではあったが、すべてがつながっていたようにも感じる……。


 自分が何をしでかし、こうして今があるのか……。


 そのとき天使が言った。「で、どうするつもりだ」


 ぼくはふと我に返る。気づかされる。


 しかしそう……このままでは……この世界の崩壊は止まらない……。このままでは世界はただ滅んでいく……。何もしなければ、()しているだけでは……、今日でぼくは終わる……。


 「それで」と天使が言う。ぼくは頭がフル回転を始める。


 「今日で」と天使が言う。

 どうすればいい……。

 「終わるわけだが」

 崩壊は止められない……。

 「おまえは」

 何ができる……。

 「一体」

 何をすれば……。

 「「「どうするんだ」」」


 そのとき、ぼくの脳裏に真実が閃く――。

 すべての過去が未来へと繋がり、フラッシュバックが起きる――。


 

 罪。

 願い。

 思い出せないだれか。

 自分が生きた証。

 愛が。

 善きものに導く。

 希望。

 すべてを失ってこそ。

 クオリア。

 漂い。

 電波。

 人間が天使を見ることはない。

 風に乗せて。

 夢。

 人はコミュニケーションの中に。

 歌の中に生きた。

 想い。

 書きかけの小説。

 償い。

 なろうと思ってなるやつほど。

 光。

 逝ってほしくない。

 可能性。

 ひとりじゃない。

 よろこんで手放したいと思うものしか。

 期待。

 まだ何も残せてない。

 大丈夫じゃん。きっと。

 どうして。

 おまえはとことん。

 晴れに変わるよ。

 奇跡。



 ――瞬時に自分が何をやるべきかを知る。何がしたいかを悟る。すべてのアイディアが完成する――。

 やるしかない!


 天使! 最後に思い出せないだれかと話す時間を、少し与えてくれないか!

 「いいとも」と天使があっけらかんと言う。「もう待ちくたびれた」

 最初からそのつもりだったのか……。

 

 ――それと、何かを失ってこそ何かを得られるなら……。

 「……それはおれの範疇じゃないが」と、ぼくが話すと天使はどこか感慨深げに言った。「掛け合ってみよう」


 ――あと、それからもう一つ――。アレを貸してくれ!

 「本当に、ありえないやつめ……」と、天使は初めてぼくに対して驚いた。「だがそんな気もした……」


 「いいだろう!」

 話はついた。急いで天使の部屋に戻ろう!


 引き返す直前、気づかせてくれてありがとうと、ぼくは少女の頭をなでた。すると少女は、はじめて笑った。



   40


 新幹線ひかりのごとく急いで天使の部屋に戻る途中、ぼくは考えていた。


 ぼく自身の本当の善きもの……。それはだれかのためだったのか。

 今となっては、なぜ自分がここにいるのかを知るには、自分の心残りを晴らしてからでないと意味がなかったのだと思う。そうでないと辿りつけなかった。何も変わらないからだ。必ず同じ轍を踏む。

 最初ぼくは、しょうもない日々を抜け出したかった。天使はぼくを導いてくれた。そしてケイコに出会った。とても刺激的で毎日が再び楽しかった。一度抜け出してみると、ぼくもオリジナルなものを生みたいと思った。そして、生きた証として残したいと思った。

 しかし、ずっと引っかかっていた……。この滅んでいく世界で生きた証を残そうとすることに意味はあるのかと。……だが、そういうことだったのか。

 ぼく自身の善きものとはだれかのためにあった。それがここにやってきた理由なのだから……。


 そしてぼくらは部屋に戻り、ぼくが作業を終えるのを天使は見守っていた。


 指を弾いているあいだ、ふと思った。

 そうか……ぼくは闇から光へ還るのか……。


 脳の処理速度が倍になり、現実が早回しで進む。

 時間は、消えたと思いきやまた現れる。

 脳のシナプスの数は、時間を経るにつれ増加する。

 ネットワークの構造はますます複雑になり、処理負荷が高まる。

 ぼくの頭はオーバーヒートを起こす。しかし、今はそれどころではない。


 ここはだれかの見ている世界で、そのだれかだけが抜けて不在の世界……。

 この世界に存在しないだれかを、ぼくははっきりとは認識できない……。

 だれかの覗く世界の中で演じられるぼくの最後の日々……。

 そして、そのだれかの命には、終わりが近づいている……。

 こうしてこの世界は滅んでいく……。

 

 わからない。後付けかもしれない。

 だが、やるしかない。


 「言っておくが」と天使が言う。「元に戻ることなどできないぞ」

 ああ、承知さ。ぼくが自分で責任を持つよ。

 結果がどうなるかはわからないが、ぼくは自分自身の善きものに向かう!


 この世界でできるすべてを終え、ぼくは言った。

 天使、今までありがとう。最後まで苦しかったが楽しく、充実してたよ。

 すると天使は言った。「すべては善きもののためだ」

 「親友よ」


 そして天使が言った。「セレモニーだ」

 「餞別(せんべつ)だ。場所はどこにする」

 

 思い出が駆け巡る。感慨がよぎる。ぼくらはある日、バーで出会った。

 しかし地上の崩壊が迫る。人に迷惑はかけられない。店は今頃大丈夫だろうか。

 そして自身の決意の日々を振り返る……。


 ……別れの場所は、あそこしかないだろう――!




 そうしてぼくらは建設中のビルの屋上へと舞い戻った。

 「最高の瞬間はつねにこれから訪れる」と天使が言った。

 今夜、一つの世界が終わる。 

 地表の崩壊はぼくらのいる建設中のビルの屋上まで到達し、頭上のクレーンがスローモーションで崩れ落ちていく。

 ぼくは、ひょっとしたら飛べるのかもしれないと考えながら、だれかに言われた一言を手掛かりにしている。

 LSDの致死量は一〇ミリグラム。睡眠薬の致死量は一五〇錠。これらぎりぎりを同時に飲んで、ぼくはこの世界にいた。そうしてぼくは天使と出会った。

 昔、だれかに生傷を応急処置してもらったような記憶がよぎる。その様子をはっきりと覚えていないが、今のぼくは確信に満ちている。

 魂の重量は二一グラム。

 柱の影から少女がこちらを覗いている。

 これはまだ科学と世間の常識が現実に追いついていなかった頃の話。

 そもそもは愚かな過ちが発端だったが、ぼくはいま愛を知っている。

 床を覆うコンクリートがちぎれて重力に逆らって舞う。

 だれもが天国に行けば、なれたかもしれない自分に会うのだろう。ぼくはその前に最愛の人に会いに行く。

 運命の霧の中に、いくつか起こる可能性のある未来が存在している。

 ぼくは自己意識のクオリアで、「意識」そのものを感じるための錯覚だとしても関係ない。

 未来には、「ぼく」という概念は消滅しているだろう。

 未来はますます仮想的になっていく。

 ぼくの記憶は三次元には残らないだろう。

 確かなのはこの想いだけで、意識は限界を越えて漂い、望ましい未来を手繰り寄せる。

 ぼくは天使に感謝している。

 暗い空から燃えるオーロラが溶け落ちていく。

 神の声を聴いた古代人も、神の意のままの自動人形も、恋をし、夢を見ただろう。

 光速で未来へ。

 少女が駆け寄って、ぼくの袖口を握る。

 目の前の現実と向こう側の境がぼやけて曖昧になっていく。

 意識が混濁していく。

 ありがとう。また、いつか。

 「雨の中の涙のように」と天使が言った。


 そして天使は引鉄を引いた。



   41


 ぼくには恋人がいた。


 きっと人並み以上に幸せだった。何もないような世界に一緒に行くところがあったり、一日の終わりに何かを分かち合えることはとても素晴らしかった。彼女はおっとりとしてぼくを包み込んでくれる存在だった。

 眠った彼女の顔が目の前にあると、ぼくはこの上なく満たされた。そのときなら、世界を祝福できた。みんなが幸せになってくれればいいと思えた。人形のように綺麗だった。

 そうして世界中の武器を埋めて、世界中の憂鬱を消してしまいたかった。


 ある頃からぼくらはすれ違っていった。

 現実があまりにも醜いせいだからだと思った。仕事をして、日々を使い果たして、時間を金に換えるのが馬鹿らしくなり、次第に行く手を見失っていった。

 現実的に生きようとする彼女は現実に順応しようとし、現実的に生きられないぼくは現実を壊そうとした。そうして新しく創ってしまえばいいのだと考えていた。

 ぼくは何かを生み出したくて、安っぽい創作活動を始めた。どうしても何者かになりたくて、だからといってなれず、人生が平凡に暮れていくことを悲観した。他人と同じでいることに我慢がならなかった。

 ぼくは創作がしたくて彼女と距離を取りたがった。その頃には、彼女はぼくにとってあたりまえすぎて、つらかったり温めあいたくなったりしたら帰るだけの巣のように感じていた。心に秘めたものをあえてさらけ出すのも違う気がした。そしてこの先にあるだろう幸せすらも気怠(けだる)く感じた。

 現実的に生きようとする彼女と、そうでない方法を探るぼくは、こうして隔たっていった。


 幸せな時は褪せてきていた。

 四年目の記念日がなんとなく過ぎ、五年目の記念日の印象は他の日となんら変わりなく、六年目の記念日が近づく頃には、ぼくはまたか、とさえ感じていた。


 体裁を繕って、その日を迎えた。

 言い訳程度のプレゼントを用意し、レストランで彼女を待った。

 現れた彼女はすでに何かを察していて、目を合わせないまま席に座った。

 無言が続いた。

 ぼくが注文を促しても、彼女は聞こうとしなかった。

 居心地の悪さに耐え切れず、ぼくは申し訳の品を早くも差し出した。

 彼女は受け取ろうとせず、テーブルに置かれたそれを無言で手で退()けた。

 そしてぼくは彼女に辛辣な言葉を投げた。


 出て行かれた。

 癪だった。しばらく立てなかった。

 葛藤した。これまでのことを想った。

 そして追いかけた。失えなかった。


 店を出、遠い彼女を追う道の途中、幼い女の子が泣いていた。

 一度通り過ぎかけたが、放っておけず、どうしたのと声をかけた。

 あまりにも彼女の面影が重なっていたから。

 彼女はまっすぐな道の先にまだ見えていた。

 少女は見るからに迷子で、親とはぐれた様子だった。

 彼女のほうを見ると、まだぎりぎり追いつけそうな距離だ。

 根拠はないが大丈夫だと少女に言ってみせた。

 彼女が彼方のほうで振り返っていた。


 ちょっとしたすれ違い。


 少女にどちらから来たのか聞いて、その方向を探した。

 彼女は立ち止まり、何事かとこちらを窺っていた。

 少女は泣き止んでくれなかった。

 もう間に合わないのかと一瞬思った。すると。

 彼女がこちらに引き返し始めてくれていた。


 胸騒ぎがした。


 少女の親が斜め前の店から出てきた。

 見ると、彼女は涙を拭きながら歩いてきていた。

 泣き止んだ少女の親に礼を言われた。

 これで大丈夫なのか。


 ふとそう思って彼女のほうを見ると、泣いてうつむきながら歩いて来ていたため、車道側の青信号に気がつかず、けたたましいクラクションが鳴った時には、もう遅かった。

 少女が目撃していた。


 意識不明の重体。

 一命はとりとめたものの、彼女の意識は何日も戻らなかった。二週間が過ぎ、三週間が過ぎていった。

 彼女の意識が戻る可能性は日に日に薄くなっていった。ある時から、彼女は生命維持装置なしでは、もはや生きられなくなっていた。少女が親に連れられ、一度見舞いに来た。


 彼女の両親の同意のもと、彼女の生命維持が解かれる日が決まった。

 ぼくは、ものごとがすべて遥か彼方で起きているような気がした。


 無い頭で考えた。

 絶望は無謀へと変わった。


 彼女の生命維持装置が外される日の前夜。

 ぼくは病室で彼女の手を握り、致死量寸前の睡眠薬と幻覚剤を飲み、臨死と幻視の極限状態をつくって、戻らない彼女の意識に接触しようと試みた。

 彼女のそばで目を覚ますのを待つ間、本を読みすぎて迷信深くなっていた。生死の境をさまよう意識との交流。無根拠で絶望的にも程がある。

 それ程ぼくは、彼女に逝ってほしくなかった。最後に声を聴かせてほしかった。またもう一度やり直させてほしかった。

 そのあと案の定、病室は(ひと)騒動になった。その場にいた医療従事者の人たちには申し訳なく思っている。動けなくなったぼくが、ストレッチャーに乗せられ運ばれていく。


 後を追うならまだしも、生きたまま会おうとするなんて。生死の境目まで行けば、会えるのではないかと思うなんて。そしてあわよくば、連れ戻せるのではと考えるなんて。


 ぼくは愚かで無茶で欲深く、自己中心的であさましい人間だ。

 愚かなことをしたが、あのまま終わるよりはいい。後悔はない。


 そして、あのまま終われなかったし、この後このまま以上を求めて、さらにその上をいこうとするのが、ぼくの悪い癖だ。



   42


 「あっ」

 あっ。


 感動の再会かと思ったが、きのう会ったばかりのような気がして間が抜けていた。付き合いの長い男女の会話などこんなものだ。


 「びっくりだよ」ときみが言う。「まさかこっち側に飛び出してきちゃうなんて」


 ぼくらは暗い闇の中にいた。床すら見えない漆黒だが、ぼくたちの身体はくっきりと見えた。きみは椅子に座っていて、長机に光る地球儀のようなものが置かれている。

 「見てたよ」ときみが言う。

 ぼくは近づいていった。


 ごめん。ずっとちゃんと向き合ってなかった。

 「いいよもう。全然怒ってないよ」ときみが言う。


 それを聞いてぼくはほっと救われる思いがした。


 「小説書くのが夢だったんだね」


 うん。隠しててごめん。


 「いいよ。気にしてない」

 「会いに来てくれてありがとう」


 うん……。


 「……」

 「……私たちそれでどうなるの…?」


 きみはまだ終わりじゃないよ。


 そう言って抱きしめた。


 「え?」


 確かにここでお別れだけど。

 今度はぼくが見守るから。

 きみは続きを楽しんで。


 「……」


 すぐよくなるから。

 何もかも。

 大丈夫だから。


 「……うん」


 心配しないで。

 ね。


 「うん」


 大好きだよ。






 そして閃光が走って、ぼくは病室にいた。そしてだれにも見られることなく、聞かれることもなく、ぼくはこの小説を完成させた。天使に借りたタイプライターで打ち込んだ文章のクオリアは空中に漂って、ぼくは天高く手を伸ばして受信する。そうするだけで、向こうで書けていたところまでは、こっちですぐに書き写せた。そしてさっきまでのことを考えて少し付け足して、完成した原稿は、もうすぐ目を覚ますきみの手元に置いておいた。ぼくは言葉の中で生き続けられるはずだから。

 まもなくおまじないは解けて、間違いを犯したぼくは違う世界へと旅立つ。天使の粋な計らいで、物語が終わるまで束の間ぼくはここに居られる。そしてきみが目を覚ますと、ぼくは間近で泣いてしまう。時間だ。お別れのキスをしよう。さようならと言って、最後にきみの瞳に映ったぼくには、翼が生えていた。


                                                                                                                                                                                                    


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