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伊藤とサトウ  作者: 海野 次朗
第二章・尊王攘夷
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第6話 サトウ日本語を学ぶ

 生麦事件による日英関係悪化をよそに、サトウは日本語の勉強のために週二回、横浜から神奈川宿にかよっていた。神奈川宿にはヘボンと一緒に日本語を研究しているアメリカ人宣教師(せんきょうし)ブラウンが住んでおり、サトウはそこで日本語の初歩を学んでいた

 ヘボンという人物については生麦事件の場面で少しだけ触れた。

 現在「ヘボン式ローマ字のヘボン」として有名な彼は、日本語研究家であり、さらに本職は医師(宣教医師)であった。日本語研究ではサトウの大先輩にあたり、日本初の本格的な和英わえい辞典じてんを出版するのはこの五年後のことである。


 サトウは日本に来て、すぐに馬を買った。そしてその馬に乗ってしょっちゅう横浜周辺を散策さんさくしていた。

「横浜の山手やまての丘から神奈川の町を見下みおろす風景は、まさにイギリスそのものだ」

 サトウはこのように日記に書いている。

 多くのイギリス人がそうであるように、サトウもまた木々の緑や自然の風景を好んでいた。それゆえ彼は日本の自然に魅了みりょうされ、後年、日本各地の山々を歩き回ることになるのである。


 ある日、サトウは馬で神奈川宿へ向かっている時に街道で一人のさむらいと遭遇した。

 その侍はサトウの近くまで来た時に、不意にそのあゆみを止めた。そしてサトウの方向に向き直って身構えるそぶりを見せ、一歩、踏み出してきた。

 サトウはおもわずギョッとした。

 そしてすかさずふところの中に手を入れて拳銃ピストルを取り出そうとした。

(しまった!拳銃を忘れてきた!)

 やむをえずサトウは、こわばった表情で手を懐に入れたまま

(ボクは拳銃を持っているぞ!刀で斬りつけてきたら、お前を撃ってやるぞ!)

 と精一杯強がった表情をして侍をにらみ続けていた。

 するとその侍は口元に「ニヤッ」と笑みを浮かべただけで元の歩みに戻り、そのまますれ違っていった。

 サトウは馬を走らせてすぐにその場から離れた。そして安全なところまで来てから、生麦の二の舞にならずに済んだことを神に感謝した。

 後年サトウは次のように手記で語っている。

「その侍はおそらく外国人をおどかしたことに満足したとみえて、そのまま通り過ぎていった。私の記憶では街道で行き会った侍が私に危害きがいを加えようとしたのは、この時だけだった」


 この後サトウは神奈川宿の成仏寺じょうぶつじに着いた。

 当時この寺の庫裏くり(僧侶たちの居住区)にはサトウの先生であるブラウンが住み、本堂にはヘボンが住んでいた。

 ブラウンは、この日本語の勉強に熱心な生徒に新しいテキストを用意して待っていた。

「やあ、サトウ君。また『会話体日本語』の新しいテキストが出来上がったよ」

 ブラウンはヘボンの長年の友人でヘボンと同様、アメリカから来た宣教師である。彼はこの成仏寺でヘボンとともに日本語の研究をしながら時々サトウたちに日本語の基礎を教えていた。そして本堂のほうではヘボンが日本人に英語を教えていた。


 サトウがこの日の授業を終えて建物の外へ出た時、彼は異様に頭の大きな侍を見かけた。

 サトウはその男の珍妙(ちんみょう)な頭をまじまじと見つめた。

(我々からすれば元々日本人のチョンマゲ頭は異様なんだが、この男はとりわけ……)

 頭の大きな侍のほうもサトウに気がついて振り向いた。しかしこの男は何もしゃべらない。

 ()がもたなかったのでサトウのほうから英語で

「英語の勉強をしにきたのですか?」

 と、たずねてみた。すると、この男は日本語で

「そうです」

 と答えた。しかし、それ以上何もこたえなかったのでサトウはとっさに少し間の抜けた質問を英語で投げかけてしまった。

「今日はいい天気ですね」

 すると、やはりこの男は日本語で

「日本ではこれが当たり前です」

 と答えて、そのまま歩いて行ってしまった。

 サトウはその頭の大きな男の後ろ姿をぼうぜんと見送った。

(まったく変な生物に出会ってしまったような気分だぜ……)


 この頭の大きな変人は、数年後幕長(ばくちょう)戦争(第二次長州征伐(せいばつ))で長州軍の指揮をとって幕府軍を撃破し、上野うえの戦争で新政府軍の指揮をとってしょう義隊ぎたい粉砕ふんさいする長州藩士・村田むらた蔵六ぞうろくのち大村おおむらます次郎じろうである。彼はヘボンに英語を習うためにこの寺へかよっているのであった。


 ブラウンから日本語の初歩を習ったサトウは、横浜で日本人の日本語教師も雇った。紀州(和歌山)藩の医師で高岡たかおかかなめという男である。

 サトウは外国人にとって特に難題である日本語の読解どっかいを高岡から習った。サトウは清国(中国)で多少漢字の勉強をしていたので、それが少しは役に立ったようだ。

 またサトウは高岡から日本の事情もいろいろと教えてもらった。特に政治動向の話はサトウの貴重な情報源となった。

「それで高岡さん、幕府は薩摩を罰することができるのですか?」

「それは無理です。多分、犯人を引き出させることすら難しいでしょう」

「なぜですか?幕府の力はそんなに弱いのですか?」

「はい。それが分かっているから薩摩は幕府の命令を無視して勝手に保土ヶ谷(ほどがや)から出発していったのです。幕府には、幕府を苦しめるために薩摩はわざと事件を起こしたのだ、と怒っている者もいます」


 実際、薩摩は幕府をナメていた。

 イギリス人を斬ったのは「足軽あしがる岡野おかの新助しんすけ」であると架空の人物をでっち上げて、しかも「逃亡中」として幕府に報告していた。その上「大名行列に無礼をはたらいた者を斬り捨てるのは古来よりの風習である」と言って一歩もゆずらない。

 それに対して幕府が

「イギリスが犯人および責任者の処罰を強く求めている。イギリス艦隊が鹿児島へ向かうことになっても良いのか?」

 と強く迫ると、薩摩側は

いて人を差し出せというのなら薩摩藩士全員を差し出しましょう。艦隊が鹿児島へ来るのなら、せいぜい皇国こうこく威光いこうけがさぬよう穏やかに応接おうせついたしましょう」

 といった具合で、幕府からの命令をまったく意にかいさない様子だった。

 

 一方イギリスのニール代理公使も幕府の対応にあきれていた。

 ニールが幕閣ばっかく(幕府の閣僚かくりょう)に対して

「幕府は薩摩に犯人の引き渡しを強制する権限を持ってないのか?薩摩が犯人を引き渡さなかった場合、幕府はどうするのか?」

 と回答を求めても幕閣はのらりくらりとした返事をよこすばかりで、この事件をまともに対処する意志がニールには見えてこない。しかも三ヶ月前の第二次東禅寺(とうぜんじ)事件の賠償問題すらまだ解決していないのである。

「なぜ幕府は“外国人排除(はいじょ)攘夷じょうい)”を禁ずる布告ふこくを出さないのか?」

 とニールは聞いてみた。すると幕閣は

「残念ながらそのような布告を出せば、彼ら(攘夷派)は一層それと反対のことをやるに違いないのだ」

 と抗弁した。


 まったくニールにとっては幕府の真意がどこにあるのかさっぱりわからない。これで一国のまともな政府(ガバメント)と言えるのか?

 とにかくニールは生麦事件の対処については本国政府の回答待ちなので(当時は日本とヨーロッパとの往復には四ヶ月近くかかった)それが届き次第あらためて交渉する、として一旦いったん交渉を打ち切った。

 生麦事件の幕府とイギリスの交渉は概ねこういった経緯をたどって、現在は保留中の状態である。


 サトウは高岡にイギリス政府の回答時期を説明した。

「おそらく本国の指令がここに届くのは来年の2月、日本のこよみだと一月頃でしょう」

 日本人がイギリス人を斬り殺してしまったことを申し訳なく思っている高岡は、すまなそうな表情でサトウに答えた。

「まったく貴国きこくには迷惑をかけてばかりで……。我が日本は“島国”なので外国との交渉こうしょうごとには不慣ふなれなのです」

 それを聞いたサトウはニヤリと微笑ほほえみながら

「高岡さん、我々イギリスも“島国”ですよ」

 と言った。

 高岡は、苦笑にがわらいせざるを得ない。

(島国は島国でも、世界中に植民地を持っている島国だけどね。イギリスの場合は……)




 文久ぶんきゅう二年十月十一日、サトウは初めて江戸を訪れることになった。

 江戸で幕府と交渉するニールの随行ずいこう員として加えられたのである。当然ながら、この時はまだ生麦事件についての本国政府からの指令は届いておらず、これは第二次東禅寺(とうぜんじ)事件の賠償交渉である。

 もちろんサトウは喜び勇んで江戸へ向かった。

 サトウがイギリスから夢見ていた日本の風景は横浜ではなくて江戸なのである。横浜はなかば西洋化されており日本の風景とは言いがたい。やはり日本に来たからには首都の江戸へ行きたいと思うのが人情であろう。ただしこの当時江戸はまだ一般の外国人には開放されておらず、江戸へ入れるのは諸外国の外交代表および許可証を持っている者だけだった。サトウは外交代表(外交官)の一人ではあったが、これまで仕事で江戸へ行く機会がなかったのだ。


 もともと江戸にもイギリスの公使館はあった。

 まさに東禅寺とうぜんじがそうだった。しかしここは二度の襲撃事件をうけて一旦閉鎖中で、現在は横浜に公使館を移している状態である。

 イギリス公使館員の一行は江戸へ向かう途中、東海道の“うめ屋敷やしき”で休憩をとった。現在の地名で言えば東京の蒲田かまたのあたりで、現在もその近くにけいきゅう電鉄の梅屋敷駅がある。

 サトウの後年の記述を借りると、当時の梅屋敷を訪れたサトウの感想は次の通りである。

「梅屋敷という有名な遊園地に着き、美しい乙女たちの給仕きゅうじをうけた。この黒い柵をめぐらした構内に入るのがどれほど嬉しく、驚異的な喜びを感じるか、実際にた人でなければ理解できないだろう」

 現在この梅屋敷はその名残なごりをほとんどとどめていない。その当時の様子は歌川うたがわ広重ひろしげ錦絵にしきえ蒲田かまた梅園ばいえん」などで現在、多少うかがい知ることはできる。

 一行はこの日、高輪たかなわの東禅寺に入った。ただしイギリスはこの東禅寺を再び公使館として再開するつもりはなく、今回は応急措置(そち)として使用するだけで、数日間の出張が終わり次第また横浜へ戻ることになる。実は今回の江戸訪問の仕事には「新しい公使館の視察」という目的も含まれていた。


 翌日、サトウたちは御殿山ごてんやまに建設中の新しい公使館の見学に訪れた。

 御殿山は現在の京急電鉄・北品川きたしながわ駅の西側近辺にある高台のことで(ちなみに東側近辺には遊郭ゆうかくとして有名な相模屋さがみや土蔵どぞう相模さがみがあった)当時の江戸の庶民たちにとっては桜の名所として有名な行楽地こうらくちだった。

 参考までにこのあたりの地理を少し解説すると、東禅寺のすぐ近くに高輪の薩摩藩邸があり、東禅寺のやや北のほうに赤穂浪士あこうろうしで有名なせん岳寺がくじがあり、東禅寺のやや南のほうにこの御殿山があって、更にそこからすぐ近くの品川は土蔵どぞう相模さがみなどの遊郭もある宿場町だった。

 この御殿山には四ヶ国(英仏蘭米)の公使館がそれぞれ建設されていた。これまで各地に分散していた各国公使館を一か所にまとめて警備しやすくしようとしたのだ。

 ただしこの御殿山は東海道と江戸湾の要衝ようしょうをおさえる、軍事的にも重要な場所であった。しかも御殿山を外国人に使わせることには朝廷(天皇)も反対しており、さらに桜の名所である御殿山を取り上げられる形となった民衆からの反感も強かった。

 この時イギリスの公使館はほとんど完成しつつあった。

 二階建ての建物が二(とう)あり、それが一階部分でつながって、品川の海からは宮殿が二つ建っているように見えるほどこうだいな公使館で、しかも全体が西洋風に美しく装飾されていた。もちろん公使館員や護衛隊員が住む居住スペースもある。サトウたちはこの日の見学でその出来栄できばえに十分満足した。


 ちなみにサトウたちがこの御殿山を見学したのと同じ日に、京都では勅使ちょくしが江戸へ向けて出発していた。正使三条(さんじょう)実美さねとみと副使姉小路(あねがこうじ)公知きんともの二名である。

 およそ半年前には薩摩の久光が勅使の大原おおはら重徳しげとみと江戸へ下向げこうしたが、今回は長州と土佐が画策かくさくした勅使下向である。この勅使の江戸到着は半月後のことになる。

 この日の翌日、サトウは日英交渉の席に初めて列席れっせきした。ただし彼はまだ正式な通訳官ではないので、末席から会議の様子をながめていただけである。


 むしろ彼にとって今回の江戸初訪問で一番重要だったのは、これ以降の日程のほうだったであろう。

 サトウは仲間たちとともに連日、江戸の各地の名所を馬で回って観光を楽しんだ。例をあげると王子おうじの茶屋、つのはず十二社じゅうにそうの池、洗足せんぞくいけ、目黒不動、浅草、神田かんだ明神みょうじんなどである。

 サトウが観光して回った感想は

「こうした観光地では茶屋の美しいムスメたちがその魅力のほとんどを占めていた」

 ということのようで、さらに江戸を一望いちぼうできる愛宕あたご山にのぼった際にも、美しい乙女たちからさくらを給仕してもらって喜んでいた。

 ともかくも、サトウはロンドンで夢見ていた「美しい黒髪の日本女性たちに会ってみたい!」という願望を今回の江戸初訪問でそれなりに達成し、満足した気分で再び横浜へ帰っていった。


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