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伊藤とサトウ  作者: 海野 次朗
第一章・生麦騒動
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第5話 俊輔と来原(後編)

 ここから時代の流れの大きな揺り戻しが本格化する。

 そしてそれを主導することになるのは長州なのである。

 その手始めに、久坂たち六人は長井を斬り殺そうとして伏見へやって来た。この暗殺団一行(いっこう)には俊輔も加わっていた。

 文久二年(1862年)七月一日のことで、生麦事件の二ヶ月ほど前のことである。長井はすでに藩から帰国謹慎(きんしん)めいをうけて江戸から萩へ向かっていた。そしてその途中、この伏見に立ち寄るはずだった。


 俊輔には武道の心得こころえはまったくない。まさか自分が人を斬り殺すことになろうとはこの直前まで考えもしなかっただろう。

 しかし来原から武士のなんたるかを叩き込まれて、自分もその武士になることを切望している俊輔としては「いざとなれば人を殺すし、いざとなれば切腹しなければならない」という自覚はあった。

 なにより足軽である俊輔が正式な武士となるためには、とにかく手柄てがらが必要なのである。そして長井は師・松陰がかんぶつしていた相手であり、久坂などの仲間たちも「奸物長井を斬るべし」と言っているのだから反対する理由はまったくない。六人がかりであれば反撃されても自分が斬り死にすることはないだろう。俊輔はそう考えた。


 この長井雅楽(うた)暗殺計画を主導したのは久坂玄瑞(げんずい)である。以後、久坂は尊王攘夷の名のもとに数々の暗殺に手を染めていくことになるのだが、実は俊輔もその頃には「実行犯」の一人として活動することになる。今回の長井暗殺はその第一歩である。ただしこの時の俊輔は、将来自分がじかに人を暗殺することになるとは、まだ思っていなかった。


 なにより、この松陰門下生たちは「尊王攘夷が正義である」ということをかけらも疑っていない。

 松陰の教えがそこまで過激なものであったかどうかはともかくとして「安政の大獄」による大弾圧の反動も加わって(そこには「松陰のかたき」という感情も加わっているのだが)その過激さはどんどんエスカレートしていくのである。

 俊輔たちは長井の通り道ともくされていた守山もりやま草津くさつでは、長井をとらえられなかった。けれども伏見まで追いかけてきて、ようやく長州藩の本陣ほんじん銭屋ぜにやで長井が乗ってきた駕籠かごをみつけた。

「よし、とうとう長井をみつけたぞ。皆ぬかるなよ」

 一同に声をかけて久坂は刀を抜いた。一同は「おう」とこたえて刀を抜いた。俊輔も意をけっして刀を抜いた。

 ところが、その駕籠の中に長井は乗っていなかった。駕籠はおとりだったのだ。

 長井襲撃の噂はすでに長井自身の耳に届いていた。

 彼は駕籠をおとりにしてそのまま進ませ、自分は南の奈良へ迂回うかいして大坂に出て、それから萩へ向かったのである。


 藩は久坂たちの行為をとがめなかった。

 この五日後、京都河原町(かわらまち)の長州藩邸(現在のホテルオークラのあたり)で藩主慶親(よしちか)および藩の重役が列席する「御前ごぜん会議」が開かれた。

 ここで一転して、以前の決定が(くつがえ)された。

 今度は慶親の「そうせい」という了承のもとに長井雅楽(うた)航海こうかい遠略えんりゃく策を破棄はきし、「ほうちょく攘夷じょうい」に藩論を転換することが決定したのだ。

 その新しい藩論となる攘夷のために長井を斬ろうとした久坂たちの行為がとがめられるはずもなかった。ちなみに奉勅攘夷とは「みかど(孝明天皇)からの勅命ちょくめいの通り、攘夷をし進める」という意味である。


 この同じ頃、薩摩の久光は江戸で幕府に政治改革を強要していた。久光が京都を留守にしているあいだに長州が京都の朝廷をおさえるかたちになった訳である。

 一方、久光は京都へ戻る途中で生麦事件を引き起こし、イギリス艦隊からの報復攻撃にそなえるため鹿児島へ帰国せざるを得なくなり、京都で政治活動をしている余裕よゆうはなくなった。そのためこれ以降、しばらく長州の独走が続くことになる。

 そして長井雅楽(うた)はこの約半年後、長州で切腹させられることになるのである。



 これでようやく前編の冒頭の話に戻ることができる。

 この俊輔の生い立ちを見てきたことによって、生麦事件の四日後に来原が横浜を焼き払って攘夷のさきがけをやろうとしていた謎、すなわち「なぜ来原は死のうとしているのか?」の理由がわずかながらも見えてきたのではなかろうか?


 来原は横浜を視察したこの日、江戸桜田の長州藩邸に入った。

 来原に同行してきた佐世させは俊輔と同じ松下村塾生である。桜田藩邸で俊輔は佐世から「来原の様子がおかしい」という話を聞いた。

 俊輔はここ三年程ずっと桂の下で働いている。来原とは最近あまり会ってない。

「桂さん。佐世さんから来原さんの様子がちょっと変だと聞いたのですけど……」

 と俊輔は桂に話しかけた。しかし桂は「そうか」と言うだけでそれ以上、この話に触れようとしない。


 桂は来原の義兄である。俊輔に言われなくてもここ数ヶ月、来原の様子がおかしいことなどすでに承知している。そしてその理由も桂にはわかっている。

 長州が長井の開国策を捨てて攘夷に方針転換した以上、その長井の開国策に賛同していた来原が苦悩するのはやむを得ない。

 しかし桂も苦悩していたのである。なぜならその長井の開国策を排撃はいげきして、藩論を攘夷に方針転換させるように一番尽力(じんりょく)していたのが桂自身であったからだ。

 彼はそれが正しい政策であると信じてやってきたのである。

 長井に対する(うら)みを晴らすなどという私怨しえんでやってきたのではない。


 というか、むしろ実を言えば桂は、また俊輔もそうなのだが、半年ほど前に長井から窮地きゅうちを救われたことがあった。

 詳しい経緯は割愛するがこの年の一月十五日に起きた「坂下さかした門外もんがいの変」(老中ろうじゅう安藤信正(のぶまさ)が浪士たちに襲われた事件)に桂と俊輔が連座していたと幕府から疑われた際に、当時航海(こうかい)遠略えんりゃく策で幕府から重用ちょうようされていた長井が桂と俊輔に対する嫌疑を晴らすのに一役ひとやく買ったのだった。それを思えば、桂が開国策を排撃して藩論を攘夷に方針転換させたのは(更に言えば伏見で俊輔が長井を斬ろうとしたのも)恩をあだで返す行為であったと言えるかもしれない。


 けれども、くり返しになるが桂は「奉勅攘夷」、すなわち「将軍家茂(いえもち)を京都へよんで天皇の前で攘夷を誓わせる」という政策が正しいと信じてやっているのである。

 私情しじょうにおいては来原や長井が気の毒であることを禁じ得ないが、藩の重役で責任ある立場の桂としては彼らに手を差しのべることはできない。

(まったく、なぜ京都の重役連中は来原を江戸へなど寄こしたのか。萩へ帰せば良かったのだ。子どもの顔でも見れば少しは落ち着くだろうし、過激な考えも抑えるだろうに……)

 もともとうつになりやすい性格の桂は、来原たちの窮状きゅうじょうに心を痛めてますます憂鬱ゆううつになっていた。しかし桂がそんな心の痛みを俊輔に対して明かすわけもなく、元来がんらい陽性の気質で、しかも多少図太(ずぶと)いところがある俊輔としては、桂の苦しい胸のうちなど察せるわけがなかった。


 二日後、来原は佐世のところへ来て、決然として言った。

「俺は脱藩する。そして横浜へ攻め入って討ち死にするつもりだ」

 佐世は再び来原を止めようとした。けれども来原はそれを聞き入れず麻布あざぶの藩邸(現在の六本木ミッドタウンがある辺り)へ向かった。横浜へ攻め入る同志をつのるために。


 佐世は急いでこのことを桂にしらせた。そして桂と連れ立って麻布の藩邸へ行き、来原に思いとどまるよう説得した。が、来原は聞き入れず、桂に言い返した。

「藩論が攘夷に決まったのだから、その方針に従って横浜で攘夷を実行するのだ!一体それのどこが悪いと言うのだ!」

 桂は反論した。

「我々がやろうとしている攘夷は異人を何人か斬る、といった無計画な攘夷ではない。やるのであればもっと本格的な形でやらねばならぬ」

 しかし来原は納得しない。

「それでは幕府が言っているのと同じではないか。いつかはやる。だが今ではない、と。誰かが最初に口火を切らねば、どうせいつまで経ってもやらないに決まっている!」

 結局この日の説得は失敗に終わり、桂たちは一旦いったん桜田の藩邸に戻った。桂はいよいよ世子せいしこう(毛利定広(さだひろ))に申し上げて上意じょういによって止めてもらうしかない、と覚悟した。


 翌日、桂と佐世が麻布の藩邸へ行ってみると、すでに来原は横浜へむかって出発していた。今夜は品川に泊まると言い残して出て行ったということだった。

 桂たちは桜田へ戻って世子せいし定広にこのことを言上ごんじょうした。定広は品川へ人をやって何とか連れ戻すように命じた。

「もし手向てむかうようなら、薩摩の寺田屋のように討ち取ることもやむを得ないが、極力説得して穏便おんびんに連れ戻すように」

 と指示し、定広の小姓(こしょう)役である志道しじぶんも品川へつかわせた。ちなみに「薩摩の寺田屋」というのはこの四ヶ月前、久光が伏見の寺田屋で尊王攘夷派の部下たちを粛清しゅくせいした事件のことである。

 聞多たち数人の長州藩士は品川の宿や店をしらみつぶしに訪問して来原を探した。遊郭の名所である品川の町に詳しい聞多の知識が役に立ったせいか、この日の夜、聞多たちは一人で酒を飲んでいた来原をついに発見した。

 寺田屋のように「上意()ち」になることも覚悟していた聞多たちは、緊張しながら来原に話しかけた。

「来原さん、わか殿とののご命令じゃ。ぜひ我々と一緒に藩邸へ戻ってくださらんか」

 ところが意外にも、来原はあっさりと説得に従った。


 来原が桜田の藩邸に戻ってくると定広の部屋にし出された。

 定広は穏やかな口調で来原を訓戒くんかいした。

「今回のそなたの行動が忠義心から出たことはわかっているが、今は朝廷と幕府の関係が難しい状況にあるので軽挙けいきょは慎むように。そしてこれからも父上や私のことを助けてもらいたい」

 来原は涙を流しながら

つつしんでおおせに従います」

 とだけ述べて、それ以上は何も言わなかった。それに対して定広は

「何か意見があれば遠慮なく申してみよ」

 と来原の存念ぞんねんを述べさせようとしたが、来原は

「申し上げることは何等なんらございません」

 と返答してそのまま退出した。そして来原は自分の部屋へ戻った。

 佐世や何人かの人々が心配して来原の部屋へ様子をうかがいに来た。しかし来原の様子はいつもと変わりなく、特に心配もなさそうだったので全員部屋へ戻って寝ることにした。


 翌朝、来原は自室で切腹した遺体となって発見された。


 腹を切ったあと自分で首に短刀を突き刺し、さらにその短刀を背後のたたみに突き立てた。体が後ろに倒れないよう短刀を支えとするために突き立てたのだが、その短刀は弓なり曲がっていた。そして両目を見開いたまま座って死んでいた。凄まじい死に(ざま)だった。


 家族への遺書はすでに二ヶ月前に書かれており、来原は長井失脚後、かなり早い段階から死を覚悟していた。辞世じせいの句は次の通りである。


 雲霧をはらえる空にすむ月を よみちにはやく見まほしきかな


 この日の朝、俊輔と桂はすぐに駆けつけて来て、来原の遺体を見て絶句した。

 そして俊輔は号泣ごうきゅうした。

(なぜじゃ?なぜこんな立派な人がこれほど凄惨せいさん最期さいごげねばならなかったのだ?)

 この時の俊輔が、来原の切腹の真意をどこまでくみ取れたかは分からない。


 一般的に言って、多くの人々は来原の切腹の理由を「長井に同意したことをいて、それで生きるのがいやになって切腹したのだろう」と思うかもしれない。

 しかしながら俊輔は後年、次のように語っている。

「来原良蔵については吾輩わがはいが一番よく知っている。吾輩は決して来原が長井の論に同意したのをいて、厭世えんせい的に事を起こしたとは信じない。それははなはだ浅はかな見方みかたであり、何より藩論が一変した事に憤慨ふんがいしたのである。彼は決して他人に遅れをとらないという意地の強い人間であり、物事をやむような人間ではない」

 筆者が思うに、やはりこれも彼の親友だった松陰と同じように諌死かんしだったのではなかろうか?と思う。

 何よりも来原は度重たびかさなる藩論の変化によって、その人生を狂わされた人である。

 最初に洋学の必要性をいて罰せられ、しばらくすると今度は洋学を積極的に学ぶように命令され、そして最後には再び開国から攘夷へと藩論が変更された。

「こうコロコロと藩論を左右に変えていては、私のような犠牲者がこれからも続出しますぞ!」

 このような諫言かんげんを藩主父子に対して「言葉以上に強烈な方法」で訴えるための諌死だったと思われる。

 来原には気の毒と言うべきであろうが、この来原の懸念けねんは不幸にも的中することになる。ただしそれはのちの話である。


 翌日、来原の葬儀そうぎしば愛宕あたご下の青松寺せいしょうじりおこなわれた。

 藩邸内では皆が来原の死をいたんだ。

 藩論の変更による犠牲者として気の毒ということもあるが、真っ先に横浜襲撃を唱えた忠義心、それがかなわぬとみれば即座に腹を切るという硬骨こうこつの武士精神を見て、その死をしんだのだ。

 世子定広もその死を痛く悲しみ、香華料こうかりょうとして二十両を下賜かしして手厚くとむらわせた。また京都にいた藩主慶親も遺族に弔慰ちょういきんを下賜した。このあたり、この藩主父子はその死の意味をある程度は理解していたのだろう。

 この葬儀には来原の義兄である桂は無論のこと、その部下である俊輔も深く関わった。

 そして俊輔は桂から、来原の遺書と遺髪いはつを家族のもとへ送り届けてくれと頼まれた。

 俊輔はすぐさま江戸をって萩へと向かった。


 道中、俊輔は歩きながら考えた。

(おそらくワシは一生かかっても来原さんや松陰先生のようにはなれんだろう。やはり武士として生まれた人間と、ワシのように百姓として生まれた人間とでは人種が違うのだろうか。だが、いつかきっと、ワシはワシのやり方で人々を正しい道へと導く人間になってみせるぞ)

 俊輔二十二歳の夏のことである。俊輔の先にはまだまだ長い道が続いている。

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