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伊藤とサトウ  作者: 海野 次朗
第二章・尊王攘夷
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第7話 江戸城騒然。慶喜、容堂登場

 サトウが江戸を初訪問していた頃、伊藤俊輔(しゅんすけ)は京都にいた。

 俊輔の恩師であったくるはら良蔵りょうぞうの遺書と遺髪をはぎの遺族へ届けて、そのあと久しぶりに実家の両親のところへ帰った。そしてしばらく地元に滞在してから京都へ入って、ここで藩の仕事をしていたのだった。


 その頃ちょうど俊輔の上司である桂小五郎が江戸から京都へやって来た。

「萩の来原家のことは手紙で読んだ。いろいろと苦労をかけたな、俊輔。いや本当にすまなかった。ところで最近の京の様子はどうだ?」

相変あいかわらず“天誅てんちゅう”と称する暗殺事件が頻発ひんぱつしています。ただ、そのおかげで我が長州の勢いは日に日に増大しております」


 実際この頃までに島田左近(さこん)、本間精一郎(せいいちろう)宇郷うごう玄蕃げんばなど佐幕さばく派ともくされていた人物が何人も暗殺され、江州ごうしゅう石部いしべの宿では幕府の与力よりき四人が襲撃されて殺されている。そしてこれ以降も多田ただ帯刀たてわき池内いけうち大学だいがく賀川かがわはじめなどが次々と暗殺されていくことになる。


「京へやって来る途中、東海道で三条、姉小路あねがこうじお二人の勅使にお目にかかったが、どうやら将軍上洛の件は上手うまくいきそうだ。あとはみかどの前で将軍に攘夷を誓わせれば我々の目的は達成されたも同然だ」

「今回の桂さんの上洛じょうらく目的は対馬つしま藩の内紛を仲裁するためとうかがいましたが……」

「うむ、まあそうだ……。それはそうと俊輔、三本木さんぼんぎの件はどうなった?」

「三本木の件?」

「ほら、よし田屋だやのことだよ、吉田屋の……」

(ああ、いくまつさんのことか)「まだ交渉中です」

「そうか、まだ交渉中か……」

 桂の表情は急にくもりかげんになった。

 それを見て取った俊輔は内心「ヤレヤレ」といった心持ちになった。

(まったく、この人の女好きには困ったものだ)

 桂は以前から三本木にある吉田屋の芸者・いくまつに熱を入れており、自分が京都をあけている間に落籍らくせきしておいてくれるよう俊輔に頼んでいたのである。

(まあ、女好きという点ではワシも他人ひとの事は言えんが……)

 俊輔は江戸の品川で友人の志道しじぶん(後の井上(かおる))と遊郭で遊び回っていたが、この京都の祇園ぎおんでも俊輔と聞多は芸者たちとよく遊んでいた。

 すでに俊輔にはまさ千代ちよという馴染なじみの芸者がおり、聞多にはきみという馴染みがいた。また久坂には島原におたつという愛人がおり、長州の男たちは京都の三本木、祇園、島原で金を湯水ゆみずのように使っていた。


「いや、私は自分自身の不平不満を言うわけではない。女のことなど後回しにするのが当然だ。しかし俊輔、最近お前は天誅騒ぎの暗殺仕事に興味を持っていると聞いたぞ。私はお前に暗殺の仕事などさせたくないのだ。お前にはそんな仕事は似合わない。お前は夜の席で女たちとバカ話でもしてだな……」

「わかりました、わかりました、桂さん。近いうちに幾松さんのことは私がケリをつけますから」

 これ以上、桂の説教を聞きたくなかった俊輔は、みずからお願いするように幾松の身請みうけ仕事を引き受けた。


 あくる日、俊輔は三本木の吉田屋へ行った。

 三本木は現在の京阪けいはん電鉄・神宮じんぐう丸太まるたまち駅の近くにあった花街はなまちで、ちょうど鴨川かもがわ(はさ)んだ反対側のあたりにあったが現在はその名残なごりをほとんどとどめていない。そこにはかつて(幕末の政治運動史には欠かせない)らい山陽さんようも住んでおり「山紫水明処さんしすいめいしょ」という史跡しせきが現在も残っている。吉田屋はそのやや北側にあったが現在「吉田屋(あと)」という史跡案内の立て札がそこには立っている。

 俊輔は以前もこの吉田屋に来て、ここの女将おかみに幾松の身請みうけ話を申し出ていた。しかし桂がれたこの幾松は評判の美人でおどりの名手めいしゅでもあり、桂の他にも山科やましなの豪商が彼女の身請けを申し出ていた。要するに落札らくさつの競合者がいたわけである。

「金はいくらでも出す。なんとか我があるじのもとへ彼女を寄こしてはくれぬか?」

「へえ。せやけど、あちらさんも金はいくらでも出すと言うてはりますわ」

 女将はそう言って俊輔に耳打ちし、豪商が提示してきた金額を伝えた。

(いくら藩からの機密費きみつひを使えるといっても、さすがにそれだけの額は出せん……)

「我が長州に恩を売っておく良い機会ではないか。我が藩がこの三本木でどれだけの金を使っているかお主が知らぬわけはなかろう?もうちょっと金額をり合ってはくれまいか?」

 そう言って俊輔は何度も女将に頭を下げて懇願こんがんしたが、それでも彼女は「あちらの豪商も大切なお得意様ですから……」などと言って首をたてに振ろうとはしなかった。


 俊輔はとうとう開き直った。

「そうか、わかった。お主がそこまでかたくなに我が主の申し出を断るというなら、ワシにも考えがある」

 俊輔は刀のつかに手をかけて、恐ろしい目で彼女をにらんで言い放った。

「ワシには今、天誅で世間を騒がせている志士の知り合いがいる。お主、今後夜道(よみち)は歩かぬことだな」


 なにしろ「あの長州藩」の一員である俊輔の口から“天誅”の言葉を聞かされたのだから、女将としてはたまったものではない。この一言ひとことで完全にふるえあがってしまって、すべて俊輔の言う通りに従わざるを得なくなった。

(やれやれ。女一人を相手にワシはこんなところで何をやっているのだ……。とにかくこれで桂さんの仕事は片づいた。あとは江戸で皆の仕事を手伝って、士分しぶんに昇格するための手柄てがらを立てねばならぬ……。桂さんはワシに人殺しは似合わぬと言うが、好き嫌いを言える身分ではない。また、そういう時代でもないのだ)


 その後しばらくして桂と俊輔は京都から江戸へ向かった。

 三条、姉小路の勅使ちょくし下向げこうを画策した長州と土佐が江戸で仲間割れをして、勅使もまだ将軍家茂(いえもち)に面会できないでいる、という理由で二人は江戸へ呼ばれたのだ。二人が江戸に到着するのはしばらく先のことで、十一月二十三日のことになる。



 三条、姉小路あねがこうじの両勅使は十月二十八日、江戸城の近くにあるたつくち伝奏てんそう屋敷(朝廷からの使者が宿泊する屋敷)へ入った。ところがその頃将軍家茂は麻疹はしかにかかっていたため、勅使と将軍との対面はしばらくべとなった。

 およそ半年前の大原勅使の下向を薩摩の久光が護衛したように、今回、勅使下向の護衛役は土佐藩主・山内豊範(とよのり)がつとめた。この山内豊範は一ヶ月後、長州藩主・毛利慶親(よしちか)の娘(養女ようじょ喜久きく姫)と結婚することになっており、今回勅使下向で協力した長州・土佐の両藩はさらに関係を深めていくはずだった。


 勅使の江戸到着からしばらく経った十一月五日、この二つの藩をめぐって一つの事件が発生した。

 この日、長州藩の世子せいし毛利定広(さだひろ)懇親こんしんのために豊範の養父ようふ容堂ようどう桜田さくらだの藩邸に招いた。


 ただし長州藩士の多くは容堂に強い疑念をいだいており、酒席に招いたこの客に対して面白くない気持ちでいっぱいだった。

「将軍は麻疹はしかなどといっているが仮病けびょうを使って勅使から逃げているのではないか?そのうえ容堂公も、その将軍をかばっているのではないか?」

 なにしろ長州藩と土佐藩とでは、その成り立ち自体が大きく違っているのだから、長州藩士たちがこういった疑念を容堂に対して抱いたとしても、ゆえしとしない。

 土佐の山内家は関ヶ原の功績こうせきにより家康から格別の恩恵おんけいを受けた藩である。それゆえ幕府への忠誠心は強い。

 かたや毛利家はそれとは真逆まぎゃくで、関ヶ原で敗戦した西軍にくみした結果大幅に領地を削減さくげんされ、この時に至っている

 実際この時、幕府内は混乱のきわみにあり、容堂はしょっちゅう江戸城の一橋ひとつばし慶喜よしのぶ松平まつだいらしゅんがくに会って助言を与えており、長州藩士たちが疑っていた通り、容堂が幕政を助けていたのは事実である。


 幕政が混乱していた理由は、まさにこの「勅使に対してどのような回答をするか?」というところにあった。

 勅使の目的は「将軍に奉勅攘夷ほうちょくじょういを誓わせて、破約攘夷はやくじょういを実行させる」ということであった。奉勅攘夷とは「みかど(孝明天皇)からの勅命ちょくめいの通り、攘夷をし進める」ということで、破約攘夷とは「諸外国と結んだ通商条約を一旦破棄(はき)して締結ていけつ交渉をやり直す」ということである。しかし諸外国と結んだ通商条約を日本側から一方的に破棄した場合、おそらく諸外国と戦争になる可能性が高いであろう。

 この「勅使に対してどのような回答をするか?」について、江戸城内で飛びっていた意見はおおむね次の通りである。


 まず、開明派と見られていた政事せいじ総裁そうさい職の松平春嶽が

井伊いい大老たいろうが結んだ条約は内容に不備があり、しかも無勅許むちょっきょだったのだから一旦破棄して、再度各国と交渉をやり直すべきである」

 と勅使の命令に従うよう勧告かんこくした。

 これに対し幕府開明派の筆頭として名高い小栗忠順(ただまさ)上野介こうずけのすけ)は次のように反論した。

「外交は幕府の専権せんけん事項じこうなのだから朝廷や諸大名の干渉を恐れず、堂々と幕府の開国政策を遂行すいこうすべきである」

 しかしながら尊王そんのうこころざしが強い、まだ京都に赴任ふにんする前だった京都守護職の会津藩主・松平容保(かたもり)がこれに反論した。

「奉勅攘夷をこばめば尊王の大義が失われ、攘夷を実行せねば幕府の権威は失墜しっついするでしょう」

 こうして江戸城では「開国か、攘夷か」の議論が続けられたものの、大勢は奉勅攘夷を甘受かんじゅする方向に傾きつつあった。


 ところがここで将軍後見職の一橋慶喜が公明正大に「攘夷の不可」をいた。

「我が国のみが鎖国を続けるのは不可能である。井伊大老が結んだ条約は不正と言えば不正だが、外国人から見れば政府と政府が結んだ正式な条約である。もし我が方の一方的な条約破棄を理由に諸外国と戦争をして、仮に勝っても名誉にはならない。もし負ければ最悪の事態となる。私がこのように考えるのは幕府のためではない。日本全体のためである」

 この慶喜の発言で開明派の意見が盛り返したかに見えたが、結局こういった正論は「世間に公表する事すらはばかられる」というご時世じせいだった。


 そして事を穏便おんびんに収めるために容堂が慶喜を説得した。

「今は表向おもてむき奉勅攘夷を受けいれて、無謀むぼうな攘夷だけは避ければよろしい」

 さらにこのあと「和宮かずのみや(孝明天皇の妹)様を将軍正室(せいしつ)として迎えた時に十年以内の攘夷実行を朝廷と約束済みです」といった幕府内の機密事項も知らされ、慶喜も渋々(しぶしぶ)奉勅攘夷を了承した。以後、慶喜は何度も辞職を申し出たが、それも結局容堂がなだめて決着させたのだった。



 話を桜田藩邸での酒席の場面に戻す。

 以上のような経緯の中身を長州藩士たちがくわしく知るはずもなかったが、とにかく彼らは幕府を助けているであろう容堂の姿勢が気に食わなかった。

 そしてこの日、酒の勢いもあって思わず長州藩士たちの本音ほんねれてしまった。

 長州側の席の一部から容堂に対して

えば勤皇きんのうめれば佐幕さばく、一体本心はどちらでありますか!?」

 と叫び声があがったのである。

 すかさず土佐側の席から「今、何と申した!?」と家臣たちがいきりだって長州側につめよろうとしたところ、容堂が「待てっ」と声をかけて家臣たちを止めた。

 容堂は家臣に紙と筆を持って来させて

「今、良い物を書いてやる」

 と嬉しそうな表情かおをしつつ一枚の絵を書いて長州藩士たちに見せた。

「これはお主たちのことよ」

 それは瓢箪ひょうたんの上下のふくらみがさかさまになっている絵であった。

 下級武士たちが藩の上層部を動かしている長州を皮肉ひにくったのだ。

 容堂が大酒飲みであることは、自分のことを「鯨海酔侯げいかいすいこう」と称していたことも含めて歴史上、有名な話であろう。この程度のことで酒席を壊すほど無粋ぶすいではない。


 だがしかし、長州藩にも一人、酒飲みで有名な重役がいた。

 この男は酔っ払って相手にからむことで有名な男だった。

 周布すふ政之助まさのすけである。

 この男は数ヶ月前、薩摩藩との酒席の場で薩摩藩士から暴言ぼうげんをうけた際に、いきなり剣舞けんぶをやり始めて酔っ払ったフリをしてその薩摩藩士を斬ろうとした男なのだ。

 酒席は一時いちじ騒然となったがその場にいた薩摩の大久保一蔵(いちぞう)(後の利通)がとっさに畳回たたみまわしの芸をやったおかげで一同はあっけに取られ、ようやくその場をとりおさめることができたのだった。


 そしてその周布すふは、このとき容堂の前でも酔っ払ってことを起こしたのである。

 周布は近くにいた久坂玄瑞に耳打ちした。すると久坂がすっくと立ち上がり容堂に向かって言った。

そつながら酒と詩をこよなく愛される鯨海酔侯に、座興ざきょうとして拙者せっしゃが詩を一編いっぺんぎんたてまつらん」

 久坂は手に持っていた扇子せんすを開いて、得意の美声で詩を吟じはじめた。

「われ方外ほうがいて、なお切歯せっしす、廟堂びょうどうしょろう、何ぞ遅疑ちぎするや」

 これは吉田松陰にも大きな影響を与えた僧月性(げっしょう)の詩で、幕府の弱腰よわごし外交をなげいている詩である。

 そこですかさず周布も立ち上がり容堂を指差ゆびさして叫んだ。

「鯨海酔侯もまた廟堂のいち老公ろうこう!」


 これにはさすがに容堂も顔色を変えて不快な色をあらわにした。

 もちろん土佐藩士たちは全員立ち上がり「無礼者!」と叫んで長州側につめよろうとした。が、容堂と定広が同席している手前、また豊範と喜久姫の結婚が間近に迫っていること、さらには勅使下向での協力関係もあるため、この日は一応両者このまま引き下がって事なきを得たのであった。

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