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伊藤とサトウ  作者: 海野 次朗
第七章・二転三転
48/62

第48話 将軍慶喜、謁見 (前編)

 西郷との面談を終えたサトウは一連の西国探索を終えて、十二月十日に横浜へ帰って来た。

 そしてその頃にはパークスのもとに慶喜の将軍就任のしらせが届き「大坂城で各国代表が新将軍慶喜と謁見えっけんする」という話がほぼ本決まりになりつつあった。

 そのためパークスはサトウとミットフォードを宿舎などの下見のため大坂へ派遣することにした。

 サトウは西国探索から帰って来てまだそれほど日も経っていなかったが、再び西国へ向かうことになったのである。


 そしてサトウが横浜を出発する数日前に、俊輔のいる下関にキング提督が乗ったプリンセス・ロイヤル号など四隻のイギリス艦隊が到着していた。

 キング提督が長州を訪れたのは藩主父子と面会するためだった。

 以前パークスが鹿児島と宇和島でそれぞれ藩主と面会し、その後下関で長州藩主と面会しようとしたことがあった。しかし当時は幕長戦争の真っ最中だったので長州藩主と面会するのは中止になった。

 今回キング提督が長州藩主と面会しに来たのは、その時の試みをあらためて実現するためであった。


 この時、本来であればイギリス人の応接に慣れた俊輔が通訳の役目を引き受けるところだったのだが、俊輔はこの頃ずっと病気で寝込んでいた。

 そこで代わりに聞多と遠藤謹介(きんすけ)が通訳を引き受けることになった。

 遠藤はこの頃、山尾、野村よりも一足早くロンドンから帰国しており、主に外国人の応接役などを引き受けていた。


 ただし面会場所は下関から三田尻へ変更となり、藩主敬親(たかちか)および世子広封(ひろあつ)(以前の定広、後の元徳もとのり)は山口から三田尻へ出向くことになった。

 場所が変更になった理由は定かではないが、おそらくいまだ藩内にくすぶっている攘夷感情を考慮して、人目が多い下関を避けて三田尻へ変更したものと思われる。


 長州側から連絡を受けてイギリス艦隊も下関から三田尻へ移動した。

 そしてキング提督たちは上陸して有力な豪農の家で藩主父子と面会し、長州藩から会食の饗応きょうおうをうけた。

 翌日、返礼として藩主父子がプリンセス・ロイヤル号に招かれ、様々な歓迎イベントがおこなわれた。

 最後に藩主父子、吉川きっかわ監物けんもつ(岩国藩主)、木戸たちはイギリス人に記念写真を撮ってもらった。ちなみにこれらの写真はサトウの著書『A Diplomat in Japan』に掲載されている。


 ところで、この時イギリス艦隊にはパークスやサトウは乗り込んでおらず、通訳はアストンという通訳官が担当していた。

 このアストンという人物はサトウにとってウィリスやミットフォードと並んで、生涯の友人となる重要な人物ではあるのだが、この物語ではあまり出番がないのでこれまで紹介する機会がなかった。


 アストンが来日したのは二年前のことで、サトウより二年遅れで来日した。

 それでもこの頃すでにかなりの日本語能力を身に付けていた。

 後にサトウと同じくらい日本語能力を身に付け、日本学者としてもサトウと並ぶほど活躍する人物なのだが、現在ほとんど世間に知られていないのは気の毒な感じがする(特にサトウとの知名度の差で)。

 パークスとしても、サトウがいない時はアストンを、アストンがいない時はサトウを、といったかたちで使い分けているので、どうしてもサトウと一緒に仕事をする機会が少なくなりがちで、アストンには申し訳ないのだがこの物語には登場させづらいのである。残念ながら。


 さて、以上のように、イギリス艦隊と長州藩との交流は一見、円満に終了したかのように見える。

 しかしキング提督やアストンがパークスへ提出した報告書によると、以前の鹿児島訪問や宇和島訪問、またこの直前には福岡藩へも訪問しているのだが、それら他藩の歓迎ぶりと比べて、長州は全体的に友好ムードが欠如けつじょしていたようである。


 それはまあ、さもありなん、といったところだろう。

 なにしろ、かつては藩をあげて「攘夷実行」をやっていた藩なのだから、他藩のように「藩をあげて外国人を歓迎する」という訳にはいかなかったのだろう。

 それは直前になって面会場所を下関から三田尻へ変更し、しかも城や藩邸ではなくて「豪農の家で饗応(きょうおう)した」ということからもその事情をうかがうことができる。長州藩に浸透しんとうしていた攘夷熱はなかなか根深かったということである。

 とはいえ、これで一応表向きは(長州としてはあまり表向きにしたくはなかったのだが)長州とイギリスが親睦しんぼくを深めるかたちになった。


 このあとイギリス艦隊は兵庫へ向かった。当地で大坂の下見に来ているサトウたちと合流する予定を組んでいたのである。

 この時、聞多と遠藤はイギリスの軍艦に兵庫まで乗せて行ってくれるよう申し込み、それが許可された。

 聞多たちは藩から大坂の視察を命じられたのだが、長州は幕長戦争に勝利したとはいえ、建前たてまえ上はまだ「朝敵の罪」は許されておらず、長州藩士が大っぴらに他国へ、特に大坂などの幕府領へ出向いて行くことはできなかった。

 そのためこの時もイギリスの軍艦に乗り込んで兵庫まで行き、大坂では薩摩藩邸に潜伏せんぷくして活動する、という手法をとって幕府の目をのがれたのである。



 慶応三年一月三日(1867年2月7日)、サトウとミットフォードはアーガス号に乗って横浜を出発した。そして二日後に兵庫へ到着し、先に到着していたプリンセス・ロイヤル号などのイギリス艦隊と合流した。

 サトウとミットフォードはここで同僚のアストンたちと合流してお互いに情報を確認し合ったのだが、サトウは思いもかけない重大な情報に接することになった。


 それは「ミカド(孝明天皇)が数日前に崩御ほうぎょした」という情報だった。

 孝明天皇はこの十日前、すなわち慶応二年十二月二十五日に崩御していた。死因は天然痘てんねんとうであった。


 この「孝明天皇の死」については、サトウの物語を書くにあたって避けては通れない逸話いつわがある。

「噂によれば、天皇(ミカド)は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという。この天皇(ミカド)は、外国人に対していかなる譲歩をなすことにも、断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西洋諸国との関係に当面しなければならなくなるのを予見した一部の人々に殺されたというのだ」

(『一外交官の見た明治維新』岩波書店、訳・坂田精一)


 歴史界ではこの「孝明天皇毒殺説」が一つのトピックとして時々取り上げられることがある。

 そしてその際には必ずと言っていい程、このサトウが書いた『一外交官の見た明治維新』の記述が引用される。


 しかしながら「孝明天皇毒殺説」を考える上で、このサトウが書いた記述にそれほど重要な価値があるとは思えない。


 この引用文の中でも「数年後に」と書いてあるように、この毒殺話を聞いたのは維新後のことであり、結局のところ「後付あとづけ論」的に持ち出された理屈と言っていい。

 要するに「後から考えてみれば、あのタイミングで孝明天皇が崩御したのはどう見ても倒幕派にとって都合が良すぎるだろう?」という理屈から生まれたあと知恵ぢえ、ということである。


 サトウの記述の続きを見ると、次のような記述もある。

「前将軍(家茂)の死去の場合も、一橋(慶喜)のために毒殺されたという説が流れた。しかし、当時は、天皇についてそんな噂のあることを何も聞かなかった」

 これを見ても分かるように、維新前には、サトウはそんな噂をまったく知らなかったのである。


 ちなみにパークスはこのタイミングで孝明天皇が崩御したことについて

「幼年の新天皇(後の明治天皇)の誕生は、新将軍(慶喜)にとって力をのばすチャンスである」

 と見ていたし、ロッシュとしても、この崩御によって薩長側が有利になったとはまったく考えていなかった。

 むしろこの当時は慶喜や幕府のほうこそが是が非でも兵庫開港を(すす)めるつもりだったのだから、この崩御によって孝明天皇から反対されることは無くなった訳で、状況は好転したと言える。この時点で毒殺が疑われるとしたら、果たして薩長と幕府(慶喜)のどちらであったか?ということである。


 サトウがこの毒殺話を誰から聞いたのか、今となってはまったく分からない。

 しかし維新後であれば薩長藩閥(はんばつ)政府を悪く言う人はいくらでもいただろうし、またサトウがこの話の信憑性しんぴょうせいを確認できるはずもなかった。

 なぜなら計画者や実行犯の証拠でも出て来ない限り、毒殺の犯人など特定できるはずがないからである。


 要するにこの件については、外国人であるサトウの記述を重視するのは間違いで、少しでも真相に迫ろうとすれば当時の公家や女官にょかんたちの史料にあたるしかないのである。

 筆者の考えとしては、ここまで述べてきたように毒殺説を支持する立場にはない。

 実際、歴史界の通説としても、この毒殺説を支持する立場はごく少数派のようである。

 常識的に考えればそれが当然だと思う。

 ただ、明治維新を否定したい立場の人々はこの毒殺説を好む傾向にあるようで、おそらくこれから先も、この説はしぶとく生き残り続けるものと思われる。



 話を元に戻そう。

 サトウが兵庫に着くと、宇和島にりにしてきた野口と再会した。

 サトウは宇和島を去る時に野口を横浜へ送還そうかんしてくれるよう宇和島藩に頼んでいた。そしてその送還の途中たまたま兵庫でイギリス艦隊と出会ったので、野口に付き添っていた宇和島藩士がサトウのところへ連れて来てくれたのである。

 野口はさかんに乗り遅れた言い訳をしたが、サトウは笑って許してやった。


 その後サトウたち一行は馬に乗って陸路大坂へ向かった。幕府が手配した大勢の護衛兵に守られながら進むのだが、サトウとしては初めて通るルートだったので何もかもが珍しく思えて、楽しい小旅行となった。

 途中西宮や尼崎を通過して、その日のうちに無事大坂に到着した。

 大坂到着後、サトウとミットフォードは将軍謁見時にイギリス使節一行が泊まる宿舎しゅくしゃ(寺)を見て回った。おそらく新将軍・慶喜からの指示があったのであろう、幕府役人の態度は以前とは打って変わって親切になっており、また宿舎の設備も念入りにととのえられている様子だった。


 そしてこの間、サトウたちは初の大坂見物を決め込み、大坂城、二つの本願寺、天王寺、住吉大社、さらには堺の町などを見て回った。

 と言っても、見物する、というよりもむしろサトウとミットフォードが見物されていた、と言うべきだろう。

 サトウたちが行くところはどこも「珍しい外国人を見よう」という物見ものみ高い群衆ぐんしゅうで一杯だったのである。

 江戸と違って大坂ではまだ外国人が珍しかったので無理もあるまい。大坂の群衆は、声もでかくて騒がしくはあったが、一昔前、関東で攘夷熱がさかんだった頃に比べるとまったくおだやかなものだった。

 そもそも江戸と違って大坂には二本差しの武士が少なく、町の雰囲気も全体的に穏やかだった。そのためサトウたちは安心して大坂の町を見て回ることができた。


 ところで、サトウたちは遊んでばかりいた訳ではない。この視察の最中、ひそかに大坂の薩摩藩邸(蔵屋敷、土佐堀川にかる越中えっちゅう橋の南側)を訪問して小松帯刀と吉井幸輔(こうすけ)(後のともざね)と面会した。


 サトウが小松帯刀と正式に面談するのはこの時が初めてだった。

 サトウは後年、次のように手記で語っている。

「小松は私が知っている日本人の中で最も魅力のある人物で、家柄いえがらは家老だったがその階級の人らしくなく、政治的才能、立派な態度、あたたかい友情という点で抜群ばつぐんだった。顔も結構美形だったが、口の大きいのが玉にキズだった」


 小松はその大きな口を開いて、サトウとミットフォードに語りかけた。

「あなたがた外国人が新将軍と謁見しても、これまで同様、兵庫の開港については確約しないでしょう。我が薩摩は兵庫開港自体には反対していません。幕府が利益を独占するかたちでの兵庫開港に反対しているのです。そのためには朝廷が兵庫開港を主導しなければなりません。やはりイギリスは、幕府ではなくて朝廷と直接交渉したほうが良いのではありませんか?」


 この会談においては、イギリス側で交渉を担当するのはサトウの上司にあたるミットフォードである。

 ミットフォードはサトウより日本での経験が浅いとはいえ、上流階級出身のエリート外交官なのでパークスの代理的な立場であり、サトウは通訳にてっしなければならないのである。

 小松の提言に対してミットフォードが答えた。

「我々は大君タイクンミカド個人と条約を結んでいるのではなくて、日本全体と条約を結んでいるのです。日本側にどのような事情があろうと、兵庫開港は約束通り一年後、すなわち1868年1月1日(慶応三年十二月七日)には実行されなければなりません。どのように開港するかは日本人同士が話し合って決めるべきことで、我々イギリスが関与すべきことではありません」

 パークスの代理であるミットフォードとしては、当然のことながらパークスの立場、すなわち「内政不干渉」の立場を尊重そんちょうするかたちで小松に回答したのである。このセリフを通訳したサトウとしては、多少心苦(こころぐる)しい思いがした。


 小松はあらためてミットフォードに訴えた。

「我々は幕府を倒して革命を起こそうなどと考えている訳ではありません。またイギリスが一緒に戦ってくれることを望んでいる訳でもありません。ただ朝廷の地位を高め、日本の地位を高めることだけを考えているのです。イギリスが『幕府ではなくて朝廷と条約の交渉をしたい』と言ってくれさえすれば良いのです。我々が望むのはたったそれだけの助言です。あとは我々のほうで決着をつけます」


 この小松の訴えに対しても、やはりミットフォードはパークスの立場を尊重して内政不干渉の方針をとり続けたのだが、それでも少しずつ薩摩側の主張に引き寄せられていった。

 そこには当然、一緒に行動しているサトウの影響もあった。

 ただしこの時は秘密の面談だったのであまり時間もとれず、早めに面談を切り上げることにした。


 なんにせよ、ミットフォードはこの薩摩と幕府のかけひきに強く興味を抱くようになったのだった。

 この数ヶ月後、彼は本国外務省から日本以外への転勤を打診だしんされることになるのだが

「今、私が日本を去ると兵庫と大坂が開かれるという“歴史的な大事件”を見逃すことになります」

 と返答をして、その打診を断った。


 こういった返答をしたことについて、後年ミットフォードは自著で次のように述べている。

「なんと先見性のない予言をしたことか。結局私は引き続き日本に滞在したのだが、その後、兵庫や大坂の問題よりもっと重大な“歴史的な大事件”に遭遇したのである」


 この薩摩藩邸でサトウは珍しい、というか懐かしい二人の人物と出会った。

 一人は寺島陶蔵(とうぞう)(以前の名は松木弘安、後の寺島宗則(むねのり))である。

 薩英戦争の時に船上で会って以来ということになる。

 サトウは、寺島が以前幕府に仕えていた経験がある、ということを聞かされて「幕府に情報がれるのでは?」と少し心配になったが、小松と吉井から「そんな心配は無用である」と説明されたので安心して話を続けた。


 それにしても寺島から聞かされた話は、サトウにとって衝撃的だった。

 薩英戦争の後、無事薩摩へ帰ることが出来たのも驚きだが、さらに彼はその後イギリスへ行き、しかもオリファントやクラレンドン外相と接触してきたというのである。

 にわかには信じがたい話であった。しかし詳しい具体的な話を聞かされたので信用せざるを得なかった。

 サトウは「一体何者だ、この男は?」と多少怪訝(けげん)な気持ちになった。

 寺島もそこまでは話さなかったが、実は寺島がイギリスで「サトウが『英国策論』で書いた内容」と同じ話を外務省でしてきた、とサトウが知ったら、さらに驚愕(きょうがく)したであろう。


 もう一人の懐かしい人物は井上聞多である。

 これも下関戦争の時に下関で会って以来ということになる。

 聞多がプリンセス・ロイヤル号に乗って兵庫へ来たことは先に述べた。

 そのあと聞多は大坂を視察するため薩摩藩邸に潜伏せんぷくし、ここで偶然サトウと出会ったのだった。

 本来であれば、長州人がこうやって薩摩藩邸にかくまわれていることは秘密にすべきことなのだが、サトウが薩長の味方をしている事はここにいる全員が了解していたので、聞多も平然と会いに来たのである。


 サトウと再会した聞多は嬉しそうな表情で話しかけてきた。

「やあ、サトウさん、お久しぶり。時々俊輔からサトウさんの手紙を見せてもらってたよ」

 サトウは何よりもまず、聞多の顔の刀傷を見て驚いた。もちろんそでときばしで襲撃された時の傷である。

「伊藤さんからの手紙で話は聞いてましたが、大変な目にったようですね」

「ああ、大変だった。俺はあの時死ぬと思ったよ。その後、幕府との戦争でも死ぬと思ったが、結局死ななかった。人間なかなか死なないものだな」

「伊藤さんは元気にしてますか?」

「元気にしている、と言いたいところだが、実は最近ずっと病気で寝込んでいる。あいつもなかなかしぶとい男だから、まさかこんなことで死にはしないだろうがね。最近あいつの長女も生まれたことだし、簡単には死ねんだろうよ」

 このあと聞多はサトウに長州の近況について語った。

「長州は全藩あげて、将軍にもう一撃くらわせてやる、と盛り上がっているところだ」

 こういった話を聞多から聞かされたサトウは、長州の勢いを強く感じた。



 そしてこの大坂出張の最後に、サトウは会津藩士たちと初めて知り合うことになった。

 サトウの命をうけて京都へ情報探索に出ていた野口が、京都にいた会津藩士たちをサトウのところへ連れてきたのだ。


 野口は会津藩を脱藩した身分なので最初は会津藩邸の人々から

「脱藩者が何の用だ。気安く我々の前に顔を出すな」

 と怒られたのだが、野口が彼らに

「イギリス人のサトウに会ってみないか?」

 と勧めると、家老の梶原平馬(へいま)たち数人が野口といっしょに大坂へやって来た。


 会津藩士たちは贈り物として刀剣などを持参してきた。

 一方、サトウとミットフォードは彼らを洋酒や西洋料理でもてなした。

 なにしろとにかく、会津藩士たちは尊王攘夷の意識が強かった。

 この慶応三年の段階ではさすがにそこまで観念論に凝り固まった状態ではなくなっていたものの、人間、そう簡単に変われるものではない。酒を飲むにしても「西洋人に負けてたまるか」という気持ちで何杯も洋酒を飲み干した。

 特に梶原の飲みっぷりは群を抜いていた。サトウの記述では梶原について

「彼は色の白い美形の青年で、行儀作法も申し分なかった」

 と評している。

 そして領地が海に面していない彼らは「イギリスの軍艦を見たい」と頼み込んできたので、サトウは軍艦の艦長宛の紹介状を書いて渡した。


 そうこうしているうちに「攘夷」感情の強かった彼らもサトウたちと打ち解けるようになった。

 しまいには「男色」を英語で何というのか?イギリスにもそういった風習があるのか?とわめき出したり、卑猥ひわいな春画を気前よくサトウたちに分け与えたりした。

 サトウは在日経験が長いので卑猥ひわいな春画などすでに()れっこになっていたが、女好きのミットフォードは、そのエグさにちょっと引きはしたものの、日本でしか見られないこの素晴らしい芸術に感動してありがたく(ふところ)に収めた。


 そして梶原は

「大坂一の芸者がいる店に案内するので、これから一緒に行こう!」

 とサトウたちを誘った。

 女には目がないサトウとミットフォードがこの誘いを断るわけがなかろう。二つ返事で誘いに乗った。

 ところが皆で出かけようとしたところ、幕府の役人たちがこれに反対した。

 彼ら役人たちからすると、面倒が起こると困るのだ。例え会津藩のような佐幕藩といえども勝手に外国人を宴会の場へ連れて行くのは認められない、として何とかサトウたちに思いとどまらせようとした。


 そこで梶原はサトウに

「野口と自分たちが先に店へ行って手配しておくので、準備ができたら野口をここへ寄こす」

 と言って野口を連れて出かけていった。


 その後ずいぶんと時間がたっても、野口は戻ってこなかった。

「やはり幕府の役人に妨害されて、失敗したんだろう」

 とサトウとミットフォードはあきらめて、宿舎で用意されていた夕食を食べようとした。


 すると野口が帰って来て「万事準備ができた」と二人に伝えた。

 その時たまたまサトウたちを警護して(というか見張って)いた幕府役人の警戒が薄かったので、サトウ、ミットフォード、野口の三人はこっそりと抜け出して、まるで子どもたちが冒険や探検に出かけるような感覚で、夜の大坂の町へと出かけて行った。

 この当時は、まだヨーロッパ人は誰も日本の夜の街路を自由に歩くことは出来なかったのだ。本来であれば。


 サトウたちはずいぶんと歩いてから、天神橋の近くの店に到着した。

 店の中に入ると梶原がいて、サトウとミットフォードを部屋に案内した。

「芸者たちはすぐにやって来るから座って待っててくれ」

 と梶原はサトウたちに言った。

 サトウとミットフォードは座敷に座って「大坂一の芸者」がやって来るのを楽しみに待った。


 しばらくすると、数人のばあさんたちがお茶を持って部屋に入って来た。

 若い芸者は一向に現れなかった。

 がっかりしたミットフォードはサトウにグチをこぼした。

「彼女たちが“大坂一の芸者”なのか?それともやはり幕府の役人に邪魔をされて、こうなってしまったのか?」

「うーん、会津の連中が我々を罠にかけたとも思えないけど……」

 二人がこうやってグチをこぼしていると、ようやく酒が運び込まれてきて、若い芸者たちが二階から降りてきた。そして梶原や野口、そして会津藩士たちもやって来た。

 彼らの話によると、彼女たちは準備のために二階で化粧をしていたということだった。


「それらの芸者の中には確かに美しい者もいたし、そうでない者もいた。いずれにせよ彼女たちの容貌ようぼうは、白く塗った顔と黒く染めた歯で台無しになっているように思われた」

 とサトウは感想を述べている。

 サトウとミットフォードは酒を飲みながら彼女たちの歌や踊りを鑑賞し、さらに彼女たちと会話をして楽しんだ。

 大坂の方言は通訳のサトウをもってしても難しい言葉だったが、何とも言えない魅力があるように感じられた。


 こうしてサトウたちが楽しんでいるところへ、性懲しょうこりもなく、また幕府役人たちがやって来た。

 そしてサトウたちにどうしても宿舎に戻ってもらいたいと懇願こんがんするので、結局二人は十一時頃には店を辞去じきょした。そして梶原たちには芸者に会わせてくれた礼を述べた。

 ともかくも、サトウにとっては初めて会津藩と関係を持つことが出来たので、それだけでも満足すべき一夜となった。


 サトウとミットフォードは大坂での視察を終えて、一月二十日に横浜へ帰ってきた。

 ただし各国代表が新将軍・慶喜に謁見する日程は、天皇崩御(ほうぎょ)ふくするためしばらくべとなった。


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