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『闇霧』21


      21


 白い巨人と巨大エレベーターガール。二体の怪物が滅んだあとのネオデーモンの肉体は、黒く焼け焦げたままで、完全には回復していない。

 だが。

 ネオデーモンの両腕が広がる。まだ蓄えた呪いがある。このビル、この地に蓄積された呪いの数々が、まだネオデーモンの内にある。

 対する麻來鴉は、体から剥離していく衣服や肌の一片が、少しだけ大きく、そして増えていっている。

 神の力を借り受ける代償。第七階梯であるこの身をオーディンに返す。すでに、徴収が始まっている。

 だが。

 目の前の悪魔に風穴を開けるだけの魔力はある。黄金の力は、未だに流れ込んできている。

「さあ」

 麻來鴉の周囲に、衛星のように二十九のルーン・ストーンが集まる。

(B#)――(J6)

 ネオデーモンの内側に、純度の高い呪力の片鱗が見えた。

 一瞬の間。

 空気が、動いた。

(Gi)(YU&)――」

 ネオデーモンが呪いの術を行使する。

邪視(DE穢TH)乱舞(BE穢M)崩壊(Ruina)(D%)(x)(Ga)(Vii)(rU)(AA)(Vii)(Az)

 一瞬で、ムーサ・柴崎ビルのいちフロアであるコンサートホールが暗紫色の空間に再現される。同時に、恐るべき密度の邪視光線が麻來鴉の視界を埋め尽くす。躱せない。躱すための余計な空間はない。瞬時に、麻來鴉はルーンの名を唱える。

黄金叡智(グルヴェイグ・オス)

 無限に近い魔力を最大限に発揮するために、黄金叡智(グルヴェイグ・オス)のルーンを発動させる。周囲に漂う黄金の魔力の粒子が、一つ一つ、秘術の呪文や式へと変じていく。

雷光(シゲル)――勝利(テュール)――成長(イング)。撃ち落とせ、雷光軍勢(ヘルテイト・シゲル)!」

 膨大な魔力から放たれる黄金雷光。その一条一条が、邪視光線と相打つ。そこら中で大爆発が起きる。偽りのコンサートホールが形を保てず、たちまち崩れゆく。

 視界が晴れる。ネオデーモンは動いていない。どころか、余裕さえ感じる佇まい。

 徐々に、顕現したバフォメットが主導権を握り始めたか。最初の生贄である仔ヤギの意識らしいものが消えている。

「柴崎流妖術・死人(しびと)(まね)き」

 ネオデーモンの胸元に、兜をつけた骸骨の顔が浮かび上がり、しわがれた老人の声で術の名を唱えた。大量の魔法陣が空中に出現し、たちまちその中から、鎧兜を着けた青白い腐乱死体の武者が出現する。地面がない事など意にも介さず、刀を振りかざし突撃してくる。

 同時に、ネオデーモンも姿を消す。四方から死体武者の大軍勢が迫っている。これだけの死者の召喚術。向こうも尽きる事のない呪力を持っている。

 が、攻撃手段に死者を用いるのは、迂闊だ。

黄金贈呈グルヴェイグ・ギョーフ

 贈りのルーンであるギョーフは、アルファベットのXに似た形をしている。死体武者の一体たりとも残さず、Xのような黄金の文字が、彼ら全員の顔面に刻まれる。

黄金茨庭(グルヴェイグ・ソーン)

 死体武者の軍勢に刻印された黄金贈呈のルーンから、黄金の茨が出現する。顔面を茨に食い破られたのも束の間、続いて体からも黄金の茨が飛び出す。

 麻來鴉というたった一人の敵に切り込む前に、死体武者の軍勢は崩壊した。

 巨体の動く気配。真下だ。

「柴崎流妖術――」

 兜を着けた骸骨が、カタカタと巨大な口を震わせる。同時に、ネオデーモンが術を行使する。

畜生子守歌(Vazy#zong♪)救済(負負負)無縁(DLXVI0x7)――」

「〝改〟」

 茨で壊滅させた死体武者軍団が、純粋な呪力の塊へと変じ、呪詛を奏でる楽団に変貌する。ネオデーモンの陰鬱な歌声は、蝕む呪力を纏い、黄金の魔力を侵食する。もはや暗黒のオペラだ。改の名を持つだけある。放っておけば、黄金の魔力で喰い尽くされる。

黄金潮流(グルヴェイグ・ラグ)

 (ラグ)のルーンは、その名の通り水の如く流れを変転させる力を持つ。黄金潮流のルーンによって呪いの歌の音波は変転し、陰鬱な暗黒のオペラは麻來鴉が操る槍のような鋭い剥き出しのヘヴィメタルに変調する。

「柴崎流妖術・魔道(まどう)献上(けんじょう)――」

 骸骨の口の中から、刀の柄が飛び出す。ネオデーモンの手がそれを引き抜いた。さながら巨人のために造り上げられたかのような長大な刀。刀身は呪力の赤で染まり金属の鈍い光を放っている。

(おに)宿(やど)(かま)(いたち)

 ヘヴィメタルは鳴り止まない。ネオデーモンの巨大な腕が、大鬼の如き妖刀を振るう。

 突風が吹く。妖刀の刀身が追えない。消えたのではない。巨大な妖刀が一振りされた瞬間、無数の刃が一斉に振るわれたのだ。ありとあらゆる角度から、麻來鴉の身に鬼宿る刃が迫る。

黄金勝利グルヴェイグ・テュール黄金駆動(グルヴェイグ・ラド)

 黄金の魔力をものともせず迫る刃からは身を守るだけでは駄目だ。黄金駆動のルーンで身体を音よりも速くし、黄金勝利のルーンで槍に一切の呪いを打ち破る力を与える。刃と刃。壮絶な打ち合いとなる。迫り来る呪いの太刀の間を潜り抜け、麻來鴉はネオデーモンに迫る。巨大な悪魔は、すでに次に一太刀の動作に入っている。

勝つ(テュール)勝つ(テュール)勝つ(テュール)勝つ(テュール)!」

 軍神の加護を再び。悪魔の巨大な刃目がけて、麻來鴉は槍を叩きつける。

黄金勝利グルヴェイグ・テュールの剣!」

 強大な呪力と黄金の魔力の正面衝突。無数の刃が砕け散り、鳴り響いていた音楽が消し飛ぶ。

 ネオデーモンが、僅かに怯んだのを麻來鴉は見逃さなかった。

黄金葬送(グルヴェイグ・イアー)!」

 墓のルーンたるイアーのルーン。黄金に染まったルーン・ストーンがその力を発揮する。通常であれば邪霊悪霊を地に返すルーンであるが、黄金の力を得た場合は、冥界への門を開き、この世にいるべきでない者たちを直に死者の国(ヘルヘイム)へと葬り去る。

 黄金に彩られた冥界の女王を称える呪文が展開する。門が開く。その先は一切の色が存在しない暗闇である。ネオデーモンの真下に開いた冥界への門は、呪いの集合体である巨大な悪魔を吸い込み始める。

 ネオデーモンがくぐもった悲鳴を上げる。門の端を掴み、死者の国へ引き摺り込まれまいと必死に足掻く。やはり、これだけでは無理だ。巨大な呪いの集合体であるネオデーモンを葬るには、冥界への門だけでは足止めにしかならない。

(La)――(&a)――(&a)!」

「いいや、これで終わりだ。魔力分身オド・アンドヴァラナウト黄金変化(グルヴェイグ・ダエグ)

 黄金の魔力を大量に展開し、麻來鴉は大鴉の槍を上方に放って、指を鳴らす。暗紫色の闇を覆い尽くすほどの、黄金色の輝きが生まれる。展開した魔力が瞬く間に変化を始める。一本の槍。黄金色の大鴉の槍に。無限とも思える数の黄金の槍が、四方八方、ありとあらゆる方向からネオデーモンを包囲する。

「積もり積もった暗黒の混成、人の身には祓い切れぬ巨大な呪いであろうと、宇宙(そら)を駆ける黄金の輝きの前には跡形も残らない」

 黄金の雷を纏う無数の槍が、悲鳴を上げてもがくネオデーモンにその穂先を向ける。

戦神(ガグンラーズ)の槍に散れ。無限神槍神界雷オーヴァーロード・ゲイルスケグル

 麻來鴉の、指が鳴る。

 まさしく神が鳴らす天変地異さながらの稲妻がネオデーモンに降り注ぐ。人類だけでは到底届かぬ次元の違うエネルギーの招来。それは神話の光景だった。地の底より生まれし悪魔を神の力で葬り去る。天地を賭けた戦いの終わり――

「麻來鴉!」

 この戦いの轟音の中にあって、その声は確かに魔女の耳に届き。

「待って――」

 声に振り返るより先に、麻來鴉はネオデーモンの変化に気付く。

 それは、幻か。冥界の門の上には、巨大な悪魔の姿はなく、ただ一人、小さな人影が見えた。

 まだ幼い、少女の姿。その目が、麻來鴉を見た――

「た す け て」

 ――今、術は止められない。

 続けざまに大爆音が響き渡る。次々とネオデーモンを討つ無限神槍神界雷の大爆発。永遠とも思える時間。

 麻來鴉の中から、神の気配が去る。

 黄金の魔力が解き放たれ、消えていく。力を失ったルーン・ストーンが次々と落下する。麻來鴉自身も例外ではない。麻來鴉には魔力が残っていない。神の力を借り受け、それでなおこの世に残留した代償だ。意識が遠のく。死。今度こそ間違いなく。

「麻來鴉!」

 誰かが、体を受け止める。白い炎のような魔力を感じる。

「火……保……」

 片腕で少年を抱えたまま、火保は麻來鴉を受け止めていた。

 爆発音は、もう聞こえない。

 冥界の門も、すでに閉じている。

「あいつ……は……」

 口がうまく動かない。目が、霞む。体が震えている。

 無限の神雷が爆発したあとで、朦々とした煙がようやく晴れていく。

 ――いた。

 身体の九割を損壊しながらも、ネオデーモンは、まだその存在を保っていた。もはや翼はなく、頭部は半壊し、片腕はなく、巨大な体は半分も残っていない。

 だが、まだ生きている。仕損じた。いや、神の雷は無慈悲で一切を破壊する。もし、何かあったとすれば。

 術を行使した人間の意識。無限の槍が到達する寸前に起きた、魔女の動揺。

「くそ……あいつ……」


 ――カチリ――


 音がした。

 何かが動く音。

 おそらくは、時計の針のような。


 ――カチリ――


 見えた。

 ネオデーモンの空洞と化した胸元。

 そこに、古めかしい時計盤がある。


 ――壊れた(Ruina)時間(Chronus)――


 時計盤の針が逆回転を始める。

 時間神クロノスの呪術。時間逆行。ネオデーモンの体がみるみるうちに再生していく。半壊した胴体に肉が生まれ、新たな腕が生え、翼が開き、頭部が復元する。胸元に、骸骨武士の頭部。下半身の代わりに生える白い巨人。巨人から生える、逆さまのエレベーターガール。

「そんな――」

 火保の声も虚しく。

畜生子守歌(Vazy#zong♪)流れ者(左様奈羅)鎖道楽(XII)

 歌が、聞こえる。呪われた歌の一節が。

 だが、二人の退魔屋と少年一人に、それに応ずる余力はなく。

 悪魔より伸びた一本の鎖が瞬く間に三人を拘束するや巻き戻り、麻來鴉たちを悪魔の内側へと引き摺り込んだ。



 人の運命は、一体誰が、何を以て決定するのか。

 生まれてから死を迎えるまでの時間の中に、数多くの選択肢が存在し、人は、それらを自分の意志で、あるいは()むに已まれぬ状況に流されて選んでいると認識している。

 だが、もしも、全ての運命が決まっているとしたら。

 数え切れぬ無数の選択肢でさえ、最初から選ばれるものが決まっているとしたら。

 不幸な者。不遇な者。報われぬ者。愛されぬ者。

 自らを、必死に足掻き、幸福に向かっていると信じていても。

 その実、愚か者は、初めから愚か者だと決まっているのではないか。


 固い物が、ぶつかり合う音がする。

 子どもがやるような、ビー玉遊びのような音だ。ルールも何もない、ただ一つのビー玉を、いくつもあるほかのビー玉にぶつけて散らばす、ただそれだけの遊び。

 ネオデーモンの内部に引き摺り込まれた火保は、そんな音に気が付いて目を覚ます。

 真っ白な空間だ。

 壁も何もない、どこまでも真っ白な空間に、火保と麻來鴉、そしてマサキはいた。

「ここは……」

 火保は辺りを見回す。傍らの、麻來鴉の肩がぴくりと動く。

「麻來鴉」

 魔女が、目を覚ます。生気が薄い。魔力もない。力が入らない様子で身を起こそうとするので、火保はすかさず支える。

「火保」

 力なく、麻來鴉は言った。

「ネオデーモンの中、か。こんなところに連れてきて、一体何をしようっていうんだか……」

 ビー玉がぶつかり合う音が聞こえる。

 音につられて、火保と麻來鴉は同時に前方を見た。

 もぞもぞと、小さな体が動く。マサキが目を覚ました。

 真っ白い空間の中で、その男は、虚ろな目をしながら、ビー玉を転がして別のビー玉にぶつけていた。男の両足には鎖が繋がれていて、その出所は遠く、どこから伸びているのかわからない。

「これが、オレのやってきた事だ」

 ビー玉が転がる。別のビー玉にぶつかる。勢いはなくならず、ビー玉は連鎖的に、そして無作為にほかのビー玉を散らばしていく。

「これから、無限が待っている。永遠の空白が待っている。これが終わりで、ここより先は何もない」

 男が、顔を上げる。

 無祝。

 祝福を失った男。

「よく来たな、お前たち」

 虚ろな目で、頬のこけた青黒い顔で、無祝は言った。

「ここが終着だ。壊れた時間にようこそ」


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