第49話 将軍慶喜、謁見(後編)
さて、この頃サトウとミットフォードは江戸の高輪で共同生活をしていた。
二人はこの前の横浜大火で住居を失い、サトウなどはしばらく友人の家に居候したりしていた。
しかしちょうどこの頃、江戸の高輪にイギリス公使館が完成していた。それで多くの公使館員はこれを機に江戸へ移って、そこへ入居することになった。
ただし厳密に言うと、この建物は公使館ではない。「高輪接遇所」という名称である。
実は建物自体は前年に完成しており、パークスなど数名は早めにここへ移住していたため彼らは横浜大火の被害に遭わなかった。
一方サトウたちもパークスの後を追うかたちでここへ移住する予定だったのだが、その直前に横浜大火に遭遇してしまったのだった。サトウはそのあと西国探索や大坂視察に出ずっぱりだったが、今回、ようやくここへ移ることになった訳である。
高輪のイギリス公使館と言うと、以前御殿山に作られたことがあった。
その御殿山のイギリス公使館を高杉、俊輔、聞多たちが焼き払ったことは、この物語の第11話で書いた。幕府としてはその二の舞を避けるために「公使館」ではなくて「接遇所」という名称にしたのである。
場所は赤穂浪士たちの墓がある泉岳寺の目の前だった。
この接遇所の門前の様子は「東京名勝図会・高輪英吉利館」の錦絵などにも描かれている。ただし建物自体は、以前御殿山に作ったような贅を凝らしたつくりではなく、黒塗りの塀に囲まれた敷地内に平屋の建物が二棟並んでいるだけで(二階建てだと目立つのでわざと平屋にした)サトウたち公使館員は一様に「牢獄に似ている」と評していた。
余談ではあるが、この建物の建設については当時の外国奉行・江連堯則が次のような話を残している。
「良い木材を使って建物を完成させたところ、イギリス側から建物全体をペンキで塗らせてくれ、という注文がきた。日本では白木削りの良いところを見せるのが高尚で美しいとされている。これを磨きこめば光沢が出るからむざむざペンキ塗りにするよりはこのままにしろ、と説明したがイギリスは聞き入れなかった。やむを得ずとうとう全てドス赤色のペンキで塗ってしまった」
サトウとミットフォードはこの「牢獄」から抜け出して、通りを挟んだ向かい側にある「門良院」という小さな寺院で共同生活をすることになった。
この寺院には防御に足るような柵は存在せず、別手組という幕府から派遣された護衛隊が数名、門の脇の小屋に詰めているだけだった。
四年前に御殿山の公使館が焼き討ちされたことを思えば、ここに二人が住むのはかなり危険な試みだったと言える。しかしそれでも二人は「牢獄」から解放されて、ここで公的にも私的にも自由に活動することを選んだ。
ミットフォードは門良院に移ってからサトウにみっちりと日本語を習った。
また二人の食事は近くの万清という料理屋から出前で運ばせた。この料理屋は、近くにある高輪の薩摩藩邸の人間がよく利用しており、薩摩藩士と接触するのにも便利だった。
もちろん女好きのサトウとミットフォードは薩摩藩士たちと一緒に品川の遊郭へ遊びにいったりもした。ちなみに薩摩藩士たちは藩邸が品川の近くにあるため、品川遊郭の常連として有名だった。
来日当初の頃、まだ二十歳前だったサトウはウブ丸出しでまったく清らかなものだったが、この頃になるとかなり遊び慣れてしまっていた。
それでもまあ、同じく品川で遊びまくっていた俊輔や聞多ほどではなかったであろうが。
大坂城での将軍謁見の儀式はしばらく延期となっていたが、フランスのロッシュは他国の代表を出し抜くかたちで二月初旬に新将軍・慶喜と接触していた。
「幕府の庇護者」を自任していたロッシュとしては、フランスが特別扱いされるのは当然だと思っていたし、他方幕府としても、フランスにすがる気持ちで一杯だったことは幕長戦争の場面で見た通りである。それゆえ、このロッシュと慶喜の面会はごく自然なかたちでとりおこなわれた。
慶喜と面会したロッシュは、外交、軍事、財政など様々な政策について助言を与えた。
その助言の中には次のような奇策もあった。
「江戸と大坂の開市をやめて下関と鹿児島の開港を進める、と宣言なされよ。そしてパークスを相手にせず、イギリス本国の政府と直接交渉なさったほうがよろしい」
あまりにも突拍子もない助言だったので慶喜も困惑し、その真意をロッシュに尋ねたところ、ロッシュは次のように答えた。
「とにかく相手の裏を突くことが出来れば何でも良いのです。相手が戸惑うほど極端な方策を打ち出し、相手を棒立ちにさせることです。その隙を突いて、こちらが主導権を握るのです」
なるほど、積極的、あるいは攻撃的なタイプの人間であればこういった奇策を選択するのもアリだろうが、いかんせん、正攻法を好む保守的な日本人向きの策ではない。
もちろん慶喜はこの奇策を選択しなかった。しかしこれはまあ極端な例と言っていい。
とにかくロッシュはこれまで同様、フランスが全面的に幕府の後ろ盾になることを約束し、慶喜への協力を誓ったのである。
このロッシュのぬけがけを聞いて、パークスが平気でいられる訳がなかった。
パークスも江戸で幕閣と交渉を重ね、英仏蘭米の四ヶ国代表が大坂城で将軍謁見の儀式をおこなうことが正式に決まった。
謁見の日程は三月下旬と決まり、三月の中旬には四ヶ国代表の使節が次々と大坂に上陸した。
特にパークスはイギリスの威信にかけて大代表団を送り込んできた。
無論サトウも通訳として参加した。他にミットフォード、ウィリス、アストンなどの公使館員も参加し、護衛兵も大勢引き連れて上陸した。さらに『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の記者兼イラストレーターであるワーグマンも式に参加することになった。パークスやサトウたち公使館員は、この前サトウとミットフォードが下見をした宿舎へと入った。
これまでずっと懸案事項となってきた兵庫開港問題は、この将軍謁見の段階においてもまだ決着しておらず、一番重要な外交課題として残されたままの状態になっていた。
薩摩藩がこの問題を利用して幕府に様々な揺さぶりをかけてきたことは、これまで散々見てきた通りである。
そういう意味では、この問題は単なる外交問題ではなく、重要な内政問題でもあった訳である。
実際のところ、この年の暮れに「王政復古のクーデター」が挙行されるのは十二月九日のことで、それは十二月七日(1868年1月1日)に兵庫開港の式典がおこなわれる二日後のことであり、このことからも、この兵庫開港が内政問題と密接に関係していたことが見てとれる。
パークスはこの将軍謁見に臨むにあたって「兵庫開港の確約」を、一応幕府から取りつけていた。
なにしろ晴れがましい将軍謁見の席で、もし将軍の口から「兵庫開港の中止あるいは延期」が発せられた場合、イギリス公使としての面目は丸つぶれになる。それゆえパークスは事前に「兵庫開港の確約」を幕府に要求して、了承を取りつけていたのである。
さはさりながら幕府がこれを了承したといっても、これまで幕府がとってきた優柔不断な態度からして「いつまたこれが覆るとも限らない」とパークスは思っていた。
事実、幕府が朝廷に対して「兵庫開港の勅許」を申請したところ、やはり今回も朝廷に拒絶されたのである。
各国の商人が兵庫開港に備えるためには最低半年の準備期間が必要なので、遅くとも六月までにはこの問題の決着をつけるようにパークスをはじめとした各国代表は幕府に要求していたのだが、先行きはまだまだ見通せない状況だった。
さて、新将軍・慶喜がパークスたちイギリス代表を大坂城に招く公式謁見は三月二十八日に執り行われると決まった。
そしてその三日前に「内謁見」という非公式会見が行われることになった。
この内謁見は、儀礼的な面を重視した公式謁見と違って、より打ち解けたかたちで両者が会談できるように用意されたものだった。
この日、イギリス代表団は各自が馬に乗って大坂城へ向かった。
公式謁見の時は多くのイギリス公使館員および軍の士官などが参列することになっている。しかしこの日の内謁見ではごく少数の公使館員と護衛兵だけが大坂城へ向かった。
公使館員のメンバーはパークス、ミットフォード、ロコック(書記官の一人)、そして通訳のサトウだった。
一方ウィリスはこのメンバーに加わることができなかったので、家族への手紙に
「私はそこそこパークス公使から評価されていると思っていたのにのけ者にされて、ちょっと傷つきました。人から報われることを期待した私が愚かだったのです」
といった恨みがましい文句を書き連ね、完全にひがみモードでボヤきまくっていた。
サトウたちの周囲には数人のイギリス人騎馬護衛兵が付き添い、さらにその周囲には幕府から派遣された護衛兵の別手組が付き添って一同を大坂城まで護衛した。
大坂城では白書院(謁見の間)で内謁見がおこなわれ、テーブルを挟んだ一方にはパークスたちが、もう一方には幕府の老中たちが座った。
そしてテーブルの上座に慶喜が座り、慶喜とパークスとの間に通訳をつとめるサトウが座った。
なにしろ初めて将軍と面会して、その将軍と向き合って通訳をするのである。
通訳者としてはこれ以上ない最高の晴れ舞台と言えようが、この時サトウは二十三歳である。緊張するな、というほうが無理であろう。
後にサトウはこの時のことを次のようにふり返っている。
「私は日本の礼式にふさわしい言葉を使いこなす自信がなかったので内心相当ビクビクしていた。ここ数年、イギリスと日本との間で様々な問題がありましたが、それらはすっかりと水に流しました、というパークス公使の言葉を伝える時におかしな言葉を使ってしまい、少しうろたえてしまったことを憶えている」
まず最初にお互いのあいさつとして、慶喜はヴィクトリア女王の健康についてパークスに尋ね、パークスは帝(後の明治天皇)の健康ついて慶喜に尋ねた。
この際、パークスは帝への称号は「Majesty(陛下)」と述べ、将軍慶喜への称号は「Highness(殿下)」と述べた。
ただし通訳者のサトウはそのHighnessを殿下ではなくて「上様」と日本語訳して伝えた。
これは以前サトウが書いた『英国策論』の場面で少しだけ解説したが、サトウが考案したイギリス独自の称号の使い方、すなわち
「イギリス女王と同列である最上級の称号“陛下(Majesty)”を使えるのは帝だけで、大君(将軍)にはそれに次ぐ称号“殿下(Highness)”を使用する」
という考え方であり、パークスも、この時はこの案を採用した訳である。
ただしイギリスを除いた仏蘭米はこれまで通り将軍に対して「Majesty(陛下)」を使い続けていた。
のちに幕府はイギリス本国でこの「パークスによる勝手な称号変更」に対して抗議することになるのだが、この時はサトウがとっさに殿下ではなくて上様と訳したので特に問題は起きなかった。
しかし、こういった称号問題でのいざこざとは裏腹に、パークスはこの新将軍・慶喜から深い感銘を受けた。
対談をしていくうちにパークスは、慶喜の魅力に少しずつひかれていったのである。
特に慶喜が対談の冒頭でパークスに対して
「兵庫開港、大坂開市は無論のこと、江戸と新潟も期日通り、必ず開くことをお約束する」
とハッキリ確約したことが大きかった。
そして何より慶喜の非凡な人柄、さらに聡明さにパークスは心を打たれたのである。
ひとしきり対談が終わった後、一同は「御次の間」での会食の席へと移ることになった。
そこで出された料理は完全な洋食で、フランス人シェフが作ったものだった。もちろんこれもロッシュの助言によるものだが、幕府がこのようなかたちで外国代表をもてなすのは初めてのことだった。
食事の前に慶喜は立ち上がって
「イギリス女王の健康を祈って乾杯!」
と唱えた。するとパークスもそれに応えて、今度は帝に対してではなくて
「上様(将軍慶喜)の健康を祈って乾杯!」
と返礼した。
会食が終わると一同は「連歌の間」へと移って、コーヒーを飲みながら贈り物を交換し合った。
この連歌の間の壁面には「三十六歌仙の肖像画」が飾られていた。
パークスやミットフォードはサトウに「これらは何の絵なのか?」と尋ねた。
日本学者を目指しているサトウとしては三十六歌仙の存在自体は知っていたが、個別に詳しく解説できるほどの知識はなかった。そのため
「有名な歌人たちの絵です」
といった程度の返事しかできなかった。
とりあえず有名な柿本人麻呂の額がサトウの目に入ったので、それに書いてある和歌を詠んでみた。
ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ
ここでサトウは、思い切って「上様」に質問してみた。
「これは歌聖と呼ばれる柿本人麻呂ですね。この、ほのぼのと明石の浦の朝霧に、の歌はどういった意味を表しているのでしょうか?」
このサトウの質問を聞いて日本側は少々ザワついた。
「上様に対して何という不躾な質問をするのだ、この外人は」
と小声で言う者もあれば
「この外人は柿本人麻呂のことも知っているのか」
と感心する声もあった。
慶喜はサトウの質問に答えた。
「この歌の意味は多少複雑なので答えるのは難しいが、お望みならその額を差し上げよう」
この慶喜の言葉を聞いてサトウは驚いた。
「もし一人が抜け落ちると、三十六人そろっているのが台無しになってしまうのではないですか?」
「いや。その抜け落ちた空間を見るたびに、予はその額がイギリス公使の手元にあることを思い起こすだろう。それは予にとって大変嬉しいことである」
この慶喜の言葉をサトウから聞かされると、パークスは大変感激した。
パークスは慶喜に礼を述べて、ありがたくその額を贈答品としていただくことにした。
ただしこの時ミットフォードがサトウに一言注文をつけた。
「せっかくもらうのなら女性の絵のほうが華やかで良い」
そんな訳で結局、柿本人麻呂ではなく、女性の伊勢の額をもらうことになった。
ついでながら述べておくと、慶喜はこの後に会った仏蘭米の公使にもまったく同じことを述べて、一枚ずつ絵を贈ったのだった。
さらに余談だが、奇遇なことにこの前日(三月二十四日、西暦では4月28日)パリでは慶喜の弟昭武が、テュイルリー宮殿でナポレオン三世に謁見していた。昭武一行が万博に参加するためパリに来ていたことは、以前述べた通りである。
そして大坂城では三月二十八日、イギリス代表団が新将軍・慶喜との公式謁見に臨んだ。
今度はウィリスやワーグマンたちも全員参加しての大代表団である。
この公式謁見は内謁見と違って儀礼的な側面が強く、将軍の前に全員が整列して、あらかじめ用意された答辞を読み上げる、といった儀式が本丸御殿の大広間でおこなわれた。
その後、イギリス兵による閲兵式などもおこなわれた。
これらの様子は同行したワーグマンがイラストとして描いて『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に載せている。そしてこの公式謁見も、このあと仏蘭米がイギリス同様の儀式を執りおこない、公式日程はすべて終了となった。
この将軍謁見の結果を一言で言えば、慶喜の大勝利であった。
サトウ、ミットフォード、パークスの三人は慶喜に対して次のような印象を抱いた。
<サトウ>
「新将軍は新しい方針を打ち出し、諸外国との関係を改善しようと努力した。そして大体において将軍が反対派(薩長)に対して勝利をおさめる形になった。彼は、私が出会ったことのある日本人の中では最も貴族的な容貌の人物で、額はきれいで鼻筋もくっきりと格好が良く、まさに立派な紳士だった」
<ミットフォード>
「疑いもなく、将軍は傑出した才能を備えた人物だった。顔立ちは端麗で、体つきもたくましい。いかにも活動的な性格で、乗馬を好む。彼は偉大な貴人と呼ばれるのにふさわしい人物だった」
そしてパークスは、この謁見の直後にロッシュと会って次のように語った。
「将軍は思っていた以上に素晴らしい人物だった。将軍の城も見事だが、将軍自身の資質にはかなわなかった」
ロッシュとしては「してやったり!」といったところだった。
薩長側に傾きかけていたパークスの気持ちを将軍側に引き戻すことに成功したのだから、ロッシュにとってこれ以上の喜びは無かった。
パークスは本国への報告で、慶喜に対する印象を次のように書いた。
「将軍との会見は非常にうまくいった。彼が外国人に対して友好的であるのは間違いない。それでいて彼の態度には毅然さが備わっていて、物腰も優雅である。年齢は三十一歳と若く、容姿も端麗である。新将軍となった彼は、長く続いてきた混乱に終止符を打つことを期待されているが、それを成し遂げるだけの能力を備えているように思われる。私は可能なかぎり彼を支援するつもりである。実際、彼は私が知っている日本人の中で最も優秀な人物であり、おそらく、歴史にその名をとどめることになるだろう」
将軍謁見の数日後、サトウは大坂の薩摩藩邸を訪問して西郷と小松に会った。
そして将軍謁見のこと、また慶喜が兵庫開港を確約したことなどを話した。
西郷と小松は、将軍謁見の様子や兵庫開港の確約のことなどは既に耳にしていたのでそれほど驚かなかったが
「パークスが慶喜への支持を表明した」
という話を聞いて、失望の色は隠せなかった。
これまで散々幕府からイギリスを離間させようと活動してきた西郷たちからすれば、当然の反応と言えよう。
小松はサトウに対して意見を述べた。
「まだ朝廷から勅許も出ていないのに独断で兵庫開港を決めるなど、将軍は朝廷や我が藩をないがしろにしているとしか思えない」
サトウは初めて会った慶喜の印象について、二人に語った。
「それにしても新将軍があれほど有能な人物だとは知りませんでした。幕府の上層部には有能な人物など一人もいないと思ってましたから大変驚きました」
このサトウの発言に対して西郷が答えた。
「確かに新将軍は有能である。私は十年ほど前、先君の命によって彼を将軍に就けようと尽力したことがあり、彼のことはよく知っている。なるほど確かに頭脳は優秀だが……」
と西郷は途中まで言いかけて、そこで発言を止めた。
(確かに頭脳は優秀である。だが胆力と誠の心が欠けている。とても将の器ではない)
そう言いかけたのだが、無駄口を叩いてもしょうがないと思って止めたのである。
サトウとしても将軍謁見を境に思わぬ展開となって少し戸惑っていた。しかしここは、彼らに喝を入れる必要があると感じた。
「とにかく、兵庫が開港されるまでまだ半年以上あります。それまでにあなた方は何か手を打つべきです。ひとたび兵庫が開港されてしまえば、幕府は盤石となってしまうでしょう」
そんなことはサトウに言われるまでもなく分かっている、と二人は心の中で思った。
特に西郷は、あの新将軍・慶喜を倒すためには、おそらく兵を動かす以外に手はないだろう、と思い始めていた。
そしてさらにこの数日後、今度は西郷と小松がイギリスの軍艦を訪問してパークスと面会した。
もちろん通訳はサトウが担当した。ただしサトウは、パークスの前では自分の意見を一切言えないので、数日前に西郷と小松の前で述べたようなことは一切口にしなかった。
この時の薩英会談では特に目新しい話は出なかった。
「パークスが慶喜への支持を表明した」ということをそう簡単に覆すことはできないだろう、と西郷と小松はあらかじめ承知していたので、それほど積極的に幕府を批判することはしなかった。
しかしそれでも、自分たちは将軍の独裁的なふるまいを許す訳にはいかず、朝廷と有力諸侯の主張を将軍に訴えるつもりで、有力諸侯が近々京都で将軍と会議を開くことになっている、ということを一応パークスに伝えた。
ところが、この薩英会談が後に思わぬ波紋を呼び起こすことになるのである。




