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伊藤とサトウ  作者: 海野 次朗
第三章・横浜発
15/62

第15話 横浜発

 四月十日、横浜襲撃を五日後に控えた清河は「敵情てきじょう視察しさつ」のために横浜へ来た。

 そして山手の丘の上に登って横浜の町を一望いちぼうした。

(私がこの横浜を焼き払って攘夷のさきがけとなるのだ)

 清河は自分の手によって横浜が火の海になっている様子を想像した。


 ところで読者は覚えているかどうか?前年の生麦事件の直後に俊輔の恩師だったくるはら良蔵りょうぞうも以前、横浜を焼き払おうとしていたことを。

 実はこの「横浜襲撃」は、この時代の志士が何度も試みた「攘夷実行の定番手段」だったのである。

 このしばらく後に、今度一万円札の顔になる渋沢しぶさわ栄一えいいちもそれをくわだてることになり、さらにその後には水戸の天狗党も横浜鎖港(さこう)(横浜の港を閉じること)を求めて決起することになる。

 また俊輔自体も、あの御殿山焼き討ちの際に焼玉やきだまを食べて黒いゲロをいていた福原乙之進(おとのしん)と横浜襲撃をくわだてたという逸話いつわがあり、後年、ある人がそれを俊輔に聞いてみたところ

「そんなことはこの当時、朝飯前あさめしまえの話で格別どうのこうのと話す価値も無い。実はそんなことをくわだてた事もある。今から考えると意味不明なくわだてだった」

 と答えている。


 横浜の山手から清河が視察しているすぐ近くに、ヘボン邸が建っている。さらにそのすぐ近くにはサトウが住んでいるイギリス公使館もある。サトウはこの日、ヘボンのところへ訪れていた。

 お茶を飲みながらヘボンはサトウに語りかけた。

「三日前に江戸の公使館が火事で焼けて、我が国の公使も横浜へ移らざるを得なくなったらしい」

「やはり御殿山と同じように放火ですか?」

「まだよく分かっていないが、横浜焼き討ちの噂もあるぐらいだから、多分そうだろう。それで神奈川までは守りきれないので『神奈川のアメリカ人は全員横浜へ移るように』と日本側から説得された。もうすぐブラウン氏も横浜へ移ってくるだろう」


 当時、江戸のアメリカ公使館は麻布あざぶ善福寺ぜんぷくじにあった。それが原因不明の火事で四月七日に焼失したのだった。英仏蘭の代表はこの当時すでに横浜へ移っていた。しかしアメリカだけは江戸に残り続けていた。また神奈川宿に領事館を残していたのもアメリカだけだったのだが、これで結局すべて横浜へ移る形になった訳である。

 サトウは話を変えた。

「そうですか。ところで日本語辞書の作成作業は順調ですか?」

「君も知っての通り、日本語は非常に難解なんかいな言語だ。あと何年かかるか分からないが、死ぬまでにはなんとか完成させたいと思っている。もし横浜が戦場になるようなら、長崎か香港へ移って辞書の作成を続けるしかない。あいにく我が祖国そこくは現在内戦中で帰国できないからね」


 この当時ヘボンの祖国アメリカは南北戦争の真っ最中だった。

 余談だが、この日の六日後には榎本釜次郎(かまじろう)武揚たけあき)、西周助(しゅうすけ)あまね)ら十五名の幕府留学生がオランダに到着している。この幕府オランダ留学生は当初アメリカへ留学する予定だったのだが、アメリカで南北戦争が始まってしまったためオランダ留学に変更されたのである。


 そして横浜襲撃予定日の二日前(四月十三日)、清河は麻布(いち)はしで暗殺された。


 暗殺したのは幕臣で浪士組幹部の佐々木只三郎(たださぶろう)である。

 佐々木が「お久しぶりです」と笠のひもを解きながら清河に話しかけ、清河がそれにつられて自分も笠の組み紐を解こうとした途端とたんに斬り殺された、というのも有名なエピソードであろう。この暗殺には佐々木以外にも複数の刺客(しかく)が関わっており、このとき清河は背後からも斬りつけられていた。

 清河は死を予感していたのか、それとも二日後の横浜襲撃で討ち死にするのを見越してのものか、彼はこの日辞世(じせい)の句を高橋泥舟(でいしゅう)(山岡鉄太郎(てつたろう)の義兄)の家で書き残していた。


 さきがけて またさきがけん 死出しでの山 迷ひはせまじ すめろぎの道


 清河の死によって浪士組の結成以前から清河と一緒に行動してきた山岡鉄太郎は処罰しょばつされ、免職めんしょく蟄居ちっきょとなった。また清河の計画に参加していたその他の関係者もそれぞれ処罰された。

 清河たち過激派指導部が取り除かれた浪士組は「新徴しんちょう組」と改称され、以後、江戸の市中しちゅう警備の任にくことになった。


 ちなみに、この二年ほど前には麻布(いち)はしからさほど遠くない麻布(なか)はしでアメリカ公使館通訳のヒュースケンが清河の一味によって暗殺されていた。それを思えば、この麻布一の橋で清河が暗殺されたのはある意味「因果いんが応報おうほう」と言えなくもない。

 さらにもう一つ余談を付け加えると、ヒュースケンは「通訳」だったから暗殺されたのである。

 それだけ「通訳」は貴重な存在であり、日本人と外国人の意思いし疎通そつうに欠かせない存在だった。ヒュースケンはサトウ来日前の代表的な「通訳」だったと言えるが、だからこそ暗殺者たちから狙われたのだ。

 要するにサトウが目指めざしている日本語の「通訳」というのは、尊王攘夷派からかたきにされていた職業だったということである。




 一方、清河が暗殺される二日前の四月十一日、京都では“石清水いわしみず八幡行幸(ぎょうこう)”が挙行きょこうされていた。

 一ケ月前の“賀茂社行幸”と同様、今回も盛大な行列となった。しかし将軍家茂(いえもち)は行幸前日に「風邪かぜで発熱」と称して行列に供奉ぐぶすることを辞退した。


 これは一橋慶喜(よしのぶ)の進言によるものだった。

「このせまった状況の中、みかどから上様に如何いかなる勅命ちょくめいが下されるとも知れず、今回は辞退すべきでございます」

 そう進言し、代わりに慶喜が将軍名代(みょうだい)として行幸に参列した。


 行列が石清水八幡に到着する頃にはすでに夜中になっていた。

 今回の行幸も“攘夷祈願”が目的だったのだが、実はひそかに八幡宮で帝から“攘夷の節刀せっとう”を将軍にさずける計画が仕組まれていた。

 もしこれを受け取ってしまえば将軍は“攘夷”(この場合は“外国への宣戦布告”と同義)を避けるのが難しくなる。

 今回は将軍が参列していないので名代の慶喜に節刀を授与じゅよする計画であった。


 ところが、いつまで待っても慶喜は八幡宮にのぼってこない。

 実は慶喜は腹痛と称して途中から行列を離れて京都へ引き返し、節刀の授与を回避したのだった。

 この時の慶喜の事情については後年、彼がいろいろと(仮病ではなくて本当に腹痛だったのだと)説明しているが、本当のところはよく分からない。ともかくも、彼は尊王攘夷派のたくらみから上手く(のが)れることが出来た。


 しかしながら尊王攘夷派の勢いはその後もとどまるところを知らず、幕府の引き伸ばし作戦もここが限界だった。

 四月十七日、三条大橋の高札場こうさつば

「これ以上、攘夷実行を引き伸ばすようなら将軍に対して天誅てんちゅうを加える」

 という張り紙がなされた。


 将軍を名指なざしして「天誅を加える」と書かれたのは前代ぜんだい未聞みもんである。

 これより少し前の話ではあるが、将軍が朝廷に江戸への帰還を申し出た際、長州の過激派が

「将軍が江戸へ帰るというのなら仕方がない。公卿門くぎょうもんの外で待ち受けて将軍を斬り殺してしまえ!」

 と叫んでいたことがあった。


 特に率先そっせんしてその実行を叫んでいたのが高杉であった。

 この男は周旋(しゅうせん)とか調停などといった話にはトンと興味を示さないが、過激な話にはすぐに飛びつくという性分しょうぶんだった。実際このとき高杉はすでに頭を丸めて藩から十年の暇をもらっていたにもかかわらず、このように将軍を斬ろうとしていた。

 このとき高杉は周布政之助のところを訪れて

「私は将軍を斬るための名刀を持ってないので、何か一振ひとふり名刀をさずかりたい」

 と申し出たところ周布は藩主からたまわった名刀をもってきて、毛利家の紋章をヤスリでけずって高杉に渡し

「行くがよい。ワシも後から続く」

 と言ったという。


 このとき周布に酒が入っていたのか入ってなかったのか、それは定かではないけれど確かにこの男なら、そう言ったとしてもあまり違和感はない。

 実際この時は将軍が江戸帰還をあきらめたので、この計画は立ち消えになった。

 ちなみに高杉はこのあと萩へ帰り、今度こそ“東行とうぎょう”としていおりに住みつき隠遁いんとん生活を決め込んだ。

 とにかく京都における将軍の立場というのは、これほど追いつめられていたという事である。


 その後も慶喜や幕閣は朝廷との折衝せっしょうをくり返し、なんとか幕府の命による攘夷実行を避けようと尽力した。

 しかし四月二十日、ついに朝廷に押し切られ

「五月十日をもって“攘夷”の期日とする」

 と朝廷に回答してしまったのである。


 ただしこの場合の“攘夷”というのは「拒絶きょぜつ鎖港さこう)期日」を設定しただけの攘夷であり、攻撃されてもいないのに「無差別に外国船を打ち払う」というものではなかった。


 さらに、これは慶喜の策謀さくぼうという面もあった。

 彼はひそかに、ある計画をたくらんでいたのである。

(どうせ出来ぬ攘夷実行であれば、期日は早いほうが良い。我に策あり)

 そしてこの二日後、慶喜は京都をって江戸へ向かった。

 江戸で攘夷実行の指揮をるという名目であった。



 このような国家レベルの葛藤かっとうとは別次元の話ではあるが、このとき同じく京都で葛藤していた俊輔の様子にも目を向けてみたい。

 俊輔は聞多から「藩から洋行の内定を得た」と聞かされた時、強烈に

「ワシも行きたい!」

 と思った。

 こんな好機は将来二度と無いかも知れないのだから、俊輔としては当然の感情だっただろう。


 それ以降、俊輔はどうにかして横浜へ行って聞多たち三人に加わろうと、そのための策を模索もさくしていた。

 そしてついに、そのことを上司の桂に打ち明けて相談した。

 桂はブスッとした表情で俊輔に言った。

「私の洋行が藩から却下されたというのに、お前はその私をさしおいて自分が洋行に行こうと言うのかね?まったく良い度胸だな」

 俊輔は苦しい表情で言い訳をした。

「いえ、決して桂さんをないがしろにするものではございません。私が洋行するのは将来桂さんが洋行する時に役立てるよう下見したみに行くようなものです」

「この藩が死ぬほど忙しい最中に、私は藩から散々使い倒され、お前たちはノンビリと海外留学か。なぜ逆じゃないんだ?お前たちが日本に残って死ぬ思いをし、私が海外へ行ってノンビリしたって良いじゃないか。そうだろう?」


 俊輔は少し桂が気の毒なようにも思えた。

(確かにこの人はなまじ地位と能力があるせいで、藩から使い倒されている。しかも思いつめやすい性格だからなあ……)

 といって、俊輔には桂に同情している余裕よゆうはない。なんとしてでも、この洋行の機会をモノにしなくてはならないのだ。

「将軍を京へ連れ出して攘夷を誓わせるのに一番尽力されたのは桂さんではないですか。もう少しでその成果がみのるというのに、桂さんが日本を離れる訳にはいかないでしょう。桂さんはもう長州だけにとどまらず、日本にとって不可欠な存在なのですよ」

「しかしな、俊輔。こんな私でもお前の力が頼りなのだよ。お前のように気骨があって知恵もある、そういう使える人間は滅多めったにいないのだ。私としてもお前を手放すのはしい」

「おめ頂き恐縮ですが、私の代わりはいくらでもおりますし、私が日本からいなくなっても誰もあやしまないでしょうけど、桂さんの代わりは誰にもつとまりません。もし桂さんが急に消えたら藩内だけじゃなくて、藩外の人だってあやしむでしょう」


 まったく俊輔の言う通りなのである。

 桂は俊輔に言いたいことをぶちまけたせいか、自身の洋行希望についてはあきらめがついた。

 そして「ふう」と一息ひといきため息をつき、言わでも、の一言を口にしてしまった。

「まったくお前がうらやましいよ。私がお前の身分であれば……」

 と言いかけて、やめた。


 俊輔は冷たい表情で桂をじっと見ている。

 桂はすぐ俊輔に謝った。

「いや、すまん。今のはしにしてくれ」

 桂と俊輔の付き合いは長い。桂も俊輔が自分の身分を気にしていることを重々承知している。

 もちろん、そのために俊輔が暗殺の仕事に手をめたことも。



 この翌日、桂は俊輔に仕事を依頼した。

「現在、攘夷実行を目前に控えているにもかかわらず、我が藩では武器が不足している。俊輔。一万両を用意するから横浜へ行って、買えるだけの鉄砲を買ってきてくれ」


 俊輔は一瞬ハッとなったが、そのあと思わず目から涙がこぼれ出た。

「桂さん……」

「後はお前次第(しだい)だ。上手うまくやれよ、俊輔」

 俊輔は桂に感謝の言葉を述べた。

「……松陰先生と来原さんの志を果たすために、私は横浜へ行きます。ご恩は決して忘れません」

 こうして俊輔は、桂のお膳立ぜんだてによって横浜へ行くことになったのだった。

 ただし、この一万両がまったく違った形でその効力をあらわすことになろうとは、桂も俊輔も想像だにしなかったであろう。



 それから数日後、俊輔は父十蔵(じゅうぞう)と京都の料亭で再会した。

 ちょうどこの頃、十蔵も藩の仕事で京都へ出て来ていたのだ。

「父上にはお変わりもなく、なによりでございます」

「うむ。おぬしもな。此度こたびじゅんさむらいやといへの昇進、重畳ちょうじょう至極しごくである。しかも嫁ももらって、お主にとっては最近良いことくめだな」

「はあ……。さようですな」


 俊輔にとっては複雑であった。

 洋行へ行けば一旦いったん藩から離れて準士雇の身分は消失し、また数年は帰ってこれないのだから当然、嫁のすみ子にも会えないのだ。

「どうした?俊輔。あまり嬉しくなさそうだな」

「いえいえ、もちろん嬉しいですとも」

「すみ子もよくできた女子おなごでな、琴(俊輔の母)もなかなか気に入っておるようだ。お主もお役目が忙しかろうが、暇をみつけてなるべく早く嫁に顔を見せてやれ」

「……承知いたしました……」

「どうした?元気がないではないか。何か悩みごとでもあるのか?」

「いえいえ、最近いろんなことがあり過ぎて、少し気疲れをしているだけです」


 自分が洋行へ行くことを父に打ち明けるべきかどうか、俊輔は心の中で葛藤(かっとう)していた。

 けれども、そんなことを父に打ち明けたら父は仰天ぎょうてんし、失望することは目に見えている。嫁に対しての不義理もある。言えるはずがなかった。


「実は、悩みごとはあるのです」

「さもあろう。これだけ藩が多事たじ多難たなん()りだからな。お主のお役目もさぞ大変であろう」

「伊藤家のため、我が藩のため、今、私はどうすべきか?最近少々悩んでおります」

「うむ。そうか……。月並つきなみな言い方しかできんが、お主の人生だ。いを残さぬよう自分の決めた道をまっしぐらに進むしかないだろう」


 俊輔は、まさに自分が思っていたのと同じ答えを述べてくれた父に感謝した。

 さらに心の中で懺悔ざんげもした。

 そして二度と会えないかもしれない父の顔をしっかりと自分の目に焼きつけた。

 なにしろ俊輔は、これから地球の裏側まで留学に行くのだ。

 この当時はちょっとした国内の旅行でも家族と再会できないことはまれではなかった。病気や事故が多いからである。それが俊輔の場合、地球の裏側まで行って数年も留学するつもりなのだから、その客死きゃくしの可能性は比べ物にならないぐらい高い。

 俊輔は、これが最後になるかもしれない父との時間を大切に過ごした。



 このあと俊輔は聞多に「自分も洋行に参加する」と伝えに行った。

「聞多。ワシも洋行に参加するぞ!藩の正式な許可を得ている暇がないので、このまま横浜へ行って事後承諾の形をとる。なに、桂さんの了解があるから大丈夫だ」

「おお!そうか。良かったのう。俺もお主と一緒に行けて嬉しいぞ」

「ワシは先に横浜へ行って、お主らが来るのを待っている。グズグズせずにさっさと来てくれよ」

「おう。俺たちも準備が出来次第できしだいすぐに横浜へ行く」

 そして俊輔はすぐに京都を発って横浜へ向かった。


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