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伊藤とサトウ  作者: 海野 次朗
第四章・イギリス
19/62

第19話 下関砲撃戦と小笠原の率兵上京

 話を下関の砲撃事件に戻す。

 砲撃事件はペンブローク号だけにとどまらず、被害者はその後も出続けた。


 五月二十三日、フランスの通報つうほうかんキャンシャン号が下関海峡へやって来た。

 ペンブローク号のニュースが上海から横浜へ届くのは五月二十六日のことなので、下関でそんな事件があったとはつゆ知らず、横浜から長崎へ向かっていたキャンシャン号は普段通り下関海峡を通過しようとしていた。


 今度は前回と違って陸上砲台の射程しゃてい距離だったため、まず前田まえだ砲台が砲撃を開始、さらに壇ノ浦(だんのうら)砲台やその他の砲台も次々と砲撃し始めた。


 前回の砲撃事件と同じように、いきなり砲撃されたキャンシャン号の船員たちは最初、何が起きたのか理解できなかった。

 とにかくキャンシャン号はすかさず応戦した。

 ただしこの艦は武装ぶそう艦ではないため長州側に被害をあたえることはほとんどできなかった。キャンシャン号は一刻いっこくも早く下関海峡を通り抜けようとして必死に西へ進んだ。


 キャンシャン号は結局七発被弾(ひだん)したものの、なんとか海峡を通過することに成功した。船体に穴が開き浸水しんすいするほどの被害を受けたが、ポンプで排水はいすい作業を続けてなんとか二日後、長崎港の入り口に到着した。


 そこへちょうど長崎から横浜へ向かうオランダの軍艦メデゥサ号が通りかかった。

 キャンシャン号からボートが()()けられ、メデゥサ号に下関での砲撃事件を報告した。

 これをうけて、メデゥサ号のカセムブロート艦長はオランダ総領事そうりょうじのポルスブルックに進言した。

「これはどうも、瀬戸内海は避けたほうが良さそうですね、総領事」

「それは無理だよ、艦長。あなたは昨夜のパーティで『下関で砲撃されたら反撃して壊滅かいめつさせてやる』と豪語ごうごしてたじゃないか」


 長崎には横浜より先にペンブローク号が砲撃された情報が上海から届いていたのである。それでカセムブロート艦長は長崎を出る前日に、西洋人のパーティでこのように豪語していたのだった。

 カセムブロート艦長は苦しい表情でポルスブルックに反論した。

「……だけど、下手へたしたら本当に撃沈されるかも知れませんよ!」

 これにポルスブルックは答えた。

「下関を避けて横浜の連中から臆病者おくびょうものと笑われるぐらいなら、そのほうがマシだ。それに日本にとって我がオランダは長年の友好国なのだ。大丈夫だよ」

 しかしカセムブロート艦長は納得しなかった。それでポルスブルックはやむなく高圧的に命令を(くだ)した。

「何かあったら私が責任を取る。下関を通りたまえ。これは命令だ」


 ところがポルスブルックの予想は見事に裏切うらぎられた。

 メデゥサ号が下関海峡に入ると、たちまち長州の庚申こうしん丸、癸亥きがい丸が襲いかかってきた。さらに沿岸の砲台からも砲撃をびせられた。

 ただし前の二回と違って今度のメデゥサ号は軍艦である。当然ながら即座に反撃を開始した。


 攘夷戦も三回目に突入して、初めて長州は本格的な砲撃戦を経験することになった。

 ちなみにこの戦闘の様子を西洋人が描いた絵画(かいが)が今も残っているが、晴れ渡った青空の(もと)、メデゥサ号、庚申丸、癸亥丸、沿岸の砲台が砲撃戦をくり広げている様子があざやかに描かれている。

 メデゥサ号は不意をかれた形になったので徐々(じょじょ)に被害が拡大していき、ついに死者四名、負傷者数名を出すにおよんだ。

 メデゥサ号の艦内ではそこかしこに船員たちが倒れており、まさに修羅場しゅらばと化していた。

 カセムブロート艦長は倒れている船員たちを指さして、ポルスブルックに叫んだ。

「こんなに戦死者が出たのは、あなたの責任ですよ!」

 自身も負傷して頭から血を流しているポルスブルックが、必死の形相ぎょうそうで反論した。

「今は言い争ってる場合じゃない!私への批判は、この危機を切り抜けてから改めて聞く!」

 メデゥサ号はその後も被弾し続けたが、からくも海峡を突破とっぱすることに成功した。

 二十発の被弾ひだんでボロボロになったメデゥサ号は、船体の修理をしながら横浜を目指すことになった。


 一方、この戦いにおける長州側の被害は軽微けいびで、戦死者も出なかった。メデゥサ号を撃退した下関の長州陣営は勝どきをあげた。

 このように三回の攘夷戦を戦い抜いた長州藩の勢いは、まさに天をくがごとくであった。


 五月二十六日、下関でアメリカ商船ペンブローク号が砲撃されたという情報が、ようやく横浜に届いた。

 おりしも横浜にはアメリカ軍艦ワイオミング号が停泊していた。

 この軍艦は先頃さきごろの日英交渉で横浜がパニックになった時、アメリカ人居留民(きょりゅうみん)を保護するために香港からやって来て、そのまま横浜に残っていたのだ。

 この頃アメリカは南北戦争の最中さいちゅうだった。

 この艦は北軍の軍艦で、アジア海域を荒らし回っていた南軍のアラバマ号を掃討そうとうするのが主な任務だった。しかしこれまでずっとアラバマ号を発見できずにいた。

 自国のペンブローク号が下関で砲撃されたという情報を聞いて、ワイオミング号のマクドゥーガル艦長はすぐさま部下に命令した。

「よし。我々の獲物えものはアラバマ号から長州に変更する」

 戦功せんこうえていたマクドゥーガル艦長は即座に長州への報復ほうふく攻撃を決断した。五月二十八日、ワイオミング号は横浜を出撃して下関へ向かった。


 続いてフランス艦が砲撃されたしらせも横浜に届いた

 無論、公使のベルクールはすぐに幕府役人へ抗議した。

「フランスに対するこのような行為は言語ごんご道断どうだんである!」

 さらにベルクールと一緒に抗議に来ていたジョレス提督が

「我々の艦隊は長州藩主に砲撃の理由を問いただすため下関へ向かう。場合によってはその場で長州に賠償金を請求する」

 と幕府へげて、すぐに出撃準備にとりかかった。

 まず五月三十日に哨戒しょうかいていタンクレード号が、その翌日にはジョレス提督を乗せた旗艦きかんセミラミス号が横浜から出撃して行った。

 ジョレス提督は下関へ行く途中、偶然オランダのメデゥサ号と出会った。そしてメデゥサ号のカセムブロート艦長から下関でのくわしい戦況を確認した。


 このあとメデゥサ号は横浜に入港したが、横浜の人々はメデゥサ号の生々しい傷跡きずあとを見て下関での砲撃事件を実感することになった。


 横浜のサトウとウィリスは、被弾してボロボロになったメデゥサ号を海岸からながめながら、この下関での事件について話し合った。ウィリスはサトウに砲撃事件の感想を述べた。

「またひどくやられたもんだな。よく沈没ちんぼつしなかったものだ」

 横浜での戦争が回避されてホッとしていたサトウは、意外なところで戦争が開始されて驚いていた。

「オランダは昔から日本の友好国だったんじゃないの?オランダを攻撃する意図がよくわからないね」

「どうやら下関では無差別に外国船を砲撃しているらしい。ただし今のところ我がイギリスの船への砲撃は確認されていない」

 サトウはこの前やった翻訳(ほんやく)の仕事のことを思い出した。

「どうもこの連中の無差別砲撃は、この前翻訳(ほんやく)した“外国人追放令”と無関係とは思えないな」

「聞くところによると、この砲撃は長州チョーシューとか長門ナガトとかいう領主の仕業しわざらしい」

「薩摩や水戸はこれまでよく耳にしたけど、長州というのはあまり聞いたことがないな」

「ニール代理公使は薩摩へ賠償金を取りに行くのを優先するか、長州の事件のほうを優先するか、今考えているらしい。このままイギリス船への砲撃がなければ、やはり行き先は薩摩だろうな」

 サトウが長州のことを意識したのは、この時が初めてだった。



 三回の攘夷戦争を戦い抜いた長州藩は、まさに得意の絶頂(ぜっちょう)にあった。

 長州藩内では「実際に戦ってみれば何のことはない」「西洋人など恐るるに足らず」こういった楽観論がただよい始めていた。

 一応この楽観論を否定して「長州の防備(ぼうび)など西洋から見れば豆腐の壁のようなものだ」と水を指すような発言をした西洋兵学者も一人いたのだが、彼は急進派によってその日のうちに殺されてしまった。

 この頃、久坂玄瑞は攘夷実行の成果せいかを朝廷と幕府へ報告するため京都に行っていた。

 そして六月一日、攘夷を実行した長州藩に対して朝廷から

「攘夷期限にたがわず夷狄いてき掃攘そうじょうに及んだ事は大義たいぎである。いよいよもって精励せいれいし、皇国こうこく武威ぶいを世界にかがやかすべし」

 とのほうちょく(くだ)された。



 このほうちょく(くだ)されたのと同じ日に、長州が皮肉な運命にみまわれるとは誰も予想していなかった。

 この日、アメリカ軍艦ワイオミング号が下関海峡に姿をあらわした。

 ワイオミング号は約1,500トンの船で砲6門を装備している。イギリスの旗艦ユーリアラス号やフランスの旗艦セミラミス号はどちらも3,000トン級で砲も30門以上装備している大型艦だが、それらと比べると中型艦の部類に入るだろう。

 ワイオミング号は国旗を引きおろして奇襲きしゅうをしかけ、海峡の奥深おくふかくまで突き進んだ。

 奇襲をしかけられた長州側は、たまたまこの日手薄(てうす)な状態だった。

 前田まえだ砲台と壇ノ浦(だんのうら)砲台がわずかに砲撃しただけで、あっさりと下関市街の方まで突入を許してしまった。そしてそこでワイオミング号は長州の庚申こうしん丸、癸亥きがい丸、壬戌じんじゅつ丸の三隻を発見した。

 ワイオミング号のマクドゥーガル艦長はこの三隻を攻撃目標と定めた。国旗(星条旗)を掲げるよう部下に命令し、すぐさま攻撃を開始した。


 ここにワイオミング号と長州海軍との戦闘が開始された。

 ワイオミング号は長州の三隻の船、下関の砲台、下関の市街へと向けて、とにかく大砲を撃ちまくった。そのなかでも壬戌丸が長州の旗艦であると見て、これを攻撃目標と定めた。

 この戦闘の直前、世子せいし毛利定広(さだひろ)は山口へ帰るために下関でこの壬戌丸に乗り込もうとしていた。世子せいし公が乗船するため派手な装飾がなされており、それが原因で攻撃目標とされてしまったのだった。

 敵艦の襲来しゅうらいを知った毛利定広は急いで陸上に引き上げた。そんな事情もあって、この日の長州側の迎撃げいげき態勢はつねに後手ごて後手ごてに回ってしまった。ちなみにこの壬戌丸は、サトウが来日する時に乗ってきた、あのランスフィールド号である。


 ワイオミング号は海峡の中を所狭ところせましと暴れ回り、壬戌丸を追撃した。一方、壬戌丸は砲門を装備していなかったので、すぐさま戦線(せんせん)離脱りだつはかった。

 ワイオミング号は途中、浅瀬あさせ座礁ざしょうするなど危険な場面もあった。しかしなんとか離礁りしょうに成功して再び壬戌丸を追撃し、とうとう壬戌丸に数発の砲弾を命中させた。


 その命中弾のうち、特に機関部への直撃弾では即死者数名が出る大被害となった。

 やがて壬戌丸は海中へと沈んでいった。乗組員の多くは泳いで船から逃れた。

 続いて庚申丸が撃沈され、癸亥丸も大破させられた。

 さらに亀山かめやま砲台が破壊され、下関の市街にも数発が着弾して被害をうけた。


 ただし強襲をしかけたワイオミング号も無傷では済まなかった。長州側の砲撃によって20数発を被弾。死者5名、負傷者数名を出すに(およ)んだ。

 とはいえ、長州海軍の壊滅的かいめつてきな被害、さらに陸上での被害を見れば、長州側の惨敗ざんぱいであることは明白だった。

 満足する戦果せんかをあげたワイオミング号は意気揚々(ようよう)と横浜へ引きあげていった。



 この戦いの四日後、長州が新たな迎撃げいげき態勢をととのえる(いとま)もなく、フランスの軍艦二(せき)(セミラミス号とタンクレード号)が下関海峡へやって来た。

 この日の戦闘は一方的な展開となった。

 フランスの二隻は前田砲台と壇ノ浦砲台を砲撃。射程距離および火力の差で、これを難なく沈黙させた。この砲撃戦によるフランス側の被害は軽微けいびであった。

 その後フランスは250名の陸戦隊をボートに乗せて上陸作戦を敢行かんこうした。

 長州はわずかに小銃や弓矢で迎撃したものの、あえなく撤退。あっさりと陸戦隊の上陸を許してしまった。

 フランス陸戦隊は長州軍の武器庫を焼き、前田まえだ村の民家を焼き払った。また長州の大砲にてつくぎを打って使用不能にした。

 この時になってようやく長州の騎馬武者たちが下関から前田へ援軍えんぐんに向かった。しかし海岸沿いに進んでいた援軍はフランス艦から艦砲かんぽう射撃のもうしゃを受けて、りになってすぐに引き返していった。

 そのためフランスの陸戦隊は長州からの抵抗も受けず、ゆうゆうと母艦ぼかんへ引き上げた。

 そして長州への報復ほうふくたしたフランス艦隊は、長州側との交渉はひとまず取り止めにして横浜へと帰って行った。



 長州藩はこの攘夷戦争の直前に外国軍隊からの防御を考慮(こうりょ)して、海に面した従来の居城きょじょうはぎから内陸の山口やまぐちへ本拠地を移転していた。

 攘夷戦争で思わぬ敗北をきっした藩主父子は、“東行(とうぎょう)”と称して隠遁(いんとん)生活を決め込んでいた高杉晋作を山口に呼び出した。

 藩主父子は高杉に下関の防衛策を(こう)じるよう命じた。

 これに対して高杉が答えた。

「有志の士をつのり、一隊を創立すべし。名付けて兵隊へいたいといわん」

 こうして奇兵隊はここに誕生をみることになった。

 この(のち)、長州狂奔(きょうほん)の原動力として何度も激戦をくぐり抜けることになる奇兵隊は、この攘夷戦争が生み出した産物とも言えよう。




 この頃、戦争に向けて動き出していたのは長州藩だけではない。

 幕府も同じようにこの時、兵を動かしていた。

 五月二十七日、小笠原長行(ながみち)(ひき)いる幕兵(ばくへい)は、イギリス商人から高値たかねでチャーターした蒸気船二隻に横浜で乗り込み、一路いちろ大坂を目指した。総勢そうぜい約1,500人の軍勢である。

 小笠原の目的は二つあった。

 一つは京都に拘束こうそくされている将軍家茂(いえもち)を江戸へ連れ戻すこと。もう一つは、あわよくば京都の攘夷派勢力を一掃いっそうすることである。


 横浜を出港した小笠原勢は、外国船で大坂に上陸することははばかられるため、紀州きしゅう由良ゆら港で幕府の船に乗り換えて五月二十九日に大坂に上陸した。そして幕府軍はすぐに京都へ向けて進軍を開始した。


 この幕府軍には福地源一郎(げんいちろう)と、彼の上司にあたる水野忠徳(ただのり)も加わっていた。水野忠徳はもと外国奉行で、今回、小笠原の参謀さんぼう役として作戦に参加していた。余談ながら、福地はのちに自著で「幕末の三傑」として水野忠徳、岩瀬忠震(ただなり)、小栗忠順(ただまさ)の名前をあげている。

 今回の小笠原の率兵そっぺい上京は極秘裡ごくひりに計画が進められた。

 水野・福地の両者と親密しんみつな関係にある幕府官僚・田辺太一(たいち)は「我々でさえ、この出兵計画にはまったく気がつかなかった」と(のち)に語っている。


 にもかかわらず、なぜかこの計画はすでに朝廷の知るところとなっていた。

 幕府軍の入京をおそれたぎょうたちは、すぐに京都の将軍や幕閣に、小笠原たちの入京をやめさせるよう命じた。


 在京中の将軍家茂(いえもち)や幕閣には「幕府軍で京都へ攻め込む」という決断など、もちろんできる訳がなかった。そのため小笠原の軍勢へ何度か使者を送り、上京を見合わせるよう説得につとめた。

 しかしよどまで来ていた小笠原たちは使者の説得を受け入れず、数日、問答もんどうをくり返した。

 特に参謀さんぼう役の水野が小笠原を激励した。

「“承久じょうきゅう故事こじ”の再現をさない覚悟が必要でござる!この機を(のが)せば千載せんざいいを残しましょうぞ!」


 鎌倉幕府が後鳥羽ごとば上皇を軍勢でもってねじ伏せ、上皇たちを流罪るざいに処した“承久じょうきゅうの乱”を意識するほど、水野は強硬な姿勢だった。

 けれども入京禁止を命じる家茂自筆の書状が届けられ、小笠原は万事休ばんじきゅうすとなった。


 ただしこれと同時に朝廷は、家茂の江戸帰還を許可した。やはり小笠原の軍勢は朝廷にとってそれなりに脅威きょういだったのだ。

 家茂は船で江戸へ戻るために、六月九日、京都を出発して大坂へ向かった。家茂は途中、淀にいた小笠原たちも回収して大坂へ入った。このあと家茂は大坂を出港し、六月十六日、約四ヶ月ぶりに江戸へ帰還した。


 結局小笠原の率兵上京は、家茂の江戸帰還は成功させたものの「京都(朝廷)の改革」という点では全くの失敗に終わった。

 そして小笠原は懲戒ちょうかい処分となり、職も罷免ひめんさせられた。

「イギリスへの賠償金の支払い」「外国人追放令の宣告せんこく」「朝廷をおびやかした軍事行動」

 これらの汚名おめいを一身に引き受けて、小笠原長行(ながみち)は職を退しりぞいたのであった。


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