第36話 桂小五郎の帰国
ところで、以前帰国途中のオールコックが下関に立ち寄った際、俊輔がその応接を担当した。そうやって俊輔は下関に外国船が立ち寄る際にはその応接係を担当していたので、下関を通る外国船とのやり取りにはかなり熟達してきていた。
三月二十日、長崎行きのイギリス商船ユニオン号が下関に立ち寄った。俊輔がこの船に乗り込んでみると以前知り合ったイギリス人がいた。そこで高杉と自分を長崎まで乗せてくれるように依頼すると意外にもあっさりと了解が得られた。
ちなみにこのユニオン号は、後に「薩長同盟」の一環として俊輔と聞多が長崎で購入手続きに関わることになるのだが、この時の俊輔は、そんなことは予想だにしていなかった。
二人は船内で洋服に着替えて髪型もザンギリ頭にした。そして二日後、西洋人風に変装して長崎のイギリス領事館を訪れた。二人がこのように変装したのは幕府の探索、特に長崎奉行所の探索から逃れるためである。
二人は領事館のガウアー(エーベル・ガウアー)にイギリス行きの話を相談した。
余談だが、このガウアーは以前「俊輔たち長州ファイブ」がイギリスへ行く時に横浜で仲介役をした「ジャーディン・マセソン商会の横浜支店長ガウアー(サミュエル・ガウアー)」とは別人である。史料によってはこの二人を混同したり、あるいは兄弟としているものも散見されるが、領事館員のエーベル・ガウアーにはのちに日本で鉱山開発に従事することになるエラスムス・ガウアーという兄弟はいるが、マセソン商会のサミュエル・ガウアーとの関係は不明である(近親者だろうとは言われている)。ただし領事館員のガウアーも俊輔たち五人がイギリスへ行く時に横浜で彼らから何度も相談を受けていたので、俊輔とは旧知の仲だった。この頃ガウアーは横浜から長崎へ転勤して来ていた。
そしてこの高杉と俊輔のイギリス行きには、長崎のグラバーも相談に乗ることになった。
というよりも、グラバー商会はマセソン商会の子会社であり、グラバーはマセソン商会同様、日本人のヨーロッパへの密航留学に深く関与していた人物である。
この物語では以前第20話の薩英戦争の場面で五代才助(友厚)と一緒にグラバーが登場したが、まさにこの三月二十二日、高杉と俊輔が長崎のイギリス領事館を訪問したのと同じ日に、そこから百キロほど南の薩摩の海岸から五代や松木(後の寺島)たち「薩摩スチューデント」十九名が、グラバーの手配した船でヨーロッパへ向かって出発していた。
出港場所は串木野の羽島で(現在そこには『薩摩藩英国留学生記念館』が建っている)、乗り込んだ船はオースタライエン号というグラバー商会所有の小型蒸気船である。
五代と松木が薩英戦争後、清水卯三郎の助けで下奈良村(現、埼玉県熊谷市)に匿われたことは以前少しだけ書いたが、その後二人はなんとか薩摩藩から赦免され、今回の「薩摩スチューデント」計画にこぎつけたのである。ただしその詳細を語るのは、この物語のテーマに近いようではありつつも何しろ薩摩藩の話なので詳細は割愛せざるを得ない(おそらく五代と松木のヨーロッパでの外交活動については多少、後述する場面もあろう)。
とにかく、高杉はグラバーに対して以前からの持論である「下関開港論」を説いた。
「我が長州は薩摩にも幕府にも負けない力を身に付けるつもりである。そのためには下関を開港して富を蓄え、武器を買いたい。長州の腹を全世界へさらけ出す覚悟で長州を開国するつもりである。それを訴えるために俺はイギリスへ行きたい」
これに対してグラバーが答えた。
「それはとても良い考えです。下関を開港するのは私たち外国商人も望むところです。でも、今あなたたち二人がイギリスへ行くのはやめたほうが良い」
俊輔はグラバーの意外な答えを聞いてがっかりした。
「なぜダメなのか?」
「もうしばらくすると次の公使、ハリー・パークスが日本に来ます。下関を開港する話はパークスに言ったほうが良い。それにあなたのような重役は長州に残って、実際に下関が開港できるように藩を説得したほうが良い。ついこの前まで外国船を砲撃していた長州が、本当に下関を開港できますか?」
高杉は即答できなかった。
「あの日本一の攘夷藩である長州が、本当に下関を開港できるんですか?」
これを言われると高杉はぐうの音も出ない。実際それが一番の悩みの種なのである。
高杉と俊輔はグラバーの忠告を受けいれて、イギリス行きを断念することにした。
けれども高杉は、自分の代わりとなる若い長州人をイギリスへ送り込むことにした。今イギリスに残っている山尾、野村、遠藤の三人に続く、新しい留学生の派遣計画である。
自分の従弟の南貞助と、さらに山崎小三郎、竹田庸次郎の三名をグラバーの手配でイギリスへ送ることにした。前回の俊輔たちと同様に、帆船に乗り込んでの喜望峰回りルートである。スエズ経由よりも喜望峰回りのほうが安上がりだからそうするのだが、それでも彼らはたちまち留学資金の不足に苦しむことになる。
そして高杉と俊輔はこのとき長崎で記念写真も撮った。高杉が真ん中で椅子に腰かけて座り、向かって右側に俊輔が腰の刀に手をかけて立ち、向かって左側に従僕の少年が正座している、あの有名な写真がそれである。
高杉と俊輔は長州へ戻って、この下関開港論を聞多にも相談した。
もちろん聞多は二人の意見に賛成した。この三人は以前から「三人党」と呼んでもいいぐらいに「開国」で意見が一致していたのだから当然だろう。
そして聞多が内々に藩政府へ下関開港論を相談してみたところ、藩政府もそれに賛成し、高杉、俊輔、聞多の三人を下関での外国人応接役にあたらせた。
ところがこの下関開港論が世間に漏れて大問題となり、高杉、俊輔、聞多の三人はたちまち反対論者から命を狙われることになった。
そもそも正義派の主張は、表向きは「尊王攘夷」なのである。ただし鉄砲・大砲などの武器に限っては、実際に西洋と戦ってみて西洋兵器の優秀さを身にしみて分かったので、それを導入することにやぶさかではないけれど、それでもやはり感情面では尊王攘夷を捨てきれない人間がほとんどなのである。
なにしろ四ヶ国との戦争からまだ半年ほどしか経っておらず、その直前まで長州全土は攘夷一色だったのだから無理もなかった。あからさまに尊王「開国」を唱える高杉、俊輔、聞多の三人党が、この長州ではあまりにも異端過ぎるのである。
そしてこれはいつの世でも言えることだが、この広い世の中、狂信的な人間が幾人か出て来てもなんら不思議ではない。過激な尊王攘夷の壮士たち、要するに狂信的な暗殺者たちが三人の命を狙ったのだ。
さらに言えば、三人の命が狙われたのは“攘夷”という思想面からの理由だけではなかった。
経済面での理由もあったのである。
下関の領地の大半が長府藩という支藩の領地であることは以前少し触れた。実際にはもう一つ別の支藩、清末藩の領地も少し含まれているのだが大半は長府藩の領地である。
以前から長州本藩は、高い収益をあげる下関港を本藩領として取り上げ、長府藩には別の土地(替え地)を与えようとしていた。しかし当然のことながら長府藩はその提案を拒否し続けていた。
今回、下関開港論が世間に広がったことによって長府藩の報国隊という攘夷派が
「これを機会に本藩は我々から馬関(下関)を取り上げる気だな?夷狄と通じる高杉たち三人は、是非とも打ち殺さなければいかん」
と騒ぎだしたのである。
この騒ぎを受けて長州本藩は下関開港論を否定する触れ書きを出し、高杉、俊輔、聞多の三人を外国人応接役から外すことにした。
要するに三人を見捨てたのである。
命を狙われた三人は、すぐに藩外へ逃亡することにした。
高杉は以前、俗論派から糾弾された時もすぐに筑前へと逃亡したものだが、こういう時の判断は素早い。商人に変装して備後屋三助と名乗り、愛人「おうの」を連れて上方、四国方面へ逃亡した。
聞多は腹掛半纏姿の人足に変装して奈良屋文七と名乗り、豊後の別府温泉へ逃亡した。まだ斬られた傷が癒えきっておらず「湯治ついで」ということで別府温泉を選んだのだ。聞多はここで灘亀という博徒の親分に匿ってもらった。
湯治場で体中の刀傷の理由を博徒から聞かれた際には「若気のいたりで、人妻に手を出して斬られた」と聞多は笑って答えたというが、のちに中井弘(桜洲)の妻、武子に手を出して嫁にする聞多らしいエピソードと言える。
そして俊輔は一旦下関に潜伏することにした。ただし藩外への逃亡をあきらめた訳ではない。
(ワシは対馬へ逃げて、この際だから朝鮮まで行ってみよう)
と考えて、対馬行きの船を出している伊勢屋の土蔵に潜伏し、対馬行きの船を待つことにしたのだった。
その伊勢屋へ向かう途中、報国隊の連中に見つかってしまったので俊輔は一目散に逃げ出した。そして亀山八幡宮に逃げ込んだ。
境内には茶屋があり、そこに若い女性が一人いた。
俊輔は彼女の近くまで走って来ると拝むようにして懇願した。
「すまん!暴漢に追われているのだ。匿ってくれ!」
そう言うと俊輔は、素早く茶店の軒下へと潜り込んだ。
その直後、刀を握って恐ろしい表情をした男たちが数人、彼女の前に現れて尋問した。
「おい!今ここに男が一人逃げて来なかったか?」
(あの人、何をしたのか知らないけど、ここで白状したら間違いなく殺されるわ。もし悪人だとしても、私のせいで殺されるのはかわいそう……)
それで彼女はおびえた表情のまま、別の出入口の方を指差した。
これを受けて、男たちはそちらの方向へと走り去っていった。
男たちが去った後、俊輔はおそるおそる軒下からはい出て来た。もちろん蜘蛛の巣やらホコリやらでゴミまみれである。
「……助かりました。本当にありがとう」
そう言って俊輔が礼を述べつつ、あらためて彼女の顔をよく見ると、面長の美形でモロに俊輔の好みのタイプであった。
命を狙われている最中とはいえ、無類の女好きである俊輔がこの機会を逃すはずがない。
「いずれご恩返しに来ます。あなたのお名前は?」
彼女は、この何者かも知れない怪しいゴミまみれの男に、名をあかすのは少しためらいがあったが、何か直感的に「悪い男ではない」ような気がしたので
「梅」
と本名をあかした。
俊輔は後に潜伏状態から解放されると、この茶屋のお梅のもとへ通いつめるようになる。そして彼女が稲荷町の芸者見習いになってからも通いつめ、その後とうとう結婚することになるのである。
言うまでもなく、彼女は後の伊藤梅子である。この当時、数えで十八歳(満年齢では十六歳)。
問題なのは、俊輔にはすでにすみ子という妻がいたことであった。
しかしこれまで見てきたように、二年前にすみ子が萩の家へ来て以降、俊輔はほとんど萩の自宅へ帰っていないのである。
すみ子が嫁いで来てすぐに俊輔はロンドンへ行き、帰国してからは下関と山口にいることがほとんどで、萩の自宅へは一、二回帰っただけだった。そのいずれの時もすぐに萩を離れているので滞在期間はほとんどなかった。
有り体に言ってしまえば、俊輔はあまりすみ子を好きになれなかったようである。
結局俊輔は梅子を選び、すみ子とは離縁することになるのだが、俊輔の母・琴がすみ子を気に入っていたので琴がなかなか承知しなかったという。それでもとにかく、翌年にはすみ子と離婚することになるのである。
そしてこの頃、俊輔には「待ちに待った朗報」が届いた。
桂小五郎が長州に帰ってきたのである。
禁門の変の後、桂は但馬の出石(現、兵庫県豊岡市)へ逃れていた。
桂が京都で知り合った広戸甚助という男の故郷が出石だったので、そのツテを頼って逃れたのである。甚助は商人の息子で、バクチ好きがこうじて出石を飛び出して京都へ来ていたのだが対馬藩邸に出入りしているうちに、同じく対馬藩邸によく出入りしていた桂と知り合って友人となった。そして禁門の変後に桂を出石へと連れて行ったのだった。
桂はその後、出石や城崎温泉(現、豊岡市)、養父市場(現、兵庫県養父市)を流浪して鬱々とした日々を送ることになった。
「今さらべつに申すこともなく、野に倒れ山に倒れてもさらさら残念はこれなく、ただただ雪の消ゆるを見てもうらやましく、ともに消えたき心地いたし申し候。かりそめの 夢と消えたき 心地かな」
桂は潜伏中このような感傷的な手紙を書いて甚助に送っている。
ただし桂の女好きは相変わらずで、この流亡の時も幾つかの艶聞を残してはいるのだが、それはまあ、とりあえず割愛することにしよう。
ちなみに以前、俊輔が桂のために骨を折って落籍した幾松は、桂と離れ離れになったあと京都から下関へ逃れて来ていた。彼女の面倒を見たのは俊輔と、桂の盟友の村田蔵六である。
そしてこの年の二月、長州で正義派政権が誕生したことを知った桂は、甚助に手紙を持たせて村田のもとへと送り込んだ。手紙を読んだ村田はさっそく桂を長州へ呼び戻そうと考え、俊輔と幾松に相談した。
(とうとう桂さんが長州へ帰ってくる!)
俊輔は目の前がパッと明るくなるような心地がした。俊輔だけではなく、多くの長州藩士が桂の帰国を待ち望んでいたのである。
桂を出石へ迎えに行く適任者は、やはり幾松以外におらず、本人もそれを強く希望したのでさっそく幾松と甚助が出石へと向かった。そして幾松は上手く桂を出石から脱出させることに成功した。ただし、甚助は出石へ向かう道中、大坂で悪い癖を出して村田から預かっていた路銀をすべてバクチで使い果たして逐電してしまったので、甚助からその後を託された幾松は散々苦労をさせられた。長州へ戻った桂は笑って甚助を許したが、幾松は決して甚助を許さなかったという。
かくして四月二十六日、桂小五郎は下関へ帰って来た。俊輔はさっそく桂に会いに行った。
「よう、俊輔。こんなに早く再会できるとは思ってなかったぞ。ずいぶん早くイギリスから帰って来たものだな」
「何が早いものですか、桂さん……。まだ二年しか経ってないのに色んなことがあり過ぎて、もう何年も経ってしまったような気分ですよ。本当によく無事で……」
と言ったところで俊輔は涙がこぼれてきて、それ以上しゃべれなくなった。
「お互いにな。さっそくお前のイギリスでの話を聞かせてもらいたいところだが、その前にお前の命を狙っている連中をなんとかしないといかんな」
俊輔、高杉、聞多の命を狙っていた長府藩の報国隊は、野々村勘九郎という男が首領だった。
この男は江戸の斎藤道場「練兵館」で桂の弟子だった男である。それゆえ桂が野々村を説教するとたちまち俊輔に謝罪し、高杉と聞多を狙うことも取り止めた。
この暗殺者たちへの説諭が、桂が長州へ戻ってきて最初にやった仕事であった。そして高杉と聞多には俊輔が手紙を書き送って、すぐに逃亡先から呼び戻した。
しかし桂が長州へ戻ってきたのはこのような小事のためではない。
藩内外での激しい抗争によって人材の欠乏が甚だしい長州としては、いずれ直面するであろう「幕府との対決」という大事のために、皆が桂の復帰を望んでいたのだった。
のちに俊輔はこの時の桂の帰国について次のように書いている。
「長州では大旱に雲霓を望むが如き有り様だった」
大旱とは大干ばつの事で、雲霓とは恵みの雨の事である。
桂は五月十四日に山口で藩主敬親と対面して、その後「用談役」という重職に就いて実質的に藩を指導する立場となった。




