03 第一町人
ゴブリンの巣から出て二日半が過ぎた。
つまり今は三日目の夜中だ、僕は遭難していた。
この三日間で川も、沢も、町も見付けられなかった。
フードを目深にかぶり、真っ暗闇の針葉樹の森の中を、ただ只管にじっと朝を待つ。
「異世界生活の第一歩が、まさか遭難になるなんてなぁ……。無知って怖ぇなぁ」
大自然の中を知恵も知識もない現代人が彷徨うと、僕みたいに遭難します。
朝日が昇ると同時に、浅い眠りから覚めた。
ゴブリン赤ちゃんの排泄物で汚れた布を交換する。布の替えはまだあるが、心もとなくなってきてはいた。
水筒に残していた僅かな水を、赤ちゃんにゆっくり飲ませる。
食料は、皮肉にも米が一袋、手つかずで残っている。
火の起こし方を僕は知らなかったし、米を炊くための容器も持っていないからだ。
洞窟の泉から汲んできた水はとても綺麗で、そのまま飲んでもお腹を下すことが無かった事だけは、不幸中の幸いだった。
「腹減って死にそうなのに、米も炊けないなんて、日本人失格だよなぁ」
僕は無心で歩き続けた。
△△△
すっかり太陽が昇り、だいたい昼過ぎくらいになった。
行けども行けども何一つ変わらない景色が続き、心底気が滅入っていた。
水筒は空っぽ、食料は生米だけ。
僕が動き回れるのも、あと一日くらいが限界ではないか。
泣き出した赤ちゃんをあやしながら、つられて僕も泣いていると、遠くから音が聞こえた。
遠目に馬車が走っていた。
「おーい! おーい! 止まってくれぇー! げほっ」
呼び止めようとしたが、ぜんぜん声が張れない。
口も喉も乾いているから声が掠れている。
馬車は左から右へ、あっという間に走り去っていった。
「でも、馬車が走れる道があるってこと!」
さっきの馬車が通っていった林道に辿り着き、轍を見つけた。
馬車の向かっていった方向へ道に沿って走る。
人の往来がある道を進んでいるだけなのに、森の中を闇雲に彷徨っている時と雲泥の差がある安心感だ。
一時間ほど歩いたところで、開拓された平地に出られた。
道の先には町がある。
民家が建ち並び、町の中央には教会のような建物が建っていて、町の外からでも目立っていた。
町の傍には大きな川が流れているな、水車小屋もあった。
木の枝で作られた簡単な柵で、この町は覆われていた。
田舎町のようだけど、市場はあるはず。
期待に胸が膨らんだ。
ご飯が食べたい!
水もいっぱい飲みたい!
綺麗なベッドで眠りたい!
ゴブリン赤ちゃんも、生まれてから水しか口にしてない。
人間の赤ちゃんだったら、とっくに死んでるのではないか?
母乳は……流石に手に入らないだろうけど、牛乳とか山羊の乳とかはあるんじゃないか。
門番はいないのかな?
手続き無しで簡単に町へ入ることが出来た。
何はともあれ、まずは食事がしたい。
民家の前を何軒か通り過ぎると、道の向かいから一人の女性が歩いてきていた。
腕から下げている籠から、細長いパンが飛び出している。バケットっていうパンかな。
市場の場所を教えてもらおうと考え、小走りで近づいていく。
女性は、年の頃は二十くらいの、おっぱいの大きい赤毛の綺麗なお姉さんだ。
少し面長で、とても秀麗な優しい顔をしている。
◇◇◇
「こんにちは!」
「あら、こんにちは。見ない顔だね、何処から来たの?」
「いやあの、お恥ずかしい話なんですが、森の中で遭難してしまって。何処から来たのか判らないんですよ」
女性は笑いながら、変わったことを言うのね、と言った。
「遭難するなんて珍しい話だね。可哀相に、親御さんとはぐれてしまったの?」
「えっと……ええ、そうなんです。もうかれこれ三日は飲まず食わずで、僕も赤ちゃんも正直限界なんです」
「三日も⁉ それは大変だわ。この町はベルストックと言うのだけれど、ご両親の行先は、ここ? それとも違うところ?」
「いや、たぶん違う場所だと、思います」
やたら親身に話を聞いてくれるお姉さんに嘘をつくのは、心が痛いよ。
「それは大変だわ! すぐにご両親へ手紙を……いえ、その前に保護してもらわないとね」
「あの、お腹が空いてて、何か食べるものを買いたいのですが、市場か飯屋さんの場所を教えていただけませんか」
話が逸れてしまったので強引に軌道修正した。
まずは飯だよ、腹減った。
「あ、そうだよね。三日も食べてないんじゃ、君もその赤ちゃんも死んでしまうわ。この道を真っ直ぐ行くと教会があるの、教会を囲んで出店が並んでいるから、まずはそこへ行くといいよ」
「教会の周りですね。ありがとうございます! ほんと、助かりました」
「いえいえ。私はいったん帰るけど、すぐにまた様子を見に行くから、出店の近くで待っていなさい」
優しすぎん? 悪い男に騙されやすそうなお姉さんだ。
「大丈夫ですよ、ありがとうございます」
「子供だけでは危険だよ! ちゃんと大人に頼りなさい!」
「あっはい、すみません」
「判ればいいのよ。ところでボクちゃん、お名前はなんて? 私はネメシス」
「ネメシス⁉」
「う、そ」
「なーんだよー!」
「私はアイリス・リズボン。ボクちゃんは?」
ボクちゃん……、ボクちゃんかぁ……。
「僕は士野タカキと言います」
「シノ君ね。その子はなんていうの?」
言いながら、アイリスさんは赤ちゃんを包んでいる布を手で払い、顔を見る。
あ、まずい。
ゴブリン赤ちゃんの顔を見た途端、血相変え飛び跳ねるように後ずさり、アイリスさんは叫んだ。
「きゃああぁあああぁぁー! モンスタァー! モォンスタァーが町の中にいるわー!」
「ちょっと、アイリスさん⁉ まって!」
「誰かぁぁー! 男の人はいないのー⁉ たすけてー!!」
アイリスは所持していた籠を放り投げ、教会の方へと脱兎の如く走り去っていった。
「嘘でしょ…………?」
少し離れたところで騒ぎになっているのが聞こえてくる。
逃げなければ、捕まってしまうのか?
ゴブリンの巣で、群れに掴まれた事を思い出した。
大勢の人間に囲まれて、赤子を取り上げられ、ゴブリンだと知れ渡ったらどうなる。
大人に取り押さえられたらどうなる⁉
僕は抵抗すら出来ないのではないか。
今のところ、この赤子がコサギだと言う保証もなければ、証明も出来ない。
殺されてしまえば何もかも判らず仕舞いで、僕はこの世界で独り、生きていかなければならなくなる。
「くっそ、くそくそくそくそっ! 逃げるしかねぇ!!」
投げ捨てられた籠を拾う。
中には食料と布オムツが数枚入っていた。
選別している暇はなく、半分をリュックに移した。
籠はアイリスさんが判るように、道の真ん中に置いた。
「せっかく町に入れたのに、盗みまで働いて……この先どうしたらいいんだ」
リュックを背負い直し、立ち上がる。
教会の方から、農具を携えた人々が集まってきていた。
「居たぞ! あそこに居るガキだ!」「こらぁ! ガキィ! 待ちやがれぇ!!」
住人たちの怒声を背に、僕は再び森の中へ消えていくことになった。
「こんなのって、無いじゃーーーん!!」